神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

原寺分橋2

2017-01-31 07:23:09 | 善福寺川1

 原寺分橋下からは今なお豊富な水量の水が湧き出しています。「杉並の川と橋」の数字を引用すると、湧水量は平成12年10月の豊水期で毎分3100リットル、平成13年2月の渇水期で毎分1140リットルとあります。これを一日当たりに換算するとおよそ1600~4500トン、別の文献には一日平均3500トンとの数字もあり、千川上水からの助水7000トンや、善福寺池に放水されている地下水2000トンと比べても、その水量の豊富さに驚かされます。

 

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    ・ 善福寺川  原寺分橋から下流方向です。内務省復興局の大正14年測図(1/3000)には、200mほど下流の原橋にかけての右岸に湿地や細長い池が描かれており、段丘からの湧水が源なのでしょう。

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    ・ 原寺分橋下の湧水  上掲写真の右下隅に写っているものです。崖面から水が滴っているのはよく見ますが、このように地面から湧き出しているのは稀で、神田川水系ではここだけかもしれません。 

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    ・ 井荻公園  原寺分橋から原橋にかけての右岸段丘斜面の半ばは、井荻公園(昭和45年開園 面積およそ4000㎡)となっています。この公園の存在が、湧水を守るのに寄与しているのでしょう。 

 <善福寺川の湧水>  かっての善福寺川は多くの湧水によって、その清流を保っていました。現在は流域の宅地化によってその大部分は失われましたが、今なお確認できる湧水リストが「杉並の川と橋」に収録されています。善福寺川関係のものは善福寺池の遅野井、イの八ガマをはじめ、原寺分橋下のものを含め、30ほどに上ります。「東京都湧水台帳」(平成2年)をネタ元に新町橋下の湧水もリストアップされていますが、現在は確認できません。なお、原寺分橋下と並んで有力な、大宮八幡下の崖面からの湧水は→ こちらでどうぞ。

 


石橋供養塔

2017-01-30 07:23:12 | 善福寺川1

 渡戸橋の橋供養の石碑と同じものが、原寺分橋のたもとにもありました。区画整理時に他の石碑とともに地蔵堂に集められ、現在は観泉寺に移されています。「杉並風土記(上巻)」(昭和52年 森泰樹)に収録された聞き取りのなかに、この石橋供養塔にまつわるものもあり、願主として名前の刻まれている浄誉善入という福寿庵(現善福寺)の僧が、江戸市中の托鉢で得た浄財を元に、渡戸橋、原寺分橋など村内七ヶ所に石橋を架け、各々に供養塔を建てたとの伝承が紹介されています。

 

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    ・ 「上井草村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)収録の、制作年代不詳の「上井草村絵図」を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化、橋の所在を強調したものになっています。

 「杉並風土記」の聞き取りにある七ヶ所の石橋は、渡戸橋、地蔵前、新町の切通し、赤鳥居前、元宿、保久屋押出し、そして地蔵下(原寺分橋)です。これを「上井草絵図」や明治初年の「迅速測図」などから推測すると、善福寺川に架かる渡戸橋、原寺分橋を除くと、七ヶ村分水、ないしその支分水である新町口にかかわるもので、いずれも青梅街道沿いにあったものでしょう。(なお、村絵図に描かれた井草川関係の橋は、新町口からの助水に架かる無名橋、道灌坂下に架かる道灌橋、そして観泉寺前の通りに架かる現瀬戸原橋ですが、これは通りの改修があったため、現在とは位置がだいぶズレています。)

 

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    ・ 地蔵堂  地蔵坂にあった北向地蔵などは、現在は観泉寺に祀られています。うち、右手の一番手前にあるのが、渡戸橋にあったのと同じ延享2年(1745年)銘の→ 石橋供養塔です。

 善福寺川関係を除く石橋供養塔ですが、最初の地蔵前は→ 「千川用水2 / 上井草村境2」で扱ったもの、次の新町の切通しは→ 「新町口」とのかかわりでしょう。赤鳥居前は上掲絵図には橋は描かれていませんが、青梅街道から井草八幡へ向かう参道に架かっていた太鼓橋、また、元宿は→ 「上荻窪村境」で扱った、七ヶ村分水が青梅街道の北側にシフトするところにあった通称、横切り橋と考えます。次の、→ 「 保久屋押出し」は前回も触れたように、女子大通りが青梅街道からの分岐するところです。

 


原寺分橋

2017-01-28 07:38:34 | 善福寺川1

 東京女子大前を通ることがその名の由来の、女子大通りに架かるのが原寺分(はらてらぶ)橋です。渡戸橋と並んで→ 「上井草村絵図」→ 「東京近傍図」にも描かれた古橋ですが、当時の橋名は何といったかは不明で、明治初年の「東京府志料」では「長一間二尺幅一間一尺」の無名橋、「豊多摩郡誌」(大正5年)では「川邊橋 構造石造 延長三間半幅員二間」となっています。「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)には、地蔵橋の名称も収録されています。川辺橋の名前の由来は不明ですが、地蔵橋のほうは別項の地蔵堂、地蔵坂とかかわるものです。

 

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    ・ 原寺分橋  直前にある荻窪中の学校専用橋からのショットです。専用橋といっても手前の井荻小構内橋と違って、こちらは通行可能ですが。 

 原寺分は共に豊多摩郡井荻村大字上井草の小字で、右岸にあった原と左岸の寺分宿の合成です。うち寺分宿は江戸時代の小名で「新編武蔵風土記稿」にも収録された、「寺分 南の方にて松菴村の界を云」と「宿 前(八町のこと)のつゞきにあり」の合成です。このように三つの字が関係した原寺分橋があるのに加えて、この橋の前後には(上流から)寺分(てらぶ)橋、宿(やどり)橋、原(はら)橋もある丁寧さです 

 

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    ・ 女子大通り  原寺分橋から右岸台上に至る坂は地蔵坂、あるいは、寺分坂、お立場坂とも呼ばれました。お立場は前回紹介した御成道とセットのネーミングと思われます。 

 <地蔵坂の地蔵堂>  坂を上ると地蔵坂交差点ですが、その手前の左手(南側)には、坂の名前の由来となった地蔵堂がありました。享保17年(1732年)10月に建てられた舟形の地蔵菩薩が祀られていて、北を向いていたことから、「北向地蔵」と通称されていたものです。その他にも、貞享2年(1685年)銘の庚申塔、文政7年(1824年)銘の馬頭観音なども祀られていました。後者は元は東京女子大前にあり、「東江戸、西ふちう」と彫られて道しるべとなっていました。東多摩郡井荻村、豊島郡石神井村、北多摩郡吉祥寺村の境にあったことから、「三郡境の馬頭様」と呼ばれていたそうです。なお、当所が吉祥寺方面から青梅街道に出る交通の要所だったことは、→ 「千川上水2 / 保久屋押出し」で触れたところです。


御成道3

2017-01-27 07:08:14 | 善福寺川1

 右岸段丘に沿う通称、御成道と並行する水路を追っての三回目で、井荻小学校の裏まできました。井荻小や南隣の荻窪中ができたのは戦後のことで、それ以前は善福寺川との間は水田でした。その用水路であると同時に、右手の段丘は一部、プチ崖線の様相を呈しており、湧水や雨水を集める排水路の機能も担っていたのでしょう。なお、現在は一部が下水道井荻幹線の経路になっています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 右岸段丘沿いに蛇行しながら南下します。左手は井荻小学校です。

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    2. 区画整理後の路線図を見ると、このあたりで本流に戻る一流があったようです。 

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    3. 荻窪中学校のキャンパスに突き当たって終了です。右写真は耕整橋越しに見た荻窪中です。 

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    4. 元の水路は荻窪中キャンパスの先、女子大通りまででした。左手が荻窪中、地蔵坂と呼ばれる坂下が原寺分橋です。

御成道2

2017-01-26 06:59:48 | 善福寺川1

 善福寺川の右岸段丘沿いを蛇行する、通称御成道の二回目です。本流と同じく井草八幡の南でUターンし、北寄りから南に向きを変えるところです。ところで、このUターンをもたらした右岸の舌状台地一帯は、「新編武蔵風土記稿」に上井草村の小名として収録され、橋名にも残る寺分でした。寺領を意味する普通名詞由来の地名で、当地の場合は「風土記稿」に「薬王院 地頭除地七段、小名寺分にあり」と書かれた、玉王山薬王院がありました。現在は青梅街道沿いの八丁に移転しています。なお、善福寺池畔にあったとされる善福寺、万福寺の寺領が由来との説もあります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. この右折でUターンの頂点を抜け、南に向きを転じます。

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    2. 新町橋に出る通りを越えます。右写真は新町橋から右岸方向で、奥の坂の手前が水路跡の道路です。

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    3. 微妙な蛇行もありますが、ほぼ直線で引き続き南下しています。

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    4. やや右カーブで徐々に右岸段丘に寄ります。

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    5. 左折すると寺分橋に出る通りを越えます。その先の右手が高くなり、段丘の際にあるのが分かります。

御成道

2017-01-25 06:36:00 | 善福寺川1

 善福寺川が善福寺池から流れ出して以来、地図でもそれと分るクネッた道が、右岸段丘沿いを並行しています。「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)によると、徳川将軍家が鷹狩の際利用する道の意で、昭和20年(1945年)ころまで「御成道」と通称されていたそうです。区画整理後の様子を現わした例の井荻町路線図には、この道路沿いにも水路が描かれています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 下池の右岸に沿っていた道が、善福寺公園から出るところから始めます。

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    2. 水路は道路の左手(善福寺川側)を並行していました。

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    3. 八幡西橋を通る道路を越えます。右写真は八幡西橋方向です。

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    4. 善福寺川と同様、右カーブでUターンの頂点に差し掛かります。左手奥の茂みは井草八幡です。

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    5. 道幅が狭くなっていますが、ここで左折して本流に向かう一流があったようです。

寺分橋、耕整橋

2017-01-24 07:01:39 | 善福寺川1

 善福寺川に戻ります。新町橋の次は寺分橋、その次は耕整橋です。大正11年(1922年)の西荻駅開設に際し行われ、後の井荻町区画整理事業の先がけとなった、井荻村第一耕地整理事業時の架橋と思われます。寺分は上井草村の小名で、「新編武蔵風土記稿」に「南の方にて松庵村との界を云」とあり、耕整の方は耕地整理事業によって出来たということでしょう。なお、両者の間に井荻小学校が開校したため、そのキャンパスに阻まれ通り抜けできません。

 

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    ・ 善福寺川  新町橋から下流方向で、正面奥に寺分橋が見えます。井草八幡前のUターンはここで終了、この先しばらくは直線で南下します。

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    ・ 井荻小構内橋  寺分橋から下流方向で、正面に見えるのが井荻小構内橋、屋根つきの橋の先で、善福寺川は井荻小構内に入ります。

 構内の善福寺川は開渠のまま、蔦や藤のつるが絡まるフェンスで覆われていますが、左右の遊歩道はフェンスに阻まれ中断するため、この先は迂回しなければなりません。なお、同校の開校は昭和27年(1952年)、善福寺流域の低湿地に校舎を建てるに当たり、一足早く隣地で開校していた荻窪中の後背地を削り、そのグランドを整備すると同時に、小学校の敷地造成の用土としたことが、「善福寺川風土記」(昭和35年 井荻小学校)に書かれています。

 

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    ・ 善福寺川  迂回した先に架かる耕整橋から下流方向で、正面は荻窪中学校専用橋です。右手の荻窪中学校の開校は昭和22年、当地に新校舎が出来たのは同24年です。

井草八幡

2017-01-23 07:02:02 | 善福寺川1

 井草八幡神社は上・下井草村の鎮守で、古くは遅野井八幡宮とも呼ばれていました。創建は未詳ですが、善福寺川、井草川の水源に挟まれた湧水豊富な地にあり、(およそ4千年前とされる)縄文時代中期の遺跡も発掘されていることから、古くからの神域だったと思われます。源頼朝が奥州遠征の途中立ち寄り、のち建久年間(1190~98年)、八幡神を勧請、その際手植えの松を奉納したとの伝承があります。また文明9年(1477年)、石神井城攻めを前に太田道灌が戦勝を祈願したとも伝えられ、こうした武人がらみの伝承とのかかわりからでしょうか、5年ごとに流鏑馬の神事がおこなわれています。

 

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    ・ 井草八幡大灯篭  青梅街道と早稲田通りの井草八幡前交差点に面して、北参道の大灯篭が建っています。北参道を百数十メートル行き、右手に折れると楼門、その奥が社殿です。

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    ・ 井草八幡境内  神門回廊と奥の社殿は楼門をくぐって右手にあり、南向きに建っています。元は参道、社殿とも一体となって鎌倉(南)に向かっていたとの伝承もあります。

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    ・ 井荻町土地区画整理碑  青梅街道に面した井草八幡境内の一角に、土地区画整理事業の完成を記念し、昭和15年(1940年)に建てられました。

 <嘉陵紀行>  天保3年(1832年)5月9日の日付のある一節です。「遅の井八幡社は、社料九石余青梅街道の南側鳥居建、傍に牓示あり、御朱印地の内馬駕籠通抜無用と記す、此所より社頭迄二丁程、社壇の前に大木の松二本あり、高さ数丈、かこみ三囲に少し不足、龍鱗若木の如く少しも古びなし、大宮八幡宮の松にくらぶればやヽ弟なり、社はかやもてふく、幅五間に二間半ばかり、・・・・」 この後、善福寺池に立ち寄った部分はすでに引用しましたが、また引き返して、観泉寺、妙正寺を経て妙正寺池を見学しています。
 なお、引用中の二本の大松が源頼朝手植えと伝えられる松で、「かこみ三囲に少し不足」とは、大人三人で囲める位ということでしょう。うち一本は明治初年に枯れてしまい、一本のみとなってしまいましたが、それも昭和40年代に枯れ、現在は二代目の松が植えられています。

 


井草八幡南

2017-01-21 07:32:58 | 善福寺川1

  西八幡橋から新町橋までの間、井草八幡のある左岸段丘に突き当たった善福寺川は、Uターンして北東から南東へと向きを変えます。そのほんの200mほどの間に、いずれも一、二ブロックの短いものですが、三本の水路跡が左岸から合流しています。元々、低湿地や水田だったところを宅地造成したので、区画整理時に整備した排水溝の名残だと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 八幡西橋下流の最初の右カーブに、左岸から合流する水路跡があります。ワンブロックで終了です。

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    2. 二本目のものは幅広の道路に含まれて、一見水路跡とは分りません。

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    3. ワンブロック先に車止め付の路地が顔をのぞかせています。

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    4. 水路単独の狭い路地が80mほど続き、井草八幡の境内に突き当たって終了です。

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    5. このワンブロック、コンクリート蓋や車止めはありませんが、土地区画整理組合の路線図に水路として載っています。

西八幡橋、新町橋

2017-01-20 07:42:18 | 善福寺川1

 美濃山橋の次は西八幡橋、そして新町橋で、その間で善福寺川はUターンして南に向きを転じます。この位置に架かる橋に該当するものは、「豊多摩郡誌」(大正5年 1916年)の橋梁リストにはなく、大正末の地図(内務省復興局発行の1/3000測図)に初めて登場します。一般に井荻地域の橋の創架は、大正14年組合結成の井荻村(のち井荻町)土地区画整理事業時に集中していますが、西八幡橋や新町橋は、大正11年の西荻窪駅の開設に伴い、同14年までに駅周辺から青梅街道に至る地域を整備した、井荻村第一耕地整理事業時の架橋です。

 

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    ・ 西八幡橋  善福寺川が美濃山橋の先で左カーブ、北寄りに向きを変える途中からのショットで、正面に西八幡橋、その奥の茂みが井草八幡です。 

 西八幡橋は井草八幡の西寄りに位置することからのネーミングですが、単に八幡橋と呼ばれることもあり、近くの交差点やバス停の名前はそうなっています。なお、江戸開府以前の井草八幡は鎌倉(南)に向かって開き、この付近の善福寺川の川底には、参道に架かる橋脚が残されていた、との伝承があります。(「豊多摩郡神社誌」など) とすれば、西八幡橋から新町橋の間のUターン部分のどこかに、本来の意味の八幡橋が架かっていたことになりますが。

 

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    ・ 善福寺川  西八幡橋と新町橋の間でUターンしますが、その頂点のところです。善福寺川の全行程のなかでもっとも北寄りに当たります。

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    ・ 新町橋  右カーブで南寄りに向きを変える途中に架かるのが新町橋です。なお、新町は上井草村当時からの字で、青梅街道沿いにできた新しい町の意です。

千川上水と善福寺川

2017-01-19 07:48:32 | 善福寺川1

 江戸時代から明治にかけて、善福寺川は千川上水とほとんどかかわりを持ちませんでした。この点は千川上水の助水に依存し、同一視されることが多かった妙正寺川や桃園川と、決定的に違っています。記録上残るただ一つの例外として、青梅街道沿いを流れる七ヶ村(明治以降は六ヶ村)分水が、南四面道口で分岐して下荻窪村の水田を灌漑、その余水が善福寺川に落ちていましたが、これとても明治初年の数字で、下荻窪村の水田7町7反中1町4反を灌漑しているにすぎず、「新編武蔵風土記稿」が同村の用水リストに収録していないほどの小規模なものでした。

 

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    ・ 千川上水合流口  左手からの上水の水は、下池からの水と合流し、奥の水門へと向かいます。池に直接放流していないのは、富栄養化した処理水により生態系が変化するのを避けるためです。 

 それが、善福寺池の湧水が枯渇し、池が干上がった昭和32年(1957年)に、千川上水の水を青梅街道の伊勢橋手前で分岐、地下を導水して人工の遅野井の滝から放流したのを手始めに、平成元年(1989年)以降は、千川上水に放流されている処理水、一日およそ1万トン中7千トンが、善福寺川に流されています。この数字は地下水を汲み上げて善福寺池に注いでいる水量、およそ2千トンを凌駕し、いまや千川上水が善福寺川の最大の水源といってもいいほどになっています。

 

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    ・ 美濃山橋下  上掲写真奥の水門から流れ落ちる善福寺川の起点です。ここからおよそ10.5kmを流れ、杉並、中野の区境に近い和田廣橋先で神田川に合流します。 

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    ・ 善福寺川  最初に架かる美濃山橋から下流方向です。美濃山は→ 「段彩陰影図」で見て取れる、下池を左岸(北側)から望む舌状台地の通称、橋の創架は下池の整備時です。

善福寺池(下池)

2017-01-18 07:25:13 | 善福寺川1

 善福寺池(下池)は江戸時代からある上池と違い、昭和10年代に出来た人工の池です。それまでは→ 「東京近傍図」で見るように、蛇行する川の周辺は葦や真菰が生い茂った沼地で、一部水田となっていました。これは、善福寺池周辺の田全体にいえることですが、胸までつかるくらい深く、丸太を組まないと入れないほどでした。また湧水のため水が冷たく、それやこれやで稲作には不向きだったようで、千川の助水を得ていた「裏田圃」(青梅街道を挟んだ北側の、井草川の谷頭の田圃)と比べ、収穫量も米の質も劣っていたといいます。

 

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  現在と変わらぬ下池が写っていますが、周囲の整備、公園化は戦後しばらく経ってからのことで、都立善福寺公園の開園は昭和36年(1961年)です。 

 こうした事情が池周辺の公園化を推し進めた面もあったのでしょう。大正末から昭和の初めにかけて井荻町の土地区画整理事業や、昭和5年(1930年)の善福寺風致地区指定を受けて、同14年には用地が確保され、下池が造られたのは戦争中のことです。なお、下池の大きさは、昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で大雑把に計測して、外周520m、面積15000㎡といったところで、同じ計測で外周850m、面積22000㎡の上池よりは一回り小ぶりです。

 

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    ・ 上・下池連絡水路  振り返っての撮影なので、奥が上池方向になります。全部で200m強の水路ですが、上掲写真の時とは異なり、半ばで暗渠となって下池に向かいます。 

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    ・ 下池  下流(東側)からのショットです。葦や真菰の生い茂るワイルドな中の島があり、バードウォッチには最適です。(10年ほど前に撮影したカワセミの写真は→ こちらです。)

渡戸橋

2017-01-17 06:50:30 | 善福寺川1

 善福寺池(上池)から流れ出した川は、すぐに渡戸橋(わたどばし)をくぐります。→ 「上井草村絵図」に描かれた上井草村関係の二つの橋のうちの一つで、村尾嘉陵が井草八幡から善福寺池に向かう途中にあった「石の小橋」も、この渡戸橋のことだと思われます。渡戸は「新編武蔵風土記稿」にも上井草村の小名として収録されていて、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)は「池又は湿地を渡ることの出来る浅いところ又は通路の意」としています。ただ、当時から渡戸橋と呼ばれていたかどうかは不明で、「東京府志料」が「善福寺池流」に架かる橋梁として、「石橋二 上井草村ニアリ善福寺橋長七尺五寸幅一間、一ハ長一間二尺幅一間一尺」としているうち、おそらく善福寺橋がそうだと思われます。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 田無町」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で大半が杉並区です。

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    ・ 渡戸橋  「善福寺池・五十年の歩み」(平成元年 善福寺風致協会)によれば、かっては長い御影石(「杉並の川と橋」では伊豆石)の板二、三枚を並べた橋で、幅は荷車がやっと通る程度だったといいます。

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    ・ 橋供養の石碑  左カーブで下池に向かう開渠の水路を背景に、橋供養の石碑が立っています。正面には仏像が刻まれ、その下に「千日念佛橋供養佛」とあり、また側面には延享2年(1745年)の日付が刻まれています。

<遅野井村>  善福寺池のある上井草村には、遅野井村の別名がありました。「上井草村は、郡(多摩郡)の北寄りにあり、郷庄の唱なし、村名の起り詳にせず、いかなる故にや、古より遅野井村と唱ふと云、されど公より地頭へ賜ひし御朱印に上井草村とあり、地頭より公へかく書あげしに、村方にては今に遅野井村と云」(「新編武蔵風土記稿」)「いかなる故にや」とありますが、遅野井伝説がかかわっているのは明らかです。一方、井草村に関しては、池周辺にイグサが生えていたといった自然由来説や、村を開拓した(草分け)井口氏にちなんでとの歴史由来説が混在しています。

 


池畔の水路2

2017-01-16 07:16:05 | 善福寺川1

 善福寺池の北側に残された三本の水路跡の続きです。前回「雨水、湧水を善福寺池へ落とす、排水路の機能を有していたものと思われます」と書きましたが、整備されたのは昭和の初めの区画整理に際してです。井荻町土地区画整理組合が事業の成果をまとめた、昭和10年(1935年)発行の小冊子があり、そこに収録された区画整理後の道路、水路状況を記した路線図に、今日確認できるのと同様の水路が図示されています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 三本のうち最も西側にある水路跡の路地で、やはり車止めでガードされています。

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    2. ワンブロックの中程で左手からの合流がありますが、とりあえず直進します。

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    3. 直進した先の起点です。右写真は左手(右岸)からのショットで、谷筋が分かります。

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    4. 左折した先の起点です。正面右手の台上には、→ 稲荷神社が祀られています。
  

池畔の水路

2017-01-14 07:03:20 | 善福寺川1

 善福寺池(上池)の北側池畔には、各々ワンブロックだけの短いものですが、三本の水路跡が残されています。「善福寺池・五十年の歩み」(平成元年 善福寺風致協会)の座談会でも話題になっていて、跳び越すことのできる程度の川幅だったようです。同じく北畔にはひょうたん池や小さな湧水池(?)もあったといいます。一帯は、雨のあと土手に葦を刺すと水が噴き出すほどの湿地で、三本の水路はこうした雨水、湧水を善福寺池へ落とす、排水路の機能を有していたものと思われます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 三本のうち最も東側にある水路跡の路地で、車止めでガードされています。

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    2. ワンブロックで終了です。右写真は善福寺のある左岸台上からのショットです。 

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    3. 中央の水路跡で、やはり車止めでガードされています。1.とは30mほどしか離れていません。 

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    4. こちらもワンブロックで終了です。