バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

神の教会になぜ問題が起こるのか?

2017-06-18 17:52:03 | 礼拝説教
2017/6/18礼拝説教
【テーマ】  教会の成長
【説教題】 「神の教会になぜ問題が起こるのか?」
【聖書箇所】 使徒6:1-7
  6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
  6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

○ 子どもの発達を勉強していますと、わずか2歳ぐらいで反抗期があります。そして、第二反抗期と呼ばれる時期までにも、親としてやりにくいことが多々出てきます。それを過ぎて大人になるものの、大人になっても色々あるではありませんか? 教会も色々な問題のようなことを通って発達・成長するのではないかと思います。

Ⅰ.初代教会に問題がおこった
A.聖霊に満たされた教会でも問題はある
1.ペンテコステというすごい出来事があって、一気に教会ができ、弟子達によって奇跡のわざ、聖霊の満たしなどが各地で起こりました。そして、救われる人が数千人単位で起こってくるということは本当にすごいことです。
2.こういう状況の中にあった教会ですから、教会は天国のような所と思いがちになりますが、今日のテキストを読むと、早速問題が生じています。苦情の申し立てが起こっているのです。

B.最初の問題とは
1.ここで起こった問題とは、やめもに対しての配給のことで不公平が生じたということです。人は自分が損をすることを見過ごせないものです。「クリスチャンだから自分が損をしても文句を言わなくていいじゃないか」と思いたいですが、初代教会からそれは無理なことでした。特にこれは食べることですから、命に関わるということでも苦情申し立てとなったのでしょう。
2.子どももちょっと量に差がつくと、「●●ちゃんの方が多い」と言って怒ります。こう考えると、初代教会はやはり生まれたばかりの教会だったんだなあと思えます。

Ⅱ.どのように解決したか
A.問題そのものは問題では無い
1.問題が起こるのは悪いことではありません。イエス様がパンを増やされたように、聖霊に満ちた教会は祈ることでパンが増えれば、やはり「すごい!」と言えるのでしょう。が、そんなことは起こらなかったのです。
2.大事なのは、その現実を、神様の許しの中で行われていることと認め、愛と信仰で対処していくことです。

B.聴く人を用意した
1.12使徒が行った解決は食卓のことに仕える人「執事」を決めることでした。しかも、 ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた のですから、ギリシャ語を使うユダヤ人7名を選んだのです。この人達が選ばれることで、明確な働き人が生まれたことになり、初代教会の大きな力となったのです。
2.しかし、ただ言葉が通じるだけではいけないのです。なぜ苦情が生まれたのか、その背景を聞き取ることが必要です。傾聴ということが言われますが、聴ける人が必要ということです。教会の問題は聴ける人で解決していくのです。

Ⅲ.全ては福音宣教のため
A.食卓の問題から宣教拡大に
1.使徒達の按手で祈られた7名は忠実にその仕事を果たしていきます。その結果、 6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。 というすばらしいことが起こるわけです。
2.食卓の問題を解決することが最優先課題というわけではなく、福音宣教がスムーズに進むために何をすべきかということだったのです。この問題解決が使徒達に大事な時間を確保させ、宣教が進んだのです。

B.宣教のために作られる組織
1.多くの教会の牧師は 6:4 もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします と言いたいでしょう。しかし、現実はなかなかそうはいかず、あらゆることを牧師がしています。その解決のために教会組織をしっかりとしていこうとしているのです。
2.しかし、組織は命を失うと危ないことはよく言われるところです。あの7人の執事が選ばれた基準は 御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち でした。つまり、心の通い合う、命のある組織なのです。それによって宣教が拡大されます。

★ 教会に問題が起こることは何も問題ではありません。それを放置しておくのが問題です。問題は教会を分裂させるためにあるのではなく、それによって福音宣教が拡大するためにあるのです。そのためにみんなの知恵を出し合うのです。神は信徒を用いようとされているのです。

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私には何があるのか!?

2017-06-11 18:11:58 | 礼拝説教
2017/6/11礼拝説教
【テーマ】  聖霊の力
【説教題】 「私には何があるのか!?」
【聖書箇所】 使徒3:1-10
  3:1 ペテロとヨハネは午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
3:2 すると、生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた。
3:3 彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
3:4 ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
3:5 男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ。
3:6 すると、ペテロは、「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
3:7 彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
3:8 おどり上がってまっすぐに立ち、歩きだした。そして歩いたり、はねたりしながら、神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った。
3:9 人々はみな、彼が歩きながら、神を賛美しているのを見た。
3:10 そして、これが、施しを求めるために宮の「美しの門」にすわっていた男だとわかると、この人の身に起こったことに驚き、あきれた。

○ ペンテコステから弟子達は大きく変化しました。堂々とユダヤ人の祈りの時間に宮に上って行きます。彼らはなぜ変わったのですか? 聖霊ですね。聖霊の力です。

Ⅰ.私たちを見なさい
A.見ていなかった
1. 生まれつき足のなえた人 は宮のそばにいつも来ているのに宮の中に入ったことが無いのです。それは彼が身に障害を持っていて律法の規定に合わないため宮に入ることができないからです。ですから彼は癒されると直ちに宮に入って行ったのです。
2.彼は毎日ここに来ていたようですが、ペテロ達はこの日まで彼を見たことは無かったのでしょうか? ペテロもヨハネも彼のことを知っていたかも知れません。しかし、ユダヤ人の常識に生きていたため、彼を見てもそこに居るのが当たり前で気にも留めなかったのではないかと思います。

B.その人を見た
1.この日の彼らは違いました。足のなえた彼を見るだけでは無く、 「私たちを見なさい」 と言うのです。彼らはこの足のなえた人を今までまともに見ていなかったのです。聖霊に満たされた人は見方も変わるらしいです。
2.自分を見るように、というのは自分に自信があるからです。しかし、彼らの自信は自分というよりも、自分を変えてくださったイエス様(聖霊)によるものです。聖霊の力です。

Ⅱ.金銀は私にはない
A.金銀しか頭に無い
1.当然のことですが、 「私たちを見なさい」 と、言われたら、物乞いをしている人は、何かもらえると思ってその人を見ます。欲しいのは金銀ですから。
2.まさか 金銀は私にはない なんて言われるとは思ってもみなかったでしょう。彼は何の為に生きているのでしょうか? お金をめぐんでもらうためだけに生きているのです。彼の家族も彼に何の期待もしていないし、彼の稼ぎの多い少ないだけが気になったでしょう。
3.多かれ少なかれ、人はお金に動かされているところがあります。これを克服すると人生が変わるのかも知れません。何しろ、Ⅰテモテ6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 と言われていますので。

B.金銀のことは気にしない
1. 金銀は私にはない と言ったペテロ。本当にお金は無かったでしょう。仕事もしていないですから、食べるものはイエス様の弟子、家を貸してくれているような人達によって支えていただいたと思います。
2.貧乏には慣れていたペテロかも知れませんが、かつては漁師として生計を立てていたのです。その彼の得意分野とは全く違った分野で働くのです。彼は誰かに養ってもらわないことには生きていけないのです。
3.普通なら不安になります。今まではイエス様が側にいたから不安も消えたのですが、もうイエス様はいないし、ペテロはこの新しい集団のリーダーになっているのです。彼を支えるのは聖霊なのです。

Ⅲ.私にあるものをあげよう
A.持っているようで持っていなかった
1. 金銀は私にはない と言い切ったペテロが即座に続けて言ったのは 私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい でした。 私にあるもの とはイエス・キリストの名による権威でした。
2.イエス様と共にいた時は、ペテロ弟子達はイエス様の権威をも持っているように思ったのです。悪霊を追い出したり、病を癒したりすることがあの頃はできたのです。しかし、実は何も持っていなかったのです。自我の力を信仰の力と思っていたのです。

B.持たないようで持っている
1.そのペテロが聖霊のバプテスマを受けると最も大事なものを得たことがわかります。彼は「力を受けます」と言われたとおり、福音宣教の力を受けました。
2.彼はそれまでの自我の力が聖霊によって砕かれました。砕かれたペテロは聖霊によってイエス・キリストの名による権威が信仰によって与えられていることがわかったのです。
3.外目には何も変わらないペテロですが、彼は 私にあるもの を信仰によって、聖霊によって知ったのです。そして、その信仰の一言、愛の一言を受け入れた男性は歩き出したのです。

★ この癒された男性は喜んで賛美し、宮に入って行きました。そのように、全ての人が神に近づくことは私たちの願いでもあります。その働きのために神様は私たちに「力を受ける」と言ってくださったのです。皆さん、ペテロのように 私にあるもの を知っていますか? イエス・キリストの名による権威を聖霊が発揮してくださるのです。

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われは聖霊を信ず

2017-06-04 17:08:25 | 礼拝説教
2017/6/4ペンテコステ礼拝説教
【テーマ】  使徒信条・聖霊
【説教題】 「われは聖霊を信ず」
【聖書箇所】 使徒1:8
 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

われは天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
われはそのひとり子、われらの主イエス・キリストを信ず。
主は聖霊によりてやどり、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。
かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん。
われは聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。  アーメン

○ 今日はペンテコステの日です。クリスマスは日本人にもよく知られているキリスト教会の行事ですが、最近ではイースターも知られるようになってきました。でも教会の誕生日と言われるペンテコステはまだまだ知られていません。この日に初めて聖霊なる神が、イエスを信じる人々の心にお出でになり、その結果、教会が誕生しました。その聖霊なる神について使徒信条は説明していません。「われは聖霊を信ず」だけです。

Ⅰ.聖霊は神である
A.聖霊は幽霊ではない
1.イエス様が神様であることを信じない人もおられますが、聖霊も神で無いと思っている人が多くおられるようです。多いのは神のエネルギーのようなもの、神の腕のような神の一部と捉えている人です。
2.聖霊を英語で Holy Ghost とも言いますので、クリスチャンでない通訳者が「聖なる幽霊」と訳したという話があります。日本人は霊というと幽霊を考えやすいみたいです。しかし、聖霊は幽霊ではありません。神ご自身です。
3.聖霊は神ですから、全知全能です。単なるエネルギーなどでは無く、人格をお持ちですので、私たちと親しく交わりを持つことができます。ですから、 エペ 4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。 ともあるわけです。聖霊は悲しまれる人格をお持ちだということです。

B.聖霊は私たちの内に住まれる神
1.聖霊は父なる神と子なる神・イエスと共に三位一体の神です。こういう説明をされる方もあります。--父なる神を「私たちの上におられる神」、御子イエス・キリストを「私たちとともにおられる神」、聖霊を「私たちの内におられる神」と。
2.パウロはこう言っています。 Ⅰコリ 6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。 と。その結果、私たちも神の子どもとされるのです。そして、内に住んでくださる聖霊によって少しずつ神の子として成長させていただけるのです。
3.聖霊は私たちの内側にあって助けてくださる助け主です。真理を思い起こさせ、正しいことを行うために力を与えてくださるのです。

Ⅱ.聖霊は力をくださる
A.聖霊を求めよう
1.イエス様は何度か聖霊のことを人々に伝えてこられました。その一つの箇所を見ましょう。 ヨハネ7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。 7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。 です。
2.イエス様は 渇いているなら と言われましたが、人間はみな渇いているものなのです。こんな話があります。1996年アメリカ海軍兵ジョイ・モーラが空母から海へ落下したのですが、誰にも気づかれず、彼が漁船に救助されるまでに72時間かかったそうです。そして助かった彼はインタビューの中で、絶望の中、神が励ましてくださったと語ったそうです。彼が海を漂う間、彼の内側から込み上げてくる欲求が彼を支えたと言っています。それは「水が欲しい!」という叫びだったのです。周りは水だらけですが、飲める水が無いのです。
3.私たちも実はそういう渇きの叫びがあるのではないでしょうか。神様に叫んでみてください。イエス様は わたしのもとに来て飲みなさい と言われました。この言葉は正しくは「いつも私の元に来て、いつも飲んでいなさい」です。

B.聖霊のなさること
1.ペンテコステの日に、弟子達はこの聖霊に満たされました。彼らの内側から 生ける水の川が流れ出 てきました。彼らは大きな声で祈り、またイエス様のことを語りました。そこに大勢の人が集まってきたのですが、あの逃げ隠れしたペテロが大胆に語り、なんとその日だけで3000人が救われたのです。
2.今までなら、人々はこのペテロを殺しにかかったかも知れません。ところが、この日大勢の人は聖霊の働きを受けて悔い改めることになったのです。聖霊はそのように人々に正しいことを示し、悪を悔い改める心を与えてくださるのです。
3.その後も弟子達によって救いのわざが各地に起こりました。そのために教会ができていくのです。ペンテコステの日は正に教会の誕生日なのです。

★ あなたも渇いている自分であることを認め、聖霊を溢れるほどにくださいと願ってください。
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心を合わせ、祈りに専念する

2017-05-28 18:33:31 | 礼拝説教
2017/5/28礼拝説教
【テーマ】  祈り込む
【説教題】 「心を合わせ、祈りに専念する」
【聖書箇所】 使徒1:12-14
  1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

○ 新中野キリスト教会は祈祷会を大事にしています。木曜日の祈祷会では、仕事や家のことで出席できない方が多いので、月一の日曜日のリバイバル祈祷会、有志祈り会をもっていますが、その他にも自主的な祈りのグループが次々にできていることを感謝しています。皆さん、心を合わせて、祈りに専念してくださっています。

Ⅰ.屋上の間の祈り
A.危険なエルサレムだが
1.イエス様に言われたとおり、弟子達はオリーブ山からエルサレムに戻りました。そして、ここに留まって祈って待つことにしました。もともとガリラヤの人達でしたから、エルサレムではイエス様の弟子になった人達のところに泊まっていたのでしょう。
2.そこには「屋上の間」というのがあったので、わりと裕福な人の家だったかも知れません。命を狙われる危険なエルサレムではありましたが、色々なタイプの人がたくさんイエス様の弟子になっていたのです。

B.安心できる家
1.高槻で私が信仰を回復しようとして再び通い出した教会が高槻キリスト教会でした。そこは私もよく知っている古い「にこいち(二軒長屋)」の借家でした。この小さな家の持ち主はS教会の信徒さんだったのです。その方が安い家賃で貸してくださったので、伝道所ができました。そこに私も導かれたのです。
2.このようにエルサレムにいた信徒が家を貸してくれたので、弟子達は安心して祈ることができたのでしょう。キリストのために家を貸してくださる方があることで宣教の業が広まったといってもよいかと思います。

Ⅱ.心を合わせる祈り
A.試練によって心をひとつにした
1.エルサレム入城の時には誰が大臣になるかというようなことを思い、自分のことばかり考えているような弟子達でした。そんな彼らがこの場面では心を合わせることができるようになっているのです。
2.イエス様の十字架は弟子達にとっても大きな試みでしたが、このことでバラバラな気持ちが一つになっていくのです。試練は辛いですが、神の前に立つにふさわしく変えられていく大事な時でもあります。
3.教会も試練が押し寄せると普段の祈りよりも心を合わせるのではないでしょうか。

B.何を祈ったのだろう?
1.イエス様のおられない中で、彼ら11人は12使徒にするためにくじ引きをしてマッテヤを使徒に決めました。つまり、この屋上の間には他にも弟子達がいたということです。この使徒を決めることに関しても彼らは心を合わせることができたのです。
2.12使徒と他の弟子達、イエスの母マリヤを含む女性達が共に祈りをしました。どのような内容のことを祈ったのか知りたいところです。何しろ10日間あります。「主よ、来てください」だけの祈りではないはずです。「ユダの後、誰を使徒にしましょうか?」「マッテヤに決めました」「マッテヤを祝福してください」と、どんどん続いたことでしょう。
3.祈りの言葉の内容はわかりませんが、彼らの祈りの素晴らしさは心を合わせたことです。心を合わせる祈りはとても重要で大きな力を持っています。祈祷会が大事なのはこういうことです。

Ⅲ.専念する祈り
A.祈ることが中心の10日間
1.10日間、彼らは 祈りに専念していた のです。祈りに専念するとはどのような状態でしょうか? この間にマッテヤを選んだりしているということは、祈りだけでは無かったでしょう。話し合いをし、イエス様の言葉をみんなで思い起こし、語り合ったことと思います。つまり、分かち合いのようなこともしたと思います。
2.しかし、やはり何といっても祈ることが中心です。天に帰られたとは言え、彼らにはイエス様はいなくなった方ではないのです。見えなくても共におられることを実感して、このイエス様のお名前を通して父なる神に祈ったのです。

B.神を思う10日間
1.祈りに専念するとは神との時間をたくさん持ったということです。それは、神様を思い、神様を賛美し、御言葉からみこころを追い求め、感謝をささげ、願いを言い表していたのです。こうしたことに集中したのです。
2.なぜ10日間が必要だったのかわかりません。神様にはそういう時間は関係ないのですから。弟子達の側にイエス様が見えなくてもおられるという現実の中で10日間を過ごす必要があったと思うのです。彼らにこそ祈りに専念する10日間が必要だったのでしょう。

★ 心を合わせるには少しの努力が必要です。祈りに専念するにも少しの努力が必要です。しかし、イエス様が祈れと言われるから私たちは祈るのです。すると・・・
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人にはわからない神の計画

2017-05-21 18:57:48 | 礼拝説教
2017/5/21礼拝説教
【テーマ】  ペンテコステの恵み
【説教題】 「人にはわからない神の計画」
【聖書箇所】 使徒1:3-13
 1:3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
1:4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
  1:6 そこで、彼らは、いっしょに集まったとき、イエスにこう尋ねた。「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」
1:7 イエスは言われた。「いつとか、どんなときとかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」
  1:12 そこで、彼らはオリーブという山からエルサレムに帰った。この山はエルサレムの近くにあって、安息日の道のりほどの距離であった。
1:13 彼らは町に入ると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。

○ 再来週はペンテコステの日です。誰がこのペンテコステの祭の日に歴史を変える出来事が起きることを予想したでしょうか? 神様のご計画というのはその時にはなかなか人にはわからないものです。

Ⅰ.何故エルサレムなのか?
A.エルサレムを離れないで
1.復活されたイエス様が弟子達にガリラヤに行くように言われ、そこで再会なさいました。40日間そうして弟子達にご自身を現し、語ってこられましたが、今度は エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 と、言われました。
2.弟子達の慣れ親しんだガリラヤでもよかったのではないでしょうか。何しろエルサレムは弟子達にとって危ない場所です。イエス様の十字架からまだそんなに時間も経っていなくて、弟子達の命も危なかった時ですから。しかし、イエス様は エルサレムを離れないで と、言われました。

B.エルサレムで起こること
1.身の危険があっても、弟子達はイエス様から言われたお言葉通りエルサレムに留まりました。イエス様のお言葉通りにしたところ、使徒2章の出来事が起こり、聖霊のバプテスマを受けるのです。イエス様の言葉に従うというのはすばらしいです。
2.イエス様は 1:5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」 と言われました。この「聖霊の」の「の」はギリシャ語では「エン」、英語の「in(の中に、で)」です。「聖霊の中に(で)バプテスマを受ける」と訳すことができます。聖霊にどっぷり浸される経験をするのです。

Ⅱ.何故ペンテコステの日なのか?
A.ペンテコステの日とは
1.エルサレムは過越の祭に続いて、ペンテコステの祭へと向かっていましたので、ユダヤ人が大勢いました。ペンテコステ(五旬節)は50日目の祭日の意で、大麦の初穂をささげる日から数えて50日目に行われる祭りです。大麦の収穫が終わり、いよいよ小麦の収穫となる、「刈り入れの祭」「初穂の日」とも呼ばれています。
2.この日はいかなる労働もしてはならず、聖なる会合が開かれ、男子は主の前に出ることが義務づけられました。この日は喜びの日であり、穀物収穫の恵みに対する感謝の日でした。

B.ここから始まる世界宣教
1.神様がこのようにユダヤ人にとって大事な日を選ばれたということはすばらしいことで、穀物の収穫よりもっと大事な魂の収穫の喜びが始まったのです。
2.イエス様が昇天されて、弟子達が天を見上げていましたが、天使がイエス様の再臨のことを告げます。旧約聖書のメシヤ預言は実現し、いよいよ世の終わり・新天新地へと向かう幕開けとなりました。それが、ペンテコステから始まるのです。

Ⅲ.何故彼らなのか?
A.彼らのような人が
1.イエス様が彼らを弟子として選ばれたことには何かしら不思議な感じがあります。イエス様が活動を開始された時には立派なバプテスマのヨハネがいました。でも、彼を弟子にはしませんでした。他にも立派な人はいたと思います。
2.イエス様が弟子にしたのは宗教的に立派な人達でもなく、知識があるわけでもなく、人から好感を持たれていたというわけでもないようなのです。Ⅰテモテ3章の 監督はこういう人でなければなりません。すなわち、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、自分を制し、慎み深く、品位があり、よくもてなし、教える能力があり、・・・ また、教会外の人々にも評判の良い人でなければいけません。 と、監督や執事について書いてあるところを読んでも、彼らの姿と合わないのです。

B.人にはわからない神の選び
1.神様のご計画がどのようなものなのかわかりませんが、 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。 と言われたイエス様の言葉にある「聖霊」が彼らを変えたのです。
2.イエス様はもちろん知識人でも、政治家でも弟子にすることはできたでしょう。しかし、イエス様が選ばれたのは違いました。後にパウロのような知識人が弟子になっていることも考えるとイエス様の選びは人にはわからないということです。

● 私はクリスチャンになって間もない頃水野源三さんのことを知りました。彼が瞬きで示す文字を書き記して多くの詩が書かれました。私はその詩を読んで感動しました。同時に身体がまったく自由がきかない彼が多くの人の救いのために用いられたことに感動したのです。人にはわからない召しです。

★ 神である聖霊が人の内側にお住まいになること自体が人には理解できないことです。その神があの弟子達を選ばれたように、私たちも救われ、神様のために用いて頂けるという神様の計画はとても人にはわからないことです。が、そこに神様の大きな恵みがあります。
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もう一人の助け主

2017-05-14 19:33:59 | 礼拝説教
2017/5/14礼拝説教
【テーマ】  約束の聖霊
【説教題】 「もう一人の助け主」
【聖書箇所】 ヨハネ14:12-17
  14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。
14:13 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。
14:14 あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

○ 今年のペンテコステの日は6月4日。あと1ヶ月を切りました。イエス様が約束された聖霊はどのような方でしょうか? 弟子達はペンテコステの日までそのお方を理解できませんでしたが、イエス様は聖霊をすばらしいお方として紹介しておられます。

Ⅰ.私たちの内に住まれる「聖霊」
A.イエス様の昇天後に来られる
1.復活されたイエス様が弟子達に約束されたのが「聖霊」でした。「聖霊を受けよ」と言われたイエス様ですが、十字架にかかられる前にイエス様は「聖霊」のことを語っておられました。その一つの箇所が今日のテキストです
2.イエス様は十字架 → 復活の後、「昇天」されました。イエス様はその復活のお姿で天に帰られましたが、その前に弟子達に大事なことを伝えなければなりませんでした。それが「聖霊」のことです。

B.私たちの内に住まれる
1.弟子達はユダヤ人ですから、神様は霊であり、目には見えないことはわかっていましたし、神様は聖い霊であることも知っていました。しかし、三位一体の神の一位格としては理解していませんでした。
2.イエス様が伝えた「聖霊」はイエス様を信じる人の中にお住まいになるという神様です。これは弟子達にはにわかには信じられなかったことでしょう。
3.旧約時代も聖霊はおられましたし、人々に働かれていましたが、内に住むというお方としてではありませんでした。それはイエス様の十字架の贖いによって人々の罪が赦されていないからです。罪・汚れの無いところに聖霊はお住まいになるからです。

Ⅱ.もう一人の助け主「聖霊」
A.もう一人
1.イエス様は 父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります と言われました。人々にとって「助け主」「救い主」はイエス様でしたが、このイエス様が天に帰られるので、イエス様は もうひとりの助け主 のお出でになることを約束されました。
2.イエス様が十字架で死なれたので、イエス様の働きが終わってしまったのではありません。イエス様は復活され、昇天され、天でその役割を果たしておられます。言うなれば、地上生活では時空間に制限されて一時に全ての人のところにいることができなかったイエス様に代わり、聖霊が全ての人とずっと共にいてくださるようになったのです。

B.助け主
1.では、どのような助け主でしょうか? イエス様が私たちの救い主として十字架にかかられたことは明白ですが、私たちはただ罪から救っていただくだけの存在では無いのです。神様には私たちを造った目的があり、本来の人間としての生き方をして欲しいわけです。
2.人は神を賛美するものとして造られています。神と共に幸せに生活するように造られています。そのための「助け主」です。ですから、イエス様の名によって大事なことを求めるなら、聖霊は助けてくださって、その祈りを引き上げてくださるのです。また、大事なことを祈らせてくださるのです。

Ⅲ.真理の御霊なる「聖霊」
A.真理を知らなくてはならない
1.私たちは「真理」を知らずに生きていくと、その生き方は危ないものになります。「真理」は大事です。しかし、この世はサタンの支配があることを忘れてはなりません。聖霊が 真理の御霊 であるということは、真理で無い霊、悪しき霊、サタンは上手くその「真理」から私たちをそらそうとします。
2.一般的に信じにくい、処女降誕、復活といったことをはじめ、イエス様のなさった奇跡の業、救いということに関しても間違った教えを受けることは恐ろしいことです。聖霊はイエス様を正しく示してくださるお方、「助け主」です。

B.真理は広められなくてはならない
1.イエス様が言われた 14:12 わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。 というのはイエス様が限られた地域で活動なさったのと違い、聖霊が住む全ての人によって、福音宣教の働きは全世界規模で行われるということでしょう。
2.ですから、「真理」が語られなくてはなりません。私たちが真理を語らねばならないのです。聖霊は真理を広める助け主なのです。私たちは世が知らないお方「聖霊」をいただいているので、世とは違う「真理」を知っているのです。

● イエス・キリストを信じれば救われるということは単に知識だけでは役に立ちません。クリスチャンがそれを実体験しているからこそ力強く語ることができます。

★ 私たちはイエス様という救い主によって罪から贖われました。そして、さらにもう一人の助け主によっていつも助けられています。この聖霊に満たされて日々過ごそうではありませんか。

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私に従いなさい

2017-04-30 19:43:04 | 礼拝説教
2017/4/30礼拝説教
【テーマ】  主に従う
【説教題】 「私に従いなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ21:15-19
  21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」
21:16 イエスは再び彼に言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を牧しなさい。」
21:17 イエスは三度ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか。」ペテロは、イエスが三度「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので、心を痛めてイエスに言った。「主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。」イエスは彼に言われた。「わたしの羊を飼いなさい。
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」
21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。こうお話しになってから、ペテロに言われた。「わたしに従いなさい。」

○ 皆さんはイエス様から「あなたは私を愛するか?」と問われたら何と答えますか? さらに「あなたは、この人達以上に私を愛するか?」という問いかけだとどうですか? ペテロはそういう問いかけを受けました。

Ⅰ.私を愛しますか?
A.三度、愛するかと問われた
1.今までの説教に何度か出てきた「三度」という言葉ですが、今日のテキストではイエス様が三度ペテロに「私を愛するか?」と聞かれています。三度は完全を表すための言葉だとすれば、イエス様はペテロに徹底してイエス様を愛するかを問われていることにならないでしょうか?
2.イエス様が十字架につけられる前、ペテロはイエス様を「知らない」と三度言いました。当然、イエス様から三度言われたことで自分の罪深さを深く思ったことでしょう。ですから、このイエス様の問いかけに元気良く「はい!」とは言えなかったと思います。
3.しかも、復活のイエス様と出会い、イエス様を信じたとしても、まだ聖霊のバプテスマを受けていません。まだ彼は力を得ていない状態です。

B.この人達以上に愛するか?
1.私は、イエス様の あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか が、気になりました。ペテロはユダとは形が違うもののやはり裏切り者です。もちろん、他の弟子達もイエス様を見捨てて逃げていきましたから、裏切り者みたいなものです。
2.常にイエス様の近くに置いていただいたペテロは、特別にイエス様に愛されている感があったと思います。また、誰よりもイエス様を愛しているという自負があったでしょう。しかし、イエス様を裏切ってしまったのです。「他の弟子達以上に愛します」と言えない心境だったかも知れません。このダメ人間の心はイエス様がご存知としか言えないペテロではなかったでしょうか。
3.彼はこんな風にしか言えませんでしたが、イエス様を愛していたのです。愛するというのはそう気安く言葉に出てこないものです。でも、彼の心のことはイエス様がよく分かっておられます。

Ⅱ.私の羊を飼いなさい
A.三度、羊を託された、
1.イエス様は裏切り者のペテロに悔い改めのチャンスを与え、さらに悔い改めにふさわしく働く道を与えてくださいました。 「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」 です。
2.羊とはイエス様を信じる人々のことです。ここに「小羊」とあるので、ある人はこれを子どもと理解して、子どもも牧会の中に入れておられると言います。そういう違いがあるとしても、基本的にこの3つの言葉は同じことでしょう。

B.私の羊とは?
1.大事なことは、「ペテロの羊」ではなく、 「わたしの羊」 つまり「イエス様の羊」だということです。ペテロはとても自我意識が強かったみたいです。「私が・・」「私の・・」となりやすかったのではないでしょうか?
2.しかし、教会という所はキリストが頭です。ペテロもイエス様の羊に過ぎないのです。しかし、そのイエス様の羊に過ぎないペテロを牧者としてくださるのもイエス様だったのです。
3.私たちもキリストの弟子となったなら、ある一定の期間を経て成長し、次の羊の世話をする、牧する必要があるのです。自分の羊ではない、イエス様の羊があなたにも託されているはずです。

Ⅲ.私に従いなさい
A.ペテロは真の献身をした
1.さて、18節のイエス様の言葉はどういう意味なのでしょうか? あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。・・・ と、若い時は自分でできるが、歳をとるとなかなかそうはいかないという単なる老化のことを言っているのでしょうか?
2.ペテロは活動的でした。おっちょこちょいなくらい行動的でした。彼は自分にはイエス様を愛する愛が満ちていると思い込んでいましたし、イエス様のために命を捨ててでも働くと決めていました。
3.しかし、彼はあの「知らない」と三度言ったことから打ちひしがれていたのです。そこで復活のイエス様にお会いして彼は悔い改め、真の献身者となるのです。

B.ペテロは神の栄光を現した
1.続くイエス様の言葉、 しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。」 21:19 これは、ペテロがどのような死に方をして、神の栄光を現すかを示して、言われたことであった。 と、人間的には嬉しくない内容です。が、真の献身をしたペテロが神の栄光を現すということです。
2.彼が意気込んで頑張っていた時は神様の栄光を現せなかったのですが、肉体的には衰えて、また精神的にも力みが無くなるのでしょうが、霊的には神に委ねる生き方ができるようになるのです。
3.聖霊のバプテスマを受けてからのペテロは大きく変化していることを私たちは知るのです。神に委ねて聖霊に満たされて生きる時、人間的にはよく見えなくても、神の栄光を現すことができるようになるのです。

★ イエス様がペテロに言われた 「わたしに従いなさい」 はあなたにも言われている言葉です。イエス様に従いましょう!
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舟の右側に網をおろしなさい

2017-04-23 16:41:32 | 礼拝説教
2017/4/23礼拝説教
【テーマ】  復活のイエス・キリスト
【説教題】 「舟の右側に網をおろしなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ21:3-14
  21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
21:11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
21:12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。

○ 「復活」という事実は人類史上たった一度だけのできことですから、科学的検証というのは難しいものです。ですから、「信仰」をいただいて、新たな目で見ることをしないと信じられないでしょう。復活されたイエス様と出会った弟子達もなかなか心はスッキリしていませんでした。その弟子達がガリラヤ湖へと向かいました。

Ⅰ.復活のイエスを見てもわからない
A.弟子達は漁に出た
1.弟子達はイエス様の言葉の通り、ガリラヤに来たのですが、イエス様とすぐには会えませんでした。そこで彼らは漁に出ました。しかし、網をおろしても何も捕れなかったのです。
2.ペテロはかつて漁をしても何も捕れなかった時のことを思い出したのではないでしょうか? ルカ5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟に乗り、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。 5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。 5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」 5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。 

B.弟子達はわからなかった
1.復活されたイエス様は弟子達にそのお姿を現してこられたのですが、なかなか復活のイエスだとわからないのは、イエス様が特別に輝いていたわけでもないからでしょう。しかし、その手や脇腹の傷跡は間違いなく十字架の時のものですから、イエス様が復活されたことは間違いないのです。
2.今回も弟子達は岸部に立たれたイエス様がわからなかったのです。エマオ途上の弟子二人が、イエス様とわからないまま歩いていたのも考えさせられます。私たちもイエス様だとわからないことがないでしょうか?

Ⅱ.舟の右側に網をおろしなさい
A.あの日のことが思い出された
1.イエス様によって召し出されたあの日を思い出していたかもしれないペテロは、イエス様から 「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」 という言葉が心に響きながらも悶々として網をおろしたと思います。その瞬間、大漁の感触。同時にあの日のことが鮮明に思い出されたのではないでしょうか?
2.そして、 21:7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。 となるのです。あの日も、自分が何と罪深い人間かと思い知らされた日でした。今度もペテロは自分の不信仰、罪深さを感じながらもイエス様に向かったのです。

B.御言葉に従った時に何かが起こる
1.なぜ、「舟の右側」なのでしょうか? 左側でもよかったのではないでしょうか? あの日は 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」 であって、右側とかではありませんでした。
2.モーセに杖を上げさせると紅海が分かれたり、その杖で岩を打たせると水が湧き出たり、カナの婚礼では水を入れさせるとぶどう酒に変わったり、神(イエス様)が言われた通りにすると何かが起こったのです。
3.ここに理屈や科学的根拠とかいうものを越えた「信仰」の世界があります。神の御言葉に従うということです。従う決心をするということです。

Ⅲ.網は破れなかった
A.大漁なのに破れない
1.久しぶりに漁をして、何も捕れなかったあの虚しい心が、イエス様の言葉に従って網をおろしたところ、大漁の感触がやって来ました。ペテロだけではなかったでしょう。一気に、イエス様と共に歩んできた日々の喜びがよみがえってきたでしょう。まさに信仰の復活です。それも新しい信仰に!
2.普通なら破れてしまう網が破れませんでした。出エジプトをしたユダヤ人の服も靴も、荒野の40年間は破れなかったのです。神の守りはこうしたところにもあったのです。御言葉に従うと何か不思議なことも起こるのです。

B.イエス様と共に食する
1.最後の晩餐で食べたパンとぶどう酒はイエス様の十字架を思うものでした。ここガリラヤ湖畔での朝の食事はパンと魚。あの5つのパンと2匹の魚を思い出させるようなひとときではないですか。でもあの時は大勢の人に分け与えるのに必死だった弟子達です。今日は落ち着いてイエス様と共に食しています。
2.153匹の魚に意味があるのかどうかわかりません。しかし、この一連の出来事は彼らの頭にイエス様と共に過ごした楽しく劇的な日々がよみがえらせたことでしょう。

● 私も時々呼ばれた先で証をしますと、その時のことやイエス様の恵みがよみがえってきて嬉しくてたまらなくなるのです。証をすべきですね。救われた証、献身の証、数々の恵みや試練の証をすべきです。

★ 私たちもイエス様の十字架によって救われた者です。そして、今や目には見えませんが、共にいてくださる復活のイエス・キリストが私たちに「舟の右側に網をおろしなさい」と言われているのです。「なぜ左じゃダメなんだ!」なんて言っていないで、網をおろそうではありませんか。
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聖霊を受けなさい

2017-04-16 17:58:23 | 礼拝説教
2017/4/16イースター礼拝説教
【テーマ】  復活の主の願い
【説教題】 「聖霊を受けなさい」
【聖書箇所】 ヨハネ20:19-23
  20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

○ 今日はイースター。イエス様の復活をお祝いする日ですが、同時に私たちも復活させていただける、復活の体、完全な体をいただくことができるという希望に満ちた日でもあります。十字架までイエス様は祈りをなさいましたが、復活後イエス様は祈っておられません。私たちに希望のメッセージと命令を与えてくださいました。

Ⅰ.喜びを与えるイエス
A.イエス様の体
1.世の常識では信じられない死者の復活です。復活は蘇生、単なる生き返りとは違います。蘇生は心臓が動き始めただけですから、いずれまた死にます。しかし、復活は死なない体に変えられています。二度と死にません。
2.イエス様が十字架から三日目に復活されたのはそういう体です。それがこの復活の朝、日曜日の朝から始まり、多くの弟子達に示されてきました。しかし、不信者にはその復活の姿は現されなかったようです。
3.イエス様は隠れている弟子達の家の中へ突然現れました。神の性質である、時・空間を支配しておられることがよくわかります。

B.私たちの希望
1.このイエス様の復活はイエス様だけが復活するというものではなくて、イエス様を信じる者全て同じように復活の体をいただくことができるというものです。
2.私はクリスチャンになった時から44年間、この希望を持ち続けています。アトピーで酷い皮膚、見えにくい目、さらに今は心臓病、慢性腎不全、腰痛をはじめとして体のあちこちに起こる痛み、こうした体の不調が全くないのが復活の体ですから。
3.そのようにすばらしい体をいただくというよりも、永遠に神とと共に生活できるという、何にも代えがたい喜びをいただくことの方がすばらしいといえると思います。

Ⅱ.平安を与えるイエス
A.祈ると平安になる
1.十字架で亡くなるまでイエス様はよく祈られました。人間となった神・イエスは「父なる神」と祈りを通して深い交わりを持ち続けられました。
2.祈りは人間にだけ与えられたすばらしい特権です。私たちも神様から祈るように願われています。祈ることで私たちは平安を得ることを知っています。祈ると平安になるのです。

B.平安があるように
1.イエス様が二度言われた 「平安があなたがたにあるように。」 という言葉。弟子達は自分達の命の危険を感じて恐くて隠れていたのですが、そこにお出でになったイエス様は 「平安があなたがたにあるように。」 と言われました。安心してよいということです。
2.イエス様の復活は私たちを平安にするのです。命を狙われるというのは変わらないのですが、イエス様の復活という真実を知り、真理に生きることができるから平安を得るのです。
3.しかし、二度目の 「平安があなたがたにあるように。」 の後は 父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」 と、マタイ28:19-20で言われたように、宣教に向けて派遣命令が語られるのです。復活の主によって平安を得ることで私たちは宣教に出ることができるのです。

Ⅲ.聖霊を与えるイエス
A.聖霊を受けなさい
1.宣教に遣わすと語られたイエス様の次の言葉は 「聖霊を受けなさい。」 です。宣教は聖霊の働き無しには有り得ません。イエス様が十字架前に語っておられた「助け主・聖霊」を遂に与えてくださるのです。
2.聖霊はイエス様の十字架と復活無しには与えられなかったのです。イエス様の十字架を受け入れた者はその罪が赦され、新しい霊をいただくので、そこには聖霊がお住まいになれるのです。
3.イエス様の復活はそのことが実現するためです。イエス様の体はもう人間の肉では無くなりました。天国の体です。この地上でまだ私たちはイエス様のような体はいただけませんが、約束通り、私たちの中には聖霊が住まわれるのです。

B.罪を赦しなさい
1.続けて、イエス様は 20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」 と、言われました。イエス様が私たちの罪を赦されたので、私たちは喜びを得たのです。
2.私たちもイエス様の弟子なので、イエス様と同じく、誰かの罪を赦すのです。私たちの祈りは聖霊が働かれているのですから、祈られた人が救われるのです。

★ 復活されたイエス様は約束の聖霊をくださいます。聖霊をいただきましょう。そして聖霊に満たされて、遣わされていきましょう。
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私の願うようにではなく

2017-04-09 16:36:42 | 礼拝説教
2017/4/9受難週礼拝説教
【テーマ】  みこころを求める祈り
【説教題】 「私の願うようにではなく」
【聖書箇所】 マタイ26:36-46
  26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
26:40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
26:43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
26:44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。
26:45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。
26:46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

○ 今週は受難週です。つまり、イエス様が十字架にかかられた「金曜日」を記念して十字架を覚える週です。もちろん、今週だけでなく、いつも十字架を覚える必要があります。ですから、聖餐式も行っています。今週が受難週ということは、来週はイースターです。そして、50日後のペンテコステへと繋がっていくのです。さて、十字架前のイエス様はゲツセマネの園で祈られましたが、今日はその祈りを見てみましょう。

Ⅰ.悲しみの祈り
A.ゲツセマネの特別な祈り
1.弟子達と一緒にゲツセマネという所に来て、イエス様は一人祈りに向かわれました。その間、弟子達にも離れた場所ですが、共に祈って欲しいと願われました。
2.その時イエス様が弟子達に言われた言葉が、 「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」 という言葉でした。いったい死ぬほどの悲しみとは何でしょうか? 愛する家族を失った時などに言うような言葉ではないでしょうか。

B.罪を悲しむ
1.人が死ぬものとなったのは、アダムとエバが神の命令に背いた事にあります。神の言葉に従って生きたなら悲しい死別は無かったのです。
2.イエス様は人の死、つまり罪によって入り込んだ「死」、神との関係が切れてしまったことを悲しまれました。罪が全ての人を神と切り離してしまったのです。このことをイエス様は悲しまれました。果たして私たちはそのように罪を悲しんだでしょうか?

Ⅱ.願いの祈り
A.できますならば
1.イエス様が一人で祈られた時、 わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。 と祈られました。私はクリスチャンになって間のない頃、「できますならば」とイエス様が言われるのは変だなあと思っていました。神は全能であり、イエス様は神ですから、こんな言い方をしなくて良いのにと。
2.私たちはどうでしょうか? 私は「できますならば」と祈っていたことが多くあったなあと思います。癒しの祈りもたくさんしました。その時、癒されると信じ切って、「感謝します」とだけ祈れればよいのですが、「癒されないかもしれない」とも思うわけです。それは、癒されることだけが神の栄光とは限らないということも知っているからです。でも、「できますならば、癒してください」と願っているのです。しかし、イエス様のそれとは違うように思えます。

B.過ぎ去らせてください
1.「この杯」とは、イエス様が全人類の罪の身代わりとなって生け贄となる十字架刑のことです。誰だって、殺されることは嫌ですから、取り除けて欲しいと願うでしょう。主の祈りで「我らを試みにあわせないで」と祈るのですから。
2.イエス様は救いの計画を知っておられました。ですから、ご自分が十字架にかかることが必要なこともわかっておられました。しかし、それを取りやめにして欲しいと三度も祈られました。その理由は「死にたくない」ということでしょうか? 「死」は神との断絶から起こったことです。イエス様は「死」を通してやってくる神との断絶を強烈に拒まれたのです。

Ⅲ.みこころを求める祈り
A.みこころを受け入れる
1.イエス様の祈りは次に、 しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。 と、続きます。私たちはこの祈りが大事だということを知っています。いくら自分の願いがあっても、みこころに反するならその願いは引き下げて、神様のみこころがなることを願うということです。
2.イエス様は神と切り離されることを覚悟してみこころを求めたれたのです。私たちは自分の自己中心な願いを捨てて神のみこころに従おうと努力するのですが、イエス様は神に捨てられるために従おうとされるのです。

B.みこころを求めて生きる
1.みこころを求めるというのは決して楽なことではありません。私たちは結構みこころを知っているのです。神様を第一とすること、私たちが聖くなること等々、そしてそのために礼拝を守る、祈る、伝道する、奉仕するといったことを行っています。
2.しかし、人間の世界の現実はクリスチャンにもなかなか厳しいのです。悪魔の誘惑もあります。そういう中で、神様のみこころを求めるのは大事ですが、難しいことも多いのです。それが人類の歴史でもあります。
3.しかし、みこころがなることを追い求めない人生はなんとつまらない人生でしょうか。楽をして楽しく生きるのが人生では無いです。

★ イエス様は常に御心を求めて祈られました。私たちもイエス様の祈りに倣い「私の願うようにでは無く」を忘れず、御心を追い求めて祈っていこうではありませんか。

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