歴声庵

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甲斐:日ノ出城址、松雲寺

2012年06月11日 22時52分06秒 | 登城記・史跡訪問


 日ノ出城址遠景

 日ノ出城は戦国時代初期の1400年代に築かれ、周辺の一揆集が立て篭もった城と言われていますが、武田信虎・信玄・勝頼の時代には、既に廃城になっていました。そんな日ノ出城が再び歴史の表舞台に出るのは、武田勝頼が織田信長によって滅ぼされ、その信長も武田家が亡んだ三ヶ月後に本能寺で横死した事によって発生した天正壬午の乱の事です。

 天正壬午の乱では、徳川家康と北条氏直がそれぞれ軍勢を率いて、七里岩台地上の新府城に家康が、同じく七里岩台地上の若神子城に氏直が入城して対陣していました。そんな七里岩台地の東方、塩川の畔にそびえ立つ既に廃城となっていた日ノ出城に、家康は軍勢を入れて改修し拠点の一つとします。日ノ出城は七里岩台地東方の北条勢の拠点である、大豆生田砦と丁度対陣する場所に位置しており、高所に位置する分日ノ出城の方が有意だったでしょう。大豆生田砦は最終的には堂ヶ坂砦からの攻撃で陥落しますが、日ノ出城はこの堂ヶ坂砦からの攻撃を側面から支援したと言えると思います。


 日ノ出城址の碑
 そのような天正壬午の乱で活用された日の出城ですが、現在は遺構が判り易く残ってはおらず、判り易いのはこの碑くらいです。


 日の出城址本丸跡と思われますが、遺構らしい物は見つける事は出来ませんでした。


 日の出城址もまた、残念ながら高速道路(中央道)により敷地を分断されています。

 
 松雲寺
 日ノ出城と同じく七里岩台地の東方、堂ヶ坂砦と日の出城との中間地点に松雲寺は在ります。平山優著『天正壬午の乱』に、松雲寺も徳川方の拠点になった可能性が高いと書かれている場所です。色んなサイトを見てみると、松雲寺内で遺構と思われる場所を見つけている方が居ましたが、私には発見する事が出来ませんでした。

訪問日:2012年5月31日


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