貧困と犯罪が渦巻く、ボストン南部で生まれ育った2人の男。犯罪者一族に生まれ、自らの生い立ちと訣別するために警察官を志すビリー。マフィアのボス・コステロに育てられ、忠実な“内通者”となるために警察官を目指すコリン。2人は互... 続き
映画の質とは無関係に、僕は東洋的な「無間」のトーンに惹かれてしまう。
もちろん香港映画の歴史を変えたといわれるアンドリュー・ラウ監督「インファナル・アフェア三部作」のリメイク版である。
巨匠と呼ばれて久しく、しかしアカデミー賞には縁がなかったマーチン・スコセッシ。いつ、彼がトロフィーに輝くのか、これはここ数年のアカデミー賞をめぐる話題のひとつであった。そして、ついに、第79回のアカデミー賞で作品・監督・脚色・編集の最多4部門で、栄冠がもたらされたのである。
それが「ディパーテッド」。リメイク版がアカデミー賞に輝いたのは、実は初めてのことであった。
「インファナル・アフェア三部作」は2002年に完結したが、アメリカでは2004年にヒットした作品である。
脚色のウィリアム・モナハンによれば、「インファナル・アフェア」のリメイクというよりは、着想を得ただけで、1970年代のボストンにおけるアイルランド系のマフィアの、勢力拡大の様相をドラマ化したものだという。
たしかに、ボストン南部の暗鬱な灰色の街角や裏通りの無機的な表情を、カメラは丁寧に追っていく。
そして、警察官としてマフィアに潜入するビリー・コスティガン(レオナルド・ディカプリオ)、対照的にマフィアのボスであるフランソワ・コステロ(ジャック・ニコルソン)から警察にスパイとして送り込まれたコリン・サリバン(マット・デイモン)の演技は、とても見ごたえがある。
ディカプリオは、犯罪者一家の出自というマイナスを査定されての潜入マフィアの演技を通じて、自己のアイデンティティを喪失していく統合失調症的な病理を見事に演じている。
自分の正体が、いつばれるのか?
自分の役割は、利用されているだけなのではないか?
警察官であることの使命感を、逆手に取られているだけではないか?
コステロの決定的な犯罪場面をつかむためには、自分自身が出世し、コステロの片腕にならなければならない。ボスに取り入るためには、他の幹部たちにも一目置かせなければならない。
ディカプリオの策が功を奏すればするほど、これは策ではなくもともと自分の中に流れているアンダーグラウンドの血がなせる業ではないか、と自分で自分を疑い、薬に頼るようになる。
一方の、マット・デイモン。もともと、ハリウッドきっての若手の演技派であるが、特別捜査班のエリート刑事の役柄を完璧に演じきっている。
プロダクション・ノートによれば、指導役の本物の特別捜査班について、実際の犯罪場面に何度も立ち会ったという。
マット・デイモンは少年の頃から、地元を牛耳っているコステロの力を知っていた。少年の家族にとっては、父よりも何倍も強い力をもったコステロはいわば、英雄であり庇護者であり、といった位置にいる。この少年の頭のよさを見抜いたコステロは周到に警察学校に通わせ、エリートの地位に押し上げたのだ。だから、マット・デイモンは、デイカプリオに較べて、ずっとスマートで開放的だ。前半部分では、半ばこの潜入マフィアというポジションを、フェイクなゲームのように楽しんでいるようにも見える。
一方は仲間に一方は同僚に対する、そしてそれぞれがボスに対する、信頼と裏切り、嘘と誠が混在してくる。
ことに、それぞれが自分と同じような潜入の存在を知ったときから、疑心暗鬼は最高潮に達する。自分がもたらす情報が相手の潜入者にも筒抜けになっている。そして、皮肉のことに、それぞれがボスから身内にいる潜入者を特定せよ!と命令される。
相手より早く、真相のカードをつかみ、自分は逃げおおせなければならない・・・。
まさに、手に汗握る心理サスペンスである。
役者の質、脚本の見事さ、映像の質感、サスペンスの集中度・・・どれをとっても「インファナルアフェア」より「ディパーテッド」の方が、上かもしれない。さすが、アカデミー賞だ。
しかし、と僕は思う。
どちらが好きかと問われれば、迷うことなく「インファナルアフェア」だと、僕は答えるだろう、と。
いくつか、理由がある。
ひとつは、どれだけ「着想を得ただけ」といっても、それは言い訳に過ぎないこと。主要な山場のシーンは、ほとんど、過去作をもとに組み立てられている。だから、どうしても、カメラワークの違い等、トリヴィアルなことに、観客の関心が向いてしまうのだ。
「ほら、覚えているだろ。ここで、ボスが追い詰められてさ、彼を逃がした後、殺されちゃうんだよ。エレベーターからね、いっしょだ、いっしょだ」
「うるさいえわねぇ、ちょっと静かに見れないの?」
と連れ合いの不興をかうはめになってしまう。(実話です)
もうひとつは女性の扱い方。
今回の精神科医の女性はいったいなんなんだ?
マット・デイモンに口説き落とされたと思ったら、ディカプリオにも母性本能を必要以上に割いている。
常に苛々している様子で、この女性の精神分析こそ必要なぐらいだ、この女は腰の軽い、単なるヤンキー娘じゃないの、などと、ひどいことを思ってしまう。
「インファナル・アフェア」の場合は、もっともっと複雑だった。
アンディ・ラウ扮する警察への潜入スパイであるラウにはマリー(サミー・チェン)という婚約者がいて、重要な役割をはたしている。
一方、トニー・レオン扮するヤクザ組織への潜入スパイであるヤンは、いつも精神科医であるリー(ケニー・チャン)によって、最後のバランスを保っている。リーの施す催眠療法で、ラウとヤンの無意識が交錯することになり、それはとっても詩情がある。
それだけではない。マフィアのボスであるサム(エリック・ツァン)の妻(カリーナ・ラウ)の存在が、微細な影をこのふたりのスパイの青年時代に、早くも落としていくのである。
やくざ(マフィア)のボスを演じる東西のふたりの役者の比較もおもしろい。もちろん、香港映画の名優エリック・ツァンはボス役にはまり役には違いがないのだが、ここでは、ジャック・ニコルソンの演技が鬼気迫る分だけ、勝っている。もう、「バットマン」のペンギン男など比較にならないぐらいのやりたい放題の(凄みのある)演技であった。
一方で、警察のボス(上司)になると、これはもうアンソニー・ウォンがマーチン・スコセッシに勝っていると思う。
逆に、巡査部長を演じたマーク・ウォールバーグはほれぼれする演技であった。
まあ、役者の勝ち負けを論じてもしょうがない。
なぜ、「インファナルアフェア」の方が好きなのか?本当の理由は、映画の基調を流れるトーンである。
「インファナル・アフェア」はⅡでは「無間序曲」、Ⅲでは「終極無間」といったように、「無間」という仏教用語が副題につけられている。
「無間」とは法華経風に解すれば、次のようにいわれる。
「無間とは地獄の中で最下層の場所で阿鼻地獄とも言い、五逆罪や大乗の非難者が堕ちる場所で極苦の地で、銅が沸き人間を炊き続ける。堕ちるまでの時間は2000年を要する」
つまるところ、この東洋風の罰という概念の中に、僕たちは、このふたりの潜入者のどちらがどちらともいえない孤独なあるいは虚無的な儚さを感じるのである。
一方、「ディパーテッド」では、「邪魔ものは消せ」とでもいったプラグマチックな戦術論の優劣、生き残り競争がモチーフとなっているような気がする。そして、コステロ(父)も実はFBIに身を売っていたという現実をつきつけられて、「親殺し」をするはめになるという、極めて西洋的なテーマも見え隠れする。
もちろん、映画はマーケティングである。
東洋に住む僕は、「無間」の凍えるような孤独に多くの観客同様、思いを馳せたのかもしれないし、欧米人たちは、合理と不合理の狭間の中の功利主義(プラグマティズム)を、手に汗握る良質なサスペンス映画として堪能したのかもしれない。
それにしても・・・。
『ディパーテッド』もなかなか良くできていたと思います。
でも、オリジナルで見たような映像もたくさんあったのと、先が読めてしまうのが辛いところでした。
どちらが好きかといわれたら、私も「インファナル~」を挙げます。
あの雰囲気が好きなのは自分が東洋人だからかしら。
ほら、並べてみたら、全く同じ!!
区別がつきません、この2人、、、
やっぱりねぇ、、、これだけじゃねぇ、、
無間には、とうてい及びませんよねぇ、、、
そうですねぇ。やっぱ、東洋の血が流れているから、という理由の方が、しっくりくるんですね。
画面はとっても緊張感があったんですけどね。
なんか、リアル過ぎるというか。
「インファナルアフェア」の方が、様式美も含めて、スタイリッシュでしたね。
「ディパーテッド」では、“無間地獄”の意味が消えてしまったのがね…
そうですね。クライムサスペンスとしては、重厚でスリリングで緻密で、一級品なんですけどね。
私は『インファナル・アフェア』を観ていないので、比較せずにこの作品を楽しむことができました。
いろんな方からオリジナルを薦められましたが、観よう観ようと思いつつまだ観ていなかったりします
ディカプリオはいい演技をしていましたね。
『ブラッド・ダイヤモンド』でもそうでしたが、演技に磨きがかかったなぁと思わせてくれました。
単独としてみれば、とってもいい仕上がりの作品だろうと思いますし、十分、楽しめますね。
私も、観たい観たいと思って、早数年…。
なかなか3部作って乗り気になれなくて(*_*)
でも、きっと1本見れば、次が観たくなるとは思うんですが。
はい、絶対、観るべきだと思いますよ。保証します。責任はとらないけど・・・(笑)