旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

括弧の使い方

2017年02月28日 17時23分48秒 | エッセイ
括弧の使い方

 こういった符号の使い方のルールは、小学校で教わるんだろうか。

・カギカッコ「」は、短い引用、話し言葉、論文のタイトルで使う。「」の終わりでは 。 は付けない。
・二重カギカッコ『』は、書籍などのタイトル、カギカッコの中のカギカッコで使う。つまり話し言葉の中で、他人の言葉を引用する時などだ。
・クォテーションマーク“ ”は欧文の引用や書籍のタイトルを示す。
・また「」『』<>《》〔〕は、強調を示す表記符号として使われる。
・?(クエスチョンマーク)と !(エクスクラメーションマーク、別名ビックリマーク)は論文・レポートでは用いない。
・スペイン語では疑問文の始めにひっくり返った¿、終わりに?が付く。感嘆符も同じ。文の始めにひっくり返った¡が付いて面白い。
・「!?」とか「?!」なんて使ったことある?「えっ?!」「冗談でしょ!?」みたいに使うのかな。両方が一緒になった「‽」もあるらしい。

?や!が印刷物に始めて出現したのは欧州で、1,400年ごろだそうだ。日本では、小林多喜二や二葉亭四迷が始めて使ったらしい。
ヴィクトル・ユーゴーが1862年に書いた『レ・ミゼラブル』の売れ行きを出版社に尋ねた。その手紙にはこう書かれていた。“?”そして出版社の答えは〝!〟だった。
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異文化激突(番外編)- ワールシュタットの戦い

2017年02月25日 13時49分24秒 | エッセイ
異文化激突(番外編)- ワールシュタットの戦い

 この戦いにイスラムは出てこない。13世紀のヨーロッパ人にとって、イスラム教徒は良くも悪しくも知りつくした敵だ。受け入れられないが、交渉することは出来る。だがモンゴル人となると、話し合う余地が全く無い。果たして彼らは人間の言葉をしゃべるのか。1241年4月9日、会戦場はポーランド西部のレグニツァ(独語でリーグニッツ)、ワールシュタットとはドイツ語で「死体の山」を意味する。これほど異質な民族が相まみえる戦いも珍しい。
 ヨーロッパ側には、モンゴル人に関する知識が皆無に等しかった。犬かと思う子馬に乗った、子供のように小さいが醜悪な悪魔たち。東方から突然やってきて、ロシアでは残虐の限りを尽くした。戦闘には滅法強い。一方のモンゴル軍は、緻密な情報収集を行っていた。モンゴル軍が来襲する何年も前から、侵攻する都市には奇妙な帽子を被った目つきの鋭い雑技団が、ひょっこり現れたという。その関連は後になって分かったことだが。
 モンゴル帝国の第2代皇帝オゴタイは1235年のクリルタイで諸国への遠征を決議した。西方に向かう遠征軍の総大将は、ジュチ家の当主バトゥだ。バトゥは5万のモンゴル精鋭騎兵、2万の徴用兵と漢族、ペルシャ人の専門兵(攻城戦用か)を率いてモンゴル高原を出立した。モンゴル軍は機動力に優れている。疲れないように数頭の馬を乗り継ぎ、空腹になると馬体を傷つけ、傷穴に口をつけて生き血を飲んだ。タルタルソースの語源はタタールだ。タタールは勇猛なモンゴルの一支族名である。生肉と野菜を革袋に詰め、鞍の下に置くと袋の中で十分に撹拌され、馬体の熱で蒸され夕刻に食すのによい一品となる。モンゴル軍の行軍を見ると、一見家畜の移動かと思われるほど馬の数が多い。
 バトゥはキプチャク草原やキエフ大公国を始めとするルーシー諸国を征服しつつ、矢のように西に進んだ。時に2隊に分かれ、また合流し効率よくハンガリー王国を蹂躙して、黒海沿岸のワラキアを破壊。凍結したヴィスワ川を渡り、サンドミェシュを掠奪した。多数の捕虜、戦利品を携え一時軍を退いたが、追撃に出てきた諸侯をことごとく粉砕した。
 圧力に押されたポーランド軍は後退し、レグニツァで各地の諸侯を招集したシロンスク公・ヘンリク2世の軍に合流した。ヘンリク2世が中心となったドイツ・ポーランド連合軍に参画したのは、ポーランド王国・神聖ローマ帝国・ドイツ騎士団・聖ヨハネ騎士団・テンプル騎士団、民兵と徴用された歩兵、封建騎士とその従者たち。弱兵と強兵が混在していた。兵力は2万5千程度と推測される。モンゴル軍は2万騎だった。
 ヘンリク2世は軍を4つに編成した。主力のドイツ騎士団と騎士たちを中央に、また前衛と後詰に騎兵を分配し、歩兵はまとめて一つの部隊として騎士の後方に配置した。対するモンゴル軍は全て騎兵で、前列中央に機動に優れた軽装騎兵、その後方に重装騎兵、両側面には騎射や槍での近接戦闘が得意の軽装騎兵を置いた。
 モンゴル兵の装備は本当に軽く、絹の肌着の上に革製の防具を着るが、それも前面だけだ。彼らは馬を走らせながら、振り返って弓と射るのが得意だ。絹の肌着と革の防具の組み合わせは、矢の刺さりを浅くするのに効果がある。ヨーロッパ側は、蒙古馬の3倍はありそうな大型馬に防具を付け、その馬に数十キロはある鎧を身に付けた騎士が跨る。鎧を纏った騎士は、地面に倒れたら一人では起き上がれない。視野は顔面を覆った兜の僅かな隙間からで、極めて悪い。何もかも対照的で、大人と小人の戦いのような滑稽さがある。キリストの騎士達は、早朝から僧侶による敬虔なミサを行い、異教徒の殲滅を誓った。
 騎士団の戦い方は極めてシンプルだ。敵の中心部への一直線の突撃である。矢も刀も撥ね返す分厚い鎧を身に付け、楯と槍を持つ。鎧が陽光を反射して眩しく、従者の持つカラフルな旗が風を受けてはためく。これだけの数の騎士の集合は壮観だ。その正面破壊力には凄まじいものがある。案の定、前面に陣取ったモンゴル騎兵は、衝突する前から反転して逃走を始めた。それを騎士が集団となって追う。モンゴル兵は振り返って短弓を射るが、楯と鎧に阻まれて効果がない。
 騎士はモンゴル兵を突き刺そうと遮二無二前進するが、両者はスピードが違う。モンゴルの軽装騎兵は演習でも行っているように、時折振り返りながら槍先の届くぎりぎりの所を走り去る。また固まっていた騎馬隊がワっと左右に散る。騎士の隊列が長くなると、両翼からモンゴル兵が近づき弓を射かけ槍を入れる。騎士は横からの攻撃に弱い。並走する従者が最初のターゲットとなった。戦場は東へ東へと進み、後方に置いた歩兵部隊と騎士団とも距離が開くと、モンゴル軍は騎士団の背後に煙幕を焚いて分断した。
 騎士団は翻弄されて疲れ果て、バラバラになった所をモンゴル軍の重装騎兵の攻撃に遭い、粉砕されて一人一人取り囲んで嬲り殺された。煙幕の向こうにいた歩兵隊は、逃げ惑う騎士とそれを集団で襲うモンゴル兵の姿を見て怖気づいた。彼らは戦わずして逃走したが、容赦のない追撃にあって夥しい数の損害を出した。
 戦闘は一方的で、モンゴル軍の損害はごく軽かった。総司令官のヘンリク2世は戦死した。モンゴル軍はこの翌日、別働隊がヘルマンシュタットでトランシルヴァニア軍を、3日後にはバトゥ本隊がモヒの戦いでハンガリー軍を撃破した。この三つの戦いと掃討線で15万人の兵士を殺したバトゥは、オーストラリアのウィーン近くに迫る。ヨーロッパに侵入したら、遮るものは無かっただろう。
 しかしモンゴル皇帝オゴタイの急死により、バトゥは進撃を止め撤退した。戦闘慣れしたモンゴル軍にとって、ヨーロッパのキリスト教国など敵ではなかった。西夏やホラズム帝国との戦いの方が、よほど手こずった。キリスト教側は、モンゴル騎兵が縦横に動き回れない森林地帯や、丘陵等の起伏と障害を利用して戦うべきだった。
 なおモンゴル軍はオゴタイの後継者争いで分裂し、それ以上の西進は行わなかった。モンゴルからロシアを経てポーランドに至る広大な草原で充分。ドイツの森林地帯などには、遊牧民の食指が湧かなかっただろう。ヨーロッパにとっては幸運なことだった。
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中世の異文化激突

2017年02月23日 17時33分46秒 | エッセイ
中世の異文化激突

 イスラム教の誕生(630年、メッカ占領)以来、その勢力拡大に伴い西と東で重要な戦いが起こった。西暦732年10月10日、フランス西部のトュールとポワティエの間で起こった、フランク王国対ウマイヤ朝の戦い。そして751年5~9月にかけて中央アジアのタラス地方(現在のキルギス領)で、唐とアッバース朝の間で行われた戦い。前者はイスラムがフランク族に負け、後者は唐に勝った。

①トュール・ポワティエ間の戦い
 北アフリカを通り、ジブラルタル海峡を越えてヨーロッパに上陸したイスラム勢力(ウマイヤ朝)は、イベリア半島の西ゴート王国(現スペインとポルトガル)を征服した。そして732年、ピレネー山脈の西端を越えて北上しフランク王国(現フランス)の征服を目指した。この戦いは、異質な文化圏のぶつかり合いだが、宗教戦争と呼ぶには早いかもしれない。イスラム教は誕生して100年、フランク王国も支配者から徐々にキリスト教(カトリック)化が進んでそう日が経っていない。しかしこの年、分割と内紛を繰り返していたフランク王国がピピン2世の元に統一していたことが、ヨーロッパにとっては幸いした。
 ウマイヤ朝のカリフによってイベリア知事に任じられたアル・ガーフィキーは、ピレネー山脈を越えボルドーを荒らした後、軍を東に向けた。トュールのサン・マルタン教会を狙ったのだ。中世キリスト教国では、富は教会と修道院に集中している。イスラム軍の兵力は6万とも40万ともいう。報せを受けたフランク王国のカール・マルテル(ピピン2世の子)は、軍を率いてパリからトュールに急行した。トュールに着くとまだイスラム軍は到着していなかったので、南のポワティエに向かった。ポワティエの手前20kmの平原で両軍は遭遇し、布陣して相手の様子を探った。フランク軍の兵力は15,000とも75,000ともいうが、敵に比べてかなり劣勢であったようだ。
 1週間目の正午に両軍は激突する。カール・マルテルは、日頃から厳格に兵の訓練を行っていた。イスラム軍の騎兵隊の突撃に対し、重装歩兵を中心とするフランク軍は密集隊形を組み、前面に楯の壁を作って防戦した。イスラム重装騎兵による突撃は、フランク軍の楯の壁を突破出来ずに死体の山を築いた。この日は勝敗が付かず、日没で戦闘が終わった。フランク軍は翌朝から再び激しい攻撃があるものと予想したが、朝が明けるとイスラム軍はおびただしい死体を残して姿を消していた。戦死者の中にアル・ガーフィキーの遺骸が見つかった。指揮官を失ったイスラム軍は、夜中に総退却していた。ピレネー山脈を越える補給の問題もあったのかもしれない。
 この勝利の後も735~739年にかけてイスラム軍はフランスに侵攻したが、ことごとくマルテルによって撃退され退却した。ピレネーを越えての侵攻は止んだのである。後になって分かった事だが、この戦いの持つ意味は大きかった。もしフランク王国が敗れていたら、一時的にせよ、ヨーロッパの大半はイスラム化していたであろう。

② タラス河畔の戦い
 751年5~9月にかけて、中央アジアのタラス地方で唐とアッバース朝の間で中央アジアの覇権を巡って会戦が行われた。新宗教普及の情熱に燃えるアラヴ人と、朝鮮族(高句麗出身)の将軍に率いられた中国人との戦いである。それぞれに現地民を味方に付けた。しかし兵力には相当の開きがあった。ズィヤード・イブン=サーリフの率いるイスラム・ソグド連合軍は20万人。高仙芝を指揮官とする唐と地元部族の連合軍は、わずかに3万(イスラム側の文献では10万)。しかも戦闘中、唐軍に加わっていた天山北麓に住む遊牧民カルルクがアッバース朝軍に寝返った。
 唐軍は壊滅した。イスラム側の記録では、唐軍5万人を殺し2万人を捕えた、という。高仙芝は部下が血路を開き撤退に成功したが、逃げ延びた唐軍の兵士は数千人に過ぎない。その後高仙芝は罪に問われることはなく、安史の乱の討伐軍副元帥に任じられている。唐にとってはさして重要ではない、辺境での一つの戦いに過ぎなかったようだ。美男で有名な高仙芝は、最期は処刑されたが、それは讒言によるものでタラスの敗戦とは全く関係がない。
 この敗戦によって唐の勢力はタリム盆地に限定され、まもなく起こった安史の乱が影響して、唐の中央アジア支配は後退していった。一方イスラム勢力による中央アジア支配は確立し、ソグド人やテュルク系諸民族の間にイスラム教が広まった。とはいえ漢民族の中国にイスラム勢力がこれ以上浸透して行くことも無かった。Wetな中国の気候、現世中心主義の漢民族に求心的な一神教は似合わない。例え一時改宗しても(税金が安ければ改宗しそうだ)、真のイスラム教徒には中々ならないだろう。豚も一杯いるしね。
 さてこの戦いは思わぬ副産物を生んだ。中国人の捕虜の中に製紙職人がいたのだ。紙の重要性に気付いたアッバース朝は、サマルカンドに製紙工場を開いた。昭和女子大教授の増田氏は、「唐軍は、軍組織の運営事務用の備品として大量の紙を必要とし、それを現地で生産供給するために製紙専門の技術部隊を擁していた。職人個人レベルではなく、彼らが組織的に備品設備ごと捕虜にされたのではないか」という説を述べている。
 ちなみに中国では紀元前2世紀から紙は使われていたが、蔡倫が高品質な紙を作って和帝に献上したのが西暦105年、日本へは500年かかって630年に入った。ヨーロッパにイスラム経由で紙が伝わったのは12世紀になってから。中国に遅れること千年以上。タラス河畔の戦いが無ければもっと遅れていただろう。

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ローマ法王の拉致

2017年02月19日 11時36分52秒 | エッセイ
ローマ法王の拉致

 塩野七生さんの本、『ローマ亡き後の地中海世界』を読んで驚いた。1516年、イスラムの海賊(バーバリアン)クルトゴルが当時のローマ法王レオーネ十世の拉致を試みたのだ。中世の十字軍の時代を経て、イスラム勢力はオスマン・トルコに集約された。コンスタンチノープルは1453年、メフメト2世によって占領されヨーロッパに衝撃が走った。東ローマ帝国は地上からその姿を消し、オスマン・トルコはエジプト・シリア・ギリシャを占領して、アドリア海・エーゲ海を傘下に収め、地中海の東半分の制海権をヴェネチアと二分して確保した。ヴェネチアとトルコは通商条約を結んでいる。
 オスマン・トルコはバルカン半島を北上し、神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲する。ところが陸戦では圧倒的に強いトルコ軍にも弱点があった。海だ。トルコ帝国の祖先が中国の史書に出てくる突厥だとすると、遥か東からボスポラス海峡に達するまでの間に、草原と砂漠は続くが海はない。同じように遊牧民族だったモンゴルは、日本やベトナムを攻めるのに降伏した南宋の海軍を再編して使った。役に立てば良し、負けて全滅しても反乱の危機が無くなるのでそれもまた良し。
 オスマン・トルコは海賊を採用した。これは帝国と海賊相方にとってメリットがある。オスマン・トルコは自国の弱い海軍を、経験豊かな海賊の雇用によって一気に挽回し、西側のキリスト教国の海軍力に対抗出来る。海軍力は、トルコ軍が渡海して大軍を派遣する時に必要になる。海賊は自前の艦隊ごと参戦するので、過分な恩賞を与えても常設海軍を保持するよりは遥かに安上がりだ。海賊に取っては、帝国の権威を借り報酬を貰い、また帝国の強大な陸軍力を拝借出来る。それに海賊と呼ばれるよりは、提督と呼ばれたい。他の海賊や手下にも示しがつくというもんだ。
 中世から近世にかけて地中海の西側でイスラムの海賊(バーバリアン)は暴れまくった。北アフリカの地中海沿岸は、ベルベル人が住んでいるので、ヨーロッパではバルバリア(バーバリ)海岸と呼ばれた。そこを根拠地とした海賊がバルバリア海賊だ。彼らはジブラルタル海峡を越えてイングランド、アイルランド、アイスランドも襲った。西アフリカの大西洋岸や南アメリカにまで遠征したこともあるが、主な活動領域は西地中海だ。
 彼らはアフリカ北海岸のチュニス、アルジェ、トリポリ等から出撃してキリスト教徒の船を片端から襲った。積み荷・船・乗組員・乗客全てが得物となった。その攻撃の主目的は、北アフリカや中東でのイスラム奴隷市場に送るキリスト教徒を捕まえることだ。海賊は無数の船を襲撃して捕獲したが、それ以上に沿岸部や島を襲った。スペインやイタリアでは、海岸線はほとんど全ての住民が放棄し19世紀まで定住が進まなかった。
 16~19世紀、バルバリア海賊が捕えたキリスト教徒は、推定で80万人ないし125万人に達する。奴隷はガレー船の漕ぎ手、家庭用、帝国の労働力としていくらでも必要とされた。裕福な奴隷は、身代金と引き換えに引き渡す。キリスト教徒の奴隷解放運動も盛んで、イスラム教徒から奴隷を少しづつ買い戻した。1544年ナポリ湾のイスキア島占領4千人、リーバリ島の全島民9千人、1551年マルタのゴゾ島5千or 6千人(全島民)、イタリア南部のヴィエステ7千人、1555年コルシカ島6千、1558年メノルカ島3千、1563年グラナダ付近4千人。年寄りを除いて根こそぎ連れ出した。年寄りはだいたい教会に押しこんで焼き殺す。この結果、地中海のいくつかの島では人が住まなくなった。
 海賊の襲撃は16世紀以降激しくなり、1830年のフランスによるアルジェリア占領によってやっと大規模な海賊行為が終了した。ここまでくると単なる海賊行為を逸脱している。これは戦争だ。海賊は北アフリア一帯をオスマン・トルコ帝国に献上した。帝国からは役人が派遣され、掠奪物の10%が上納された。また海賊がアルジェ大守に任命された時期もあった。トルコ帝国は陸軍を防衛のために派遣した。これはオスマン・トルコ対キリスト教国の海の戦争に他ならず、概ねトルコ/海賊優位に展開した。海賊は襲撃地点を自由に選択した。防衛が薄く救援に時間がかかり、収穫が多い所だ。変幻自在に出没して掠奪し、風のように去る海賊にヨーロッパのキリスト教徒は震え上がった。
 当時地中海で最も強い海軍を持っていたのはヴェネチア共和国だったが、ヴィネチアはトルコと通商協定を結んでいた。ヴェネチアの植民地がトルコ支配下のバルバリア海賊の襲撃を受けることがない代わりに、ヴェネチア海軍も海賊とは戦わない。だいたい海賊は海戦を避ける。海軍と戦っては損害が大きく、もし勝っても得る物は少ない。また海賊には不利な点があった。当時の大型ガレー船には、200人の漕ぎ手と50人の乗組員(戦闘員)が乗る。バルバリア海賊の漕ぎ手は、鎖に繋がれたキリスト教徒だ。船に乗り移って戦う間に、この漕ぎ手が解放されれば復讐に燃える恐ろしい敵に代わる。一方のキリスト教徒のガレー船は漕ぎ手も自由人なので、乱戦の中で彼らも戦闘員になる。戦闘が長引き、激戦になると不利になる訳だ。
 ヴェネチアに次ぐ海軍力を持つのはジェノヴァだが、ジェノヴァは胡椒等の貿易を独占しているヴェネチアほど財政的に豊かではない。そこでスポンサーに付いてもらい、艦隊ごと傭兵になった。主なスポンサーは、神聖ローマ帝国だ。ジェノヴァの傭兵隊長ドーリアは、何度もバルバリア海賊赤ひげと戦い打ち破っている。
 キリスト強国の中心はローマ法王だが、信者からの寄進はあるが土地は狭い。法王庁海軍は、勇敢な指揮官の下海賊退治に活躍したが、いかんせん規模は小さい。あとはマルタ騎士団(聖ヨハネ騎士団)。もともとはトルコ沿岸のロードス島で海賊行為を行っていた。巡礼に向かうイスラム教徒のダウ船を片端から襲い、キリストの蛇と恐れられた。どっちもどっちだ。ロードス島がスレイマン大帝によって陥落させられた後、マルタ島に移って戦い続けた。キリスト教徒が合同海軍を結成すると、数隻だが必ず参戦し勇敢に戦った。
 近世のヨーロッパの大国はスペインとドイツを併せ持つ神聖ローマ帝国、そしてフランス王国であった。しかし両国の仲の悪さは致命的で、フランスはフランソワ1世の時、神聖ローマ帝国皇帝のカール5世(スペイン王カルロス1世)に対抗する余り、オスマン・トルコと同盟を結んだ。これには流石に他のキリスト教国から非難が集中した。しかしローマ法王も、プロテスタントの台頭などで中世ほどの権威がない。「破門じゃ」というレッドカードの威力が薄れていた。
スペイン(神聖ローマ帝国)は、新大陸から長い航海の末運んできた黄金を、目的地を目前にして次々に奪われるのだから堪らない。ジェノヴァの傭兵艦隊を主力にして神聖ローマ帝国、法王庁、マルタ騎士団の連合軍が海賊の根拠地チュニスを占領した。しかし長くは続かずに奪い返された。
 バルバニア海賊にトルコ人は少ない。ギリシャ人、サラセン人、ユダヤ人等のイスラム改宗者がメインだ。最も怖れられたのは赤ひげで、ギリシャ人ともアルバニア人ともいう。4人兄弟の三男で、他の3人はスペインとの戦闘で戦死した。赤ひげが頭角を現しスレイマン大帝に招聘された時、彼は皇帝への引き出物として、イタリア一の美女と謳われた貴族ジュリア・ゴンザーを狙った。
 彼女はその時、海辺の村に保養に来ていた。その辺の情報収集力が凄い。海賊はスパイを駆使していたのだ。この暁の襲撃は、間一髪のところで失敗した。海賊は隠密裏に上陸したが、ジュリアが物音を聞きつけ自分が目当てと知り、裏口から屋敷を出て一目散に内陸へ駆け去ったのだ。ルネサンス期の女性は勇敢で活動的だ。ジュリアは乗馬の名手だった。赤ひげは腹立ちまぎれに村に放火して引き揚げた。
 赤ひげは単に粗野な海賊ではなかった。副官のシナン・レイースの息子が捕われていたのを取り戻し、1545年にスペイン本土の港に砲撃を加え、マジョルカ島に上陸して、それを最後の遠征とした。引退後アルジェ知事は息子が継ぎ、艦隊はレイースが継いだ。イスタンブール近郊の海辺に宮殿を建て回顧録を書き取らせた。赤ひげの死から数世紀に渡ってトルコ海軍の艦長は、海上作戦や海戦に向かう前に礼砲をして赤ひげの霊廟に敬礼を捧げた。

 さてローマ法王を襲った海賊は、珍しくトルコ人のクルトゴルでスルタンの信任が篤かった。この誘拐は間一髪であった。レオーネ十世は肥満体だが、狩りを好む活動的な人物で乗馬は得意だったのだ。クルトガルは法王レオーネが海岸近くの貴族の城砦に滞在している事を知り、自ら十二隻の快速ガレー船を率いて夜半に上陸した。襲撃を夜明けまで待ってしまったのは失敗だった。広い平原の中に建つ城砦の包囲も完全ではなかった。法王は襲撃を知り、馬に飛び乗ってローマまで駆け抜けた。友人や従者は置き去りにした。際どい逃走だった。その事件の後、海賊対策を強化して一定距離を取って海岸線に見張り台を置き、一定数の兵を常駐させたが大きな効果は得られなかった。長く広い海岸線の全てを守ることは出来ない。
 もしこの時ローマ法王がバルバロス海賊に捕えられていたら、歴史は変わっていたかもしれない。法王はイスタンブール市内を、鎖につながれ素足で晒し者として引きずり廻されただろう。ヨーロッパを襲った衝撃は、コンスタンチノープル陥落を上回るものだったに違いない。今日あるようなカトリック教会の権威は保たれなかっただろう。こんな際どい事件が16世紀に起こっていたとは驚いた。乗馬の得意な法王で良かったね。

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子沢山

2017年02月16日 17時57分28秒 | エッセイ
子沢山

 徳川家康は子沢山で11男5女をもうけたが、信長のごり押しで正妻(今川氏)と傑物だったという長男を殺した。何が神君だ。権力者にへつらって我が子を見殺しにするような男は信用できない、許せない。戦国時代でも子供を身捨てたらアウトだ。家康は、後になってあの長男が生きていたら、と悔やんでいる。しかし見殺しにしたのは自分だ。
 これが斉藤道三、松永弾正、信長だったら印象は違ったかもね。自他共に認める悪の権化なら、子供なんぞまた生めば良い、と割り切っても嫌みはない。どうせ根っからの悪である。なまじ人格者ぶるから家康は信用出来ない。やな奴。
 徳川の将軍の中で、一番多く子を仕込んだのは11代家斉で、男28人女27人の計55人だった。しかし成人したのは男13人、女12人。これはいくらなんでも幼児死亡率が高過ぎるだろ。大奥の闇の中で、恨み妬みで殺された子が多かったんだろうな。何しろ一番下っ端のお女中でも、将軍のお手付きとなって子を生めば、一気に側室になる。いきなり上げ膳据え膳、お尻を拭くのもお付きの仕事。
 以前大奥で、将軍が風呂に入っていた時、背中を洗うお女中にムラムラきてやっちゃった事がある。一発で妊娠した娘は、先輩から裾は踏まれるは、突き飛ばされるは散々な目に遭っている。流産しろ、早くしろ、と言う訳だ。その後大奥に将軍用の風呂は無くなり、将軍は中奥で風呂に入り、男衆が体を洗うことになった。くだらん。人の言いなりになって、仕来りに縛られて何が征夷大将軍だ。
 ジンギス汗が部下に聞いた。「お前達は何が一番楽しい?」「鷹狩です。」「息子と馬乗りをする事です。」「そうか、わしが一番楽しいのは、掠奪、殺戮、放火、レイプだ。」占領地の選りすぐりの美女を、人妻だろうと処女だろうとお構いなしに引きずりこんだから、ジンギス汗のDNAは現代にも相当に伝わっていると思うが、子の数は資料に残ってはいない。
 記録にある限りで最も多くの子を仕込んだ王は、モロッコ皇帝モーレイ・イスマイールだ。1703年の時点で、525人の王子と342人の王女がいた。「私は王子だ。末っ子なので525男である。」こりゃ、呆れた。
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