神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・駒林神社。

2007年04月24日 | ■神戸市長田区
厄除招福・方除開運・安産・諸病平癒・交通安全

駒林神社

(こまがばやしじんじゃ)
神戸市長田区駒ケ林町3-7-3





市道・高松線沿い、長田港のすぐ北側に鎮座する駒林神社。


〔御祭神〕
応神天皇
(おうじんてんのう)
猿田彦大神
(さるたひこのおおかみ)
歳徳大神
(としとくおおかみ)


 J1有数の攻撃陣を中心に活躍を続けるヴィッセル神戸。そのホームスタジアムであるホームズスタジアム神戸(元神戸ウイングスタジアム)の南側を東西に走る市道・高松線を須磨へと抜けていく途中、「駒栄町4交差点」を西へ少し行ったところに駒林神社が鎮座しています。ここは、1000年以上もの長い歴史を持つ祭礼が行われていた、由緒ある神社です。




 
参道の入口にある震災で折れた鳥居の跡(左)。その先にある境内(右)。



 古代より、この地に東から流れ込む苅藻川と西から流れ込む妙法寺川の運ぶ土砂の堆積によって、天然の良港として発展していた駒ヶ林。そのため、古くから瀬戸内を抜け、明石大門を越えた船の寄港地として、畿内への出入り口としての役割を果たしてきました。特に、朝鮮半島から来日した使節団は、畿内へと向かうためにこの地に上陸していたため「高麗返し」と呼ばれ、それが訛って「駒ヶ林」という地名になったとも言われています。そんな駒ヶ林には、外国人の出入国を管理する役所である玄蕃寮の出先機関が置かれていました。その敷地内に祠を建てて応神天皇を祀ったのが駒林神社の始まりといわれています。

 古くより開けていた駒ヶ林には、歴史上の人物たちも足跡を残しています。福原京を開くなど神戸と縁の深かった平清盛公も、宮島へ参詣に向かう途中の1178(治承2)年6月9日、和田岬を経由して駒ヶ林から上陸したことが「山槐記」に記されています。1336(延元元)年には、建武の新政を行う後醍醐天皇と対立し、京都をめぐる争いで南朝側の北畠顕家公や楠木正成公・新田義貞公に敗れ、赤松円心公の進言を受けて西へと敗走する足利尊氏公がここを訪れ、参詣ののち九州に向けて出航したといわれています。そのときに詠んだといわれる歌が今に伝えられています。


「今向かふ方は明石の浦ながら、まだ晴れやらぬ我が思ひかな」





1989(平成11)年に再建された社殿。石川県の建設会社が手がけました。



 駒ヶ林は、須磨にある證誠神社を氏神としており、駒林神社證誠神社の御旅所とされていました。1690(元禄3)年の記録には八王子社と記されており、1772(明和9)年には八幡宮として記されています。1839(文政13)年には石原清左衛門によって社殿が改築され、狛犬が奉納されるなど境内の整備が進みました。明治維新後の1893(明治26)年には拝殿も新築されました。

 その後しばらくの間荒廃していた駒林神社は、1924(大正13)年に社殿の再建が行われ、八王子八幡神社と呼ばれていた神社は、村内にあった多くの小社を合祀して駒林神社と改称され、證誠神社からも独立して村社に格付けされました。先の大戦での被災は免れていましたが、1988(昭和63)年に起きた火事によって社殿が全焼してしまいます。翌年には再建されましたが、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で被災。ダメージを受けましたがその年のうちに無事復旧されました。




 
戦死者を祀る靖国社(左)と、仏・法・僧の三宝を守る神を祀る三宝荒神社(右)。



 988(永延2)年1月15日に始められたといわれる駒ヶ林の左義長は、1000年もの長い歴史を持つお祭りで、最盛期には遠方からも見物客が訪れ、とても盛り上がっていたそうです。駒ヶ林では、大半が漁業に従事していましたが、そのほとんどが地引網漁であったため、限られた漁場を巡って毎年1月15日に左義長を行って網入れの優先権を争ったそうです。そういう性格の祭りだったため、漁業に従事している方以外は左義長に参加できなかったそうです。

 駒ヶ林の東西に分かれ、10mにも及ぶ高さの「お山」を100人ほどの漁師たちが担いで浜辺で倒し合いを行うこのお祭りは、その年の漁獲が懸かっているだけに壮絶を極め、流血の事態が起こることもしばしばであったために「駒ヶ林のけんか祭り」とも言われていたそうです。一時期はこの祭りを見物する客が各地から集まり、多くの人出で浜辺は賑わっていましたが、終戦後の復興のために始められた新湊川西部海面埋立事業が1957(昭和32)年に完成、西部第一工区の埋立も行われて長田港の整備が進むと共に砂浜が埋め立てられ、祭礼を行う場所がなくなったために1959(昭和34)年1月15日を最後に中止されることになりました。その後、1993(平成5)年に行われたアーバン・リゾートフェアの中で久々に復活されたり、小規模な左義長は何度か行われていますが、本格的な祭りは残念ながら途絶えたままです。




 
無声映画時代の日活の大スター・澤田清氏が奉納したといわれる玉勝・天光稲荷社。


アクセス
・神戸市営地下鉄海岸線「駒ヶ林駅」下車、徒歩3分
駒林神社地図   Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

神戸の神社
兵庫県神社庁神戸市支部
神戸新聞出版センター

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2010-05-01 11:38:54
神戸の都心部にあっても漁村の伝統を伝える駒ヶ林。地域のきづなや、歴史を未来に伝えたいですね。
海泉禅寺
 臨済宗 南禅寺派。 
文永三年(1266)この村の宝満寺が覚心禅師の教化で密教から
禅宗に改められ、大いに栄えてからのち、この村に海泉寺は宝珠庵、慈眼庵、松月庵、松源庵、とともに建てられ、宝満寺の子坊となつた。のちに宝満寺は禅昌寺の末寺となり、更に本山直寺となつた。 慈眼、松月、松源、の三庵は明治初年に、村の経済の都合で廃寺となつた。のこつた宝珠庵は「さつき寺」ともいわれ、一株のサツキが庭一面に枝をはり、花時には賑わう名所となつていた。が先の阪神大震災で壊れ、現在建築工事準備中。境内には湯川秀樹博士の位牌が祀られている。
宝珠寺は長田北交差点のひがしきたがわにある。
海泉寺は寺伝では、正和二年(1313)の創建、もと長田港の西方にあったが、明治七年火災に遭い現在地にあった慈眼庵に移って海泉寺とした。大正十二年に駒ガ林町にあった阿弥陀堂の木材を本堂に利用した。このとき発見した阿弥陀堂の棟札には文化十二年(1815)建立とあった。
此の堂にまつられていた阿弥陀三尊仏がいまの海泉寺の本尊である。この阿弥陀堂が往古駒ヶ林でざこね堂〔雑魚寝堂〕としたしまれたお堂といわれる。
●追記 雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔村の阿弥陀堂でその後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
返信する
こんばんわ! (きみー)
2010-05-11 21:12:15
とっても詳細なコメント、ありがとうございました。

駒林神社を訪れた際の潮風の心地よさが蘇ってきました。この周辺にも、コメントいただいたように昔からの社寺や史跡が残されていて、とても風情のある町ですよね。

こんな風景がいつまでも大切に残されていって欲しい、そう思いました。
返信する
Unknown (Unknown)
2011-01-06 15:37:37
厄神さんには海泉寺にもいきたいですね。
臨済宗南禅寺派 海泉寺〔通称ざこね堂・枕寺=まくらでら〕
www.city.kobe.lg.jp
神戸市長田区の伝承行事にも〔ざこねと記されています。〕

神戸市湊部〔枕寺=まくらでら・ざこね堂〕
 雑魚寝堂というのがあるが寺ではない。〔その後移転〕同村の未婚の男女が
毎年節分の夜にここに集まり籠るので、雑魚寝堂と称したのに
始まる。その夜に契った男女は夫婦となる掟であるが、いかに
神の結ぶ縁とは言え、若い男が年老いた女を、年老いた男が若
い女を妻とするのは世の慣わしに背くというので廃止されてしま
ったが、今でも節分の夜だけは、古い名残を留めて、女ばかりが
籠ることになっている。こうすると安産だと言われている。
 筆者も明治四十三年頃に駒ヶ林のこの堂を訪ねたが、その頃
は土地の者は「枕寺」と呼んでいた。堂には雑魚寝に用いた枕と
いうのが七八十も積んであったので、枕寺の由縁も、在りし昔の
雑魚寝の盛んであったことも偲ばれた。

中山太郎の「日本婚姻史」
中山太郎の「日本婚姻史」に駒ヶ林の雑魚寝堂〔ざこね堂〕とその行事が
記載されています。
返信する
質問よろしいですか? (サツキ)
2011-05-24 17:30:34
 こんにちは。
 新長田や駒ヶ林について調べておりましてこちらのブログに行き着きました。とても参考になりました。ありがとうございます。

 さて、記事の中で「平清盛公も……1178(治承2)年6月9日、……駒ヶ林から上陸したことが「山槐記」に記されています」とあります。ところが図書館にある「増補資料大成 山槐記」を調べましたがどうにも発見できません。
 そこで「山槐記」のどのあたりに記述されているのか教えていただいてもよろしいでしょうか。
 是非是非よろしくお願いします。
 質問のみで申し訳ございません。
 失礼します。
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