いよいよ築地!今回は場外市場の写真です。
築地には場外と場内があるそうで、場外は商店街のように小売店や飲食店などが軒を並べていますが、
場内は門から入るようになっていて、中が広々としてトラックや荷物を運ぶ小さなカートが行き交ってる感じです。
どちらも一般の人でも入れるけれど、早朝の時間帯は仕事で買い付けに来てる人たちが多く、殺気だってるらしいので、
観光には十時すぎてからの方がよいようです。
私が行ったのは夕方の四時頃で、場外のお店はほとんどシャッターが閉まり、人影もまばら。
白衣を着たおじさんたちが路地の喫煙所とかでまったりしてました。
この辺りから場外市場のようです。通りをはさんで向かい側はオフィスビルの並び。
この時間になってもやってるお寿司屋さんは少ないようです。立ち食いがいかにも築地っぽいですね。
シャッター閉まりまくり。けど、何かすごく活発に動きがあった後のような雰囲気が。。嵐のあと?
奥に見える「マコ」という喫茶店の看板には「珈琲・雑煮」と書いてあります。オールシーズンお雑煮?真夏も??
しゃがみこんでスマホをする若者のマナーはあんま好きませんが、こうするとなんかニューヨークのダウンタウンみたいで絵になるな。。。
白衣が仕事着なんですね。お寿司屋さんがいっぱい!
さてここで、唐突に築地の歴史まとめ。
築地場外市場の公式ホームページに書いてあったことをダイジェストにすると、大体こんな流れになります。
築地豆知識を人に自慢したい時には、一応原典にあたってください。間違ってても責任は負いかねます。免責!免責!
明暦の大火で被災した本願寺が、門徒たちが埋め立てた築地に移転してくる。
この頃はまだ築地とは呼ばれず、南小田原町と名づけられる。ほぼ寺と墓地。
↓
現在の築地市場にあたる場所には老中松平定信の下屋敷があり、隠居後に浴恩園という豪著な庭園をつくる。
↓
幕末期に外国人居留地が設けられ、場所によっては洋風の町になるが治安が悪く今ひとつ、明治32年の条約改正時に廃止になる。
堀田家中屋敷に軍艦教授所ができ、勝海舟が学長相当の役につく。
明治維新後、新政府のもとで浴恩園の跡地に海軍省がつくられ、庭園の大池が艦船用のドックにつくりかえられる。
大名たちが江戸からいなくなってしまい、武家屋敷が荒れ放題になる。
五千坪の屋敷跡を大隈重信が買い取って邸を建て、後の有名人多数が寄宿して梁山泊と呼ばれる。
↓
関東大震災後に区画整理が行われ、晴海通り開通で町が分断される。
震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきて、海軍の用地に東京都中央卸売市場築地本場(場内)ができる。
本願寺の墓地が移転した跡地に水産物商などが入り、場外市場が形成される。世界一の水産物流通量。
東京オリンピックの頃に築地川が埋め立てられ、町名が築地に変わる。
つまり、さらに大ざっぱにまとめると築地は
寺&武家屋敷→外国人居留地→海軍→市場
という風に変わって来たわけなんですね。なんという変わりっぷり!
(※細かくは、全体が一斉に変わるのではなくて、部分ごとモザイクのように変わっていったようです。)
私は、築地は江戸時代からずーっと魚河岸だと思ってたので読んでビックリしました。
場外入ってすぐぐらいの所に、高い塀に囲まれた狭い墓地があってちょっと驚いたんですが、
むしろあの墓地の方がもともとだったのか。。。
ていうか高野山や比叡山のように、本願寺を総本山とする、浄土真宗の寺町みたいな感じだったようです。
関東大震災後に墓地の多くは移転してしまうんですが、墓地の跡地で商売すると繁盛するというジンクスがあったそうで、
お店がいっぱいできたんだそう。森のなかまは「そうでも言わないとお店が入らないからでしょ」というんですが、
じっさい築地は水産物流通量が世界一になったぐらい繁盛したんだから、そのジンクスほんとかも知れん。。。
とくに悪気のないさびしがりの幽霊がおいでおいでしてるんですかね。
上のホームページには面白いエピソードがいっぱいのってるんですが、たとえば武家屋敷の多かった頃は、
そこを目当てに問屋や仲買が集中し、御米蔵(おこめぐら)の周辺には搗米屋(つきまいや・精米する所)が沢山できたけれど、
海岸地のため米がふやけてしまうので、浅草の蔵前に移転したんだそうです。そうか、それで蔵前っていうのか・・!
(ちなみに当時の精米は大変に手間と人手のかかる作業で、農閑期に地方から来る出稼ぎの人が多く働いていたそうです。)
焼肉屋さんもあるぞ。築地で働いてる人向けでしょうか。たまにはお肉も食べなきゃね!
築地の外国人居留地は今ひとつ受けが悪かったようで、当時栄えていた横浜に行ってしまう人が多かったようです。
これ、なんとなくわかるような気がするんですが、アメリカから開港を迫られた時に、幕府は東海道の直結していた神奈川宿・神奈川湊を避けて、海岸の寒村にすぎなかった横浜村を指定し、だからほとんど何もないような所に一から新しく港町を造ったわけだけれど、築地は武家屋敷や本願寺の寺町で江戸の要所として栄え、すでに土着の住民コミュニティががっちり出来上がっていたような土地だから、やっぱり新参の、しかも異邦人には相当なじみがたかったんじゃないのかなあと。。なにせまだ開国したばっかですしね。
でも、横浜駅や新橋駅と同じ人が設計した築地ホテルが開業し、火事で焼失するまでのわずか五年ながら、名所として有名になり、
浮世絵などに描かれているそうです。へええ、この建物面白い!
でも、時代の趨勢に合わないと、たとえ評判になっても廃れてしまうもんなんですね。ああ、今も残ってたらなあ。。。
あと謎なのが、幕末に大名たちが江戸からいなくなって、武家屋敷が荒れ放題になったっていう話。
あんまり荒れすぎちゃって、武家の土地に桑畑や茶畑作れと幕府から奨励が出るくらいだったそう。
アメリカが商売の上客として当てこんでた大名たちがすっかりいなくなってしまい、居留地の衰退に拍車がかかったらしいです。
この間行った青山の根津美術館も、もとは武家屋敷だったのを東武グループのえらい人が買い取って庭園にしたものだったし、
なんでそんなに一斉に裾からげて逃げるみたいに江戸から消えたんだろ。。大名ミステリー。
この形の駐車場、ちょっとなつかしくありませんか?こんなの流行った時期ありましたよね。昭和っぽい。
暑い中、地中を掘って何かの工事をしていました。ほんとは作業してるおじさんの姿とかも入れて写真撮りたかったけど、
なかなかこう、気おくれして撮れませんで。。。でも、入ると写真が生きるんですよね。町のメンテナンス部隊だよ〜
このガラス戸を見かけることも珍しくなりました。
ガチガチの鉄っぽくて重そうなおっさん自転車。現役かしら。。荷台が広く作ってあるのがいかにも市場らしい感じ。
と、こんな感じで築地場外市場、絵になりますでしょう。
これでも候補写真から結構けずったんですが、気に入った写真が多くて悩みました。自画自賛。
ほんとにこういう町は撮ってて飽きが来ないです。歴史や生活が見える町。
場内へと続く。まだまだ。
築地には場外と場内があるそうで、場外は商店街のように小売店や飲食店などが軒を並べていますが、
場内は門から入るようになっていて、中が広々としてトラックや荷物を運ぶ小さなカートが行き交ってる感じです。
どちらも一般の人でも入れるけれど、早朝の時間帯は仕事で買い付けに来てる人たちが多く、殺気だってるらしいので、
観光には十時すぎてからの方がよいようです。
私が行ったのは夕方の四時頃で、場外のお店はほとんどシャッターが閉まり、人影もまばら。
白衣を着たおじさんたちが路地の喫煙所とかでまったりしてました。
この辺りから場外市場のようです。通りをはさんで向かい側はオフィスビルの並び。
この時間になってもやってるお寿司屋さんは少ないようです。立ち食いがいかにも築地っぽいですね。
シャッター閉まりまくり。けど、何かすごく活発に動きがあった後のような雰囲気が。。嵐のあと?
奥に見える「マコ」という喫茶店の看板には「珈琲・雑煮」と書いてあります。オールシーズンお雑煮?真夏も??
しゃがみこんでスマホをする若者のマナーはあんま好きませんが、こうするとなんかニューヨークのダウンタウンみたいで絵になるな。。。
白衣が仕事着なんですね。お寿司屋さんがいっぱい!
さてここで、唐突に築地の歴史まとめ。
築地場外市場の公式ホームページに書いてあったことをダイジェストにすると、大体こんな流れになります。
築地豆知識を人に自慢したい時には、一応原典にあたってください。間違ってても責任は負いかねます。免責!免責!
明暦の大火で被災した本願寺が、門徒たちが埋め立てた築地に移転してくる。
この頃はまだ築地とは呼ばれず、南小田原町と名づけられる。ほぼ寺と墓地。
↓
現在の築地市場にあたる場所には老中松平定信の下屋敷があり、隠居後に浴恩園という豪著な庭園をつくる。
↓
幕末期に外国人居留地が設けられ、場所によっては洋風の町になるが治安が悪く今ひとつ、明治32年の条約改正時に廃止になる。
堀田家中屋敷に軍艦教授所ができ、勝海舟が学長相当の役につく。
明治維新後、新政府のもとで浴恩園の跡地に海軍省がつくられ、庭園の大池が艦船用のドックにつくりかえられる。
大名たちが江戸からいなくなってしまい、武家屋敷が荒れ放題になる。
五千坪の屋敷跡を大隈重信が買い取って邸を建て、後の有名人多数が寄宿して梁山泊と呼ばれる。
↓
関東大震災後に区画整理が行われ、晴海通り開通で町が分断される。
震災で焼失した日本橋魚河岸が移転してきて、海軍の用地に東京都中央卸売市場築地本場(場内)ができる。
本願寺の墓地が移転した跡地に水産物商などが入り、場外市場が形成される。世界一の水産物流通量。
東京オリンピックの頃に築地川が埋め立てられ、町名が築地に変わる。
つまり、さらに大ざっぱにまとめると築地は
寺&武家屋敷→外国人居留地→海軍→市場
という風に変わって来たわけなんですね。なんという変わりっぷり!
(※細かくは、全体が一斉に変わるのではなくて、部分ごとモザイクのように変わっていったようです。)
私は、築地は江戸時代からずーっと魚河岸だと思ってたので読んでビックリしました。
場外入ってすぐぐらいの所に、高い塀に囲まれた狭い墓地があってちょっと驚いたんですが、
むしろあの墓地の方がもともとだったのか。。。
ていうか高野山や比叡山のように、本願寺を総本山とする、浄土真宗の寺町みたいな感じだったようです。
関東大震災後に墓地の多くは移転してしまうんですが、墓地の跡地で商売すると繁盛するというジンクスがあったそうで、
お店がいっぱいできたんだそう。森のなかまは「そうでも言わないとお店が入らないからでしょ」というんですが、
じっさい築地は水産物流通量が世界一になったぐらい繁盛したんだから、そのジンクスほんとかも知れん。。。
とくに悪気のないさびしがりの幽霊がおいでおいでしてるんですかね。
上のホームページには面白いエピソードがいっぱいのってるんですが、たとえば武家屋敷の多かった頃は、
そこを目当てに問屋や仲買が集中し、御米蔵(おこめぐら)の周辺には搗米屋(つきまいや・精米する所)が沢山できたけれど、
海岸地のため米がふやけてしまうので、浅草の蔵前に移転したんだそうです。そうか、それで蔵前っていうのか・・!
(ちなみに当時の精米は大変に手間と人手のかかる作業で、農閑期に地方から来る出稼ぎの人が多く働いていたそうです。)
焼肉屋さんもあるぞ。築地で働いてる人向けでしょうか。たまにはお肉も食べなきゃね!
築地の外国人居留地は今ひとつ受けが悪かったようで、当時栄えていた横浜に行ってしまう人が多かったようです。
これ、なんとなくわかるような気がするんですが、アメリカから開港を迫られた時に、幕府は東海道の直結していた神奈川宿・神奈川湊を避けて、海岸の寒村にすぎなかった横浜村を指定し、だからほとんど何もないような所に一から新しく港町を造ったわけだけれど、築地は武家屋敷や本願寺の寺町で江戸の要所として栄え、すでに土着の住民コミュニティががっちり出来上がっていたような土地だから、やっぱり新参の、しかも異邦人には相当なじみがたかったんじゃないのかなあと。。なにせまだ開国したばっかですしね。
でも、横浜駅や新橋駅と同じ人が設計した築地ホテルが開業し、火事で焼失するまでのわずか五年ながら、名所として有名になり、
浮世絵などに描かれているそうです。へええ、この建物面白い!
でも、時代の趨勢に合わないと、たとえ評判になっても廃れてしまうもんなんですね。ああ、今も残ってたらなあ。。。
あと謎なのが、幕末に大名たちが江戸からいなくなって、武家屋敷が荒れ放題になったっていう話。
あんまり荒れすぎちゃって、武家の土地に桑畑や茶畑作れと幕府から奨励が出るくらいだったそう。
アメリカが商売の上客として当てこんでた大名たちがすっかりいなくなってしまい、居留地の衰退に拍車がかかったらしいです。
この間行った青山の根津美術館も、もとは武家屋敷だったのを東武グループのえらい人が買い取って庭園にしたものだったし、
なんでそんなに一斉に裾からげて逃げるみたいに江戸から消えたんだろ。。大名ミステリー。
この形の駐車場、ちょっとなつかしくありませんか?こんなの流行った時期ありましたよね。昭和っぽい。
暑い中、地中を掘って何かの工事をしていました。ほんとは作業してるおじさんの姿とかも入れて写真撮りたかったけど、
なかなかこう、気おくれして撮れませんで。。。でも、入ると写真が生きるんですよね。町のメンテナンス部隊だよ〜
このガラス戸を見かけることも珍しくなりました。
ガチガチの鉄っぽくて重そうなおっさん自転車。現役かしら。。荷台が広く作ってあるのがいかにも市場らしい感じ。
と、こんな感じで築地場外市場、絵になりますでしょう。
これでも候補写真から結構けずったんですが、気に入った写真が多くて悩みました。自画自賛。
ほんとにこういう町は撮ってて飽きが来ないです。歴史や生活が見える町。
場内へと続く。まだまだ。