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あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

加藤典洋著「日の沈む国から」を読んで

2016-10-18 11:04:30 | Weblog


照る日曇る日 第902回



おととしの「人類が永遠に続くのではないとしたら」、去年の「戦後入門」に続く著者の最新の政治・社会論集が早くも登場しました。

全国民必読の記念碑的力作「戦後入門」の熱いたぎりの余韻を残す論考が、すでに日の残りを勘定しているわたくしの老いたる両眼を、はっし発止と打ちのめすのですが、くわしくは皆様の御手にとって頂くとして、今回トピックスとしてお伝えしたいのは今は亡き硬骨のジャーナリスト中村康二氏についての情報でした。

著者によれば、1975年10月31日、当時ロンドン・タイムズの特派員であった中村氏は、日本人として初めて、訪米後の記者会見を行った昭和天皇に対して、次のような質問を行ったそうです。(本書177ページより引用)

「天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」という発言がございましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします」

これに対する天皇の返答は、以下のようなものでした。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまりも研究してないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答ができかねます」

「言葉のアヤ」とか「文学方面」とはよくも言うたりですが、天皇としてはあまりにも突然の予期せざる質問であったために精神的に動揺した結果、このような不可解な遁辞を弄したのか、または、自分の中で確たる答えを持たなかった、或いは、持っていたがこの場で発言することを控えた、のいずれかでしょうね。

しかし、期待した答えを引き出すことは出来なかったものの、これが「天皇の戦争責任」について、日本人が、直接当の本人に面と向かって、問いを発した唯一無二、千載一遇の機会であったことを思うと、著者も感嘆している中村氏の勇気と不屈のジャーナリスト魂には強く打たれます。

筑摩文庫の「天皇百話」下巻の632ページには、この時の記者会見の全文が当時の朝日新聞から引用されていますが、これは全体的に親和的な雰囲気の応答の中から突如飛びだした、まるで氷の刃のように鋭利な関連質問だったようです。

これに勢いを得たのか、当日は中国放送の秋信利彦記者からも「広島への原爆投下をどう思うか?」という関連質問が飛び出し、天皇からは「遺憾には思うが、こういう戦争中であるからどうも広島市民には気の毒ではあるがやむをえない」というそれこそ亡国的な情けない答弁を引き出しています。

これに驚いた宮内庁の宇佐美長官は、その夜あわてて「やむをえなかったというのは自分にはどうしようもなかったという意味だ」という趣旨のコメントを出して、火の粉をもみ消そうとします。

が、77年の那須の記者会見では、昭和天皇は「人間宣言は5カ条の御誓文の精神を強調したものであって「神格否定は2の次」である」と断じ、おまけに「国民」と言うべきところを「赤子」と口走ったためにマスコミが騒ぎだしたので、とうとう宇佐美長官は、「私の眼の黒いうちは天皇会見は絶対にさせません」と宣言するに至ったのでした。

しかしながら1970年代の天皇や皇室関連のこうしたまっとうな肉薄は、最近ではすっかり影を潜め、安倍蚤糞への体制批判すら出来ないジャーナリズムと似非ジャーナリストどもが横行しているのは、まことに嘆かわしい限りです。


  どれもみな同じように聴こえてしまう全国中学生合唱コンクール 蝶人

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