神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

四面道2

2015-04-30 06:28:57 | 千川用水2

 四面道は交差点の名前として知名度は大きく、そのため、文字通り「四面に向かう道」の意と解しがちですが、環八通りの開通のはるか以前、遅くとも明治の初めには存在した通称であり、現代の感覚を当てはめることはできません。八丁の由来でも御世話になった森泰樹「杉並歴史探訪」によると、「しめんとう」が本来の呼び名だといいます。また、井伏鱒二「荻窪風土記」は、「しめんと」とルビを振っています。このことから「四面燈」の文字を当て、当地で接していた上下荻窪、下井草、天沼の四村を照らす常夜燈の意だった、との古老の話を「杉並歴史探訪」は紹介しています。ただ、近くに光明院ないし秋葉神社のお堂があったとの「四面堂」説、青梅街道の四つ辻の意の「四面道」説(この場合は環八ではなく、現日大二高通りから上荻へと至る通りとの四つ辻)と、三論併記の形ではありますが。

 

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    ・ 四面道交差点  環八通りの井荻方向です。この区間の環八はJR中央線、青梅街道と立体交差が続き、この先も井荻トンネルが控えています。

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    ・ 四面道交差点  下井草村、天沼村を分けていた通り(現日大二高通り)の入口から、上下荻窪村を分けていた通り(現本町上荻通り)を見通しています。

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    ・ 秋葉神社の常夜燈  裏面には嘉永7年(1854年)の日付が刻まれています。当時の四面道の南西、現交差点の中央付近にありましたが、昭和44年(1969年)の環八通りの拡張に際し、秋葉神社とともに荻窪八幡境内に移転しました。

四面道

2015-04-28 05:59:03 | 千川用水2

 青梅街道と環八通りの交差する付近が四面道です。現在は交差点の名前として知られていますが、その四面道交差点付近には、七ヶ村分水の分水口のうち、四ヶ所が集中していました。上流から杓屋口、南四面道口、清水口、そして北四面道口です。青梅街道と現日大二高通りから上荻へと至る通りが交差し、(北西から時計回りに)下井草、天沼、下荻窪、上荻窪の四ヶ村を分かっていたためで、杓屋口と清水口は下井草村、南四面道口は下荻窪村、北四面道口は天沼の各村に属し、その田用水を供給していました。なお、水車設置にかかわる→ 「嘉永二年絵図」では、現日大二高通りのみ描かれ、T字路のようになっているところです。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)及び「同 / 板橋駅」(明治14年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。

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    ・ 八丁交差点  四面道の一つ手前(信号は二つ手前)の交差点で、荻窪八幡と四面道の中間にあります。八丁通りは付近の通称地名ですが、その由来については下記で詳細します。

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    ・ 四面道交差点  青梅街道の八丁側からのショットなので、前を横切る環八通りの左手井荻方面、右高井戸方面です。なお、撮影地点の青梅街道は、下井草村と上荻窪村を分けていました。

 <八丁通り>  八丁通りと通称されているのは、荻窪八幡前の石橋から四面道までの青梅街道沿いです。江戸時代から中野と田無の中間の宿場として栄え、大震災までは荻窪駅前をしのぐ商店街でした。現在も荻窪警察署や荻窪郵便局があるのはその名残なのでしょう。森泰樹「杉並歴史探訪」は地名由来として、領主だった今川家の屋敷地として、間口340間奥行70間、面積8町歩の矩形が区画されていた、と指摘しています。なお、井伏鱒二「荻窪風土記」の冒頭に、「荻窪八丁通り」の一項がありますが、その舞台は主に四面道から荻窪駅にかけてで、次の「平野屋酒店」で、思い違いを認めています。「荻窪で昔から賑やかだったところは、四面道から西にかけて有馬屋敷、八幡神社あたりまでの謂わゆる八丁通りであるそうだ。以前、私は八丁通りとは、四面道から荻窪駅あたりまでの街だと思っていた。」

 


日産工場跡地

2015-04-27 06:15:48 | 千川用水2

 荻窪八幡と青梅街道を挟んで反対側、現桃井3丁目のほとんど約9ヘクタールは、かって日産自動車工場の敷地でした。元はゼロ戦のエンジン製造で有名な中島飛行機東京工場があり、戦後の富士精密工業の時代、当地で日本最初のロケット開発に成功したそうで、青梅街道に面した一角には、長さ23cm、重さ230gの→ ぺンシルロケットが展示されています。上井草村の田畑だったところが、自動車、飛行機、さらにはロケットの機械工業を経て、現在は高層マンション兼商業施設になり、一次産業から、二次、三次・・・・と、時代の花形産業の推移を身をもってあらわしているようです。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  中島飛行機東京工場は第二次大戦後、社名を変更しており、撮影当時は富士産業でした。なお、青梅街道を挟んで南側の茂みは、荻窪八幡境内のものです。

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    ・ 桃井はらっぱ広場  日産工場跡地の東半分、4万平方メートルが整備され、平成23年春から防災公園として公開されています。なお、西半分は高層マンション兼商業施設です。

 <桃井の水路>  はらっぱ広場東端から発する水路跡があります。仮に桃井の水路としておきますが、上掲「空中写真」の→ 右上隅にも写っていて、当時は工場の排水路だったのかもしれません。→ 「段彩陰影図」で見ると、自然の谷筋とも重なっており、下流の杓屋口や清水口からのものを合わせて、妙正寺池から流れ出した直後の妙正寺川に合流しています。中島飛行機東京工場の建設は大正14年(1925年)なので、明治から大正にかけての一時期、青梅街道に面して分水口が設けられ、このルートを使っていた可能性もありますが、文献にもなく、工場跡地内の痕跡は皆無なため何ともいえないところです。

 

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    ・ 水路跡の道路  はらっぱ公園の東側の道路で、上掲写真のほぼ正面奥に当たります。東に500m弱行ったところで、次回テーマの杓屋口の支分水と合流、さらに350mほどで、清水口のものと合流します。

上荻窪村境

2015-04-25 07:17:09 | 千川用水2

 「新編武蔵風土記稿」の上荻窪村の項に、「八幡社 除地、二町三段三畝七歩、西の方遅野井村界ひにあり、村の鎮守なり・・・・鎮座の年代詳ならず」とあるのが、荻窪八幡神社です。社伝では1100年前の宇多天皇の時代の創建とされ、永承6年(1051年)、源頼義が奥州遠征の途中戦勝を祈願したとも伝えられています。境内西で遅野井村(上井草村の別名)と接し、また北側も青梅街道を挟んで上井草村で、上荻窪村の北西角に位置していたことになります。

 

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    ・ 青梅街道  桃井3交差点から荻窪方面です。右手やや先に荻窪八幡神社、左手は日産自動車の工場だったところで、その広大な敷地は現在、スーパーやマンション、防災公園となっています。

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    ・ 青梅街道  八幡神社境内の西側に沿った村境は、 荻窪消防署前で青梅街道に出て、街道沿いに東に向かいました。井荻村(のち井荻町)の大字上井草、上荻窪の境に引き継がれましたが、現在は意味を失っています。

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    ・ 荻窪八幡境内  文明9年(1477年)、太田道灌は豊島氏の居城、石神井城を攻めるにあたり、当社で戦勝を祈願し槇の木を献植、「道灌槇」として今に伝わっています。

 <横切り橋>  水車にかかわる嘉永2年(1849年)の→ 絵図では、青梅街道の南側に沿っていた七ヶ村分水が、街道を横切り北側にシフト、途中に橋も描かれています。一方、杉並区教育委員会発行の「杉並近世絵図」に収録された「遅野井村絵図」(文化3年 1806年)は、その場所を上井草、上荻窪両村の境として描いています。善福寺川という自前の水源を擁し、七ヶ村組合に加わっていなかった上荻窪村なので、その村域を避けるためのシフトだったのかもしれません。なお、(「横切り橋」というそのままのネーミングの)石橋の欄干が、近くの桃井第一小の校庭に保存されていると、杉並区立郷土博物館「杉並の川と橋」に書かれていますが、校庭内に立ち入っていないため未確認です。

 


保久屋押出し

2015-04-24 06:40:56 | 千川用水2

 桃井4丁目交差点の一つ先に、吉祥寺方面に向かう古道の入口があります。村絵図などには「吉祥寺道」、「八王子道」などと書かれ、 → 「東京近傍図」の右下隅に描かれているものですが、その入口付近に保久屋という屋号の「荷車の車輪を通す仕事をする店」があり、一帯は「保久屋押出し」と通称されていました。「もと吉祥寺方面から野菜などの荷車を運ぶ人が道の悪い所を家人に押してもらって青梅街道まで来る、その出口に当たっていた。こういう場所を押出しと呼んだのである。」(杉並区教育委員会「杉並の通称地名」)

 

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    ・ 「迅速測図挿絵」  「東京府武蔵國東多摩郡上下井草村近傍村落」の挿絵で、青梅街道から吉祥寺道が分岐するところです。建物が保久屋かどうかは不明ですが、青梅街道沿いの水路が六ヶ村分水なのは間違いありません。

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    ・ 青梅街道  桃井4交差点から荻窪方向のショットです。右手は西荻駅に出る通りで、現在はこちらのほうがメインとなっています。

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    ・  保久屋押出し  東京女子大前から吉祥寺へと至る都道113号線(女子大通り)の入口で、最大の難所である善福寺川の→ 原寺分橋まで500mほどです。

 この付近の農家が、大根などの野菜を荷車に積み、青梅街道を淀橋や早稲田、さらに遠く京橋のヤッチャ場(市場)まで出かける様子は、井伏鱒二の「荻窪風土記」にも描かれています。「出発は殆どみんな真夜中だから、家族の者が道明りの提灯を持ってついて行く。中野坂上と鳴子坂の袂のところの立ちん坊は、元は一回五厘から一銭で車の後押しをしていたが、第一次欧州戦争後は一回二銭から三銭ぐらい押し賃を取るようになった。・・・・家族の者は、新宿か四谷の駅から提灯を持って帰る。電車で帰れば新宿から荻窪まで片道十銭だが、歩いて帰れば女の足で二時間かかる。」 これは街道筋にある荻窪の農家の話で、さらに奥にある農家の場合、青梅街道に出るまでに一苦労があったわけです。

 


保久屋口

2015-04-23 06:00:59 | 千川用水2

 七ヶ村分水の支分水は、文献上確認されているのは6ヶ所ですが、地図の記載や現存する痕跡から、他にも分水口はあったようで、明治10年代以降の比較的新しいものと思われます。うち井草八幡宮表参道の先の左手に、車止め付の遊歩道となっているのが、「すぎなみ学倶楽部」というホームページの中にある<青梅街道に沿って流れていた「半兵衛・相澤堀」>が、「保久屋口」としているものです。ただ、→ 「段彩陰影図」の最初の☓印のところですが、他の分水口のように、付近の谷頭に水を落としていたわけではなく、田用水というよりは、悪水吐(排水溝)のように見えますが。なお、保久屋(ぼくや)というのは杉並区教育委員会「杉並の通称地名」によると、付近にあった「荷車の車輪を通す仕事をする店」の屋号です。

 

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    ・ 井草八幡表参道  井草八幡前交差点から250mほど南にある、表参道の大鳥居です。杉並区立郷土博物館「杉並の川と橋」によると、大鳥居の前には太鼓橋が架かり、赤鳥居橋と呼ばれました。

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    ・ 青梅街道  右折で西荻窪駅に向かう桃井4交差点手前で、青梅街道は大きく左カーブします。自動車のショウルームが並んでいる一角の左手に、街道に面して分水口が確認できます。

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    ・ 車止め付き路地  杉並区の水路敷の定番、「金太郎」の車止めです。ここでの車止め付き路地は、ワンブロックのみですが、途中、東に向かって分岐しているのがあります。

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    ・ 車止め付き路地  その東に向かう車止め付きの路地です。桃井第五小付近で井草川に合流するまで、3km弱の流路をたどることができます。

井草川

2015-04-22 07:00:32 | 千川用水2

 → 「段彩陰影図」から読み取れる井草川は、青梅街道を挟んで向き合う善福寺川と同様、かっては水源である湧水池を有した自然河川だったのでしょう。それが、江戸時代に入ってからの新田開発に伴い、灌漑用水としての水量が絶対的に不足し、千川用水を青梅街道沿いに引き、その助水を得ることになるわけで、以降、妙正寺池の流れに合流するまでの井草川は、自然河川というより千川用水の一部として認識されるようになります。「用水 多摩川上水の分水なり、・・・・青梅街道のほとりを流るゝこと凡十町余、村内処々の水田にそゝぐ、末流は下井草村へ達す」(「新編武蔵風土記稿」上井草村) 「遅野井村等をへて村内に入、・・・・村をふること十町余にして妙正寺流に合す」(同 下井草村)

 

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    ・ 三谷公園  この公園の→ 北東角が井草川緑道の起点で、すぐに左右の側流を合わせ、妙正寺公園まで3km強続きます。昭和初期の区画整理事業、同50年代の暗渠化を経て、今日の形に整備されました。

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    ・ 井草川遊歩道  上井草駅、観泉寺前を通るバス通りに架かる瀬戸原橋跡です。瀬戸原は一帯の字で、「新編武蔵風土記稿」にも、「瀬戸原 これも北の方にて、下石神井村界によれり」と書かれています。

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    ・ 妙正寺池  「妙正寺池 妙正寺より二町許北の方にあり、広さ二段許、・・・・此池より流れ出る水あり、妙正寺流と云、川の幅二間余、・・・・」(「新編武蔵風土記稿」)

 <井草川と妙正寺川>  「妙正寺川は、杉並区の妙正寺池を水源に持ち、途中で江古田川を合わせ、新宿区内で神田川(高田馬場分水路)に注ぐ、延長9.7kmを有する一級河川です」(東京都建設局のホームページ) 一方、井草川に関しては、「川の地図辞典」(菅原健二)が「井草川 妙正寺川の支流。・・・・清水三丁目で妙正寺川に合流する」と書くように、妙正寺川の上流部分の一支流とするのが一般で、ここでもそのように扱っています。ただ、「明治42年測図」以来、陸地測量部(のち国土地理院)の地形図に一貫して使用されている妙正寺川の呼称に対し、その上流部を井草川と記した地形図はありません。「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)には井草川とありますが、それとても(千川上水)と付記され、別のところでは「妙正寺川は此の池(妙正寺池)より発して千川の分水と合し」となっていて、内容的には千川用水の一部の扱いです。

 


新町口2

2015-04-21 07:02:20 | 千川用水2

 新町口からの支分水を追っての二回目で、切通し公園を下ります。前回UPの→ 「空中写真」で見て取れるように、千川上水の助水は、切通し公園の北縁を下る途中、左右に側流を分岐していました。これは田用水の基本的な構造パターンで、最もレベルの高い左右の段丘沿いに水路を設け、その間の水田を灌漑、余水を中央の本流に戻す仕組みです。→ 「昭和12年測図」と見比べると、側流は(45mの)等高線に沿っていて、その間が水田になっているのが分かります。

 

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    ・ 切通し公園  この斜面を流れ下ります。なお、湧水を望む傾斜地の例にもれず、切通し公園の下にも七千年ほど前の縄文時代の遺跡が眠っているそうです。

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    ・ 左岸流跡  坂の中腹で左手に分岐する水路跡の道路です。途中、杉並工高キャンパスで中断しますが、三谷公園先で本流(井草川遊歩道)に戻ります。

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    ・ 右岸流跡  坂下で右岸流を分岐します。こちらは杉並工高キャンパスの南縁に沿ったあと、やはり三谷公園先で本流に戻っていました。

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    ・ 本流跡  上掲写真の左手の道路の先です。正面奥で右折し、杉並工高で中断したあと、三谷公園の先で井草川緑道となります。妙正寺公園まで3km強の道のりです。

新町口

2015-04-20 09:38:46 | 千川用水2

 七ヶ村分水の最初の支分水口は「新町口」、寛政6年の→ 「星野家文書」では「谷頭口」と書かれていたものです。青梅街道と早稲田通りがT字を形成する井草八幡前交差点の南側にありました。新町(しんまち)も谷頭(やがしら)もともに上井草村の小名で、青梅街道沿いに新しくできたのが新町、その北側の村境と接する井草川の水源付近が谷頭です。新たに町ができて以降、分水口の名前も新町口となったものと思われます。→ 「段彩陰影図」から読み取れるように、(妙正寺川の上流の)井草川の谷頭が青梅街道に迫っていて、そこに落とし込むような形で開削した分水口で、その形跡は「切通し(きりどおし)」の名前を持つ公園となって残っています。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影空中写真」  左下隅が早稲田通りとの井草八幡前交差点、白実線で重ねたのが切通し公園です。公園の北縁に沿う水路がまず左岸流を分け、公園下で右岸流を分けています。

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    ・ 切通し公園  井草川の谷頭(現杉並工高キャンパス)を望む傾斜地に作られた、細長いスペースの公園です。「切通し」は小高いところを切り開き、道路を通すのが一般ですが、ここは水路を通したことになります。

 <50m等高線> 前々回UPの→ 「東京近傍図」で、井草川の谷頭や善福寺池を取り囲むように描かれているのが、50m等高線です。この50m等高線というのは、武蔵野台地から発する河川にとってはキーワードで、井の頭池、善福寺池、富士見池、三宝池という神田川、善福寺川、石神井川の源となる湧水池はみな標高50m前後の谷頭に位置しています。井草川も同じ条件のところから発しており、かってここに湧水池があったと想像しても、それほど的外れではないでしょう。
 「杉並区立郷土博物館の「杉並の川と橋」の中に、杉並の湧水を扱った一文がありますが、それによると、これら湧水池の元は武蔵野礫層を流れる伏流水が、地表に姿を現したもので、その後武蔵野ロームが堆積しますが、湧水や流れのあるところには積もらず、今日見る谷地形が形成されたといいます。とすると、標高50mというのは、武蔵野礫層(及びそれを形成した古多摩川)のレベルだったのでしょう。

 


上下井草村2

2015-04-18 08:12:11 | 千川用水2

 「下井草村は、郡の北寄りにあり、当所も今川丹後守が知行所なり、村のさま及び地形土地等は、前の村に同じければこゝに略す、民家百七軒、東西十五町余、南北十三町、東は上下鷺ノ宮村に接し、西は上ノ村にて、南は上荻窪天沼の二村となり、北は豊島郡田中谷原及び下石神井等の村々に犬牙す、青梅村への街道村の西南の方に少しかゝれり、上井草村より入天沼村に達す、又東北の界に所沢への道あり、豊島郡下石神井村より当郡中野村へ達す、村にかゝること十五町許」(「新編武蔵風土記稿」) 前回触れた通り、元は上下合せて一村で、上井草村の別名、遅野井村に対し、単に井草村とも呼ばれました。なお、本来の上下井草村の境はその西側にありましたが、現行の住居表示では環八通りを基準にしています。

 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)と「同 / 板橋駅」(明治14年測量)を合成し、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。

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    ・ 妙正寺池  「妙正寺より二町許北の方にあり、広さ二段許、中に三間四方許の島あり、弁天の祠九尺四方なるを立つ南向」(「新編武蔵風土記稿」) 中之島に祀られていた弁財天は、今は→ 妙正寺にあります。

 <宝珠山観泉寺>  上下井草村の領主今川家の菩提寺で、上下の境近くの上井草側に位置しています。今川家は駿河の領主今川義元の末裔で、朝廷、寺社関係の儀礼を司る高家の役職にあり、一千石の旗本でした。(忠臣蔵の敵役、吉良家で有名な)高家は、禄高は旗本、格式は大名以上の扱いとされ、足利将軍家と縁続きで、家康幼少時代の主筋とも言える血統あってのことでしょう。その高家今川家がこの地を知行したのは正保2年(1645年)、中野の成願寺の末寺だった観音寺を改名、菩提寺としましたが、「新編武蔵風土記稿」では「観音寺」のままになっています。年貢の取立てや裁判など、知行地支配の役所も兼ねていたようです。

 

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    ・ 観泉寺  本堂は宝暦13年(1763年)焼失し、翌明和元年に再建されたものです。春の枝垂桜や牡丹、秋の紅葉と、四季折々の見どころのある境内で、本堂前の牡丹の写真は、→ こちらです。

上下井草村

2015-04-17 06:09:52 | 千川用水2

 「上井草村は、郡(多摩郡)の北寄りにあり、郷庄の唱なし、村名の起り詳にせず、いかなる故にや、古へより遅野井村と唱ふと云、されど公より地頭へ賜ひし御朱印に上井草村とあり、地頭よりも公へかく書あげしに、村方にては今に遅野井村と云、・・・・当所の開けし初め詳ならず、御入国の後今川氏に賜ふ、・・・・村の広さ東西十八町余、南北十三町許、民家百十軒、東は下井草村にて、南は上荻窪・松庵・吉祥寺の三村に続き、西は豊島郡関村及び竹下新田に接し、北も又同郡下石神井村に及ぶ」(「新編武蔵風土記稿」) 江戸の初めには井草村一村だったものが、上下に分かれたといいますが、その時期については諸説があって定かではありません。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、大半は杉並区です。

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    ・ 善福寺池  正面右手が、上池の北西に位置する弁天の祀られる中之島です。その対岸にある伝説の湧水、→ 遅野井が、善福寺池の別名、遅野井池や村の古名、遅野井村の由来となりました。  

 <井草八幡宮>  「青梅街道の南にあり、・・・・鎮守年代詳ならず、当村(上井草村)及び井草村の鎮守なり」(「新編武蔵風土記稿」) 上井草村の遅野井村に対し、下井草村を単に井草村と呼ぶこともありました。創建年代は未詳ですが、善福寺川、井草川の水源に挟まれた湧水豊富な地にあり、縄文時代の遺跡も発掘されていることから、古くからの神域だったと思われます。

 

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    ・ 井草八幡宮  神門回廊と奥の社殿は楼門をくぐって右手にあり、南向きに建っています。元は参道、社殿とも一体となって鎌倉(南)に向かっていたとの伝承もあります。  

 源頼朝が文治5年(1189年)の奥州遠征の際立ち寄り、のち建久年間(1190~98年)、八幡神を勧請、その際手植えの松を奉納したとの伝承や、文明9年(1477年)、石神井城攻めを前に太田道灌が戦勝を祈願したとも伝えられています。なお、頼朝の奥州遠征は遅野井伝承ともかかわり、渇きに苦しむ軍勢のために、頼朝公自ら地面を弓で掘り、全軍が水が湧き出すのを「今や遅し」と待ちわびて云々、というものです。

 


青梅街道の拡幅

2015-04-16 07:23:36 | 千川用水2

 武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」は、前回引用した「杉並区新町の青梅街道が廣く改修された地點で消えてゐる。こゝには江戸末期の地蔵が寂然と立ってゐる。」のあと、七ヶ村分水(同書では「井草村分水」)について以下のように続けています。「昔はこゝから更に青梅街道に沿ひ、荻窪、天沼、阿佐ヶ谷を經て、善福寺川(桃園川の誤り)に入る全長約五粁に亙る堂々たる灌漑用水であった。現存する部分は雨水の排水用に利用されてゐる。」 武蔵高校生徒が当地を訪れた昭和15年(1940年)頃の青梅街道は、未着工の天沼陸橋・四面道間を除き、地蔵が祀られた区境まで拡幅され、並行していた七ヶ村分水もその一部となって失われました。なお、区境以降の拡幅工事が行われたのは、高度経済成長期を迎えた昭和30年代後半のことです。

 

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年測図) / 吉祥寺」  一つ前の「昭和4年測図」では、青梅街道は拡幅されていません。工事が行われたのは昭和10年前後と思われます。

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    ・ 青梅街道  区境の横切る上井草4交差点から荻窪方向のショットです。ここから先の七ヶ村分水は、街道の右手を間を置かずに並行しており、そのスペースが拡幅の際、利用されたのでしょう。

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    ・ 青梅街道  井草八幡前交差点から荻窪方向で、左手は早稲田通りの終点です。ここに「昭和12年測図」の右上隅に見える井草川に向かう支分水、新町口(谷頭)があり、新町橋が架かっていました。

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    ・ 井草八幡大灯篭  井草八幡前交差点に面して、上下井草村の鎮守、井草八幡の北参道があり、その大灯篭です。北参道を百数十メートル行き、右手に折れると楼門、その奥が社殿です。
 

上井草村境2

2015-04-15 06:23:59 | 千川用水2

 七ヶ村分水口のところで引用した武蔵高等学校報国団民族文化部門編「千川上水」の続きで、竹下稲荷から先の七ヶ村分水(同書では「井草村分水」)の様子です。「百米程行くと祠があり、こゝの前からはたゞ形ばかりの溝で、幅も狭く、昔の面影は見られない(略圖第二)。更に辿れば四百米程行って、杉並区新町の青梅街道が廣く改修された地點で消えてゐる。こゝには江戸末期の地蔵が寂然と立ってゐる。」 文章中に「略圖第二」とありますが、これは当時の青梅街道と「井草村分水」を描いたもので、その代わりに、ほぼ同様の位置関係にある7年後に米軍によって撮影された空中写真をUPします。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  七ヶ村分水口のところと前回UPした「空中写真」を含む、より広範囲のもので、白点線で重ねたのが練馬、杉並の区境です。

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    ・ 青梅街道上井草4交差点  振り返っての撮影で、前回UPの区境のスペースが、右手の信号の奥にチラッと見えています。七ヶ村分水はそこから街道に沿い、左手の荻窪方面に流れていたことになります。

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    ・ 村境の地蔵尊  上掲写真の正面の建物の前に祀られていて、引用した「千川上水」に「江戸末期の地蔵が寂然と立って」とあるものです。

 向かって左隣の「百番観世音供養塔」には、「遅野井村」「竹田新田」両村の奉納者の名前が刻まれています。遅野井は善福寺池のことで、遅野井村は上井草村の別名です。稲荷社からここまでの七ヶ村分水は、その上井草村と竹田新田の境でもありました。それが、丁度地蔵や供養塔の立っている位置で、村境は分水と離れて青梅街道を横断、北に向かっており、村境の目印のような役割も兼ねていたのでしょう。なお、この位置関係は現在も変わらず、「空中写真」に書き込んだように、杉並区と練馬区の区境に引き継がれています。

 


上井草村境

2015-04-14 06:49:10 | 千川用水2

 青梅街道近くまで戻り、竹下稲荷神社の境内を横切り、東に向かう七ヶ村(六ヶ村)分水の流路を追います。→ 「竹下新田絵図」に見るように、稲荷社の東隣で上井草村境と接したあと、青梅街道に再び沿うまで、分水自体が村境となっていました。水路は失われましたが、村境は練馬区(関町南2丁目)と杉並区(善福寺4丁目)の境に引き継がれたため、容易にたどることができます。とくに後半の青梅街道に再接近するところは、杉並区の管理する細長いスペースが、百数十メートルにわたって連続しています。(現在は整備されていますが、→ 数年前は相当ワイルドなところでした。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 前々回善福寺裏に向かった通りです。青梅街道から右折してすぐ、区境が横切っていて、右写真の茶のプレートは杉並区、左隣は練馬区です。

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    2. 住宅の密集しているところの先の、水路を含んで幅広な通りです。正面の通りの左側が水路でした。 

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    3. 広い通りと分かれた先で、杉並区の管理する細長いスペースが出現します。 

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    4. 百数十メートルで青梅街道に出ます。ここから先の村境は左折して街道を越え、水路は街道の右手に沿って東に向かっていました。  

善福寺池、善福寺川

2015-04-13 06:34:00 | 千川用水2

 「善福寺川は、杉並区の善福寺池に源を持ち、和田堀公園内などを経て同区内で神田川に注ぐ、延長約10.5kmを有する一級河川です。」(東京都建設局のホームページ) 千川上水の助水に依存し、それと同一視された妙正寺川や桃園川と違って、善福寺川は千川上水とほとんどかかわりを持ちませんでした。記録上残るただ一つの例外として、青梅街道沿いを流れる七ヶ村(明治以降は六ヶ村)分水が、南四面道口で分岐して下荻窪村の水田を灌漑、その余水が善福寺川に落ちていましたが、これとても明治初年の数字で、下荻窪村の水田7町7反中1町4反を灌漑しているにすぎず、「新編武蔵風土記稿」が同村の用水リストに収録していないほどの小規模なものでした。

 

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    ・ 善福寺池(上池)  「善福寺池 青梅街道より南にあたりて村の西の方にあり、其広さ南北三十間餘(≒55m)、東西八十間餘(≒146m)、廻涯蒹葭(けんか おぎやあし)生じけり」(「新編武蔵風土記稿」)

 それが、善福寺池の湧水が枯渇し、池が干上がった昭和32年(1957年)に、千川上水の水を青梅街道手前で分岐、地下を導水して人工の遅野井の滝から放流したのを手始めに、平成元年(1989年)以降は、千川上水に放流されている処理水、一日およそ1万トン中7千トン(現在はおそらく1万トンすべて)が、善福寺川に回っています。この数字は地下水を汲み上げて善福寺池に注いでいる水量、およそ2千トンをはるかに凌駕し、いまや千川上水が善福寺川の最大の水源といいでしょう。

 

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    ・ 遅野井  千川上水から導水したさい、その放水口としてこの人工の滝を作り、かっての伝説の湧水、遅野井の場所に落としたものです。現在は深井戸で汲み上げた地下水が水源となっています。

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    ・ 善福寺池(下池)  下池は沼地や水田だったところを整備したもので、池となったのは昭和5年(1930年)に周辺が風致地区に指定され、公園として整備される過程でのことです。