あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2012年卯月 蝶人狂歌三昧

2012-04-30 08:31:04 | Weblog


ある晴れた日に 第107回


キーンさん、日本人になってくれてありがとう!

ダルが投げイチローが打つ愉楽哉

梅開きにわかに蛙声聴こゆれば一首詠まずにおらりょうか

桜万朶関東平野駆け巡る

われ行けば万朶の桜関東平野

わが庵の主となりぬ島桜

桜咲く無神論者の庵哉

櫻見るなんの己が櫻哉

櫻とう櫻咲かせて歌を詠む大和心に変はりあるなし

今宵かぎりの夢撒き散らす櫻かな

浅き夢残して今朝は櫻散る

豪奢なる幻残し櫻散る

気が付けば花散里となりにけり

惜しみなく花降る道を歩みけり

論理学専門の学生部長神沢惣一郎氏大衆団交で論理が破綻

反論できない主張はなく論破されて宗旨変えする純朴な人間もいない

俳諧を第二芸術などと侮蔑した男ももう死んだ

罪咎の欠片も無しに虫けらのごとく息絶ゆ神なき人の世

われのことを三白眼の狂四郎と言いし男をまだ憎みおり

朝な夕な母と息子と余に尽くす野菊の如く可憐なる妻

門毎に春を告げゆく紋白蝶

解脱せよ解脱せよと説きながら儚くなり給えり小泉画伯

小泉画伯より頂戴したる成城風月堂のカステラを喰い尽くしたり

セザンヌは雷電に撃たれて斃れたり「庭師ヴァリエ」に白塗らんとして

100点のセザンヌより1点のアンリ・ルソー

フェルメールの良さが分からぬ男哉

視聴率を捨て最高視聴質を目指せ皆様のNHK 

フクシマの惨禍再来を待つと言うのか稼働を急ぐアホ馬鹿民主党

稼働基準の前に原発容認を国民に問え野田政権

明日は各地で落雷があるでせうと嬉しそうな顔で予報するなお天気男

アホ馬鹿と怒鳴りアホ馬鹿と罵るたびにアホ馬鹿野郎と成り果ててゆくアホ馬鹿野郎

いいねいいねと内輪褒めしているうちに沈没していく私たち

年毎に栗の匂い失いゆくかわがザアメン

粥の如き精液が出る男哉

やよ古井由吉。君は舌なめずりしながら女をペンで犯す文学者也

その男尾籠なれどもぐぇいじゅつ家

あまでうすかく語りき「万物退化す」


帰玄

君はもう見知らぬ土地へは行かないだろう
既に幾つもの風景を見てきたのだから
君は愛犬の傍らに座して思い出すだろう
あれらの土地に吹いていた風の匂いと光のいろを

君はもう本を読まないだろう
いくら朱線を引いても人の世は分からないのだから
君は海に突き出した半島の先端に立って
万巻の書物を水平線に向かって投じるだろう

君はもう音楽を聴かないだろう
どの和音も壊れたオルゴオルのように響くのだから
むしろ君は宙天高く舞い上がって
喉涸れるまで雲雀のように歌うだろう

君はもう新たな出会いを求めないだろう
胸痛む無言の別れを伝えてきたのだから
君は埃に塗れた十年連用日記を繰りながら
在りし日のあの人の面影を偲ぶだろう

君はもう夢を見ないだろう
目覚めているときにもそれを見ているのだから
君は春風に舞うギフチョウを追って
今日こそ懐かしいあの場所へ帰るのだ



星を歌う菫を愛でるわれはめでたき平成浪漫主義者 蝶人


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マリオ・バルガス=リョサ著「チボの狂宴」を読んで

2012-04-29 09:38:27 | Weblog


照る日曇る日第512回

 ドミニカ共和国を30年以上に亘って完璧に独裁したトルヒーヨの全盛時代とその栄光の座からの転落を、あざやかに描破した南米文学の最高傑作です。

 この「祖国の恩人」、「国家再建の父」が、その持って生まれた才覚と熱情と勤勉を武器に軍事政治経済社会の中枢を一身に掌握していく有様、また奴隷のように盲従する手下たちの己むを得ざる卑しさ、そして独裁に挑むテロリストの命懸けの陰謀の進行を、私たちは隣室で見聞きしているような臨場感と共に手に汗握って体感できるのです。

 しかも著者は、数多くの歴史上の実在人物が登場するこのドキュメンタリーな物語を、時系列を無視した人物ごとの複合的な視点からいくたびも語り直すので、その都度小説は新たな輝きと微妙な陰影を帯びて歴史の裏舞台からいきいきと立ち上がります。 
 
 漸くにして独裁者を斃したにもかかわらず、味方の将軍の裏切りで捕えられ、陰嚢を切断されるなど身の毛もよだつ拷問の末に惨殺されてゆく暗殺者たちの末路こそ哀れなるかな! しかもあと数カ月年生き延びれば「英雄」の称号が贈られたとあれば、歴史の皮肉と野蛮を痛感せざるをえません。

しかしこの小説で一番印象に残ったのは、「チボ(発情期の雄山羊)」と呼ばれた大元帥の挫折のシーンです。美しき人身御供の無数の処女膜を強靭な男根で次々と突き破ってきた不敗の独裁者は、本書のヒロイン、ウラニア嬢のフェラチオをもってしても勃起しません。怒りにまかせてそれを指で破った後で70歳の老人はついにおいおいと泣きだすのですが、この回春の狂宴、一転して梟雄の屈辱の夜こそが、独裁制の実質的な終焉の刻だったのです。

粥の如き精液が出る男哉 蝶人
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川島雄三監督の「幕末太陽傳」を見て

2012-04-28 10:09:35 | Weblog





闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.233



若くして病に斃れた奇才の代表作である。維新も間近な品川の遊郭を舞台に、遊女や町人や勤王の武士たちが終始駆けずり回る。

余命いくばくもない商人に扮したフランキー堺が、これら多士済々の登場人物を手玉に取ってそれぞれ「いいように」してやるのが本作のみどころだが、死んでたまるかとばかりに宿をあとにするフランキーの姿に夭折した川島の絶望と希望がこだましている。そしてそのBGMには滝廉太郎の遺作「憾」のピアノがうつろに鳴り響いている。ラストを冒頭と同様に現代の品川で締めなかったのが、かえすがえすも口惜しい。


いつも映画に出ると妙なことになる石原裕次郎が、これまた若死にする高杉晋作を演じてあっけらかんと嵌っているのも見ものだが、遊女のライバル左幸子(美しい!)と南田洋子の本気の喧嘩がすさまじい。

てなことを書き飛ばしてはみたが、川島は1963年に死ぬまでに18本もの映画を撮っているから、以て瞑すべしか。享年45。




       櫻散る無神論者の庵哉 蝶人
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ビリー・ワイルダー監督の「失われた週末」を見て

2012-04-27 09:40:26 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.232

1945年の米ハリウッド映画です。

わが国ではアルコール依存症の患者がおよそ30万人もいるそうだが、これも小説家志望の呑んだくれの話。おのれの才能に絶望してなんども何度も酒におぼれていく弱い人間をワイルダーは冷酷に見詰めている。ここにはオーストリアに生まれユダヤ人としてナチに追われた彼のベルリン時代の記憶が、反映されているのではないだろうか。

そんな駄目男レイ・ミランを最後まで見守り励ましてくれる恋人ジェーン・ワイマン(レーガン大統領の最初の妻だった)と兄フィリップ・テリー。忍耐と慈愛に満ちた彼等がいなければ主人公はきっと破滅していたに違いない。そんな一筋の人間の絆をワイルダーは温かく見詰めている。

結局主人公は自分の過酷な体験ともういちど向き合い、痛苦に満ちた表現者となることによって新しい第2の人生を歩み始めるのである。


わが庵の主となりぬ島桜 蝶人



*雑貨女子に告ぐ! パリ買い付けの”安カワ”雑貨を、高円寺で期間限定販売!

私の友人が2月に買い付けたフレンチ雑貨が1000円前後で超お買い得サービスになるそうです。連休の近場のお出かけにどうぞ!

とき 5月3~27日  ところbecome works!! Koenji(高円寺北口徒歩2分)
 
定休日 月・火 
時間  12時~18時
電話  03-3330-8777
住所・地図はhttp://becomeworks.com/

イメージはこちら

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古井由吉著「古井由吉自撰作品一」を読んで

2012-04-26 09:16:59 | Weblog


照る日曇る日第511回


全8巻の刊行が開始された本シリーズであるが、第1巻の本書では1971年に発表された「杳子」「妻籠」、72年の「行隠れ」、76年の「聖」という著者の初期の代表作が収められている。

「杳子」では、山登りの途中で偶然行き悩んでいる杳子と知り合った男性の視点で、精神の病に冒された若い女性との神経がひりつくような激烈な交渉を描いて読者を圧倒する。なんといっても凄いのは著者の女性心理をレントゲンで透視するような鋭い観察眼で、障碍に苦しむ杳子の奇妙な行動や立ち居振る舞いを微細に冷徹に散文に定着する作家の筆の冴えは、ほとんど偏執狂に酷似する。

ただし本書86ページ上段最終行の「まるで自閉症の女みたいに、何を言われても、そっくり同じ表情で、同じ返答を依怙地にくりかえしている」という表現は、この障碍の本質の完全な誤解に基づく表現なので版元は一刻も早く訂正するか削除して欲しい。

5つの短編からなる「行隠れ」は、両親と2人の姉で構成される山方家の人々を、主人公である弟の康夫の視点で描いた連作小説である。

「その日のうちに、姉はこの世の人でなかった」

という冒頭の謎めいた1行に導かれた読者は、たちまち物語の底知れぬ深みに向かって墜ちてゆき、最後の1行までうむを言わさず読まされてしまう。これぞ昭和日本文学が打ち樹てたロマンの金字塔であり、全ての読者が小説を読むことの恐ろしさと楽しさを満喫するだろう。

ところがその「行隠れ」よりも物凄いのが「聖」の世界で、ここでは東京から迷い込んだやさぐれ中年男が、村に先祖代々伝わる聖なる放浪者サエモンヒジリの衣鉢を継ぎそうになる話だが、ここでも村の女との蛇がうねうねでんぐり返るような交情が異彩を放つ。げに古井由吉とは、舌なめずりしながら女を書き犯す文学者である。なお朝吹真理子とかいう小説家が、「史上最低の解説文」を書いているので、これまた必読ですぞ。


やよ古井由吉。汝は舌なめずりしながら女をペンで犯す文学者也 蝶人
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ジェームズ・キャメロン監督の「アビス」を見て

2012-04-25 09:57:43 | Weblog

闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.231


「タイタニック」で知られるこの監督は、ともかくやたら海と潜りが大好きだ。沈没したタイタニック号の周辺海域には何度も潜って撮影しているし、先日は単身「ディープシー・チャレンジャー」を駆って世界最深1万911メートルのマリアナ海溝チャレンジャー海淵に着地し、3Dカメラで撮影までしてのけたのである。

 従ってこの映画でも冷戦時代のアメリカの原子力潜水艦やら軍の特殊部隊員や石油採取会社のあらくれ男女が自在に乗り回す捜査艇、おしまいにはなぜか深海で活動するクラゲ状の宇宙人と大艦隊まで出現して、てんやわんやの大騒ぎとなるが、基本的には正統的な夫婦恋愛物語であり、大山鳴動してネズミ一匹というところか。

 内容は空疎でもともかく陸海空とあくまで巨大なスケールを描こうとするこの監督の精神構造は特異なものがあり、映画よりもそこに興味を引かれる。ヒロインのメアリー・エリザベス・マストラントニオが可愛らしい。


反論できない主張はなく論破されて宗旨変えする純朴な人間もいない 蝶人
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家城己代治監督の「姉妹」を見て

2012-04-24 08:24:23 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.230


野添&中原の両ひとみ選手が仲の良い姉妹を共演しています。実際にはおしゃまな後者が背が高くて大人っぽい前者より僅かに年配なのですが、とてもいい配役です。

舞台は昭和30年代の信州松本という設定になっていて、貧乏、病気、痴話喧嘩、労働争議と首切りなどのいろんな挿話が積み重ねられていくのですが、いつも元気で明るく歌をうたって(日共の歌声運動の影響か?)いる愛すべき「ひとみちゃんず」に魅了され、家族の生計を慮った姉が好きな男性を思い切っておんぼろバスに乗ってお嫁入りするラストではじんわりと涙腺が緩んでくるのでした。

ただし結核に冒された家族を見舞いに行った妹が、彼らの悲惨な暮らしに同情するあまり、金持ちで不幸な知り合いの家族を引き合いに出して「きっと悪いことばかりしていたから片輪になった」なぞと口走るのは、当時としても明らかに差別発言。いちおうカトリックという設定になっているから、なおさらのことです。

それにしても昔の女子学生は貧しくとも元気よく挨拶していたようですね。当節の豊かでも元気のない若者とは大違い。きっと今の方が精神的に満たされていないのでせう。


フェルメールの良さが分からぬ男哉 蝶人
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ルイ・マル監督の「死刑台のエレベーター」を見て

2012-04-23 08:12:45 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.229


アンリ・ドカエのキャメラによるモノクロームに映えるジャンヌ・モローとモーリス・ロネのなんと若々しく美しいことよ! 1958年の巴里が懐かしい。

夜のアウトドア撮影、即興的な編集、マイルス・デイビスのジャズなど、当時としては斬新な演出を試みてはいるが、それは表面だけでひと肌めくれば本質的には2つの恋の破綻を描く昔ながらの世話物映画なり。

社長夫人が恋人に頼んで夫を殺させ、恋人は事故でエレベーターの中に一晩中閉じ込められる。その間に恋人の車、拳銃を盗んだ若い恋人たちが殺人事件を起こしたりするが、こういう流動する人物とプロットを最後にがっつりと受け止めカタストロフを終始させるのがリノ・バンチエラ扮する刑事の頑強な肉体で、この男が登場した途端に浮遊し情動していた行く宛てなしのドラマがやっと着地する古典的な仕掛けだ。

あとの写真現像室でのモロオの哀愁やら慨嘆なぞはグリコのおまけ。むしろこの作家の旧い古い体質をあらわにしている。

もっと旧弊な点は一見無軌道な若者たちの描き方で、彼らが睡眠薬で自殺しようとする場面で流れているのはなんとボッケリーニのメヌエットなのである。未来に絶望して自爆するゴダールの若者像などとは同じヌーベルヴァーグ作家といってもずいぶん作風が異なる。


小泉画伯より頂戴したる成城風月堂のカステラを喰い尽くしたり 蝶人

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文化学園服飾博物館の「ヨーロピアン・モード」展を見て

2012-04-22 10:34:52 | Weblog


ふぁっちょん幻論第69回& 茫洋物見遊山記第86回&バガテルop153


毎年春の新学期になると陳列されるのが、この貴重なドレスコレクションだ。18世紀のロココ時代から1970年代までおよそ200年間の欧米の多種多彩なモードを一覧できるので大変面白くかつ勉強になる。
どこが面白いかと云うと各時代の衣装がロココ、新古典、ロマン、写実、印象派、そして20世紀絵画へと続く美術史の意匠と図式的にほぼ対応しているように見え、しかもそれが時代の進行とともに「進歩・進化しているように」見えることだ。

しかしこれはもちろん現代という時点にまでさかのぼって歴史絵巻を拡げた時にはじめて総括できる「人間非在の神の視点」からの幻影であり、その時系列による変化・変遷が「進歩・進化」とはなんの関係もないことに注意する必要があるだろう。

かつて一斉風靡した唯物史観によれば、衣装史や美術史はもちろん世界の歴史それ自体も暗黒時代から文明開化、階級抑圧から自由平等博愛の時代へと未来に向かって一義的に「進歩→進化」するという証明不可能な奇怪な薔薇色の妄想に包まれていた。

けれどもこういうドレスのプリントデザインを一つ一つ眺めていると、過去の定説とは正反対に(注=ここで「真逆」などという汚らわしい非日本語を使用してはならない!)、時代の進行とともに衣装の意匠の価値は紆余曲折を重ねながらも、むしろ徐々に「退歩・後退」してきたのではないか、という新たな妄想に駆られるのだ。

もっと具体的にいうと、服飾においては流行のファスト・ファッションよりもマリー・アントワネットのロココドレス、いな、さらに遡って新石器時代の一枚衣・貫頭衣、美術においては村上隆、ボロック、セザンヌよりもラスコー洞窟の壁画、建築ではアホ馬鹿共が狂って登りたがる東京スカイツリーより出雲大社に普遍的な価値を見出すというような反進歩反進化先祖返りの原始的な考え方である。 

こういう時代遅れの妄想を私は「あまでうすの逆行学説」と名付けてけふも独り悦に入っているのだよ。


*本展は来る6月2日まで東京新宿の同館にて開催中。なお日曜祝日は休みです。


          あまでうすかく語りき「万物退化す」 蝶人

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文化学園服飾博物館の「ヨーロピアン・モード」展を見て

2012-04-22 10:34:52 | Weblog


ふぁっちょん幻論第69回& 茫洋物見遊山記第86回&バガテルop153


毎年春の新学期になると陳列されるのが、この貴重なドレスコレクションだ。18世紀のロココ時代から1970年代までおよそ200年間の欧米の多種多彩なモードを一覧できるので大変面白くかつ勉強になる。
どこが面白いかと云うと各時代の衣装がロココ、新古典、ロマン、写実、印象派、そして20世紀絵画へと続く美術史の意匠と図式的にほぼ対応しているように見え、しかもそれが時代の進行とともに「進歩・進化しているように」見えることだ。

しかしこれはもちろん現代という時点にまでさかのぼって歴史絵巻を拡げた時にはじめて総括できる「人間非在の神の視点」からの幻影であり、その時系列による変化・変遷が「進歩・進化」とはなんの関係もないことに注意する必要があるだろう。

かつて一斉風靡した唯物史観によれば、衣装史や美術史はもちろん世界の歴史それ自体も暗黒時代から文明開化、階級抑圧から自由平等博愛の時代へと未来に向かって一義的に「進歩→進化」するという証明不可能な奇怪な薔薇色の妄想に包まれていた。

けれどもこういうドレスのプリントデザインを一つ一つ眺めていると、過去の定説とは正反対に(注=ここで「真逆」などという汚らわしい非日本語を使用してはならない!)、時代の進行とともに衣装の意匠の価値は紆余曲折を重ねながらも、むしろ徐々に「退歩・後退」してきたのではないか、という新たな妄想に駆られるのだ。

もっと具体的にいうと、服飾においては流行のファスト・ファッションよりもマリー・アントワネットのロココドレス、いな、さらに遡って新石器時代の一枚衣・貫頭衣、美術においては村上隆、ボロック、セザンヌよりもラスコー洞窟の壁画、建築ではアホ馬鹿共が狂って登りたがる東京スカイツリーより出雲大社に普遍的な価値を見出すというような反進歩反進化先祖返りの原始的な考え方である。 

こういう時代遅れの妄想を私は「あまでうすの逆行学説」と名付けてけふも独り悦に入っているのだよ。


*本展は来る6月2日まで東京新宿の同館にて開催中。なお日曜祝日は休みです。


          あまでうすかく語りき「万物退化す」 蝶人

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ダメダバダアエヌエッチケエ

2012-04-21 09:26:08 | Weblog


バガテルop152&♪音楽千夜一夜 第256回



春です、新学期です、新番組でやんす。

超保守派の私は民放が嫌いで日本放送協会の放送を好むんだけど、それは同じアホ馬鹿でもアホ馬鹿度がかなり低いからだ。特にそれは報道番組や特集で顕著に現れ、「皆様のNHK」においてはそれなりのアナウンサーがそれなりに客観的にニュースを伝えているのに対して、多くの民放局では放送時間が超短く、アナウンサーの日本語の発音が歪んでいて情報の優先順位や重要度の価値観が混乱しているのみならず、報道を劇場化・芸能化・漫画化して伝えようとする傾向が甚だしいのであまり見ないようにしているのだよ。

 しかし春の番組編成でNHKは訳の分からぬ新番組を始めたね。お昼のニュースの後でなぜかクイズ番組がはじまり産休明けダブルベービーの武内アナが司会を命じられているようだが、彼女はNY帰りの島津アナともどもミスキャストだす。もっと活かすポストを与えるべし。and天気予報で下らないダジャレを吐いている眼鏡男も即消えろ。

されどいわゆるひとつの音楽への無私の献身&愛情のひとかけらもなく、恐るべき主体性&音楽感性零の技術ロボットで、さなきだにそのテクも一部の優れた学生オケやアマチュア団体より下に位置する超ユルイ井の中の蛙&官許専売公社N響の「なんちゃってアワー」を止めたのは結構毛だらけ猫灰だらけで、できれば耳汚しのN響自体も明日解体し、大阪の教育文化弾圧大好きハシズム市長からいじめられている優れた民間オケに補助金として差し出してほしいものだ。

彼らやサイトウキネンが秘かにうぬぼれて日本一を自認している間にチョン・ミョンフン率いるソウル・フィルが東洋一、いな世界的水準のオーケストラを育成し、なんと独グラモフォンと契約していたなんて誰も知らないだろう。悔しかったらこの名コンビによるマーラーの交響曲1番と2番、フランス音楽の録音を聴いてみなさい。

それはともかく、一等解せないのは読書人必見の「週刊ブックレビュー」を止めたこと。司会や出演者には異論もあったが、「戦争証言記録」「世界ふれあい街歩き」とともにこれこそNHKが続けるべき番組ではなかったのか。

 もっと許せないのは「サラリーマンNEO」が姿を消したことじゃ。これはお笑い無き民放の白痴低能のアホ馬鹿バラエティを巷に低く見るわが国で唯一無二の正統的コント番組であった。一日も早く復活してほしいものである。


 
視聴率を捨て最高視聴質を目指せ皆様のNHK 蝶人


アホ馬鹿と怒鳴りアホ馬鹿と罵るたびにアホ馬鹿野郎と成り果ててゆくアホ馬鹿野郎 蝶人

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ある晴れた日に  第106回

2012-04-20 10:09:31 | Weblog
帰玄

君はもう見知らぬ土地へは行かないだろう
既に幾つもの風景を見てきたのだから
君は愛犬の傍らに座して思い出すだろう
あれらの土地に吹いていた風の匂いと光のいろを

君はもう本を読まないだろう
いくら朱線を引いても人の世は分からないのだから
君は海に突き出した半島の先端に立って
万巻の書物を水平線に向かって投じるだろう

君はもう音楽を聴かないだろう
どの和音も壊れたオルゴオルのように響くのだから
むしろ君は宙天高く舞い上がって
喉涸れるまで雲雀のように歌うだろう

君はもう新たな出会いを求めないだろう
胸痛む無言の別れを伝えてきたのだから
君は埃に塗れた十年連用日記を繰りながら
在りし日のあの人の面影を偲ぶだろう

君はもう夢を見ないだろう
目覚めているときにもそれを見ているのだから
君は春風に舞うギフチョウを追って
今日こそ懐かしいあの場所へ帰るのだ


解脱せよ解脱せよと説きながら儚くなり給えり小泉画伯 蝶人
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ロナルド・ニーム監督の「ポセイドン・アドベンチャー」を見て

2012-04-19 13:54:34 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.228


一九七二年製作のパニック映画の秀作です。タイタニックを思わせる海難事故で突如沈没してしまった巨船ポセイドン。天地がさかさまになってしまった地獄絵のような状況で、ジーン・ハックマン扮する牧師が身を犠牲にして獅子奮迅の大活躍をするのですが、興味深いのはこの牧師の信仰のありかたです。

同じ映画に登場するおとなしく祈るだけの牧師とは大違い。患難汝を玉にする、ではないけれど、たえず人智を尽くして考え、あきらめずに最後の最後まで行動する点が素晴らしい。

人世誰しもいつでもどこでもこういう危機がいっぱいだけど、いざ彼等と同じ局面に陥ったら、どのように振舞えるのか。そういう究極の危機管理、自分の落とし前の付け方の教訓譚としても身につまされてお勉強になります。


罪咎の欠片も無しに虫けらのごとく息絶ゆ神なき人の世 蝶人
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日出山陽子著「尾崎翠への旅」を読んで

2012-04-18 07:25:21 | Weblog


照る日曇る日第510回

尾崎翠という人についても、その作品についてもこの年になるまでまるで知らなかったことを激しく後悔している今日この頃ですが、世間では数多くの熱烈なる翠ファンが地下茎のようにうねうねと寂しく繁殖しているようです。

彼女の作品に魅せられて以来茫々35年。雑誌「エスプリ」昭和10年1月号の広告で尾崎翠の「短編作家としてのアラン・ポオ」という幻の原稿を発掘したり、作品全集の年譜作成まで手掛けておられる小生のミク友の著者などは、さしずめその代表選手なのでしょう。

この本には、激務の合間を縫って図書館で資料を渉猟したり、翠の生地鳥取をはじめ各地のゆかりの知人や縁者に直接面会して得られた貴重な情報や論考が、全部で9篇並んでいますが、いずれをとってもまるで地を這うような地道な作業と執拗な思索が生んだかけがえのない珠玉の労作ばかりで、そこには翠とその作品に対する著者の心の底からの愛情が感じられます。

特に7番目の「春の短文集」では、翠の同名の作品に出てくる「3時13分」という時刻をめぐる著者の推察と想像が生彩を放ち、さながら松本清張の推理小説のような面白さとリアリティを現出しています。同時代の作家林芙美子や大田洋子と翠の交友や「こほろぎ嬢」を巡る考察も「成程なあ」とじつに腑に落ちますが、翠の生涯の親友であった松下文子が生前著者に語った「尾崎翠という人」こそは、本書の白眉中の白眉ではないでしょうか。以下原文のまま引用させていただきます。

「色が白く肌がきれい、背は5尺あるかないか、痩せているが骨太、いかり肩で手が大きい、目は一重、少しウェーブのかかったやわらかな赤い髪、声はアルト。竹を割ったような性格で嘘が嫌い、内向的で社交性なし。宵っ張りの朝寝坊。散歩は嫌いだったという。」

尾崎翠とはこういう人だったのですね。そしてこのように個性的な作家はこれまでどこにも居なかったし、これからもけっして現れないのでしょうね。


               惜しみなく花降る道を歩みけり 蝶人
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スタンリー・クレーマー監督の「招かれざる客」を見て

2012-04-17 08:19:19 | Weblog


闇にまぎれてbowyow cine-archives vol.227


人種問題などに進歩的な見解を有する新聞社の社長夫妻(スペンサー・トレーシーとキャサリン・ヘプバーン)の家に突如娘が連れてきた招かれざる黒人婚約者シドニー・ポワチエ。

おまけに彼の両親まで同家を訪れることになり、さあ血気に逸る一目惚れの若い男女を、酸いも甘いも噛み分けた大人たちがいかにしてこの海あり山あり地獄ありの難題をうまく着地させるか興味津々だが、そこはそれ才人スタンリー・クレーマーが名優トレーシーの見事なスピーチでめでたくお開きにするという鮮やかなオチをつける。


私の身内に黒人と結婚した女性がいるが、いつだったかの親戚の集まりでその二人が姿を現した瞬間、私も含めて一瞬固唾を呑んだことを思い出した。一九六七年という時点のアメリカでこういうホットなネタを映画にすること自体、かなりの勇気を必要としたに違いないが、そういうリスクも製作者を兼ねた「手錠のままの脱獄」を世に送ったクレーマーがきっちりと取っていることに改めて脱帽する。

さりながら、もしこの映画の主役の黒人(ニグロと発音されていた!)が世界的に著名な医師ではなく、ただのあんぽんたんかイカレポンチであったら、かの良心的インテリたちが最終的に結婚に同意したかどうか、なぞと考えてみるのも無意味ではないだろう。



浅き夢残して今朝は櫻散る 蝶人
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