神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

宮下橋

2017-09-30 06:59:48 | 神田川1

 「新編武蔵風土記稿」の中で「江戸道」と呼ばれていた古道が、神田川を越えるところに架かるのが宮下橋です。久我山村鎮守の稲荷神社の下にあり、高井戸村当時の小字が宮下だったことからの橋名で、「豊多摩郡誌」(大正5年)は「宮の下橋 石造 延長一間五尺幅員一間二尺」としています。一方、「東京府志料」は「石橋 久我山村ニアリ上ノ橋長一間二尺幅五尺」としています。いずれにしても、→ 「久我山村絵図」当時から昭和にかけて、旧久我山村に架かっていたのは、この橋と久我山駅前に架かる久我山橋、そして上高井戸村との境にある高砂橋でした。

 

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    ・ 宮下橋  古道が玉川上水のある右岸段丘を下り、宮下橋に差し掛かるところです。橋を渡り左岸段丘を上ると、右手に→ 稲荷神社があります。

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    ・ 宮下橋  すぐ下流に架かるのが宮下人道橋、右手の茂みは半円形をした宮下橋公園です。昭和50年代の改修で、取り残された本流跡を公園にしたところです。

 <嘉陵紀行>  「嘉陵紀行(江戸近郊道しるべ)」中、文化13年(1816年)に井の頭弁財天に詣でた折の一文によると、作者は堀之内妙法寺、大宮八幡に参拝したあと、上高井戸村から久我山村に入り、神田川を越えて玉川上水へと向かっています。「上高井戸村、こゝも下高井戸に同じく、民家又杉林の際を行て久我山村、村の入口に岐路あり、庚申塚あり、こゝより左に行ば、少し民家の間を行て、小坂を下れば、右手は山にて、山のこしをめぐりめぐりて田畝へ出る、田中の細道を南に向て行ば、細き流れあり、此流即井ノ頭上水なり、小橋を渡りてゆけば、少し高みにのぼる、登りて行ば上に玉川上水の堀割あり、石橋を渡す」

 

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    ・ 牟礼橋  最後の「石橋」は牟礼、久我山村境にあり、現在は牟礼橋と呼ばれていますが、「上水記」では久我山橋です。右手が拡幅後の新橋、左手前が旧橋で、大正期の→ アーチ橋が保存されています。

久我山村用水

2017-09-29 06:36:40 | 神田川1

 「玉川上水 村の南を流る、西の方無礼村より来り、東の方上高井戸村に至る、村にかゝること凡八町許、神田上水 村の中央を流る、西の方吉祥寺村より来り、東の方上高井戸村にいたる、村にかゝること是も八町許、此水を以て所々の水田に沃く」(「新編武蔵風土記稿」) 久我山村の水田は神田上水にのみ依存していました。「杉並区近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された成立年代不詳の村絵図には、神田上水と並行して左右二本の田用水が描かれ、その間の細長い区画が田圃となっています。現在の地図に当てはめると、幅70~120m、長さは1km弱というところでしょうか。「東京府志料」の数字ではその面積は十町十六歩です。

 

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    ・ 「久我山村絵図」  「杉並近世絵図」(平成5年 杉並区教育委員会)に収録された「久ヶ山村絵図」を元に、久我山村の水田や田用水を強調したイラストになっています。

 大正5年(1916年)に発行された「豊多摩郡誌」は、この田用水を小川と呼んでいます。「神田上水の分流二派あり、本流を挟みて来り久我山の中央に至り共に本流に合す、・・・・高井戸村の水田過半この水利に依れり、里俗小川或は上げ堀と稱す。川幅及び水深共に三尺に過ぎず。」 一方、「杉並の通称地名」(平成4年 杉並区教育委員会)には、「大川 神田川のこと 昭和20年ころまでの子供たちの呼称、玉川上水その他の用水にくらべ広かったからであろう」とあります。本流の大川(おおかわ)に対し田用水が小川(こがわ)というのは、当時は一般的な使い分けでした。

 

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    ・ 神田川  久我山駅前に架かる久我山橋から下流方向です。「村絵図」の中央にある橋ですが、「東京府志料」では新道橋、「豊多摩郡誌」では都橋となっています。

  久我山橋から次の清水橋にかけて、右岸段丘が徐々に接近しているのが分かります。このため、上掲「村絵図」でもそうなっていますが、右岸の田用水は流路を失い本流に戻っていました。これに対し、左岸の流域には余裕があり、その田用水は「村絵図」通り本流と並行、上高井戸村に向かっていました。ただ、昭和40年代初めに、京王電鉄富士見ヶ丘検車区が設けられたため、その北縁をめぐる左岸流を除き、この区間の大半の痕跡が失われてしまいました。

 


久我山村

2017-09-28 06:22:21 | 神田川1

 「久ヶ山村は、郡の東にあり、江戸日本橋より行程凡五里余、民家六十四烟、・・・・東西凡十二町余、南北十町許、畑多く、田少なし、村の中通り東西へ低、南北の方高く、この中通りの低き所は神田上水路にて、土性は黒土なり、水旱の患あり、村内一條の往還あり、西の方無礼村より東の方上高井戸村に通ず、村にかゝること凡十二町、道幅三間許、是を江戸道と云」 「新編武蔵風土記稿」の記述です。最後の「村内一條の往還あり」は、牟礼村のところでも言及されていた古道ですが、神田川を越えるところは「東京近傍図」に書き込んだようにショートカットされ、現在は人見街道と呼ばれています。

 

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    ・ 「東京近傍図 / 布田驛」(参謀本部測量局 明治13年測量)の一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は市区境で、同細線は高井戸村当時の村、大字境です。

 久我山の地名由来については不明ですが、陸地や空閑地を意味する「くが」との関係が指摘され、また、「やま」は高低とは無関係に樹木の繁っているところなので、このことから、雑木林の中の空地、武蔵野の森林を切り開いたところ、とする説が主張されています。ただ、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、かっては「こがやま」と発音されていたのが、昭和8年(1933年)に帝都電鉄(現井の頭線)が開通、その駅名に「くがやま」と振り仮名がつけられ、それが普及したとする古老の証言もあります。

 

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    ・ 稲荷神社  「除地、二段五畝十五歩 堂屋鋪にあり、・・・・前に鳥居をたつ、石段鳥居の外に三級内に二十級あり、村内の鎮守」(「新編武蔵風土記稿」) 鳥居前の石段は→ こちらです。

 <人見街道>  現在人見街道と呼ばれているのは、浜田山駅前で井の頭通りから分岐、府中市で新小金井街道に接する、延長12kmの都道の名称です。終点付近が人見村と呼ばれたことにちなみ、昭和59年(1984年)に採用されたものです。ただ、杉並、世田谷の区境から現人見街道に連続する通りが、元々人見街道と呼ばれていた関係で、「杉並風土記(下)」(平成元年 森泰樹)によると、採用当時は若干の疑義と混乱があったようです。そのためでしょう、人見街道を紹介する解説プレートには、「久我山街道と呼ばれていたが、昭和59年に東京都が決めた府中市人見に至る道」といった書き方がされています。

 


井の頭1の水路4

2017-09-27 06:49:42 | 神田川1

 三鷹市と杉並区の境で合流する小支流を追っての最後です。前回の最後に右折して北向きに転じ、玉川上水の流れる台地の裾に沿います。谷頭付近では玉川上水と150mほどに接しますが、その助水を得ていた様子はありません。牟礼村の田圃の大部分は玉川上水の反対側にあり、蛍橋付近で分岐していた牟礼分水が灌漑していました。→ 「東京近傍図」の左下隅で、玉川上水と並行するのが牟礼分水、その流域にある水田が牟礼田圃(現三鷹台団地一帯)です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回最後の狭い路地を右折で抜けた先です。車止め、カラー舗装が再開します。 

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    2. 最初は通りと並行する歩道のようですが、後半は水路単独の路地になります。

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    3. 三鷹台駅前通りに突き当たり、その先の車止めの細長い空間へと連続します。

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    4. ワンブロックで終了のようですが、やや右手にズレたところに車止めです。 

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    5. 次のワンブロックで終了です。雑草で通り抜けできないので、望遠での撮影です。

井の頭1の水路3

2017-09-26 06:26:21 | 神田川1

 三鷹市と杉並区の境で合流する小支流を追っての三回目です。途中細かい蛇行もありながら、全体としては西に向い、直角に近い右折で北寄りに転じます。玉川上水のある台地の裾をめぐっているところです。なお、最後の右折の前後は車止め、カラー舗装が途絶え、若干迷いますが、周囲との段差は相変わらずなので、何とかたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回の最後に公園から離れ、車止め、カラー舗装が復活しましたが、その先の左カーブ、そして左折です。 

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    2. すぐに右折して元の西向きに戻り、あとは緩やかな右カーブです。

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    3. 左手の崖面が高くなっています。玉川上水のある台地に近くなってきました。

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    4. 車止め、カラー舗装が途切れますが、正面にそれらしい路地が顔をのぞかせています。

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    5. ほぼ直角に近い右折で、北寄りに向きを転じます。 

井の頭1の水路2

2017-09-25 06:21:18 | 神田川1

 合流地点の現住所から、仮に井の頭1(丁目)の水路とした小支流を追っています。車止め、カラーブロック、ないしカラー舗装、周囲との段差の三点セットが、およそ900mにわたってほぼ途切れることなく続き、全体として単調ですが迷うことはありません。→ 「東京近傍図」の右下の谷筋が、今回の水路のかかわるものですが、その流域に水田は見当たらず、田用水として利用するほどの水量、流域はなかったものと思われます。やはり、(大雨時の排水を主とする)はけ水路を整備したものだったのではないでしょうか。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 右カーブを抜けると、ほぼ直線コースです。 

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    2. 100mほど続いた直線ですが、その先に左カーブが待っています。

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    3. 左カーブの先に階段が設けられています。交差する道路をかさ上げした場合を除くと、めったにないケースです。

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    4. 三鷹台やすらぎ児童公園の縁を左折、右折、右折で回り込みます。

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    5. 公園を離れ再びカラーブロック、車止めの路地になります。 

井の頭1の水路

2017-09-22 06:41:44 | 神田川1

 前回の遊歩道の終点で右岸から合流する小支流があります。→ 「段彩陰影図」で、玉川上水の流れる台地の裾から発し、三鷹台駅の南側を回り込んでいる谷筋にかかわるもので、合流地点の現住所から仮に井の頭1(丁目)の水路としておきます。なお、多少の出入りはありますが、この小支流の合流地点が牟礼と久我山の村境にあたり、ここから下流は両岸とも久我山村(現杉並区久我山1~5丁目)となります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 合流地点からさかのぼります。左写真右手のアンツーカーは前回の遊歩道です。

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    2. 右カーブの左手に車止めがありますが、久我山村右岸の田用水のもので、数回後に改めて扱います。

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    3. ここまで水路と一部重なっていた牟礼、久我山村境(三鷹市、杉並区境)ですが、ここで左手に折れ水路からは離れます。

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    4. 井の頭ポンプ場前です。以前扱った右岸段丘下の用水を含んだ道路は、ここで右手から合流していました。

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    5. おおむね左手が高くなっていますが、水路は谷筋の右岸沿いを流れていました。

右岸の遊歩道

2017-09-21 06:35:32 | 神田川1

 井の頭線の鉄橋の次に架かる神田橋の袂から、左右に遊歩道が分岐しています。その元となった水路は全く異なる性格を持っていて、左岸に分岐している直線的なのは田用水、これに対し、右岸の蛇行しているのは本流を改修した際、取り残されたものです。昭和50年代の神田川の直線化に伴い、こうした遊歩道や公園がいくつかできたことはすでに述べました。後者が今回のテーマですが、左岸の田用水に関しては、久我山村の用水のところで改めて扱う予定です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「昭和22年米軍撮影の空中写真」  上掲地図のグレー枠の部分です。同一個所に同一番号を振っています。

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    1. 直線的に改修された神田橋下流です。その右岸に分岐する車止め、アンツーカーの遊歩道があります。

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    2. 右カーブの後しばらく直線で改修後の本流と並行します。

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    3. 再度右カーブで本流に向います。全体として200mほどの孤を描いています。 

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    4. 改修後の本流に戻ります。ここに右手からの合流もありますが、次回からのテーマです。 

丸山橋、井の頭線鉄橋

2017-09-20 06:54:03 | 神田川1

 神田川は三鷹台駅前に架かる丸山橋の先で二個目の鉄橋をくぐり、井の頭線の右手にシフトします。その後、直線コースをとる井の頭線に対し、神田川は右カーブで弧を描くため、次の久我山駅まで両者はしばらく離れます。ところで、鉄橋をくぐるまでの神田川は、500mほど井の頭線と並行していますが、当初からそうなっていたわけではなく、昭和10年代から30年代にかけて、順次改修した結果です。これに対し、神田川全体の改修は下流から着工され、久我山駅以西に及んだのは昭和50年代なので、最上流の親水エリアを除くと、鉄橋をくぐった直後が最後に直線化された区間です。

 

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年修正 / 井之頭)」  三鷹台駅が丸山橋の下流側に移転したのは昭和57年(1982年)です。

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    ・ 神田川  三鷹台駅前にかかる丸山橋からのショットで、右手は三鷹台駅とそのプラットホームです。奥の右カーブの先で神田川は鉄橋をくぐります。 

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    ・ 井の頭線鉄橋  くぐった先から振り返ってのショットです。上述のようにこの区間の直線化は遅れ、「空中写真」を追ってみると、昭和50年代中ごろまで蛇行していました。

 <京王井の頭線>  京王井の頭線は昭和8年(1933年)、渋谷、井の頭公園間で営業を開始し、翌年、吉祥寺駅までの全線が開通しました。当時は帝都電鉄線と呼ばれており、京王線を経営していた京王電気軌道とは関係なく、むしろ小田急と同じ電力会社の系列でした。戦後の私鉄再編で京王帝都電鉄井の頭線となり、平成10年に社名が京王電鉄に改められました。建設が昭和に入ってからと遅れた分、鉄道の利便さが浸透していたため、地元も駅用地を無償で提供するなど積極的で、「杉並風土記(下)」(森泰樹 平成元年)によると、線路用地の買収価格は水田で坪1円、畑が坪8円と破格の安さでした。ちなみに、当時の地価は水田が坪5円、畑は宅地に転用できるので、坪15円から20円だったそうです。

 


牟礼右岸2

2017-09-19 06:31:56 | 神田川1

 三鷹台駅付近の右岸段丘の際を流れ、牟礼村の田圃の用水となっていた水路を追っての二回目です。といっても、車止めやカラーブロックなど、水路単独を暗渠化した際の特徴は一切なく、段丘下のクネッた通りの一部となっているだけです。三鷹台駅を離れて東南に向かい、久我山村との境(現在は杉並区との境)で、右手からの水路と合流、共に久我山村の右岸流へと連続していました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 三鷹台駅の南の右岸段丘の際を、引き続き微妙に蛇行しながら東に向かいます。

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    2. 地図からも読み取れますが、左カーブで段丘をえぐるような孤を描いているところです。

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    3. 逆に緩やかな右カーブの連続で、向きを南寄りに変えます。

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    4. 三鷹台公園前を過ぎ、次の二又を左に折れます。このあたり、右岸段丘が後退しています。

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    5. 井の頭ポンプ場前です。奥は突き当りになっていますが、右手から水路が合流しています。

牟礼右岸

2017-09-16 06:34:36 | 神田川1

 三鷹台駅の前後には、神田川や井の頭線を挟んで、左右に似たように蛇行する道路が並行していますが、両者に挟まれた幅100mに満たない細長い区域は、昭和30年代まで水田になっていました。そのうちの右岸の道路が今回からのテーマで、段丘の際にあってやはり田用水が流れていました。 → 「神田上水絵図」で、井の頭池から流れ出す神田川の右岸に分岐が描かれていますが、あるいはここに設けられた堰からの用水だったのかもしれません。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 井の頭線の南から始めます。北側にあったと思われる上流の区画はたどることはできません。

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    2. 左カーブで南寄りから東寄りへと向きを変えます。

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    3. 左手が低く右手が高くなっていて、段丘の際にあるのが分かります。

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    4. 奥で突き当たっているように見えるのが、三鷹台駅前を通る通りです。

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    5. その通りを越えます。右写真の高架の先が神田川に架かる丸山橋です。

牟礼村境2

2017-09-15 06:29:54 | 神田川1

 旧牟礼村境を流れる左岸の田用水を追っての二回目です。前回最後の三村境を離れ、杉並区と三鷹市の境となっている段丘に沿う通りを東に向かいます。三鷹台駅を過ぎ井の頭線を越えた先で、神田橋の架かる本流に接しますが、そのまま本流に戻ったのか、あるいは神田橋下流で新たに分岐する用水がありますが、それと連絡していたのかは不明です。→ 「久我山村絵図」では後者のように描いており、それが引き続き村境となっていました。村境が右折して本流を越えるのはもう少し先のことです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 三村境を離れ、段丘下のそれらしく蛇行する通りを東に向かいます。

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    2. 段丘上にあるのは立教女学院のキャンパスです。関東大震災後、築地から当地に移転してきました。 

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    3. 三鷹台駅前の通りを越えます。右写真は駅方向で、高架の手前が本流に架かる丸山橋です。

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    4. 引き続き段丘下を蛇行しながら東に向かいます。なお、水路は一貫して通りの右手を並行していました。

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    5. 井の頭線と並行します。奥に踏切が見えてきました。

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    6. おそらく踏切の手前のやや低くなっているところで、井の頭線を越えたのでしょう。その先はすぐ右手が本流です。

牟礼村境

2017-09-14 06:41:34 | 神田川1

 → 「東京近傍図」にオレンジ線で書き込んだ、左上から時計回りに武蔵野市、杉並区、三鷹市の境は、江戸時代の吉祥寺、久我山、牟礼、三村の村境でした。そのうち、神田川の左岸流域の際までが牟礼村の範囲にあたり、現行の行政区分で三鷹市の北限を画しています。なお、左岸流域の際ということは田圃の際でもあり、そこには田用水も流れていました。今回から二回にわたり、旧牟礼村境に重なる左岸の用水を追います。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 武蔵野市管理地とあるフェンスに囲まれた細長い空間です。立ち入りできないので2.から振り返っての撮影です。

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    2. 左岸段丘の際にある路地です。フェンスを背にしての撮影なので、元は1.と連続していたのでしょう。 

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    3. ワンブロックで通り抜けできなくなり、回り込まなければなりません。

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    4. 回り込んだ先は旧三村境で、右写真の左手武蔵野市、右手杉並区です。

 <切り取られた本流跡>  あしはら橋から左岸に向う→ 道路の途中から、→ 遊歩道が分かれて本流に戻っています。地図からは全体として三角形、ないし孤を描いているように見えますが、これは本流を直線的に改修した際、取り残された区間を遊歩道化したものです。ここから久我山駅前にかけての千数百メートルの間に、同じ性格を持つ孤状の遊歩道、ないし半月型の公園が数ヶ所残されており、この区間の直線的な改修は昭和50年代で、高度成長期の効率一辺倒から、環境だとか緑だとかが意識され始める時期と重なります。おそらくそのことが背景となって、こうした遊歩道や公園が意識的に残されたのでしょう。

 


井の頭3の水路5

2017-09-13 07:49:58 | 神田川1

 井の頭3丁目を流れる小水路のうち、右手から合流していたのを追っています。途中水路跡は失われますが、井の頭公園通りの一つ手前で車止めとカラー舗装が再開、その後は先端まで迷うことはありません。なお、→ 「段彩陰影図」を見ると、谷頭は前々回のものと同じく、玉川上水の流れる台地の裾にありました。それが中央の微高地に阻まれて左右に分かれ、再び合流していたのだと分かります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    1. 前回最後に幅広道路の右手を並行しましたが、すぐに車止め、カラー舗装が復活します。

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    2. 井の頭公園通りに突き当たって右折、通りの右手を10mほど並行します。 

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    3. 左折して井の頭公園通りを越えます。その先も車止め、カラー舗装が見えます。

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    4. 3.の右写真もそうですが、左カーブで右手に弧を描いているところです。

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    5. 突き当たって終了のように見えますが、左手にズレたところに車止め、カラー舗装があります。

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    6. ここで終了です。右写真は左手方向で、奥に玉川上水の土手が写っています。

井の頭3の水路4

2017-09-12 06:00:55 | 神田川1

 仮に井の頭3(丁目)の水路と名づけた小支流を追っての四回目で、右手から合流していたカラー舗装の路地まで戻り、右折して「地形図」に描かれた水路をたどります。ただ、ワンブロックでカラーブ舗装は中断、その先しばらくは水路と重なる道路はありません。ツーブロック、100mほど先でそれらしい路地を見つけますが、すぐに一般の道路の一部となります。この間は確定的ではないので、いつもの青点線は書き込んでいません。車止めとカラー舗装が復活するのはもう少し先です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。) 

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    ・ 「地理調査所発行の1/10000地形図(昭和33年修正 / 井之頭)」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 右手からの合流地点に戻りますが、カラー舗装の路地はワンブロックで中断です。 

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    2. しばらく立て込む住宅の中に紛れますが、あるいはこの細長い空間も水路の名残かもしれません。

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    3. 「地形図」の水路と重なる路地ですが、確定的ではありません。

0612f0612g

    4. 右折して幅広道路の一部となります。道幅からすると、右手に水路があったのでしょう。