水瓶

ファンタジーや日々のこと

目黒・行人坂の大円寺

2016-07-28 08:24:49 | 東京の町
大円寺の石仏群。江戸時代の三大大火の一つとされる明和の大火の犠牲者を供養するためにつくられたものだそうです。

先週末に行った目黒のおさんぽ記事です。目黒は江戸にほど近い寺町として栄えたようで、
立ち寄った三つのお寺も、なかなかの個性派ぞろい。まずは目黒駅にすぐ近い大円寺から。


大円寺の門がまえ。大円寺は山手七福神の大黒様がいるお寺でもあるんですね。


七福神めぐりはけっこうあちこちにあるようで、江戸時代の庶民の大きな楽しみの一つだったようです。
スタンプラリーみたいなもんかな?


暗くてわかりにくいかもですが、とろけ地蔵。品川沖で漁師の網にかかった像を引き上げておまつりしたものだそうです。
風化したのかその名の通りほんとにとろけた感じで、水木しげるの点描絵そのまんま。ちっと怖い。。



明和の大火の犠牲者の供養の石仏があるのは、大円寺が出火元だったためだそうです。
原因は無宿の僧の放火によるものだそうですが、それでも責任を問われて70年ほど寺の再建が出来なかったとのこと。
江戸で火事を出すことは、すごく罪が重かったんですね。

江戸三大大火の内一番大きかった明暦の大火は、江戸の大半を焼き尽くしたそうで、世界三大大火の一つにも数えられているそうです。
別名振袖火事とも言うそうで、wikiには怪談めいた出火原因も書かれていました。へええ。。。
火事とケンカは江戸の花というぐらいに、他にも火事は年中あったようで、半七捕物帳にも火事に関する話がよく出て来ます。

大火は人口の密集する都市ならではの災害だと思うけれど、あれだけ年中火事があって、
まして江戸のかなりを焼け跡にしてしまうような大火事も何度か経験して、「火山列島の思想」にあったように、
火山が日本人の心に深い影響を与えて来たとするなら、火事が日常茶飯事のような都市生活も、影響を与えないわけないような気がする。。
「宵越しの金は持たない」気風なんかも、火事で一切合切失う経験を何度もしてきた江戸っ子ならではなのかも。
こんな風に考えると、杉浦日向子さんの江戸マンガが描くところのカラッとした絶望感のようなものに、すごく説得力を感じます。
それにしても、明治以降も関東大震災や大空襲などを経験し、よくまあ何度も焼け野原からやり直して来たなあ。。

ちなみに明暦の大火は、参勤交代が始まって江戸の人口が爆発的に増え始めた頃に起きたそうで、
火事の記録からは、その頃の江戸の町方人口を、約28万5814人と推定しているようです。
以降、幕末にかけて五十万を超えるぐらいで推移する感じ。そんで現代、2016年6月では

13,613,660人! 

だそうです。うっひゃ〜なんじゃそれ!

ところで都知事は筒井康隆がよかったぞ。旗色不鮮明。


この池に大きな金色の鯉がいて、この鯉が動くと赤い金魚の群れがさーっと散って逃げていました。
鯉が金魚を食べるわけではないとは思うんだけど。。


ほのぼのした感じの道祖神。


どうも大円寺は火事に縁のあるお寺のようで、八百屋お七と吉三の碑もあります。
一説によると、吉三はお七の処刑後、今は大円寺に吸収された明応院に入って西運と改名し、
お七の菩提を弔うために諸国行脚や念仏行をしたそうで、その前に身を浄めたという井戸が目黒雅叙園内にありました。
西運と吉三が同一人物だとははっきり言えないようですが、
大円寺のすぐ近くにある太鼓橋(旧名:雁歯橋)を架けたのが西運という僧だったのは確かなようです。


境内はそんなに広くはないんですが、見るもの多いです。


こういう彫物もなかなかのもの。




自分の体の悪い所と対応する場所に金箔を貼ると良くなるという仏さま。ほぼ頭と顔と内臓。。


お寺の向かいにある民家なんですが、これ維持するの大変だろなあ。。
でもそのおかげで、寺町だった目黒往時の面影がうかがえるよう。


大円寺は行人坂の途中にあります。勾配の急さがわかるでしょう?車は上りの一方通行のみ。
行人坂は江戸と目黒の寺町を結ぶルートで、往来も多かったそうです(目黒も江戸の内に入らず)。
行人坂の名前の由来は、出羽山の修行者がこの辺りに大日如来堂を建てて修行を始めて、
しだいに多くの行人が集まり住むようになったからだそうです。


行人坂と権之助坂がある道路を結ぶ坂。目黒は坂が多いんですよね。
行人坂があまりに急で、牛馬が荷を運ぶのに大変苦労したので、勾配のゆるい権之助坂が並行するようにつくられて以降は、
そちらがメインになっていったようです。
権之助坂のある道路はかなり大きな通りになっていますが、行人坂もけっこうな人通りがありました。雰囲気がいいせい?
ちなみに権之助坂は権之助さんが坂をつくるのに貢献したからとも言われていますが、はっきりしないらしいです。
ていうかそれ以外の理由だとしたら、権之助さんが住んでたとかそれぐらいしか思い浮かばない。。


目黒川にかかる太鼓橋からの眺め。今はあちらに見える橋のように、太鼓の形はしてないそうです。上に乗ってると見えないけど。
昔はこんなだったらしい。あー、、風流、風流。浮世絵は資料としても役に立ちますね。
ちなみに今「川の文化」という本を読んでいて、なかなか面白いです。内陸水路として今よりもずっと重要だった川。


大円寺から五百羅漢寺へ向かう途中に見かけたなつかしい看板。そういえば塩ってわりと近年まで専売だったんですよね。



起伏があると街の景観が変化に富む感じがしますね。しかし行人坂はほんとに急で、けっこう足に来ました。

気持ちの重くなるような話を聞いても、こうして町の歴史とか調べてなんか書いたりしてると、
少しずつ気持ちが直ってゆく感じがします。過去のことってのがいいんだな、たぶん。川の話もいいぞお。
五百羅漢寺につづく。


最新の画像もっと見る