世良修蔵暗殺
— 四季しのぶ@福島藩🌸 (@shikishinobu) 2019年4月20日 - 07:28
慶応4年閏4月20日(1868年6月10日)、奥羽鎮撫総督府下参謀・世良修蔵が暗殺されました。
強硬に会津征伐を主張する世良と会津救済を目指す東北諸藩の乖離が決定的となると、仙台藩は世良排除を決意します。仙台藩士… twitter.com/i/web/status/1…
暗殺の直接のきっかけと言われる奥羽皆敵の書状については謎が多く、本当に世良が書いたものか判然としません。
— 四季しのぶ@福島藩🌸 (@shikishinobu) 2019年4月20日 - 07:28
ともあれ世良は新政府の意向に愚直と言えるほど忠実に従ったため、反発を招いて暗殺されたというべき。横暴ゆえに怒りを買った云々というのは後付けの理由です。
先日も書きましたが、今度のGWは10年以上ぶりに山口へ訪問する予定ですが、まだ行けていない幕長戦争芸州口の古戦場を訪問したいと思っています。
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2019年4月20日 - 22:37
この芸州口、幕長戦争の主戦線の筈なのに、また幕府軍は彦根井伊と高田榊原の譜代の精鋭部隊に加えて、新鋭の幕府歩兵や優良装備の紀伊藩兵が参戦しているにも拘わらず、何故か後世地味なんですよね( ̄▽ ̄;)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2019年4月20日 - 22:41
まあ小倉の高杉晋作や山県有朋や福田侠平、石州口の大村益次郎、大島口の世良修蔵や林友幸と比べると、芸州口の長州藩兵の指揮官がどうしても地味に思えてしまうのが、芸州口が地味な原因かもしれませんが( ̄▽ ̄;)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2019年4月20日 - 22:44
@saemonhiguchi 実際それで井伊と榊原を撃退しているのに、不思議と地味なんですよね。甲冑姿の井伊榊原が敗れたら、新鋭装備の幕府歩兵と紀州藩兵が現れる所などは、他戦線では見られない展開だと思うのですが…( ̄▽ ̄;)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2019年4月20日 - 22:54
@saemonhiguchi 一応、芸州藩領に侵攻してはいますが、あくまで幕府軍との決戦が目的で、芸州藩兵とは敵対しないと言う不思議な姿勢でしたからね(同様に芸州藩兵も自藩領で戦いがおきているのに、立場は中立と言う不思議な姿勢でしたが)
— 大塚進也@三十一人会編集&広報 (@tukaohtsu) 2019年4月20日 - 23:03
スター不在は全く同感です( ̄▽ ̄;)