あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

宮城谷昌光著「風は山河より」第3巻を読む

2007-06-30 15:25:17 | Weblog


降っても照っても第29回

若き日の徳川家康は父広忠の意向で今川義元の人質として差し出されたが、その途次の汐見坂で戸田正直によって誘拐され、ほんらい駿府へ行くべきところを織田弾正忠(信長の父)に売られ一時尾張城に幽閉された。天下の怪事件である。

義元の懐刀雪斎禅師は信秀の弟信広を安祥寺に攻めて降伏させ、捕虜にした信広の生命と引き換えに竹千代(家康)を織田家から奪い返すのである。落胆した信秀は嫡子信長に織田家の裁量を委ねることになる。

政治と法界と風雅の達人である雪斎は天文21年に義元と武田晴信(信玄)、北条氏康を説いて三国同盟「善得寺の会盟」を成立させたあと同24年に60歳で遷化した。そしてそれが義元の最大の不幸を招くのである。

徳川家康の祖父、松平清康も父広忠も凶手にかかって若くして暗殺されたが、その犯人を二人ながらに討ったのは植村新八郎という同じ人物であり、また二人の凶手が用いた刀は妖刀村正であった。

主君広忠を殺された天野孫次郎は暗殺を指唆した佐久間全孝に仕え、全孝が眠っている真夜中に(広忠が暗殺されたときとまったく同じ状況で)切りつけたが、どういうわけか殺害できずあわてふためいて逃げ帰ったという。

平将門の叔父五郎良文の子孫から三浦氏、上総の千葉氏、秩父の畠山氏、和田氏、大庭氏、梶原氏、土肥氏が生じた。

長尾景虎が上杉謙信を名乗るのは永禄四年に鎌倉の鶴岡八幡宮の社前で山内上杉の憲政から上杉家を継ぐことを許されたからである。

などを私は著者から学んだ。

最後に、著者は司馬遼太郎の遺風を継ぐ名文家であり、その漢語を生かした格調高い名文は歴史小説にふさわしいと思う。
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高田馬場駅前にて

2007-06-29 14:07:58 | Weblog


遥かな昔、遠い所で 第7回

何年ぶりかで下車したのは、知らない間にすっかり新しくなったJR山手線の高田馬場駅である。昔はもっと暗くて重くて澱んだ空気が流れていたが今ではあっけらかんとして他の駅とあまり違わない。

地方から東京に出てきた私は、ご他聞に洩れずアルバイトで生活していた。

毎朝この駅の売店(いまではキオスクとか呼んでいるようだが)でパンと牛乳を買って急いで腹に収め、当時内幸町にあったNHKで昼飯抜きで大道具の手伝いをしてから名物のチャーシュー麺をかきこみ(当時死んだ猫のエキスをダシにしているという根強い噂があったが非常にうまかった)、それから日比谷公園の傍らで徹夜の突貫工事を行っていた東京地裁の701号法廷などの地下増築工事現場に行って朝の5時まで働き、地下鉄で高田馬場までもどってまたアンパンと牛乳を飲んで下宿にもどって死んだように眠ったものだ。

地裁のアリバイとは階下でたっぷり水分を吸って固まったセメント袋を地下2階から地上まで運びあげる仕事で体力のない脆弱な私だけは肩に担いだ重荷もろとも転落してよく現場監督に怒られたものだった。

高田馬場の駅前に出ると昔と変わらず大学に行くバスが止まっていた。

私は学生時代にこの都バスの料金が交通局によって値上げされることになり、それがけしからんというので「徒党を組んで」このバスに乗ろうとする人間を「実力で阻止」していたことをはしなくも思い出した。

今考えると相当論理にも行動にも飛躍があるが、よくも多くの学生たちがバスに乗らずに素直に歩いてくれたものだ。今の私には到底こんな行動に出る勇気も気力も体力もないが、それでももし再びやらなければならないときには、けっして徒党は組まないだろうと思う。
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降っても照っても第28回

2007-06-28 09:13:41 | Weblog
加藤廣著「明智左馬助の恋」を読む



この新人老作家の「信長の棺」は「信長公記」の作者太田牛一が本能寺の変の謎に果敢に挑んで大いに面白かった。

その次の「秀吉の枷」も本能寺と南蛮寺を結ぶ抜け道で信長が蒸し焼きになるように秀吉がたくらみ死に追いやったという、「嘘か眞か死人に口なし」という論証ヌキのはちゃめちゃな破天荒さでエラン・ヴィタールしており、かなり面白かった。

そこで大いに期待してシリーズ第3作の「明智左馬助の恋」を読んだのだが、これがどうにもこうにもいっこうに面白くなかった。残念じゃあ。

それというのもこれは光秀の義理の息子が知らず秀吉の大謀略に振り回されてあたら生涯の大望を棒に振るというお話で、前の2冊、いや3冊ですでにネタがばれているものだから、おおいに盛り上がりにかける。

著者も最後は観念したのか機械的に年代を追うのみ。

それでもさすがにラストの坂本城の夫婦愛と壮絶な切腹は力が入ったが、遅きに失した。げに「はじめは脱兎のごとく終わりは処女のごとし」とはこれをいうのであろう。

結局馬鹿を見たのはクソ真面目なキンカン頭の光秀だけという、世にも哀れな物語であったが、大器晩成型の著者の次作を期して待とう。



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初夏の光明寺を歩く

2007-06-27 11:55:09 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語63回

材木座に近い光明寺は鎌倉では珍しい浄土宗の大寺で、寛元元年1243年に法然から数えて3代目の良忠上人が開いた。

光明寺には幼少時代の武者小路実篤が家族と共に夏を過ごしていたが、そんなことより毎年10月に行われる「お十夜」が有名である。

が、もっと有名なのは戦後間もなく昭和21年にこの寺の本堂と庫裏で「鎌倉アカデミア」が開設されたことだろう。(当初は鎌倉大学校といったが23年に光明寺に移転し今年創立60年の式典が開催された)

二代目の校長に就任したのが、マルクス主義哲学者として有名な三枝博音であるが、この人は不幸なことに国鉄の鶴見事故で亡くなった。

このとき確かかの有名な「競合脱線」という原因説が唱えられたが、その後いかに検証されたのだろうと、横須賀線で鶴見辺りを通過するたびに隣の東海道線をおそるおそる見守るわたしは、げにまったき過去の人なのであらう。

「鎌倉アカデミア」の教授陣は服部之総、西郷信綱、千田是也、宇野重吉、吉野秀雄、高見順、中村光夫、林達夫などの錚々たる面々。学科は、文学科、産業科、演劇科、映画科の四学科編成だったが、一度でいいから聴講したかった。

しかし、創立時からの資金難に加え、自治体や企業からの援助も得られず、哀れわずか4年半しか存続できなかったという。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

この手弁当の市民大学からは、鈴木清順、山口瞳、前田武彦、いずみたく、左幸子などが巣立っている。

どうでもいいけれど「トリスを飲んでハワイへ行こう」はサントリー宣伝部時代に山口瞳が作った名コピーである。

ちなみにアカデミアの授業料は当時の早稲田、慶応などより高かったが、大半の学生が未払いだったそうだ。
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ある丹波の老人の話(35)

2007-06-26 07:39:27 | Weblog


「第6話弟の更正 第3回」

昼ごろになると朝のお粥腹がペコペコに減ってきたので、いろいろ考えた挙句寂しい村のある百姓家に入り、「昼飯を食べ損なって困っているからなにか食べさせてください」と頼むと、米粒の見えないような大麦飯にタクワン漬けを添えて出してくれました。

私はそれを食べ、最後の二銭をお礼において一文無しになって晩方に川合の大原に着きました。大原には貧しからぬ父の生家がありました。

そこで出してもらったお節句の菱餅を囲炉裏で焼く間ももどかしくまるで狐憑きのように貪り食らいそのまま炉辺で寝込んでしまいました。

弟はこの縮緬問屋へ三、四年くらいいたと思います。「アメリカへ行きたい」というて英語の独習などをやっていたがついに主家に暇をもらい神戸に行って奉公し、渡米の機会を狙っていたらしいのです。

それから朝鮮の仁川へ行ったのは神戸から密航を企てて発見され、仁川に降ろされたとかいうことでした。仁川では日本人の店につとめてなかなか重用されておったようです。

弟はそれから徴兵検査で内地に帰り、福知山の20連隊に入営しました。


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ある丹波の老人の話(34)

2007-06-25 07:49:18 | Weblog


弟はメジロ捕りが上手でメジロを売って儲けた十幾銭かの金を、後生大事にこのとき京都に持っていったもんでした。

でもこの大切なお金を含めても私は家を出るとき少しばかりの旅費しかもらわなんだので一文の無駄遣いをしたわけでもないのに、このとき財布には十二銭しかありまへんでした。

これでは昼飯をくうたら今夜の泊まり銭がなくなるので、昼抜きのままとうとう園部に辿り着いて来る時にも泊まったかいち屋という宿屋に泊まりました。

しゃあけんど十二銭ではまともな泊まり方はできまへん。

「私は胃病やから晩御飯は食べへん」というてすぐに床に入って寝ました。

しかし裏を流れている川の瀬音が昼飯も晩飯も食べないすきっ腹にひびいて、なかなか寝付かれませんでした。私はその夜の情けなさはいまも忘れることができません。

朝は宿屋がおかゆをつくって梅干を添えて出してくれました。

私はそれを残らず食べて宿銭一〇銭を払うとあとは二銭しかありません。旅館が新しいわらじを出してくれたのを、「そこまで出ると下駄を預けてあるから」と断ってはだしで出て、みちみち落ちわらじを拾ってそれをはいては歩き続けたんでした。

「第6話弟の更正 第2回」

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ある丹波の老人の話(33)

2007-06-24 13:33:29 | Weblog


「第6話 弟の更正 第1回」

私には金三郎というたった一人の弟がありました。

この弟が十三、私が十七のとき、忘れられん思い出があります。

そのとき私は蚕業講習所を卒業したばかり、弟はまだ小学校在学中でしたが、家は貧乏市までして貧窮のどん底まで落ちてしまっていたので、弟は学校をやめさせて京都に奉公にだすことにし、私が京に連れて行きました。

京都に着くと丹波宿の十二屋に落ち着き、程遠からぬ東洞院佛光寺の下村という縮緬屋に弟を連れて行き、私はその夜十二屋へ泊まり、朝発って帰ろうとすると弟が帰って来ていて、

「もう奉公には行かん。兄さんと一緒に綾部に帰る」

というのです。私はそれをいろいろとなだめすかして主家である下村に連れて行き、家の人にもよう頼んで逃げるようにしていったん十二屋へ戻り、なんだか弟がまたあとを追ってくるような気がするんでそれをかわすつもりで知りもしない違った道を北へ向かって走っていくと、たいへんな人ごみの中へまぎれこんでしまいました。

それは北野の天神さんの千年祭の万燈会のにぎわいやったんです。私はそこいらで少しブラブラして道を尋ねてから桂に出、丹波街道を園部へ向かって歩いたんでした。

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ある丹波の老人の話(32)

2007-06-23 11:11:33 | Weblog


妻はどこまでも父に親切でした。

独りでは寂しかろうと福知山の実家に相談して、身内から後家さんを連れてきて一緒にし、離れの一室をあたえて寝起きさせたんでしたが、二年ほどすると女が病死してしまいました。

すると今度は町内のさる後家さんに話して、西本町裏の小さい家に住んでもらい、そこへ父を同居させ、生活費全部をはろうて所帯をもたせてやったんでした。

その間は父も気安く私の店に出入りして、夷市などで忙しいときには、ずいぶんよく手伝いもしてくれました。

ところが、父と同居しておった未亡人が息子の朝鮮移住についていってしまいよりました。そのとき父はすでに七十を過ぎておったので私の家に引き取りました。

それからは父は孫娘の守などをしてよいおじいさんになりきり、昭和四年四月に七十五歳で亡くなったんでした。

最後の二年ほどは盲目になったんで楽しみにない父を慰めようと私はいち早くラジオを買い求めました。当時綾部にも福知山にもまだラジオは珍しく、大阪からやってきた技術者が五晩泊りで私の家に取り付けてくれました。

郷里の町では郡是、三つ丸百貨店に続く3番目でした。そして父は私の信仰に倣ってキリスト教に入り、死の前年に岡崎牧師から洗礼を受けたんでした。

今から思えば、それはどうすることもできん宿命的なものではありましたが、私はあまりにも父を憎み、父に冷たかった。 
落ちぶれ果てて隠岐から帰ってきたとき、もし妻がいなかったら、私は父を家に入れなかったかも知れない。

「おらが女房をほめるじゃないが」私は死んだ先妻に感謝せないかんことがぎょうさんあります。なかでも私が冷酷であった父に対して私の分まで孝養を尽くしてくれて私に不孝のそしりをまぬかれ、不幸の悔いを残さなんだことに対しては、妻に最大の感謝をささげたいと心から思う次第であります。            (第五話「父帰る」終)

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ある丹波の老人の話(31)

2007-06-22 08:21:16 | Weblog



この冷たい私に対して私の妻菊枝は父に対してやさしかった。

食事を与え、着替えをさせ、暖かい寝床に横たわらせ、心から父をいたわりました。

そしてその後もけっして悪い顔などせずに機嫌よく明け暮れの世話をし、私に内緒で小遣い銭なども渡し、いつもきちんとした身なりをさせて大切にしたんでした。

ところが妻のこの仕打ちが私には苦々しかった。

「そんなにまでせんでええ」と口に出して叱ったりもしましたが、ひたすら父を哀れむ妻の純情にほだされて、さしもかたくなだった私の心も少しずつほぐれていったんでした。

父は隠岐にいた間のことをあまり話しませんでしたが、やはり腕に覚えのある桐の木買いをやりこれを加工して下駄の素材を作っていたらしいのです。

ところが運悪く火事に遭って焼け出され、おまけに連れて来た芸者にも逃げられ、よるべはなし、万策尽きてようやく松江に渡り、そこで歯医者をしていた吉美村出身の四方文吉氏に泣きついて旅費を借り、郷里まで帰ってきたらしいのです。

しばらくは乞食同様の見過ぎをしていたものとみえて体一貫のほかは一物も持たず、着のみ着のままの衣類は垢だらけシラミだらけで、これを退治するのに妻は往生したそうです。
(第五話父帰る第3回)

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父帰る

2007-06-21 08:37:34 | Weblog


ある丹波の老人の話(29)

大正五年の師走も近い冬の夜、丹波の小さな街には人声も絶え通りを吹きぬける寒い木枯らしがときおりガタガタと障子を震わせておりました。

真夜中近い頃、入り口の戸をホトホトと叩く音がしました。静かに、あたりを憚るように…。

「どなた?」と尋ねても返事はありません。

うっかり戸を開けて泥棒だと困ると思いましたが、そういう感じでもない。そこで思い切って妻と一緒に開けると、そこに立っていたのはなんと父でした。

父帰る! 

この寒夜に上に羽織るものもなく、四年みぬまに六十の坂を過ぎ、汚れた筒袖姿のみすぼらしい父が、しょんぼりと戸の外に立っておりました。

父はおずおずと敷居をまたいで中に入るなり、土間に身を投げ、くどくどと前非を悔いて詫び入るのですが、私の目には涙も浮かばず、私の口からはやさしいいたわりの言葉ひとつもれ出てこないのでした。                   
(第五話父帰る第2回)

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福島泰樹著「中原中也帝都慕情」を歩く

2007-06-20 11:21:08 | Weblog


降っても照っても第27回

大正14年3月、恋人長谷川泰子を伴い関東大震災後の東京にやって来た17歳の詩人中原中也の帝都漂泊を絶叫詩人の著者が克明に追う内面的なドキュメンタリーである。

中也が東京に標した第一歩は、「東京府豊玉郡戸塚町大字源兵衛195番地林方」である。

1999年3月に同所を訪れた著者は、「一帯はゆるやかに神田川に傾斜していく鬱蒼とした田園地帯で、その面影はいまでも所々に残っている。あたりをゆっくり歩いてみたらよい」
と書いている。

その言葉にそそのかされた私は、突然その気になって、真夏日の早稲田3丁目を本書を片手にほっつき歩いてみた。

長谷川泰子はその著書『ゆきてかえらぬ』で「中原は早稲田に入ろうとしていましたから、下宿もそのあたりを捜しました。みつけたのは戸塚源兵衛というところ、ちょっと山に登りかける場所にあった家でした。借りた部屋は一間きりしかなかったけど、8畳くらいの広さでした」

と語っているが、その下宿跡を、30分以上の悪戦苦闘の末に、私もようやく探し当てた。

けれども福島氏が「鬱蒼とした田園地帯」と表現しているその一画は、白いお化粧をして取り澄ましたモダン住宅と無機的な高層マンションによって埋め尽くされており、99年にこの地を訪れた著者が撮影した古い真鍋家の姿もいまや跡形も無い。

午後2時の太陽光線が私の頭上からぎらぎらと照りつけ、住民の人影もまばらだ。
ほんの申し訳程度に残されている庭や樹影を除けば、もはや詩人とその運命の女の痕跡はどこにも求めることはできなかった。

神社の鳥居が光をうけて
楡の葉が小さく揺すれる
夏の昼の青々とした木陰は
私の後悔を宥めてくれる       中原中也「木陰」『山羊の歌』より

突然視野に珍しいものが飛び込んできた。

高田の馬場から神田川べりの面影橋まで下る六叉路である。大正14年の春、中也と泰子が何度も上り下りしたであろう長い坂道である。

その六叉路のひとつを少し入ったところに若い二人の愛の巣があったはずだ。当時彼らの頭上を覆っていたはずの大樹の切り株だけがまるで詩人の夢のかけらのように取り残されてあった。

旧居を下れば神田川はすぐだ。そのとき面影橋を早稲田に向かって走る都電荒川線の車輪が、青空の下でおおきな軋み声をあげた。

夏は青い空に、白い雲を浮かばせ、
わが嘆きをうたふ。
わが知らぬ、とほきとほき深みにて
青空は、白い雲を呼ぶ。

わが嘆きわが悲しみよ、かうべを昂げよ。
―記憶も、去るにあらずや……
湧き起こる歓喜のためには
人の情けも、小さきものとみゆるにあらずや

「夏は青い空に…」『山羊の歌』より

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大塚英志著「怪談前後 柳田民俗学と自然主義」を読む

2007-06-19 08:16:16 | Weblog


降っても照っても第26回

柳田國男が「遠野物語」の佐々木喜善、「蒲団」の田山花袋、同じ自然主義作家の水野葉舟との交友を通じていかにして柳田流の「自然主義」を追求し、国家社会や文芸と向き合いながら、花袋が私小説を創造したように、学としての「民俗学」を創成していったかを微視的に考察する労作である。

この本によれば明治40年代は空前の「怪談」の時代であり、例えば小泉八雲の「日本瞥見記」や徳田秋声の「あらくれ」、夏目漱石の「夢十夜」のような夢物語が異常なまでに持て囃された。

そのような怪談の時代にあって、柳田ひとりが政治的な植民地論と自然主義運動の双方の関心を抱きながら私的怪談から「山人論」を立ち上げていく。

柳田は「遠野物語」から「山の生活」そして昭和6年の「明治大正史世相篇」を発表するなかで、自らの疑わしい来歴を日本の名も無き普通の人々の歴史と同化させ、そのことを通じて民衆史の新しい書き直しに成功するのである。


大町にジャカランタ咲き和泉葉橋に最後のホタル舞い鎌倉の夏がはじまる
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ある丹波の老人の話(29)

2007-06-18 08:27:12 | Weblog



前にも述べたとおり、私の父は酒好き、遊び好きで、飲む打つ買うの三拍子をいずれ劣らず達者にやった人でした。ところがそれがいつまで経っても目が覚めず、四十過ぎても、五十子越してもまだやまず、かえってひどくなるというだらしなさです。

父はもともと商売上手と人にも言われ、世間の評判もよく、金も相当もうけてきたんでしたが、なにぶんお人よしで勝負事をしても人に取られるばかりでした。

勝負事といってもおもに花札などで本バクチには手を出してはいませんでしたが、そのくせ大きなことが好きで、米や株の相場に手を出して、またしても大穴をあけ、金のかかる女出入りも絶え間がありまへんでした。

こんな始末ですからよい目の出ようはずもなく、母が真面目に守っている履物屋商売もだんだんさびれ、借金は増える一方で家計は一日一日窮地に追い込まれていったんでした。そうして明治四十三年その火の車の中で、私の母は四十九才で病気で死んでしもうたんでした。

気の毒な母! まるで父に殺されたような母! 母をいとおしく思えば思うほど、私は父への憎しみが深くなるのをそうすることもできませんでした。

「母のかたき!」と私の父を見る目は日増しに険しくなっていきました。

母の死後ますますやけになった父は、もはや我が家にも郷里の町にもいたたまれなくなって、前にも述べたように大正元年に五十八のよい歳をして世間には内緒で若い芸者を連れて隠岐の島へ逃げて行きました。

私は父を舞鶴まで送って行きはしたものの、父に対する感情はとげとげしく、別れを惜しむ気持ちなどさらさらありまへんでしたし、それは父も同様でした。

前に触れたように、父を送って帰ってきた夜から、早くも債鬼は我が家に迫り、私を借金地獄に追い込んで私は貧乏暮らしのどん底で這いずり回ることになったんでした。

しかし幸いにも私はこの危機を辛うじて潜り抜けて借金もすべて返済することができました。私は家業に忠実な妻と共に下駄屋の商売も従来以上に回復させ、生活も安定させ、郡是株の強行買いが当たってだんだん好い目が見えてきたんでした。

その間私は自分のことにかまけ、父のことなぞすっかり忘れておりました。もとより父からは一度も便りはなく、人の噂にも聞かず、その消息もいっさい分からず、思い出す隙もなかったんでした。

ところがその父がひよっこり帰って来ようとは! 夢にも思わぬことでした。
(第五話父帰る第1回)

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避暑地鎌倉

2007-06-17 11:15:52 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語62回

 大町から横須賀線の線路を境にしてそこから海岸までの一帯が材木座である。鎌倉時代に材木業者の組合=座が置かれた場所であることからこの名がつけられた。

鎌倉は明治時代から夏の避暑地として大いに活用され、まず御成に明治天皇の夏季御用邸が建てられた。それが現在の御成小学校だが、いつか書いたように大々的な発掘が行われ、中世の巨大行政センター跡地であることが初めて分かった。

当時の中西市長は当初御成小学校を鉄筋コンクリートに建て替えようとしていたのだが、市民の反対に遭ってしぶしぶ低層木造校舎に変更したが、それは大正解だった。

日本には超高層鉄筋コンクリートは似合わない。いずれ大震災が立て続けにやってくれば、私の不吉な大予言がおのおのがたの骨身にしみて理解されるだろう。

それはさておき、御成というのは、だから明治天皇の御成り通りなのである。

御成の次には、より海に近い材木座にリゾートが進出した。写真の左が正田家の別荘であったが、広大な緑の敷地は東京の本宅と同様跡形も無く取り壊されて、現在はご覧のとおり何の変哲も無い新興住宅群になった。

それから写真の真ん中の坂道を登った左手辺りに、夏目漱石一家の夏の借家があったそうだ。

夫を薬で毒殺しようとしていた(江藤淳「漱石とその時代」最終巻を参照のこと)悪妻鏡子の「漱石の思ひ出」によれば、

「小さいほんの2間かそこいらに台所のくっついている家を借りることにしました。一夏一二〇円ばかりだったと覚えております」

とあるが、当時ここいらの住民は1ヶ月二十円ほどの借家に住みながら、それをちゃっかり無知な帝都の成金貴紳たちに何層倍もの値段でふっかけて又貸しして、大もうけをしていたのである。

そんなこととは知らない漱石は、足の踏み場も無い狭い借家で雑魚寝しながら
「ここでこうやって修養しておれば、いついくら貧乏しても驚かない」などと言って、「子供たちといっしょになって海に入って泳いでいた」そうだ。

もひとつおまけの写真の日本家屋は、あの「ビルマの竪琴」を書いた竹山道雄氏邸である。

ここに立って初夏の青い空を見上げていると、「アアヤッパリジブンハカエルワケニハイカナイ」と叫んだ水島上等兵のオウムのしゃがれ声がどこかから聞こえてくるようだ。

孤高のドイツ文学者は昭和59年に亡くなったが、彼が愛したいかにも鎌倉らしい瀟洒な木造住宅は、こうやってまだ残っている。

人はすぐ死ぬが、物とその気配は、死んだ人の周辺でしばらくは残っているのだろう。

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ある丹波の老人の話(28)

2007-06-16 10:58:15 | Weblog


しかし思わぬ副産物もありました。

このとき大勢の芸者を呼んだもんですから、私は急に芸者にもてるようになり、つきまとわれるようになりました。

当時私は三十三ですからまだ若かったし、うかうかするとこの誘惑に負けて父の二の舞になるんではないかと我ながら心配になりました。

次々に宴会に出たり、人を呼んだり呼ばれたり、押しかけ客もあったりして酒に接する機会が非常に多くなったもんですから、私は急に時間と金銭の浪費が恐ろしくなりました。

かねてから何事も波多野翁を目標とし、翁に倣っていけば間違いなしと信じていた私は、翁の信仰するキリスト教に心惹かれておりました。思えば翁が受洗されたのは今の私と同じ三十三の年でした。私もここで入信してしっかり身を固めようと思ってそれから教会通いを始めました。

私は波多野翁から洗礼を受けたいと無理をいうておったんですが、翁は突然大正七年二月二十三日に脳溢血で急逝されたんで、私はその直後の三月十日に丹陽教会の内田正牧師から洗礼を受けました。

ですから私はいわば悪魔よけにキリスト教に入ったといえばいえなくもありません。世間からもそのように見られていたようです。

思えば私は、十二歳のときに母の眼病を観音様に祈ったときから、苦しいときの神頼みさながら、稲荷様、金比羅様、座摩神社、北向きの恵比寿様と、種々雑多な神様、仏様を祈ったもんでした。

そしていずれもそれぞれ奇跡的な感応を受け、「祈らば容れられる」という私の幼稚なおすがり信仰が波多野翁崇拝と結びついて私をキリスト教に行かせたんでした。結局は行くべき時に、行くべきところに行き着いたんです!

これこそは神の摂理でした。

私は、信じることによっていかなる苦痛困難も必ずみなよろこびと感謝に代えてくださる神様のお恵みを思いました。そうして、ますます信仰から信仰へと勉め励み、取るに足らないこの身ながら、いささかでも神のご栄光を顕すことに精進し、神と人への奉仕に努力しようと決意しました。          (第四話 株が当たった話 終)

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