路隘庵日剰

中年や暮れ方近くの後方凡走

冬の夜を三日月型に裂きいたり

2012年11月16日 | Weblog


 寒々しい。
 あんなに暑かったのにな。
 急に歳末感漂うようになった。山麓を走ると、窓外の空気がピリピリ音たててるようだ。


                        


 森長英三郎『山崎今朝弥』(1972 紀伊國屋新書)
 古本祭りで掘り出した、とかろうじて云えるか。
 だいぶ以前から探していて、探していたことを忘れていて、見つけてそれを思い出した。
 紀伊國屋新書は田舎ではまずお目にかかれないからな。
 まとまって並べられた箱があったから3冊だけ拾ってきた。今から思えばおもいきってもっと拾ってくればよかった。

 山崎今朝弥について始めて知ったのは、淮陰生『一月一話 読書こぼればなし』(1978 岩波新書)であった。(淮陰生ってのは中野好夫のことらしい。)
 その中の「ある弁護士の履歴書」で奇人中の奇人として紹介されている。実際にこの一文が「図書」に載ったのは1970年で、知られざる人物、としてであった。だけど森長本が出たのはその二年後だし、近代社会運動史を読んでいると山崎今朝弥の名前はフツウにしばしば出てくる。
 ともかく、いつか彼の生涯の詳細を知りたいと思っていたので、ついに見つけたぜ、というところ。ただし、読む前からだいたいのところは頭に入っていたから、以前に他の文献で彼の生涯を読んだのだろうが、それがなんだったのかサッパリ記憶に無い。
 (彼の著書『地震・憲兵・火事・巡査』が1982年に岩波文庫に入っているから、たぶんそれで知ったのだろう、と今思い出した。)

 自由法曹団や日本フェビアン協会の創立メンバーの一人である弁護士であり、大正前期の社会主義事件はほぼ山崎が一手に引き受けて弁護したといってよい。在米時代に幸徳秋水と知り合い、大杉栄や堺利彦との交遊でも知られる。ある意味初期社会主義運動のビッグネームと云ってよかろう。
 けれども何よりも山崎の名を喧伝させたのは、その奇人変人ぶりに拠ってである。弁護士名鑑の写真が上半身裸のものであったり、(実際客に対するときもたいがい裸であったらしい)米国伯爵と名乗り、「公事訴訟は弁護士の食いもの 弁護士頼むな公事するな」と名刺にわざわざ印刷してあったり、というような。
 それを象徴しているのが『読書こぼればなし』にも取り上げられた彼自身による履歴書である。(それを引用するつもりだったけど、めんどくさくなったのでやめときます。)


                     


 山崎今朝弥は、明治十年信州川岸村塩坪の生まれ。塩坪という字名は初めて聞くが、現在のJR川岸駅から天竜川をはさんで対岸あたりらしい。たしかに今でもそのあたりに山崎という姓は多い。新倉学校から高島校平野分教場を出て上京。ほんの少し司法官吏をやったあとアメリカ放浪を経て、上諏訪町に山崎博士法務局なる事務所をかまえて弁護士を始める。以後は生涯に渡ってひたすら反骨、ひたすら偏屈、常に権力に弓引く者の加護者として生きる。
 評伝をふくめて研究書が少ないのが不思議であるが、全国的にもっと知られるべき人物だろう。

 もっとも、彼のことは地元でも殆ど知られてはいない。地元の図書館にも、彼の盟友布施辰治の評伝『ある弁護士の生涯』はあるけれど、山崎に関してはなんにもない。むしろ彼の宿敵側、山県系の反動大臣なんぞが郷土の偉人的に云われて、生家まで保存されたりなんぞしている。
 やはり、反権力の方は人気が無いのである。
 というより、本当に誰も知らネエのである。ダアレも。

 バカばっかり、なのである。