神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

上鷺宮右岸3

2016-02-29 07:12:38 | 妙正寺川3

 右岸段丘沿いの用水の三回目で、鷺宮西住宅の敷地を抜け、鷺ノ宮駅の手前までです。右岸流がその裾を流れる段丘は天神山と呼ばれていました。下掲の「空中写真」に一部写っている茂みがそれで、昭和30年代まで武蔵野の面影が残されていたところです。名前はかって天神社が祀られていたためで、数回前にUPした→ 「上鷺宮村絵図」にもそうありますが、「ふるさと鷺宮」(昭和63年 早舩正雄 たか)によると、大正時代すでに祠の痕跡は失われていたようです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 西鷺宮住宅の運動場を抜け、左折の先で右カーブしたところです。→ 「東京近傍図」で、上下鷺宮の境が右岸段丘に沿っているのはこの前後です。

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    2. 団地の敷地から離れ、左カーブで妙正寺川に近づきます。一方、上下鷺宮境は右カーブで東に向かっていました。 

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    3. 道路は鷺の橋に向かいますが、元の水路は舌状台地の先端をめぐり、その東側に抜けていました。

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    4. 中杉通りの手前です。この道路が水路と重なるかは不明なので、地図に青点線は書き込んでいません。

上鷺宮右岸2

2016-02-27 07:24:43 | 妙正寺川3

 杉並と中野の区境で分岐した右岸の灌漑用水を追っての二回目で、左手に都営団地を見ながら段丘沿いを進みます。都営と書きましたが、正確には東京都住宅供給公社の運営する鷺宮西住宅は、昭和34年(1959年)から同36年にかけて建設されました。鷺宮地域の妙正寺川流域にあった水田の多くは、こうした団地建設に伴い買収され姿を消すことになります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 大きな車止めの先の左手には、鷺宮西住宅の給水塔が見えます。

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    2. 団地と段丘に挟まれたクネッた道路が二百数十メートル続きます。

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    3. 左手に蛇行した先にフェンスで囲まれた一角が見えています。団地の運動場です。

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    4. 道路は右手に回り込みますが、水路はそのまま直進し、運動場を横断していました。

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    5. フェンスの先で左折、すぐに右カーブです。水路跡と思われる→ コンクリート蓋も残されています。

上鷺宮右岸

2016-02-26 07:07:09 | 妙正寺川3

 天沼本村川(仮称)が妙正寺川に合流する手前、15mほどのところに、右岸の灌漑用水の分岐点があります。川沿いの遊歩道にコンクリート蓋が埋め込まれていて、すぐにそれと分ります。ここから鷺ノ宮駅前に架かる八幡橋手前まで、右岸段丘沿いに550mほどを、数回に分けてのウォーク&ウォッチですが、段丘の際にあって埋没を免れた水路跡は、地図でもそれとわかるクネッた路地となっています。

 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 井草下橋先の右手、右岸流の分岐点から始めます。すぐに合流直前の天沼本村川と交差します。

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    2. 老人福祉施設の敷地に差し掛かります。昭和30年代に周囲が宅地化する中、最後まで水田だったところです。

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    3. 歩道は右手から左手にシフトしますが、水路は一貫してみぎてにありました。

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    4. 白鷺通りを越えます。右写真は妙正寺川方向で、奥に架かるのが鷺宮橋です。

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    5. 白鷺通りを越えると、しばらくは都営の鷺宮西住宅の敷地の南縁に沿います。

上鷺宮村用水2

2016-02-25 07:17:30 | 妙正寺川3

 下掲「空中写真」を見ると、左下隅で右岸流を分岐、右上で左岸流を分岐していますが、どちらにも水溜りが見え、堰(小規模ダム)を設けていたことが分ります。うち後者と思われる堰に関する記述が「鷺宮の歴史をたどる」(平成21年 増補改訂版)に収録された、「昭和20年代の妙正寺川のこと」と題する一文中にあります。「鷺宮橋から川を溯(さかのぼ)ると水門がありました。今の西中野小学校の南の校門の近くです。この水門の近くでは、夏になると蛍がとび交い浴衣掛けで団扇(うちわ)を持って、よく見に行きました。水門の上は水嵩があるので、よく釣りをしました。」

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  現行の妙正寺川の流路をブルーで重ねました。杉並側は昭和初期の区画整理時に改修されましたが、中野側はこの時点では未改修です。

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    ・ 妙正寺川  西中野小学校前から下流方向です。正面奥が白鷺通りに架かる鷺宮橋なので、引用文の水門のあったのはこのあたりということになります。

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    ・ 妙正寺川  上掲写真の撮影地点を対岸から写していて、左手の茂みは西中野小の東南角に当たります。水門で分岐した左岸流は正面奥に向かっていました。

 <灌漑用水の埋立て>  「鷺宮の歴史をたどる」の前々回引用した個所に、大川(おおかわ 妙正寺川本流)と小川(こかわ 灌漑用水)に関する記述があり、「今は小川はすべて埋め建てられ、その流れを見ることはできません」と書かれていました。いつ頃埋め立てられたのかは不明ですが、昭和38年(1963年)の国土地理院撮影の→ 「空中写真」(上掲「空中写真」と同一個所、同一縮尺)を見ると、堰はいまだありますが、西中野小学校は造成中で、左岸流の分岐部分は埋立てられているようです。一方、右岸流は手つかずで、(この倍率では分かりませんが)スリット状の蓋付で写っています。これら残されたところは、水田が宅地に転用された後も、排水路として機能していたのでしょう。

 


上鷺宮村用水

2016-02-24 07:18:48 | 妙正寺川3

 上鷺宮村の灌漑用水のうち右岸段丘沿いのものは、下井草村との村境やや上流で分岐、八幡神社のある舌状台地をめぐって、上沼袋村境近くまで達していました。一方、左岸流のほうはやや下流の現西中野小東南角で分かれ、下井草村からの用水と合わせて左岸段丘に沿い、若宮小付近で本流に戻っていました。昨日UPの→ 「東京近傍図」も大枠はそのように描いています。ただ、右岸流に関しては天沼本村川が水源のようになっていますが、実際は村境手前で分岐した右岸流に天沼本村川が合流していました。

 

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    ・  「上鷺宮村絵図」  「上鷺之宮村絵図面」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。中央を縦断する通りは現中杉通りです。

 下井草村で分岐して以来、左岸を並行してきた用水こそ描かれていませんが、流路からはみ出して描かれた水田がその存在を示唆しています。前クールの→ 「井草前左岸6」で扱った、西中野小キャンパスで中断する用水が、この一角を灌漑していたのでしょう。それともう一つ、字関場の書き込みに注目です。→ 「天沼本村川」のところで触れた「堰場」のことかと思われます。ただ、この字は「新編武蔵風土記稿」や「東京府志料」にはなく、東多摩郡(のち豊多摩郡)野方村大字上鷺宮時代の小字にも見当たりません。

 

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    ・  妙正寺川  区境手前に架かる井草下橋からのショットです。右手の茶色の建物の手前から右岸用水が分岐し、建物奥で合流する天沼本村川とすぐにクロスしていました。

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    ・  妙正寺川  同じ井草下橋越しに見た右岸方向です。正面の建物の間のスペースが右岸用水の分岐地点で、ここから鷺ノ宮駅手前まで600m弱の水路跡をたどることができます。

上下鷺宮村

2016-02-23 07:26:53 | 妙正寺川3

 「上鷺ノ宮村は郡の東北にあり、郡庄の唱なし、村名の起りを尋るに村内八幡の社あり、古は木立生茂りてあまたの鷺やどりけるゆへ、土の人鷺森又鷺ノ宮などいひしより、いつとなく村名となりたるよし、村の広さ東西十五町、南北八町、東は江古田村にとなり、又東より北に至りては豊島郡中村に入会、この所より西の方は同郡田中、谷原の二村及び当郡井草村につゞき、又西より南は井草村と天沼村に犬牙す」 「下鷺ノ宮村は上鷺ノ宮村の南寄りにあり、村名の起りは上の村に弁せり、江戸日本橋よりの行程三里余、村の広さ東西十二町許、南北は僅に五町、東は下沼袋村にとなり、西は井草村につゞき、南は上沼袋村にて北は上ノ村なり」(「新編武蔵風土記稿」)

 

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジは杉並区と中野区の区境、細線は豊多摩郡当時の村や大字などの境です。

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    ・ 八幡神社  妙正寺川を北に蛇行させる舌状台地上にあり、上下鷺宮村の鎮守です。康平7年(1064年)、源頼義によって創建とも伝えられ、慶安2年(1648年)、江戸幕府より社地7石余を寄進されました。

 「井草川同様妙正寺川も、昭和初期まではおもに灌漑用水として田んぼに利用されてきました。鷺宮地域では、妙正寺川を大川(おおかわ)と呼び、そのほかの小さな灌漑用水を小川(こかわ)と呼んでおり、これらも千川上水から水を引いていました。今は小川はすべて埋め立てられており、その流れを見ることはできません。」 「鷺宮の歴史をたどる」(平成21年 増補改訂版)の記述です。「近傍図」で三流が並行していますが、うち中央を流れるのが妙正寺川本流、左右を並行するのが灌漑用水の通称、小川(こかわ)ということになります。鷺宮の場合、井草村のように左右から流れ込む支流に乏しく、水田はこの三流に挟まれた狭い範囲に限定され、灌漑用水はすべて千川用水の水に依存していました。「東京府志料」によると、明治初期の上鷺宮村は11町6反9畝余の田を有していましたが、この数字は「星野家文書」にある明治10年前後の千川用水とかかわる田面積と一致しており、100%依存していたことになります。一方、下鷺宮村の田面積は、同じく「東京府志料」の数字で7町7反6畝余、こちらは千川用水組合に加入しておらず、「用水ハ妙正寺池下流」を利用していました。いずれにしても畑作中心で、「陸田多く水田少なし」と「新編武蔵風土記稿」は記しています。

 


水源付近

2016-02-22 07:20:25 | 妙正寺川2

 「杉並とその周辺の昔話」(昭和57年 森田金蔵、森田金吉)によると、天沼本村川の水源は、現本天沼3丁目21番付近の長島と呼ばれる堀割や、一帯の島畠を縦横に走っていた排水路より湧き出す水を集めたもので、本村の鎮守である稲荷神社裏を流れ、前々回テーマの「天沼本村の弁天社と三峯神社の処」にあった池に流れ込んでいました。なお、「杉並の通称地名」は島畠(島畑)について、低湿地内の高い部分、ないしは土盛りで高くした部分の畑のことで、関東から中部地方にかけて用いられたとしています。あるいは長島は細長い形状の島畑の意かもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 稲荷神社の北東角に戻り、裏の水路跡を西に向います。神社裏を抜けたところで幅広道路に出ます。

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    2. 区民集会所前の道路です。前回のコンクリート蓋の路地とは、集会所を挟んで並行しています。

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    3. 右手の幅が狭くなったところの左手に車止め、段差のスペースがあり、ここで左折します。

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    4. 段差付きのスペースは50mほどで終了です。その先を右折、さらに30mほどの突き当りを左折します。

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    5. 左折後、一般の道路に突き当たって終了です。正面右手は天沼中学のキャンパスです。

稲荷神社周辺

2016-02-20 07:41:57 | 妙正寺川2

 三峰、厳島神社の本社である稲荷神社は、ワンブロック間に挟んだ西隣にあります。現在確認できる水路跡は、稲荷神社の表と裏の二本あり、両者のつながりは直接は確認できませんが、境内を回り込み北東角で合流している様を描く地図もあります。今回は合流地点で左折、右折で鳥居前へと回り込み、その先に現存するコンクリート蓋付の路地をさかのぼります。なお、稲荷神社に関しては「新編武蔵風土記稿」に、「稲荷社 除地百五十坪、小名本村にあり、此所の鎮守なり、本社三尺四方、上覆二間に三間」と記載されています。 

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 稲荷神社境内の北東角です。ここで左折、さらに右折して神社の前に回り込みます。

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    2. 稲荷神社の鳥居前の通りです。突き当りの左手にコンクリート蓋の路地が見えます。

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    3. 路地を西に向い、区民集会所の裏に出たところです。

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    4. 左折、次いで右折のクランクで、20mほど南にシフトします。

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    5. 最後の直線コースが50mほど続き、一般の道路に突き当たって終了です。

天沼本村池

2016-02-19 07:58:34 | 妙正寺川2

 「杉並とその周辺の昔話」によると、天沼本村川の水源は本村一帯の湧水ですが、それらは「天沼本村の弁天社と三峯神社の処に大正の頃まであった池に集まり」、そこから川となって蓮華寺前を東流していました。「杉並の川と橋」はこれを「三峰神社の池(天沼本村の池)」としていますが、その場所は本天沼2-15となっていて、だとすると三峰神社のある一角の西隣となります。また、手元にある詳細図には、さらに西隣にある稲荷神社裏の池から川が流れ出ています。昭和に入ってからの測量なので、「大正の頃まであった」本村池かどうかは不明です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 蓮華寺門前から30m弱のところです。道路右手が狭くなり、左手に車止めが見えています。

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    2. 三峰、厳島神社の横を抜けます。右写真の手前が三峰神社、奥が厳島神社(弁天社)の祠です。 

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    3. 両神社の横を抜けた先です。やや右手に次の車止めの路地が待っています。

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    4. 三峰、厳島神社の西隣のブロックで、「杉並の川と橋」が「三峰神社の池(天沼本村の池)」の場所とする本天沼2-15にあたります。

蓮華寺前

2016-02-18 07:29:20 | 妙正寺川2

 前回の最後で車止め付の路地を抜け、幅広の道路に出ましたが、その右手に天沼山蓮華寺があります。「蓮華寺 村の北寄にあり、天沼山と号す、新義真言宗にて中野村宝仙寺末、本堂六間に五間南向、本尊は不動の立像にて長さ二尺許り、開山は真長と云、示寂の年月詳ならず。」(「新編武蔵風土記稿」) 区教育委員会の解説プレートによると、室町時代の創建と伝えられ、正長元年(1428年)の墓石も残されています。

 

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    ・ 天沼本村川跡  道路左手の幅が狭くなり、かわって右手が広くなっています。クランクで右手にシフトしたのだと分かります。

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    ・ 天沼本村川跡  蓮華寺山門前で右カーブ、ほぼ西に向きを変えます。ここも水路は山門側にありました。

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    ・ 蓮華寺山門  写真からは切れますが、山門の左手に区教育委員会の解説プレートが立っています。

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    ・ 弁天堂  山門を入って左手に弁天堂があり、弁天池もありますが、現在はポンプで水を循環させているようです。

天沼本村川4

2016-02-17 07:23:55 | 妙正寺川2

 天沼本村川の四回目で、早稲田通りを越えたところからの続きです。地図からもそれと分かるクネッた路地が続きますが、これは隣村の井荻村のような本格的な区画整理を経なかったためです。今でこそ荻窪の一部のような天沼ですが、同じ山王社(日枝神社)の領地であり、桃園川流域の関係もあって阿佐谷村とのつながりが強く、明治に入り馬橋、高円寺、成宗、田端の6村で杉並村(のち杉並町)を形成しました。杉並村の場合、全村あげての耕地整理といった事情にはなく、個別に桃園川流域が整備されたに過ぎず、そのため、天沼本村川のような古い流路がそのまま残されることになりました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 早稲田通りを越えた先です。通りを越えて以降の住居表示、本天沼(1~3丁目)は、天沼本村を元に創作されたものです。

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    2. 区営住宅前の水路跡の路地です。このあたりも周囲から一段低くなっています。

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    3. 車止めが連続するのは正面ではなく、左手にズレた路地です。

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    4. 早稲田通り以降ほぼ南下してきましたが、このあたりから右カーブでに西に向きを変え始めます。

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    5. 狭い路地を抜けると、蓮花寺前の広い通りです。水路はこの通りの左手を並行していました。

天沼本村川3

2016-02-16 06:59:24 | 妙正寺川2

 天沼本村川の三回目で、右カーブで杉並、中野の区境を離れ、旧天沼村字本村(ほんむら)に入ります。もっとも、現行の住居表示では、早稲田通りまでは下井草1丁目で、その先でようやく天沼本村が由来の本天沼(1~3丁目)となります。なお、「新編武蔵風土記稿」によると、天沼村の小名は三つしかなく、うち本村は「北の方井草村の境を云」と書かれています。昨日の学校名にもなった東原は、明治に入り天沼村が杉並村大字天沼となった際、本村が本村、東原、割間の小字に分割されたうちの一つです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 左手に折れる区境と分かれ、右カーブに差し掛かります。ここから両岸とも杉並区です。

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    2. 右カーブを抜け、西に向います。右手は東原中学との間にあるすぎのこ公園です。 

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    3. 早稲田通りに向かいます。区境と分かれたあたりからここまで、一段低くなっていて谷筋にあるのが分かります。

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    4. 早稲田通りを越えます。越えたところで右折、左折のクランクがあり、その先の車止め付き路地に連続します。

天沼本村川2

2016-02-15 06:43:18 | 妙正寺川2

 杉並と中野の区境で妙正寺川に流れ込む仮称、天沼本村川の二回目で、合流地点からさかのぼります。対岸の八成の水路と同様、この流路も合流地点は杉並区(下井草1丁目)、中野区(白鷺2丁目)の区境ですが、江戸時代は西側は下井草村で変わらず、東側は下鷺宮村でした。その境を車止め、段差のある路地が南に向かいます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 車止め付路地の起点で、それにしてもジャンボサイズの車止めです。ここから、途中細かい中断はありますが、ほぼこのような路地が連続します。

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    2. 下井草いど公園脇を抜ける水路跡の路地です。いど公園というだけあって、公園中央には手押しポンプが設けられています。

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    3. いど公園の南端で右折、左折のクランクがあり、井草橋を通る道路沿いに南に向かいます。

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    4. 左岸台上に東原中学が見えます。東原は豊多摩郡杉並村大字天沼に属する小字ですが、流路が旧天沼村に入るのはもう少し先です。

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    5. 中野区の区民農園(しらさぎ親子農園)に差し掛かります。同農園は親子で自然と親しむため、年3000円の利用料で3坪の農地を利用できます。

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    6. 区民農園の角で今度は左折、右折のクランクです。

天沼本村川

2016-02-13 07:21:59 | 妙正寺川2

 杉並区と中野区の区境沿いを流れ、右岸から妙正寺川に合流する水路があります。→ 「段彩陰影図」で、前回までのテーマの八成水路の対岸に描かれたものです。こちらは妙正寺川の支谷筋を流れる、自然河川の様相が見て取れ、→ 「東京近傍図」ではごく短いものながら、合流してそのまま右岸流になる支流のように描いています。「杉並の川と橋」が「仮称」の注記付で、天沼本村川(悪水路)としているのは、自然河川+排水路の性格を有するの意と思われます。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  現行の妙正寺川の流路をブルーで重ねました。杉並側は昭和初期の区画整理に際してですが、中野側の改修は遅れて昭和30年代です。

 「杉並とその周辺の昔話」(昭和57年 森田金蔵、森田金吉)も、同じく「天沼本村川(仮称)」としていますが、以下はその合流地点に関する記述の引用です。「鷺の宮村と井草村との境を画して妙正寺川へ落入していました。そしてその河口の所はかなり高い断崖となっていて、妙正寺川の上流全面を遮るような地形となっていました。」 「空中写真」で妙正寺川本流を北側に迂回させているのがその崖面です。この合流地点は堰場と通称されたようで、同書は「鷺の宮村の堰場という処で妙正寺川へ注いでいた」とも書いています。「杉並の通称地名」も下井草側の通称地名として収録しており、水量豊富な堰でカワウソもいたこと、昭和初期に堰門改修があったことなど付記しています。

 

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    ・ 合流地点  対岸からのショットです。現在はそれほどでもなく、おそらく整地されたのでしょうが、右手の一角が崖面になっていたことになります。

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    ・ 合流地点  上掲写真の奥、十数メートルのところです。やや上流で分岐していた右岸流と、ここでクロスしていました。右手に見える車止めは右岸流のものです。

八成水路4

2016-02-12 08:18:48 | 妙正寺川2

 八成水路をさかのぼっての最後で、八成小学校まできました。同校の創立は昭和30年(1955年)、水路の先端にあたる農地を造成して開校しました。なお、八成は「新編武蔵風土記稿」に「東の方上鷺ノ宮の界を云」と書かれた下井草村の小名ですが、地名由来に関しては「杉並風土記」(昭和52年 森泰樹)に、千川上水の八成橋とかかわる伝承が収録されています。観泉寺住職が経典から八成(はっせい)橋と命名、住民は「はちなり」と読み、いつしか地名になったというものです。明治に入り井荻村(のち井荻町)大字下井草の小字となり、昭和7年の杉並区制定に際し八成町に引き継がれましたが、現行の住居表示には採用されませんでした。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 通りの左手の幅が変わったところで左折、その先の通りの右手が水路を含んでいます。

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    2. 農地の残る区画を西に向います。なお、右写真で交差する通りが区制制定時の正保町と八成町の境でした。

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    3. 八成小学校のキャンパスに突き当たったところで終了です。

 <八成の水害>  以下は「井草のかたりぐさ -大正のころの八成-」(昭和61年 井口龍蔵)にある、「八成の水害」の抜粋です。この水害は「現在の八成小学校東、新青梅街道北側の一部の地域」で、「何年又は何十年かに一回、梅雨時又は秋の長雨等毎日雨が降り続いている時に発生」しました。その様子をリアルに再現した記述が続きます。「昔は畑の端に畦という溝があり雨水が溜まるようになっていて、降った雨水は全部地下水となったのです。毎日の雨で地下水位が上がり井戸水が杓で汲めるようになり、低地では水が湧き出るようになると水害になるのです。自然と湧き出したきれいな水が溜まり小さな池になり、農作物は全滅してしまいます。・・・・八成は皿のような地形のため集中豪雨の時も一時的に出水し水溜まりとなることもしばしばありました。」 この記述は最後に、「大正になって、この水害をなくすために排水溝を掘り下井草田圃へ流す工事を村費で行いました。」という、一度引用した一文でまとめられています。