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多賀大社
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(たがたいしゃ)
滋賀県犬上郡多賀町多賀604
神仏霊場近江 欣求の道・第1番札所
通 称
お多賀さん
(おたがさん)
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〔御祭神〕
伊邪那岐命
(いざなぎのみこと)
伊邪那美命
(いざなみのみこと)
社伝によると、神代の昔に多賀・杉坂山に降臨された伊邪那岐大神が、麓にある栗栖の里で休まれた後に多賀の地に鎮座されたのが多賀大社の始まりだといわれています。多賀の地には第1回目の遣唐使に名を連ねる犬上御田鍬を輩出した名族・犬上氏が古くから勢力を広げており、その祖神を祀っていた社が多賀大社へと発展していったのではないかとも考えられています。712(和銅5)年に編纂された「古事記」にも「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐す」という記述が見られることから、この頃にはすでに多賀で祭祀が行われていたようです(「淡海の多賀」は淡路島の多賀にある伊弉諾神宮を指すという説も有力です)。738(天平10)年には社殿が造営され、766(天平神護2)年に田鹿神と日向神を合祀、808(大同3)年には山田神が合祀されました。927(延長5)年に編纂された「延喜式神名帳」にも「近江国犬上郡・多何神社二座」という記述があり、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命の2柱が祀られていたことが分かります。
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美しいアーチ状の太閤橋とその奥に立つ御神門(左)。右は神馬社。
1180(治承4)年に平重衡公が行った南都焼討ちによって伽藍の大部分を焼失した東大寺の再建を強く願った後白河法皇は、名僧・重源上人を総責任者である東大寺勧進職に任じます。当時すでに60歳の老齢だった重源上人は、長期間に及ぶであろう困難な再建事業に取り組むにあたり、伊勢神宮に参拝して成就祈願のために17日間の参籠を行いました。すると、その満願の夜の夢枕に天照大御神が現れ「再建事業の成就のために寿命を延ばしたいと望むなら多賀神に祈願せよ」との神託が与えられました。
さっそく多賀大社に向かった重源上人は、参拝の最中に目の前に舞い落ちた一枚の柏の葉に「莚」という字の形をした虫食いがあるのを見て、「莚という文字は廿(二十)に延と書く。さては我にさらに20年の寿命を与え給うたということか」と喜んだといわれています。その後、様々な困難を克服しながら1185(文治元)年8月には盧舎那大仏を再建、1195(建久6)年には大仏殿の再建を成し遂げた重源上人は、無事に再建事業が成功したことへの御礼のために再びこの地を訪れ、境内の石に座り込むとそのまま眠るように入寂されたと伝えられています。その石は今も「寿命石」と呼ばれて境内に安置されており、健康長寿の御利益があるといわれています。
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多賀大社の本殿。1930(大正5)年に改修されました。
鎌倉時代には、神官を兼ねた御家人による衆議制によって神社の運営が行われていましたが、室町時代の1494(明応3)年に守護職・佐々木一統公の命を受けた多賀豊後守高備公が天台宗の不動院を別当寺として建立して以来、多賀大社で行われる法会の勤行・護摩供などの修法をこの寺院が行うようになりました。その後、織田信長公や豊臣秀吉公からも庇護を受けたこともあって不動院の坊人たちは活発に諸国を行脚して御神札を配り、伊勢信仰や熊野信仰と融合して多賀大社の御神徳を全国に広めていきました。
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能舞殿(左)の奥には「寿命石」と「祈願の白石」(右)があります。
1588(天正16)年には豊臣秀吉公が母・大政所の延命祈願成就の御礼として、社殿の改築や米1万石の寄進など財政的に大きなバックアップを行っています。江戸時代に入っても手厚い庇護は続き、1615(元和元)年に社殿を焼失させてしまった多賀大社に対し、1622(元和7)年に徳川秀忠公より350石の神領の寄進が行われ、さらに1633(寛永10)年には徳川家光公の命によって社殿の再建が始められています。1651(慶安4)年には井伊家からも150石の神領の寄進が行われました。以降、1773(安永2)年と1782(天明2)年には火災で、そして1791(寛政3)年には暴風で社殿が焼失・倒壊するなど苦しい時期もありましたが、彦根藩と幕府からの手厚い支援を受けて復興を果たしています。明治時代には廃仏毀釈運動の盛り上がりによって別当寺の不動院は境内より排されますが、多賀大社自体は1914(大正3)年に官幣大社に列せられ、政府の支援を受けて栄えます。戦後の1947(昭和22)年には社名が「多賀神社」から「多賀大社」に改められました。
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延喜式内社の日向神社(左)と豊臣秀吉公の寄進で建てられた太閤蔵。
多賀大社にはいくつか名物があります。健康長寿の御守として知られる「お多賀杓子」は、養老年間(717~724年)に元正天皇が病の床に臥された際、その平癒を祈念した神官たちが強飯を炊き、シデの木製の杓子を添えて献上したところ無事に全快されたという故事に由来して作られたもので、ご飯をよそう「お玉杓子」の語源となったといわれています。また、神社の向かいの土産屋で売られている「糸切餅」も名物のひとつです。元寇の際の戦勝祈願が見事に叶えられた事に感謝して奉納されたのが始まりだといわれる和菓子で、餡を包んだ餅の表面に蒙古の旗印を表す青・赤・青の3本の線が入っており、弓の弦に見立てた糸で切り分けられています。刃を使わずに糸で切ることで悪霊を断ち、平和を祈念するという意味が込められているそうです。
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勤皇志士たちが密議を行ったといわれる文庫(左)。右は徳川寄進の大鍋(右)。
アクセス
・近江鉄道多賀線「多賀大社駅」下車、東へ徒歩10分。
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拝観料
・境内無料 (※奥書院庭園:300円、1~2月は拝観不可)
拝観時間
・8時~16時 (※奥書院庭園は15時30分まで)
公式サイト
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お城の近くは風情がある町並みが残っていて雰囲気がいいですよね。兵庫にも姫路城がありますが、独特の雰囲気があって大好きな町のひとつです。
彦根も何度か訪れました。懐かしい雰囲気を味わえるキャッスルロードなんかはお気に入りの場所です。
彦根から近江鉄道で多賀大社へ向かうのも風情があっていいですね!
>dadatanpoiさま
コメントありがとうございます。一度「ふる里ドットコム」見てみますね!
こちらの神社はリンク先にあります
淡路島の「いざなぎ神宮」と夫婦をされてる
そうです。
多賀大社が「(♀)」でいざなぎ神宮が「(♂)」ということらしいです。
いざなぎ神宮に行った人からききました。
不思議ですね。いざなぎ神宮の入り口の門の感じも写真みたらそっくりでした
(多賀大社には何度か足をはこんでいるので・・)。
淡路島の伊弉諾神宮も何度か訪れたことがありますが、確かに神門の雰囲気もよく似ていますね。
イザナギとイザナミは、淡路の伊弉諾神宮で「くにうみ」をしたあと多賀の地を隠居の場所(幽宮)として余生を過ごしたともいわれていますし、伊弉諾神宮と多賀大社のつながりは深いものがあるようです。
またブログ見に来てくださいね!