旅とエッセイ 胡蝶の夢

亜細亜の旅日記、オリジナルエッセイ。投稿では万年佳作か特別賞。
まずはアンコール遺跡群

Good job! 

2016年05月31日 18時20分17秒 | エッセイ
Good job!   

 海外の空港で出発便を待っていた。出発の時間が近づくと座席が込み合う。並んだ椅子の間に一つだけ空席があった。そこに大き目のショルダーバックを肩に掛けたスタイルの良いお姉ちゃんがやってきて、空席の隣の男に聞いた。「そこ宜しいかしら。」俺は向かいの席から何気なく見ていた。ビジネスマン風の男は顔を上げ、不自然なほど彼女を見た後ゆっくりと抑揚をつけて言った。「No~no.」(いいですとも。or 私が拒否するわけありません。)ウッゲー、気持ち悪。普通に「You are welcome.」とか言えよ。よく見れば油ギッシュで、近づけば柑橘系のコロンが匂って目にまで沁みそう。男は彼女に話しかけるが軽くいなされ(失礼ぎりぎりまで無視され)、其の内に彼女は席を立った。ザマミロ。

 アメリカ製落下タイプのアトラクションを日本で設置する際、2ヶ月づつ数回に渡って通訳をやった。アメリカ人の技術者の指示を日本の作業員に伝えるのだ。タワーの鉄枠が出来上がり、内側の空圧の大きな筒を吊り上げて溶着する大事な工程に入った。数十mのタワーの上で、慎重に作業は進められた。ゆっくりと慎重に、真っ直ぐ真っ直ぐ。作業員は接着剤を手早く刷毛で塗り、吊り下げられた筒を両手でつかんで下ろしてゆく。うん、いいね。素人の自分が見ても手際がよい。身長190cmくらいのアメリカ人の技術者が一言。Good job! いい腕だって言ってる、と作業員の親父に言ったらヘルメットの下でニッカと笑った親父の顔が良かった。

 フロリダで遊園地の国際ショーがあり、日本のアトラクションメーカーの我々も模型と映像などを展示した。設置・後片付け・ショーの合間に一人でユニバーサルスタジオとディズニーのMGMスタジオに行った。オっちゃん一人でも実に楽しい。よく観客の志願者を募って簡単な衣装を着せ、ショーに飛び入り参加させる。それが出てくる客、若者もオバちゃんもジイさんもノリが良いこと、サクラかと思うほどだ。日本人なら照れちゃってこうはいかない。
 時間を忘れて遊んでいて気が付いた。カメラを持っているのに未だ一枚も写していない。記念に何枚か撮っておくか。バルーンを50個くらい体につけた青年に頼んだ。「シャッター押してくれる?」すると青年はちょっと黙って、右手から左手にバルーンを移し始めた。あっ両手がふさがっていたんだ、ゴメン。すると青年は顔を上げてニッコリとしてこう言った。「My pleasure.」(喜んで。or お役に立てて私も嬉しい。)
 「It’s all right.」でも「Never mind.」とか「No problem at all.」ではなく、「My pleasure.」いい言葉だな。心がちょっぴり温もった。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

横浜地下水道発掘未遂の巻 

2016年05月28日 13時58分46秒 | エッセイ
横浜地下水道発掘未遂の巻   

 横浜の関内には現在市庁舎、横浜球場と公園がある。開港時ここらは海に突き出た砂洲だった。幕府は外国人居留区を、長崎の出島のようにして管理しようとした。尊皇攘夷のダンビラテロリストも堀があれば、そう簡単には切り込めない。
 諸外国、特に米英は東海道に面した神奈川宿(現在京急の神奈川駅がある。)を居留区にと迫ったが、当時の幕府はなかなかしたたかだった。のらりくらり横浜村も神奈川である、とか無茶を言い関内辺りの埋め立て工事を進めた。異人が我が物顔で東海道に現れては、幕府の権威が失墜するし生麦事件のような不祥事にもなりかねない。その度に賠償金を取られたら堪らない。
 また短い間だが幕府直営の遊郭、岩亀楼があったのは横浜公園、横浜球場に隣接する公園だ。残っている岩亀楼の写真を見ると、海上に浮かんだ木造屋敷のようだ。「露をだに、いとう倭(やまと)の女郎花(おみなえし)、降るあめりかに、袖はぬらさじ。」遊女の亀遊は、羅紗緬(異人の妾)になるのを拒否して自害したという。1863年だから明治維新の5年前だ。本当かな、あんがい本物の亀遊はドレスを着てシャナリシャナリしていたんじゃないか。
まあ攘夷気分の高揚にはなっただろうが、それで自害は女らしくない。女はしたたかだから。当時の感覚からしたら、女郎になって身体を売るのは大した障害ではないが(俺が嫁にする。)、毛唐(失礼)のメカケはゆるさん、といったところか。
 自分が子供のころに住んでいたのは戸部7丁目。戸部4丁目に岩亀横丁という小さな通りがあった。友達の家が数軒この近くにあったので、毎日のように行っていた。岩亀横丁には、岩亀楼の女郎が病を癒す寮があったんだそうだ。
 うわっ長い前置き。本題に入るよ。明治維新になって不逞浪士もいなくなり、横浜は銀やら絹やらの輸出と輸入で栄え、関内も関外(地名としては残っていない。)も急速に発展した。ガス灯も設置されアイスクリンも売り出される。異国の女も街を歩く。いいなー。急速に発展してゆく活気があるコスモポリタンな町。今よりもずっとモダンな横浜だったに違いない。
 しかしこの町には困ったことがある。水だ。海の上に作ったような町だから、井戸を掘ってもフレッシュウォーターは出てこない。天秤棒に振り分けにした壺をかついだ水売りが来るが、そんなものでは間に合わない。早急に大規模な水道トンネルが掘られた。野毛山動物園の向かいの公園に水道施設跡が残っている。野毛も丘の上だが、横浜は結構起伏のある町だ。駅伝で有名な権太坂もある。
 大学に入って直ぐのころ、東京の街をビルの屋上から見てやけに平べったい町だな、と思った。あと朝のゴミが臭い。凸凹はあっても水源の方が高ければ、水は登ったり下がったりして進んで行く。ジェットコースターと同じ原理だ。最初に最高点まで巻き上げれば、コースターは落下のエネルギーで起伏を乗り越えて出発点に戻ってくる。

 地下水道は大変な工事だったのに違いない。それは人が立って歩ける径を持ち、立派な赤レンガで造られていた。江戸・明治の職人はしっかりとした仕事をする。親父が買ってきたか貰ってきたかした『物語、西区の今昔』という本に不鮮明な写真が載っていた。これすごいぜ。今掘り当てれば話題になって新聞に載るだろう。早速自分はここだろうと思われる所を歩き回り、廃屋ではないかと思われる建物の脇に幅2mほどの小道を見つけた。長さは20m位の土の道路だ。この道の北側、さほど離れていない延長線上に野毛の水道設備があるから、この道路が地下トンネルの上を横切っている可能性は高いだろう。
 トンネルの外枠がどうなっているのか、よくは分からないが掘っていって硬いものにぶち当たり、それが人口物でレンガならビンゴ!100年前の地下水道トンネルは発見間近、もらった。翌日自分は大学の仲間に召集をかけた。次の土曜日、シャベルを持って午前10時、東横線の桜木町に集合。土曜になる前に兄貴分の友達は言っていた。「掘る許可は取ってある?大丈夫だよね。」許可って、あの空き地は誰のもの?道に面した建物は人が住んでいるとは思えない。どこに、誰に連絡すればよい。えーい面倒、黙って掘っちゃえ。いい加減なもんだ。
 さて土曜日、基本的に暇な大学生が4人集まった。面白そうと付いてきた女の子の他は手にシャベルを持っている。「許可は大丈夫だよね。」「あー、うん。」と生返事をして駅から発掘予定地に向かった。ところが先日と違いそこについてみると、何?何か始まるの、と近所の人が足を止める。とても隠密に掘っちゃえ、という雰囲気ではなくなった。兄貴には、あれ程言ったのに許可なしかよ、と怒られる。
 近所の人に聞いてみると、この道はxx電力?の寮のものじゃないか、寮は以前から空き家になっているとのこと。この日の穴掘りは諦め、しょーがないとシャベルを持って中華街に行って遊んだ。その後は面倒くさいし、xx電力?に連絡を取ることはなかった。
 けれどその後、横浜で明治の初めに出来たレンガ造りの地下水道が発見されたという話は聞かない。今でもあの道路の下か、どこかに赤レンガの地下水道は眠っているんじゃないかな。まあ地震で崩れてしまったかもしれないが。今度は許可を取って、もう一度あの日の連中に召集をかけたら面白いね。掘るのは疲れるから人に任せよ。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

インディアンの青年 

2016年05月28日 13時57分44秒 | エッセイ
インディアンの青年   

 前回、現代のアメリカインディアンが深い精神性も気概も失ってしまった、と書いたがそれは取りも直さず現代の日本人そのものだ。自分が接した自衛隊出身の若者は、セミが怖いとギャーギャー言って逃げ回っていた。どこの世界に虫が怖い歩兵がいる。いっちゃあ何だが、北朝鮮兵と戦場で出くわしたらひねり潰されるだろう。餓死してでも敵に銃を向け続けた、あの勇猛果敢な日本兵はどこにもいない。
 言われたことだけをこなすドブネズミルックの働きアリなら、通勤電車にあきれるほど乗っている。時代は変わった。インディアンも日本人もない。平和で人を殺すことも殺されることの無く、飢えることも無いのだからいいじゃない、と言えないこともない。
 自分が30代の頃、アメリカ出張で国内線に乗っていた。西から東3-4時間のフライトだった。機内はわりと空いていて3人席に2人、隣りはアジア系の若者で腕にTATOOのちょい険しい雰囲気。自分は文庫本を取り出して読んでいた。TATOO兄ちゃんは、俺の本が気になるらしくチラチラと見ていたが、とうとう声をかけてきた。相当なブロークンイングリッシュで聞き取りづらかったが、ちょっと見せてくれと言っているらしい。本を渡すと、兄ちゃんは縦にしたり横にしたり逆さにしたりする。
 「よく読めるな、あんた中国人だろ。」妙に感心している。いかつい顔の割りに人なつっこい奴。聞いてみると×▽族っていうからインディアンだ。彼の名前を聞いて、ナプキンに漢字で書いてやった。呂弾とか邪久孫、肉損・仏手・九厘豚といった適当な当て字だ。その兄ちゃんの名前も種族名もとっくに忘れた。というか会ったことも忘れていた。
 「ここに俺の名前が書いてあるのか?」「Yes,日本人にこれを見せたら分かる。」「そうか。」ナプキンを横にしたり縦にしたりして、思いの他喜んでいる彼の顔を見て、心がちょっと温かくなった。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

モヒカン族、スー族 

2016年05月25日 19時55分28秒 | エッセイ
モヒカン族、スー族  

 アメリカインディアンという呼び方には違和感がある。元々コロンブスが勝手にインドと間違えたのだし、口は達者だがいかにも喧嘩の弱そうなインド人とはイメージが合わない。彼らモンゴロイド系の民は、紀元前12,000年ごろ最終氷河期にベーリング海峡を歩いて渡り、時間をかけて南北アメリカ大陸を縦断し南極の近くマゼラン海峡に達した。15世紀にやってきた船乗りが、新大陸発見とかいうのはおこがましい。10世紀末にはヴァイキング(アイルランド系ノルマン人)が、カナダに入植を試みたが失敗している。明の鄭和の分遣隊が、コロンブスの百年近く前に到達しているらしい。ポリネシア系の人たちも航海して来ている形跡がある。
 ネイティブアメリカン(黒人はネイティブアフリカン)という呼び方には、どこか胡散臭さが付きまとう。やはりシャイアン、クロウ、コマンチといった部族名で呼ぶのがしっくりとくる。彼らのことについては、自分自身西部劇に毒されて随分と誤解していたことが分かってきた。
 1492年にコロンブスがカリブ海の島(サン・サルバドル島)に上陸して以来、インディアンにとっては受難の連続となった。コロンブスのスペイン兵は非武装のインディオを手当たりしだいに虐殺した。短期間に5万人の住民を殺している。生き残ったインディアは奴隷として酷使した。支配を広げるに従って更に殺し、拷問して金のありかを探った。またコロンブス一行が持ち込んだ伝染病、天然痘・麻疹・ジフテリア・猩紅熱等は、南北アメリカには無かったので急速な感染によって、たちまち人口が減少した。
 サント・ドミンゴ、プエルト・リコ、ジャマイカ、キューバ島の原住民100万人はことごとく絶滅した。スペイン人による南米征服により、インカ帝国の住民は1,600万人から108万人に、アステカの方は1,100万人が100万人に激減した。それによって金銀採掘や大規模農園での労働力が不足し、それを補うためにアフリカ大陸から奴隷として黒人を連れてきた。悪辣の連鎖だな。現在の中南米諸国では、大虐殺と伝染病から生き残ったインディオとアフリカから奴隷船に乗せられて連れてこられた黒人、欧州各地からやってきた白人移民の子孫が複雑に混血している。
 コロンブス以前に約1,000万人いたと推測されるアメリカインディアンは、2,000年の国勢調査では247万人に減少している。この247万人の内、一番人口が多いのはナバホ族、次いでチェロキー⇒チョクトー⇒スー⇒チベワ⇒アパッチ⇒ラムビー⇒ブラックフット⇒イロコイ⇒ブエブロ族となっている。ナバホ族はアパッチ族に近い種族で、第二次世界大戦中に動員され通信兵として、太平洋の島嶼で日本軍と対戦している。通信の発信者も受信者もナバホ族を介することにより、英語が得意な日本兵に通信を傍受されても内容を分からなくしたのだ。前線ではナバホの通信兵を護衛すると同時に、捕虜になりそうな局面では射殺する役目の下士官がついた。最前線で日本兵を見たナバホの青年は、「後ろにいる白人より敵兵の顔立ちが我々に近く、親近感を抱きそうになって困った。」と述べている。
 さてアメリカインディアンに対する誤解だが、次のようなものだ。我々日本人の持つ知識や感性が、彼らよりも白人に近いことが分かるだろう。
・映画『モヒカン族の最後』の中で、息子を殺されモヒカン族の血は途絶えたと嘆く戦士のイメージが強くて、本当にモヒカン族は絶滅したのかと思ってしまう。結論から言うと、モヒカン族の子孫は残っている。少数ながら居留区やNYに今でもモヒカン族の小さなコミュニティーがある。しかし多くのアメリカ人は、映画と小説の影響でモヒカン族は死に絶えたと思っているので、役所での権利関係の手続きで困ることが多いそうだ。あの小説のモデルはモヒカン族ではなくてマヒカン族なんだそうだ。
・頭頂部もしくは中間部分の髪だけを残して毛髪を削ぐモヒカン刈りは有名だ。戦士が狩りや戦いの時に弓を射やすくするために行うが、モヒカン族だけでなく、対立するモホーク族もこの髪型をしている。
・インディアンの固有の風習に頭の皮を剥ぐことは無かった。最初に頭の皮を剥いだのは、入植者である白人の方だ。18世紀のアメリカ政府機関が敵対勢力のインディアンやフランス人を殺させて、その証拠として頭の皮を懸賞金をかけて募集した。
・白人が入ってくる以前も部族間での闘争はあったが、銃器も馬もなく模擬戦争や戦争遊びのようなものが主流だった。相手を絶滅するような激しい戦いはしていない。
・インディアンには土地所有の概念は全く無かった。白人が金を払って彼らの土地を購入したと思う。金なり馬なりを受け取ったインディアンは、白人が贈り物をしてこの土地に住む権利を求めてきたと判断する。白人は買ったのだから出て行け、インディアンは何で、となる。
・インディアン社会では男女が同権であった、というか母系社会で財産権は妻が持っていた。結婚も離婚も個人の自由で、他人が口をはさむことは無かった。後に白人が自分たちの制度に則って父系の財産相続を押し付けるので混乱する。またいわゆるオカマちゃんは、スピリチュアルなものとして大切にされていた。負傷者の手当てや赤ん坊の名付け等の役割を担った。これも当時のピューリタンは嫌悪する。
・そして最大の誤解。今でも大抵のアメリカ人が分かっていないし、自分も間違っていた。インディアンに好意的な西部劇でもここが間違っている。すなわちアメリカインディアンの世界は、欧米のようにまたインカやアステカ/マヤのように皇帝や王、首相が君臨する縦割り社会ではない。彼らは伝統的に極めて高度な個人主義文化を持つ。酋長は「調停者」「世話役」又は「奉仕者」であって、「指導者」「指揮官」又は「部族長」ではなく、「裁判官」でもない。酋長は誰かに任命される訳ではないし、部族民を従属させたり命令する権限など全く持っていない。そもそも彼らの社会に、人に命令する強制するという考えはない。戦争においても彼らは個人又は部族単位で自由参加しているのであって、司令官がいる訳ではない。インディアンの社会は細かい集団に細分化され、それぞれが自治を保ち己の判断で動いていたのだ。酋長も大戦士も区別できず、酋長を司令官や首長だと思い込んでいる白人は、インディアンが協定を結んでも約束を守らないと思い、同じ過ちと何度も繰り返した。アパッチの戦士ジェロニモも、スー族の偉大なシャーマンにして大戦士シッティング・ブルも酋長ではない。
 
 さて保留区に追い込まれたインディアンは、鉄道が通るだの金が出たといっては協定を破ってより辺境に追いやられる。食糧は保留区の管理官によってあくどく中間搾取され、反抗的だといってそれさえ停められる。リンカーン大統領もインディアンに対しては血も涙もない。
 インディアン戦争は1890年12月29日、合衆国騎馬隊500名による護送中のスー族に対する無差別殺戮で終わりを告げた。女と子供も含む150名以上がウーンデッド・ニー・クリークにおいて虐殺された。死んだ白人兵25名は味方からの誤射による。その当時スー族の間で、死者を蘇らせるゴースト・ダンスが盛んだった。白人兵はその執拗なダンスに苛立っていた。
 ここで筆を置くのもつらいので、リトルビックホーンの戦いを最後にしよう。1876年6月25日、米陸軍インディアン掃討軍はモンタナ州南東部において、儀式と会議のために集結していたスー族、シャイアン族、アラバホ族の1,500人規模の野営地を発見した。手柄に逸るカスター中佐は、上官から翌日の一斉攻撃を下命されていたのを無視し、第七騎兵隊単独での攻撃を決める。インディアン斥候、アリカワ族のブラッディ・ナイフ酋長や副官の忠告は聞き流した。
 カスターは隊を三つに分け、副官リノが渡河して威力偵察を行うが、騎兵隊の動きを把握していたスー連合軍の巧妙な攻撃を受けてたちまち撃退された。カスターは独断で総攻撃をかけるが、カスター隊の接近を待ち構えていたクレージ・ホースやゴールといったスー族戦士、シャイアン族の戦士ツー・ムーンズらの待ち伏せ攻撃に遭いしだいに追い詰められてゆく。2時間に渡り戦闘は続く。水の無い河川敷に追い詰められたカスター隊の生き残りは、両岸から弓矢、銃弾をバッファロー狩りのように浴びせられ、本隊225名はカスター自身と共に全滅する。
 しかしスー族だけで136人が戦死し、160人が負傷しているので全く一方的な戦いであった訳ではない。カスター配下の「第七騎兵隊」は隊員に東欧系の遅れてきた移民が多く、黒人兵もいた。戦いの間際には部隊の行軍に疲れ、士気は低下していた。弾薬は1人につき124発しか装備していず、幌馬車に2万4千発以上残してあった。これは後でインディアン達の戦利品となる。
 この戦場跡では近年になって調査が行われているが、戦場に今も残る薬莢の数が、インディアン側はカスター隊の4倍発見されている。第七騎兵隊は単発式のスプリングフィールドだが、インディアン部隊では47種類以上の銃が使用されていた。ヘンリー連発銃も使われているし、先込式の旧式銃も多かった。旧式銃は不利なようだが、地面に落ちた弾丸を詰め直して撃つことが出来る。手斧と弓矢も主要な武器だ。単発銃より弓の方が連射に優れている。
 調査の過程で野ざらしの頭骨が出てきたが、これがひどい歯槽膿漏でカスター隊のXXという隊員であることが分かった。カスター隊は最終段階ではパニックになって逃げまどっている。銃弾が尽きたのだろう。

 インディアンには樹木や獣を尊いものとして、人と同等に扱う深い精神世界があった。霊的な夢を重視する風習もあった。しかしこの150年間で、民族の誇りも文化もコナゴナに打ち砕かれた。現在の彼らに会ったら、失望させられる可能性は大きい。ジャンクフードで太り、怠惰で暴力的なアル中になど会いたくはない。シッティング・ブルは言う。「インディアンだって?私の他にはもうインディアンは残っていない。」

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

アジ釣り

2016年05月22日 18時07分16秒 | エッセイ
アジ釣り   

 金沢八景、弁天丸で釣りに出た。前回、野生のイルカに出会ったから小型のデジカメを持参したが、イルカは影も形も見えなかった。そう遭遇するものじゃあないのね。今回もライトタックル午後乗り合い、約6千円。前回は午前船だったが、今回は午後船、正味3時間の勝負だ。
釣れたよ。最初の2時間は途切れなく釣れた。錘を底(水深は浅くて16~18m)につけて2-3回リールを巻く。つまり海底から2mほど上げると針は1~1.5mほどの高さになる。小さなコマセかごを振って、しばらくすると(時には底について直ぐに)コッココココと竿先が振れる。針は最初3本、後で2本に結び直した。ゆっくりと巻き追い食いを狙う。アジは口が弱いからリールをゆっくりと巻いてゆく。獲物は小さいから巻く時に さして重くはないが、竿は弧を描いているから掛かっているのは間違いない。
17~25cmほどのアジが次々に釣れる。ほとんど空振りなし、時々一荷(2匹掛け)で釣れ続いた。自分はミヨシ(船首)の先頭だったが、何故か隣のじいさんは余り釣れない。俺より道具は遥かによいし、格好は釣り人そのものなのに。普通コマセ釣りの場合、船の中央の方が隣のコマセが流れてきて有利なのにな。5月20日は大潮だった。午前の船は釣れ過ぎて早上がりしたという。大潮の日は海の中で潮の流れがよく、プランクトンがよく動くから魚も活発に餌を追う。
曇っていたのも良かったんだろう。太陽の光が水深18mまではよく届かないから、針や糸が暗くてよく見えないのだ。朝マヅメ夕マヅメ効果という奴が昼間でも続いているようなものだ。ついでに言えば上げ3分下げ7分といって、満潮・干潮の潮止まりの時は、魚は休憩タイムを取り潮が動き出すとお食事タイムになるという。確かにボートで釣っていると同じ場所なのに突然バタバタと釣れ出し、急にバタっと止むことがある。しかし大物が潮止まりの時に食ったりもする。
さて今回の釣りの獲物は全てアジ、3時間で42匹釣れ満足。一度大きな当たりがあって竿がぐっとしなり、しばらく重い引きだったのだが5-6回巻いたところで軽くなってしまった。2号の糸と10号の針がぶっつりと切れていたから大物だったんだ。大アナゴかタコでも掛かったのだろうか。これは惜しかった。最後の1時間は場所を代えて八景島シーパラダイスの沖辺りを何度も何度も試みたが、全然釣れない。あー釣れない、というイライラ気分も味合わせてくれた。そして最後の最後に小さめのアジを4匹、立て続けに釣ったところで納竿。煮魚、焼き魚ともにうまかった。
5/20は海上では風があって寒かった。長袖のシャツ一枚では寒くて、借りたライフジャケットがあって良かった。街中では無風で暖かくても、海上は全然違う。分かっているのだが、つい騙される。釣りに行く人は上着を忘れないでね。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加