神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・明泉寺(大日寺)。

2008年04月19日 | ■神戸市長田区


天照山明泉禅寺

(てんしょうざん みょうせんぜんじ)
神戸市長田区明泉寺町2-4-3

福原西国観音霊場・第2番札所

通 称
大日寺




〔宗派〕
臨済宗南禅寺派

〔御本尊〕
大日如来像
(だいにちにょらいぞう)



 古の僧侶には、仏教を説いて人々の心を救済することと同時に、人々の生活をより良くする為の土木開発や灌漑技術のスペシャリストである人物が数多くいらっしゃいました。天平時代に活躍した行基上人もそういった僧侶の代表格で、有馬温泉の復興や伊丹・昆陽池の開拓、大輪田泊をはじめとする「摂播五泊」と呼ばれた港を開いたりするなど、近畿を中心に人々の救済のために尽力されました。

 長田神社の北方にある明泉寺も、行基上人が開いた寺院のひとつです。大輪田泊の港湾整備を行った行基上人は長田エリアを開拓して耕地を整備し、その灌漑のために蓮ヶ池を開きます。その蓮ヶ池の水源である苅藻川の流れを調査するために上流へと遡って歩いているうちに、景色の素晴らしい霊地へとたどりついた行基上人は、この地に自ら彫り上げた大日如来像を祀る寺院を開いて「明泉(=苅藻川)」の水の流れが尽きることなく長田エリアを潤すことを祈願されました。735(天平7)年のことと寺伝には記されています。このときの明泉寺の位置は現在よりもさらに奥の大日丘町だったといわれています。







 明泉寺が開かれてから4世紀の月日が流れた平安時代末期のこと。木曽で挙兵した源義仲公の軍勢に追われて都落ちを余儀なくされた平家は、安徳天皇を奉じて大宰府へと退却。西国で勢力を回復した平家は捲土重来を期してふたたび都を目指しますが、この動きを察知した源頼朝公は源範頼公と源義経公に平氏追討を命じ、東西から進出した両軍は1184(寿永3)年2月7日の早朝、神戸市街地で激突します。両軍は市内各方面で激しい戦いを繰り広げますが、攻め立てる源氏に対して平家も見事に戦い、一進一退の状態が続きました。そんな戦況は、「鵯越の逆落とし」と呼ばれる北方面からの奇襲攻撃をきっかけに大きく動きます。「鵯越の逆落とし」は須磨・一ノ谷という説もありますが、ここでは現在の鵯越・丸山大橋が架かるあたりと考えるほうがしっくりとします。

 当時明泉寺があった場所は生田から夢野を経て須磨・白川へと抜ける街道沿いの要衝の地でした。ここは平盛俊公を中心に守りが固められていましたが、予想だにしなかった山上からの奇襲を受けて平盛俊公の軍勢は大混乱に陥ります。生田口と塩屋口の東西を固めた平家軍はその中央部に源義経公の軍の侵入を許したことで総崩れとなり、兵たちは我先に海へと逃げ出します。その中には平清盛公の4男で実質的に平家の総大将格だった平知盛公とその息子・16歳の平知章公たちの姿もありました。

 苅藻川沿いを海へ向かい、沖合いに停泊する味方・阿波重能公が守る軍船へと脱出を図った一行は、海岸までたどりついたところで源氏方の児玉党と遭遇してしまいます。平家の総大将の首を取ろうと平知盛公めがけて殺到する敵に対し、息子の平知章公と郎党の監物太郎頼方公は身を挺して平知盛公を逃がし、壮烈に討ち死にします。総大将としての立場から、ここで命を落とすわけにはいかない平知盛公は父親としての心情を押し殺し、須磨沖まで単騎落ち延びて軍船へと辿り着きます。しかし、息子を置き去りにして逃げた慙愧の念から「人々の思はれん心のうちどもこそはづかしう候へ」と泣き崩れたといいます。

 父を守って若い命を散らせた平知章公の墓はもともと明泉寺の北方の谷にあったモンナ池付近の付近に、石を積み重ねただけのささやかな塚として残されていましたが、昭和に入って境内へと移されました。悲劇の若武者の墓所は本堂の左手奥の墓地の中に祀られています。




父・平知盛公の命を救うために若い命を散らした平知章公の墓所。



 源平の合戦に巻き込まれて兵火によって全焼してしまった明泉寺は、1351(観応2)年になって赤松円心公の孫・赤松光範公の手で現在地に再建されました。1406(応永13)年には観如上人が住職になって再び歴史ある古刹としての輝きを取り戻します。

 大日如来は、仏の中でも最高位である如来の位置にあって宇宙の中心物として信仰されてきましたが、全国的に荒神と並んで「牛馬の守護神」としても信仰されてきました。そんな大日如来を御本尊としてお祀りする明泉寺は「牛の寺」として崇敬を集め、本堂には昔から多くの牛の人形が奉納されていたそうです。



 
本堂の左手に建つ寺崎方堂氏の句碑(左)と手前に茂る「思出の松」(右)。

 
山門をくぐってすぐ左にある「仏足石」(左)。さらに奥には「牛の寺」らしく牛の像(右)があります。



アクセス
・神戸電鉄「長田駅」下車、西へ徒歩15分
・神戸市バス4系統「大日寺前」下車すぐ
明泉寺地図 Copyright (C) 2000-2006 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・9時~17時

公式サイト
  明泉寺ホームページ



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2011-08-11 07:22:09
牛・家畜の供養を明治四年以前からしているか、
どうかが重要。明治四年頃に身分開放令がでるまでは、
社会に厳格な区別があった。
差別されている人と一般人が同じ寺で供養されないように、
人間と畜生を共に供養することは無かった。
寺院にも区別があり、各本山、各宗派には末寺帳と呼ばれる名簿があり、
職業、身分により、人民は宗派を定められていた。
明治四年以前には畜生を供養する寺は特定の宗派に入れなかった事は事実である。
明治四年以前には暗い現実が存在した。
社会には差別無く、動物も愛護しなくてはいけないと思います。

Unknown (きみー)
2011-08-11 17:01:53
コメント有難うございます。

明泉寺さんが「牛の寺」として知られているのは「牛馬の供養をしていた」からではなく、
御本尊の大日如来尊が、農耕や運搬の守護神という捉え方の中で「牛馬の守護神」として
崇敬を集めていたからだと考えられます。

人々の生活の中で欠かせない牛馬の息災を願う気持ちが、明泉寺を「牛の寺」として有名
にさせていったのかも知れませんね。

貴重なコメント、有難うございました。
歴史を見つめるとき、現在の視点だけでなく、ご指摘いただいたような社会のルールや
雰囲気、世界観抜きには語れません。これからも、気付いた点がありましたらどんどん
コメント下さいね!

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