水瓶

ファンタジーや日々のこと

目黒不動尊

2016-07-31 13:10:58 | 東京の町
ぐるーっと塀の囲う細い道を歩いて着いたのは目黒不動尊。立派な山門ですね。
先週末に行った目黒お散歩の記事の続きです。

昨日は暑かったですね。とうとう梅雨も明けて、陽射しがいっそう強くなりました。
でもまだ空気に満ち満ちた熱気が真夏の猛暑日ピークほどではないようで、ってことはこれからそんな日々が来るわけか。。ひい。


山門をくぐった所にある狛犬はふつうの犬っぽいのが珍しい。。


独鈷の滝。不動尊を開山した慈覚大師が堂塔建設の敷地を占って独鈷を投げたところ、滝泉が湧き出したのでこの名がついたとのこと。
旱天が続いても涸れることのない霊泉で、不動行者の水垢離の場所になっていたそうです。
この不動さまに水をかけるといいらしいのでかけてきました。はあ、涼しげ。。


境内が広い・・・!


wikiによると目黒不動尊は、江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれたそうです。
浮世絵ではこんな感じで
、わりと今と変わらないようです。
広い境内は水と緑が豊かで、大きな道路を歩いて来た後ではひと際ほっとしました。
昔は江戸の町から時間どのくらいかかったかな?

と、目黒の古地図検索してみたら、こんなページがありました。へええー、おもしろい!
やっぱりほとんどが寺と武家屋敷と百姓地、そして門前町をなす町家。
目黒不動尊の敷地もかなり広いんですが、この地図見るとそれよりも広い、○○守という名前のついた武家屋敷が珍しくないんですよね。
しかもなんか御紋屋敷と、下屋敷、中屋敷ってのがある・・・。

半七捕物帳とか岡本綺堂の随筆読んでると、維新のあと、この江戸中に沢山あった武家屋敷から人がいなくなってしまい、
借家の家賃などがすごく安くなったんだそうです。
これだけ江戸の土地の多くを占めてた武家屋敷から人がいなくなったら、さぞ荒れ果てて、閑散とした感じがしたでしょうね。
そういえば「坊ちゃん」の小説の最後に、坊ちゃんが松山から帰って来て、麹町に家を借りて清と住んだってありましたが、
親とも縁が切れている上に、そんなに給料が高くないであろうまだ社会人なりたての坊ちゃんが麹町に一軒家を借りられたのも、
そういう時代背景があったのかと納得。。


本堂の外回廊を裏へ回ると、大日如来像がありました。未年と申年の守り本尊なんだそうです。
ちょうど森のなかまと私の生まれ年に当たるので、念入りに拝んで来ました。
こんな風に、本堂の裏に、屋根はついてるけれど外に仏さまがあるっていうのも珍しいですよね。
夏の濃い緑を背景に、とてもいい雰囲気でした。




結構高い。。。お正月にはいっぱい人が来るんだろなあ。


え?なんでサツマイモ???と思ったら、目黒不動尊には、甘藷先生と呼ばれる青木昆陽のお墓があるんだそうです。
境内にはサツマイモの畑も!
サツマイモはすごく重要な作物だったそうで、このおかげで天明の飢饉は大分緩和されたようです。

和食はヘルシーだってよく言われるけれど、現代でヘルシーってことはつまり低カロリーってことで、
過去においては栄養不良だったんだろうなあと。
そういえば基本的には肉食しないし、牛乳とかも飲まなかったみだいだし、メインって米と野菜と魚介で、
栄養価の高そうなうなぎとかはやっぱり高価だったみだいだし。
あと野菜で栄養価高いっていうと、大豆か。。イモ類は、ジャガイモは明治以降だし、サツマイモのが先だったんですね。
サトイモは、あれそんなに量が取れる感じでもないけど、どうなんでしょう。おいしいけど。
雑草の本読むと、下手すると当たるみたいな毒性のある山野草が昔から食べられていて、
それだけ慢性的に栄養不足気味だったんじゃないかと思います。彼岸花の根もよく水にさらさないと毒あるんですもんね。
救荒植物って、通常では食べる気にならないぐらいおいしくないらしくて、だからいざという時に残ってるんだろうけど。





昨日は横浜美術館の前を通りかかったので、ミュージアムショップで浮世絵関係の画集とかないかなーとのぞいたら、
北斎漫画というのがあって、面白そうだったので買って来ました。
北斎が弟子のために手習い書として色んな人や事物をたくっさん描いたものなんだけれど、これが江戸の庶民にも受けて、
ベストセラーになり、続編がいっぱい出たそうです。今と同じだ!

何が面白いかというと、本人によれば特になんということなく色んなものを描いたというものらしくて、
しっかり売り物になるような作品としては、世に出さないような絵がいっぱいあるんです。
だから本当に当時の庶民の日常のしぐさなどが描かれていて、仕事してる職人などだけでなく、香具師や手妻などの大道芸人や、
まあちょっとだらしない格好で寝そべって本読んでる姿とか、ケンカしてる所とか、主婦が立て膝でご飯作ってる所とか、
説明がほとんどないんで、何してるのかわからないのも多いけれど、すごくリアルで面白いです。
しかもそれが後世に、庶民の日常の姿を残す結果になっていて。とにかくいっっぱい、細かく、書いてるんですよ・・!
そういうのって、立派な美術工芸品からははじかれちゃう要素ですもんね。狩野派の屏風絵とかには絶対出て来ないぞ。
思わず笑いをさそうような一枚絵もあるし、なるほど今のマンガの原型がここにあるのだ。

岡本綺堂が、江戸の風俗や文化っていうのは、あんまり上品なものじゃないんですよと書いていた(か、半七に言わせていた)
んですが、庶民文化ってそういうものなんでしょうね。あー、あとこのシリーズ、妖怪のも買おう。
そういえば河童釣ってる絵もありましたよ。男の人がお尻出して川岸に座ってて、
すぐ上にはひっぱると落ちるように網が張ってある。ほんとにカッパ釣れんのかこれで。


役小角をまつった祠。修験道の開祖だそうです。たしか江ノ島にもなんかあった気がする。。


なんかこのシャチホコがやけにメカニカルで面白かった。ウィーンガシャーン!て変態しそうな感じ。


スズカケの大木。街中にこういう大木や緑が広く残ってるのって、お寺や神社なんですよね。

このあと来た道を戻って、雅叙園で和のあかり展を見て、駅へ戻りつつ夕ご飯を食べるお店を物色。


権之助坂の途中に、ここだけちょっと違う並びがあるなと思ったら、権之助坂商店街と看板がありました。
間口が狭い飲食店がぎっしりで、お客さんもいっぱい。立ち飲み屋さんとかラーメン屋が多かったかな。。。
でもこの日はなんとなくラーメンでも飲みでもない感じだったので、ビルの地下にあったタパス・タパスでご飯。
リーズナブルでおいしいかったのでした。



以上、目黒お散歩の記事はこれでおしまいです。昨日は隅田川花火大会だったようで、人すごかったんだろな。
蝉の鳴き声もさわがしくなって来て、いよいよ夏も本番ですね。

葵御紋の五百羅漢寺

2016-07-30 10:29:39 | 東京の町
小さめのビルが並ぶ狭間に葵御紋のちょうちん?

先週末に行った目黒の記事の続きです。五百羅漢寺も、なかなかに激しい変遷を経たお寺なんです。


道路は大がかりな工事中。初めて上京した時に、こんな風に大きな道路沿いに小さめのビルがえんえん立ち並んでるのを見て、
東京ってこんな感じなんだ、こんな所で自分は暮らし続けられるのかと不安を感じたのを思い出しました。
どこを見回しても山とか見えなくて、息がつけない感じがしたんだよなあ。。。


歩道橋を移動するらしいです。工事現場ってなんか見てしまう。


工事現場はちょっと変則的になってるからね。




江戸時代はどんな風景だったんだろ。


五百羅漢寺はこんなビルの谷間にあります。冒頭写真にあるようなあまり広くない門があって、
階段を上った先にお寺の入口があります。都会の町中ならでは。


入口すぐの所にあった庚申塔。

「庚申(かのえさる)の日には、眠っている人の体から三尸(さんし:三種類の虫)が脱け出し、その人の悪事を天帝に告げ、その人の命を縮められるという思想があり、その日は眠らずに一夜を明かす風習がありました。庚申塔はこの三尸の害を防ぐために造られました。」

像は、青面金剛が邪鬼を踏みつけているところだそうです。台座には三猿。
うーむ、自分の中に自分の悪いことを告げ口をする虫がいるなんて。虫下ししなければ。
・・・って、今もうあのギョウ虫検査ないんですと。知ってました?昭和のみなさん!
別になつかしくもないけどどんなだったっけあのフィルム?ぺた。


屋根こそ立派な銅葺きで目を引いたんですが、実はこの近代的なコンクリのお寺を見た時に、
失礼ながらちょっとがっかりしてしまったんですよね。なんか味気ない気がして。
しかし、中を拝見していく内に、その理由もわかったような気がしたわけなんです。
中は撮影禁止なので写真はありませんが、その名の通り、五百羅漢の像がずらーっっっと!!
ほぼ等身大、五百人全部ではないようですが、かなりの数が、らかん堂と本堂に並んでいました。
これが大変見応えがあるんです。

この羅漢像はすべて、江戸時代の松雲禅師が彫刻したもので、その功績が認められて寺が創建されたんだそう。
松雲禅師は、もとは京都の腕のいい仏師だったそうですが、鉄眼禅師のもとに入門して出家します。
この鉄眼禅師という人は、一切経という七千巻からなるなが〜いお経の刻版を完成した名僧だそうです。
大変貴重な宝物で、僧侶ですら読むことの難しかった一切経を写すために、諸国行脚して集めた喜捨のお金を、
飢饉の際に二度までも放出してお粥にして与えてしまい、三度目にようやく念願を叶う。
で、鉄眼禅師がこの一切経を彫った文字が、現代に使われている印刷文字の書体・明朝体の原型になったんだそうです。
おお、なんと身近で意外な接点が・・・!まさにこの弟子にしてこの師匠あり。すごいなあ。すごいなあ。

羅漢像を一人一人見てゆくと、あ、こんな顔の人いる〜と思うような感じ。
でもなんかみんな頭の鉢が大きめで、こういうのが頭のいい人の相とか言われてたんだろうか。
高村光雲が修業時代に、当時は本所にあった羅漢寺に通ってお手本にしたという逸話もあるそうです。
背を向けると、背中に人の気配を感じるような気がしました。等身大ってそういうとこあるかな。。
ちなみに羅漢とはお釈迦様の弟子のことだそうです。



かつて本所にあった頃は、こんな感じで羅漢像を拝観できるようになっていて、沢山の人が訪れたようです。
また、さざい堂が有名だったそうです。中がらせん階段になってるそうなんですが、面白い建物ですよね。
現存しているさざえ堂では二重らせんの構造を持つ会津さざえ堂が特に有名なようです。
木造でこんな傾いた建物建てるの、大変だったでしょうね。それとも大工の腕の見せ所かしら。

このさざい堂は北斎も描いてまして、特にさざえ堂らしくもない、一見なーんの変哲もない平板な絵のように見えるんだけれど、
よくよく見ると、やっぱ北斎って名立たる浮世絵師の中でもずば抜けてるなあと。もはや妖怪レベル。。
なにげない人のしぐさなど、なぜこうも達者に配置できているのか、着物の流れとか、職人技芸の極みというんでしょうか。
ぞっとするほど洗練されてる………。
でもそうか、江戸時代には本所の羅漢寺から富士山見えたんだなあ。


これ、腰掛石と彫ってあるんですが、土地を寄進したり庭を整えたりなど、
羅漢寺の隆盛に尽力した八代将軍吉宗が聴聞の時に掛けた石台らしいです。えーと、暴れん坊将軍か。
そう、そんなわけで羅漢寺は葵の御紋に縁が深いのですね。


しかし葵の御紋のご威光は、明治維新以降は逆に働いてしまい、五百羅漢寺は零落。
追い打ちをかけるように、大正6年に大暴風雨でお寺は大破、続けて大正12年の関東大震災でも大破し、
お寺は大変に衰退してしまいます。

この暗い時代に羅漢寺を守り続けたのが尼僧たちだったそうで、その一人が妙照尼といって、
かつてはお鯉さんというもと新橋の名物芸者で、昭和十三年に羅漢寺の住職となったそうです。
なんと宰相桂太郎の側室として官邸に住んだこともあるという美貌の持ち主で、数々の文化人や政治家と親交を持ち、
羅漢寺の再興に尽力したそうです。へええええ・・!
上がそのお鯉さんをまつったお鯉観音の写真です。女性の参拝客が多いそうですよ。


頭が高い、ひかえおろう!・・・葵の御紋見るとつい。
でもあれ、一回「へへえ〜っ」ってひかえても、必ずうぬって翻って立ち回りやりますよね。
助さん角さんチャンチャンバラバラの見せ場なくなるからね。。。

他にも、明治時代に当時鎖国状態だったチベットへ中国人留学生になりすまして密入国のような形で入国し、
経典を学んだという河口慧海も羅漢寺で住職をしていたそうです。なんて強者ぞろいのお坊さんたちなのか。

そして昭和54年にとうとう新しいお寺の工事に着工。こうして建立されたのが今のこのお寺なんだと思うと、
なーんだ木造じゃないや、近代的コンクリで味気ない、などとはとても言えないではありませんか。。
近くの大円寺が大火を出したりしてるし、すぐ隣にビルが迫る都会の立地で、貴重な羅漢像が地震や火災で損なわれたりしないように、
一見そっけないようだけれど、木造よりも災害に強いコンクリの建物にしたのかなあと考えると、
しかるべき理由があったんだと感慨も深まります。深まりなさい。そうしなさい。


五百羅漢寺を出て、目黒不動尊へ向かいます。途中にあったなんやらの石。地籍調査・・とか書いてあったかな?
こういう土地の何やらを調べ直すような調査って、関東大震災のあとに行われたりしたのかな。


左手の塀の中は緑濃い森が広がっているようです。多分この中が目黒不動尊だと思うんだけど。。。


あっ、あったあった!あれが不動尊だ!

こんな具合で五百羅漢寺の歴史、なかなか波瀾万丈でしょう。
もしもこの近くまで来たら、ぜひとも羅漢さんの壮観な眺めを見ていって下さい。
一人一人なんとなく意味がわかるような漢字の名前があって、ちゃんと名札もついてるんですよ。

目黒不動尊につづく。

目黒・行人坂の大円寺

2016-07-28 08:24:49 | 東京の町
大円寺の石仏群。江戸時代の三大大火の一つとされる明和の大火の犠牲者を供養するためにつくられたものだそうです。

先週末に行った目黒のおさんぽ記事です。目黒は江戸にほど近い寺町として栄えたようで、
立ち寄った三つのお寺も、なかなかの個性派ぞろい。まずは目黒駅にすぐ近い大円寺から。


大円寺の門がまえ。大円寺は山手七福神の大黒様がいるお寺でもあるんですね。


七福神めぐりはけっこうあちこちにあるようで、江戸時代の庶民の大きな楽しみの一つだったようです。
スタンプラリーみたいなもんかな?


暗くてわかりにくいかもですが、とろけ地蔵。品川沖で漁師の網にかかった像を引き上げておまつりしたものだそうです。
風化したのかその名の通りほんとにとろけた感じで、水木しげるの点描絵そのまんま。ちっと怖い。。



明和の大火の犠牲者の供養の石仏があるのは、大円寺が出火元だったためだそうです。
原因は無宿の僧の放火によるものだそうですが、それでも責任を問われて70年ほど寺の再建が出来なかったとのこと。
江戸で火事を出すことは、すごく罪が重かったんですね。

江戸三大大火の内一番大きかった明暦の大火は、江戸の大半を焼き尽くしたそうで、世界三大大火の一つにも数えられているそうです。
別名振袖火事とも言うそうで、wikiには怪談めいた出火原因も書かれていました。へええ。。。
火事とケンカは江戸の花というぐらいに、他にも火事は年中あったようで、半七捕物帳にも火事に関する話がよく出て来ます。

大火は人口の密集する都市ならではの災害だと思うけれど、あれだけ年中火事があって、
まして江戸のかなりを焼け跡にしてしまうような大火事も何度か経験して、「火山列島の思想」にあったように、
火山が日本人の心に深い影響を与えて来たとするなら、火事が日常茶飯事のような都市生活も、影響を与えないわけないような気がする。。
「宵越しの金は持たない」気風なんかも、火事で一切合切失う経験を何度もしてきた江戸っ子ならではなのかも。
こんな風に考えると、杉浦日向子さんの江戸マンガが描くところのカラッとした絶望感のようなものに、すごく説得力を感じます。
それにしても、明治以降も関東大震災や大空襲などを経験し、よくまあ何度も焼け野原からやり直して来たなあ。。

ちなみに明暦の大火は、参勤交代が始まって江戸の人口が爆発的に増え始めた頃に起きたそうで、
火事の記録からは、その頃の江戸の町方人口を、約28万5814人と推定しているようです。
以降、幕末にかけて五十万を超えるぐらいで推移する感じ。そんで現代、2016年6月では

13,613,660人! 

だそうです。うっひゃ〜なんじゃそれ!

ところで都知事は筒井康隆がよかったぞ。旗色不鮮明。


この池に大きな金色の鯉がいて、この鯉が動くと赤い金魚の群れがさーっと散って逃げていました。
鯉が金魚を食べるわけではないとは思うんだけど。。


ほのぼのした感じの道祖神。


どうも大円寺は火事に縁のあるお寺のようで、八百屋お七と吉三の碑もあります。
一説によると、吉三はお七の処刑後、今は大円寺に吸収された明応院に入って西運と改名し、
お七の菩提を弔うために諸国行脚や念仏行をしたそうで、その前に身を浄めたという井戸が目黒雅叙園内にありました。
西運と吉三が同一人物だとははっきり言えないようですが、
大円寺のすぐ近くにある太鼓橋(旧名:雁歯橋)を架けたのが西運という僧だったのは確かなようです。


境内はそんなに広くはないんですが、見るもの多いです。


こういう彫物もなかなかのもの。




自分の体の悪い所と対応する場所に金箔を貼ると良くなるという仏さま。ほぼ頭と顔と内臓。。


お寺の向かいにある民家なんですが、これ維持するの大変だろなあ。。
でもそのおかげで、寺町だった目黒往時の面影がうかがえるよう。


大円寺は行人坂の途中にあります。勾配の急さがわかるでしょう?車は上りの一方通行のみ。
行人坂は江戸と目黒の寺町を結ぶルートで、往来も多かったそうです(目黒も江戸の内に入らず)。
行人坂の名前の由来は、出羽山の修行者がこの辺りに大日如来堂を建てて修行を始めて、
しだいに多くの行人が集まり住むようになったからだそうです。


行人坂と権之助坂がある道路を結ぶ坂。目黒は坂が多いんですよね。
行人坂があまりに急で、牛馬が荷を運ぶのに大変苦労したので、勾配のゆるい権之助坂が並行するようにつくられて以降は、
そちらがメインになっていったようです。
権之助坂のある道路はかなり大きな通りになっていますが、行人坂もけっこうな人通りがありました。雰囲気がいいせい?
ちなみに権之助坂は権之助さんが坂をつくるのに貢献したからとも言われていますが、はっきりしないらしいです。
ていうかそれ以外の理由だとしたら、権之助さんが住んでたとかそれぐらいしか思い浮かばない。。


目黒川にかかる太鼓橋からの眺め。今はあちらに見える橋のように、太鼓の形はしてないそうです。上に乗ってると見えないけど。
昔はこんなだったらしい。あー、、風流、風流。浮世絵は資料としても役に立ちますね。
ちなみに今「川の文化」という本を読んでいて、なかなか面白いです。内陸水路として今よりもずっと重要だった川。


大円寺から五百羅漢寺へ向かう途中に見かけたなつかしい看板。そういえば塩ってわりと近年まで専売だったんですよね。



起伏があると街の景観が変化に富む感じがしますね。しかし行人坂はほんとに急で、けっこう足に来ました。

気持ちの重くなるような話を聞いても、こうして町の歴史とか調べてなんか書いたりしてると、
少しずつ気持ちが直ってゆく感じがします。過去のことってのがいいんだな、たぶん。川の話もいいぞお。
五百羅漢寺につづく。

目黒雅叙園・和のあかり×百段階段

2016-07-24 16:35:15 | 東京の町
目つきも鋭く大迫力のえんま様。何を退治しようとしてるんでしょう。
うそつきません舌抜かないでごめんなさい。

この「和のあかり×百段階段」イベント、つい先日テレビで紹介されてるのを森のなかまが見て「面白そう!」というので来てみました。
私も森のなかまも雅叙園は初めてで、行ってから知ったんですが、目黒雅叙園の百段階段といえば有名なようで、
東京都の有形文化財にも指定されているそうです。
百段階段なのになぜ実際は九十九段なのかは、雅叙園側にもよくわからないようです。色々理由は考えられるようなんですが。。
そういえば百の怪談を語ったあとに怪異が起こるという百物語が、杉浦日向子さんのマンガに描かれてるんですが、
本当に怪異が起こらないようにと、ご隠居が話を九十九で止めて終わっていて、
そんな風な意味合いを込めて、九十九段なのかなと思ったんですがどうでしょう。百怪談と百階段をひっかけて。


一階ロビーの金魚の提灯。お祭りっぽくて楽しい!


優雅に流れる龍の灯り。ここでエレベーターに乗ってイベントがある旧館のフロアへ。

百段階段のフロアまで上がって、旧館の内装の豪華さにもびっくりしたんですが、
そこまでやると写真が多くなってしまうので、今回は和のあかり展の写真にしぼりました。
雅叙園で調べたら、創立からの経緯などなかなか面白かったので、それはそれで後に別に一つの記事にしようかなと。
全部で七つの間があって、それぞれに趣向をこらした灯りがディスプレイされており、大変盛況でした。


床の間の龍。


ここは一間を大きく使ってねぶたの灯り。さすがの大迫力。




鬼は悪者だろうけど、龍はどうかしら。いや、でも地獄の鬼も、えんま様の言いつけで地獄に落ちた人を責めてるんですよね。


この間では、箱に封印されていた妖怪が、封印を破って散らばってしまったという趣向のようです。


この辺の妖怪たちのビジュアルのもとは、土佐光信とか鳥山石燕になるんでしょうか。
ひょっとして百鬼夜行、魑魅魍魎は、江戸時代のポケットモンスターといえるかも。
モンスターボールって封印みたいなもんですよね。


この妖怪の間は、森のなかまも私も大変気に入りました。すごく楽しい!






ろくろっ首から顔出して写真も撮れます。にらむ化け猫。こわいニャ〜。。




こちらの間には、鎧や刀などが飾ってありました。何人も女性がしげしげ眺めていたんですが、ほんとに人気なんだなあ。。


こちらは自然物を使った灯り。これもなかなか良かったんですが、私はあまり上手く撮れず。。
こういうのはやっぱり色々設定しないとダメみたいですね。むずかし。


これは貝。他にもホオズキやウニ、葉っぱなどを使った灯りが色々あって、すごくいいんです。


こちらは岩見神楽「塵輪(じんりん)」。ぱっと見やまたおろち退治かなと思ったら違った。。
戦国時代の中国地方で重要なポイントになる岩見銀山、島根県ですね。ここを押さえた者が中国地方を制するのだ。


塵輪は神二人と鬼二人が対決する神楽だそうです。
この二人は「身に翼があり、黒雲に乗って飛びまわり人々を害する悪鬼」塵輪かな?


退治する側の帯中津日子と高麻呂のようです。手にするのは天の鹿児弓、天の羽々矢。


こちらの間は影絵風の灯り。山の動物たち?


カモシカ、鹿、ワシ、小鳥、猿、うさぎ。


天井には切り絵がぶら下がって、影を映します。




階段一番上にはなぜかなつかしい感じの銭湯(入れません)。


宝船は景気がいい感じがしますね。って、お祭りはみんなそうか。

この宝船から下の写真は、イベントに入場しなくても見られる一階フロアにあります。
天井の高いものがディスプレイされていたようです。


竿提灯は秋田だったかな?




五所川原のねぶた。これは地震を起こすナマズを退治してる所のようです。ほんとにしっかり退治して欲しい。。。



とこんな感じで和の灯り展、本当に豪華絢爛で見応えがあり、とても楽しめました。入場料1200円、8月28日までだそうです。
一階の誰でも入れる所にも、かなりのディスプレイが楽しめるようになっています。
わびさびの対極にある感じで、一気に観光地旅行先のハレモード気分に入ってしまいました。
目黒雅叙園、すごいなあ。。。

この日は目黒駅から、大円寺→五百羅漢寺→目黒不動尊→目黒雅叙園のコースで回ったんですが、
これら目黒のお寺群も面白かったので、街の写真も入れつつ記事にしてゆく予定です。
湿度低めそよ風が吹き、歩きやすい気温で気持ち良かったなあ。夏がずっとこんな感じならいいのにね!

遠いゴジラ

2016-07-20 20:53:20 | 日記
おととい、BSプレミアムで初代ゴジラをやってたので、とぎれとぎれですが見ました。
第一作目の映画は1954年公開だそうで、すごく有名でしたが、ちゃんと見たことがなく。。

子どもの頃は人一倍ああいうのが苦手で、ゴジラは見てないにも関わらず、
なんとなくあちこちであのビジュアルを目にしていて印象に強かったのか、夢によく出て来ました。
自宅から遠くを練り歩いてるゴジラが見えるという悪夢は、小学生高学年になってもよく見てたので、
あの手の映画はパスしていて、ほどほど大人になってからは今度は今更ゴジラ?みたいな感じで見ませんでした。
で、おとといは、テレビつけっぱなしでなんとなしに見てたのがいつの間にか引き込まれ、
白黒だし、CGじゃないけど、ゴジラは立派に怖かった……!!
すごくちゃんと作った映画だったんですね。はしばしまでおろそかにしない感じ。バカにしててごめんよお。。

ゴジラはおそろしかったけれど、最期を遂げた時にはなぜか悲しく、私はジュラシックパークの恐竜はダメだけど、
ゴジラはなんか好きなのはなぜかと考えたら、ゴジラは人を食わないんですよね。
電車の車輛をくわえたので食べるのかと思ったら落とすし。なので森のなかまに

「ゴジラは人を食わないのがいいよ。恐竜は人を食おうとするのがいやだけど、
ゴジラはなんでか知らないけど、ただひたすら純粋に破壊するのがいいよね」
と言うと、

「・・・そっちがのひどくない?

そういえばそうかも。でもやっぱり私は、その方が怖くない気がするんですけど、なんでだろう?

って考えたら、ゴジラって天災とか自然災害に近いんだなあという感じを受けました。
いや、自然災害はもちろん恐ろしいけれど、どうしても起こるのが仕方がないというか、避けられないもの、止められないもので、
それそのもの、地震や火山や津波そのものは、憎んだり嫌ったりできる対象にはならないというか、、
ちょっとうまく説明できてないかも知れませんが。
かたやジュラシックパークの恐竜は、明らかに生き物という感じで、それがより近く感じて、
人間をひたすら獲物としてねらってくるさまは狡猾で憎々しく、悪意にさえ感じられましたし。。。
うん、そう、ゴジラの方が恐竜よりも、人間に遠い存在なのかも知れない。
映画では、島の言い伝えにも出て来る古い怪獣のようなので、昔ならきっと神様として祀られてたんだろうと。祟り神として。
だからゴジラは、火山や嵐を神様と見立ててしまう、とても古代の日本人らしい創造物なのかもなあと思いました。

ところで、なんでゴジラが放映されたのかと思ったら、「シン・ゴジラ」っていう新作が公開されるんですね。
トレーラー見たら面白そうではないですか。新ゴジラ、現代風にグロさがアップデートしてますね。きもちわる!
もののけ姫以来映画館に足を運んでないんですが、行ってみたいような、怖いような。。。

wikiによると、新しいゴジラは身長が118,5メートルだそうで、初代は50メートルだから、二倍以上に伸びたようです。
それぐらいないと、今の高層ビルに並ぶとちっちゃく見えて、破壊できそうに見えないんでしょうね。
しかし初代作品見て思ったけど、ゴジラも変わったけど、日本人の顔もずいぶん変わりましたね。。

でも新ゴジラ、しっぽがすごく長くありません?大きくふったりして、ちょっと猫みたいですよね。