あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

西暦2009年茫洋水無月歌日記

2009-06-30 08:12:02 | Weblog


♪ある晴れた日に 第59回


大船駅のさびた線路のすぐ傍に昼顔の花咲きいたり

余を馘首せし銀行屋を馘首せし銀行屋をまた馘首せんとする鳩山総務相

わが首を切りしバンカーの首を切りしそのバンカーの首を切らんとする人

隠れたってすぐ分かるぞヘイケボタル今宵も8匹見つけたり

今宵また謎の呪文をわれに告げ北斗の星と輝く蛍

おたまじゃくし1日1匹ずつ共食いすなり

毎日1匹ずつ食い殺して最後に残ったおたまじゃくし

あじきなしバーンスタインのハイドンを聴く日曜日

花も嵐も踏み越えて行きつくところまで歩むべし

玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴

カラスアゲハが無心に太刀洗川の水を吸うておる

明治通り千駄ヶ谷小学校交差点の真紅の薔薇を撮影していたり秋山庄太郎

一生懸命ならどんな音楽でも許されるのかそこんとこよろしく

おりしも中里恒子の全集を耽読しおりき西麻布の売文家

ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり

海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花

南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり

わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし

ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者

親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる

ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴

凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて

万人の万人に対する戦いとく鎮めよと作家は祈る

半年間発注のない狂おしささくらば散りてあじさいの咲く

なにゆえに発注なきや半年間紫陽花の青をじっと眺むる

またしてもスイカの種は尽きにけり働き悪く金のなき日に

絶対の善や悪は存在せずわれらの輪廻は転生す 

腹黒き輩は腹黒き友を知る時政邸に鶯鳴きたり

大人にも本人にもよう分からん日本文学史書きたり高橋源一郎

当り前のことをとくとくと語る人なりき黒田恭一氏死す享年七十一

コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え

七人の子供を残し巴里に住む恋しき夫に会いに行く女

谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる


朋輩を皆喰い尽しておたま一匹

健ちゃんが帰ってくるようれぴいな


♪息継ぎのあわいに生まれる感傷を世に詩歌とは名付けたりける 茫洋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さようなら眞木準

2009-06-29 17:36:13 | Weblog

遥かな昔、遠い所で第84回

既にして旧聞に属すかもしれませんが、去る22日にコピーライターの眞木準氏が急性心筋梗塞で亡くなられたことを私は読み残しの新聞を整理していてはじめて知りました。

彼の最新にしておそらく最後の作品は、宣伝会議社の「内定取り消しされた方5名まで引き受けます」でした。しかし、彼の真価は伊勢丹の企業広告や全日空の「でっかいどお。北海道」に示されるしゃれた言葉遊びの切れ味と軽妙な語呂合わせとにあって、その奥深い引出しを準備するために普段から有名無名の作家の作品を渉猟していたことは、ある日突然私が訪れた彼の西麻布の事務所の書架を眺めれば一目瞭然でした。広告文案作成業の極意が機智の駆使にありとせば、彼はその当代一流の専門家であり、人並みはずれた才知と言語操作の高等技術がそれを可能にしました。

私は多くのコピーライターと仕事を共にしましたが、テレビCMのダビングの現場に呼びもしないのに駆けつけてくれたのは彼だけでした。ダビングというのは撮影済みの映像にスタジオでナレーションや音楽を録音する作業ですが、コピーについてはとっくの昔に広告主との打ち合わせを経て決定しています。だからコピーライターの立会は必要がないはずなのですが、彼は「書かれたコピーがいかに良くてもそれが話し言葉になったときに当初想定されたインパクトをもたらさないことが稀にある。だから自分はここにやってきた」と言うのです。なるほど、そういうケースは何度かありましたが、「ちょっと違うなあ」と思いつつそのまま録音してしまうのが通例でした。

そこで私が、「もしそのコピーが映像に合わなければどうするの?」と尋ねますと、彼はそんなこと当り前じゃないかという顔をして「だから合うやつをその場で僕が書くんです」と答えたものでした。それを平然と言える彼の自信と仕事に対する彼の誠実さにこれほど打たれたことはありません。

また思い出すのは、私がサラリマン街道から突如放り出され路頭に迷っていた折のことです。いちはやく手を差し伸べ、「広告料金定価表」なる分厚い請求金額の相場を記した本を手渡して、ともかく中年広告売文業者として身を立てるよう「実務的に」促してくれたのも彼でした。その日から一〇年に近い歳月が流れましたが、彼と最後にパスタ屋で会った日の励ましの声は、今も耳朶の底に残っています。

ありがとう。そしてさようなら眞木準


ありがとうそしてさよならと言いつつわれら別れゆくなり 茫洋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

続々 拝啓鎌倉市長殿

2009-06-28 11:11:02 | Weblog


バガテルop103&鎌倉ちょっと不思議な物語第196回


 
「朝夷奈切通における自転車通行問題」について3度目の市長への手紙を書きました。最新の回答と要望書はずっと後ろのほうにあります。

○5月14日付要望

時下貴職ますますご健勝のこことお喜び申し上げます。

 さて小生は市内に居住する者です。毎日のように朝比奈峠から熊野神社、果樹園に至るハイキングコースを散歩しているのですが、最近よくマウンテンバイクに乗った人たちと出くわすようになりました。

 ただでさえ狭くてすれ違うことさえ難しい山道を、彼らは勢い良く「落下」してくるので危なくて仕方ありません。それでなくても高低差のある昔の「獣道」です。山道の上の方からそろそろ降りてこようとしても、自重でブレーキが利かないために「落下」状態になるのです。ケガこそしませんでしたが幾度となく「あわや」という危険に遭遇したのは小生だけではないでしょう。シルバーガイド協会の人たちもそんな危ない目に遭われているのではないでしょうか。

 そもそもここは徒歩専用のハイキングコースであり、自動車、オートバイ、自転車などは乗り入れ禁止のはずです。重大な事故を未然に防ぐためにも、この際、朝比奈切通しのみならず、「市内のすべての切通しとハイキングコースにおける2輪・4輪車の全面乗り入れ禁止」を周知徹底していただきたいと思います。

あまでうす茫洋敬白

○5月28日付回答

明るく住みよい鎌倉をつくるため、いつもあたたかいお力添えをいただき厚くお礼申し上げます。
 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。

 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。
 切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

                平成21年 5月28日 鎌倉市長 石渡一


○6月5日付再要望

早速の回答ありがとうございました。朝夷奈切通に立て看板を設置して頂けるとのこと、大歓迎です。周辺の環境整備のためにおおいに役立つと思います。しかしながら今回頂戴したコメントのなかに一部理解・納得できない部分がありますので、再度質問と要望をさせていただきたいと存じます。

>鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。いずれのコースにつきましても、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。ご指摘の箇所は、本市で紹介しているハイキングコースではありません。

要望その1
市がどこのハイキングコースを外部に紹介されてもそれは結構なのですが、実際には年間2000万人を超える観光客のおよそ半分が「市内全域のハイキング可能路」や7つの切通をどんどん歩いています。それらの人々の安全と安心のために自転車の交通を禁止してほしいというのが私の提案の趣旨です。いっきに即時全面禁止が難しいとしても、できる箇所から段階的に禁止すべきではないでしょうか。

>朝夷奈切通は、国の史跡に指定されており、現在4輪の乗り入れを規制しています。しかしながら、一部生活道路として利用されていることから、自転車の乗り入れは規制しておりませんが、横浜市側に「自転車・バイクの通行は止めて下さい」と標記された看板がありますので、今後は、鎌倉市側にも同様の立て看板を設置したいと考えております。

要望その2
私は毎日のように朝夷奈切通を散歩していますが、「三郎の滝」から横浜市との峠境に至る朝夷奈切通は、もっぱら観光客のハイキングコースであり、現在「生活道路」としては使用されていません。観光客以外で通行する人は(私が知る限り)存在しません。
「三郎の滝」の右側の十二所果樹園に至る道は風致地区であるにもかかわらずいくつかの土建業者や建築家があいかわらず不法占拠してモノ置き場にしたり農作業を行ったり、モノを燃やしたり、歩行者を顧みない危険な車両運転を繰り返していますが、まさかこの状態を「生活道路」と表現されているのではないでしょうね。
私は十二所果樹園へ安全な歩行を阻害し、周辺の事前環境破壊している彼らは一日も退去し、この際この道を「生活道路」であるという認識を改めて頂くとともに、2輪・4輪の交通も禁止するべきであると考えます。

>切通のなかには、市街化が進み朝夷奈切通や亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道路の一部となっているものもあり、市内全ての切通を2輪及び4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありませんので、ご理解をお願い申しあげます。

要望その3
もとより理解するのにやぶさかではありません。しかし実際にその実情はどうなっているのかご存知ですか? 2輪及び4輪が我が物顔に走り回り、私が前回の投書で述べたような危険がどの切通やハイキングコースでどれくらいあるのか。まずはその実態を歩行者、観光客の身になって調査、観察、把握するべきではないでしょうか。しかるのちに即時全面禁止が無理だとしても可及的速やかに禁止や制限措置をとるべきではないでしょうか。

これらの切通は昔は生活道路でしたが、現在では豊かな自然に恵まれた歴史遺産であり国の指定史跡になっている箇所もたくさんあります。確かに一部が生活道路になっているケースもありますが、それは市や貴職が一部の住民の開発を是認して、自然と環境の破壊に手を貸した結果でもあります。
いっぽうでは市街化や生活道路化に積極的に加担しておいて、他方では環境保全やユネスコの世界遺産指定をめざすという貴殿の政策に大きな矛盾を感じるのは私だけでしょうか。まずは地道な市民・観光客の足元の安全対策が肝要と考えます。

あまでうす茫洋敬白

○6月18日付回答

 あまでうす様からお寄せいただきましたご要望につきまして、次のとおりお答えいたします。

 鎌倉市で紹介しているハイキングコースは、天園、葛原岡大仏、祇園山の3コースとなっております。この3コースについては、車両乗り入れ禁止となっており、各ハイキングコースの入口に車両の乗り入れ禁止の表示をしております。
 また、上記のハイキングコースについては、定期的にパトロールしており、車両の乗り入れは確認されていませんが、パトロール中に車両の乗り入れがあった場合には、指導してまいります。
 次に、十二所果樹園に至る道は、市道(幅1.29~2.42m)と私有地が混在し、その市道は、途中で終点になり、そこから果樹園までは、私道になります。したがって、市で通行の制限を行うことができません。
 切通につきましては、国指定史跡の6切通(朝夷奈切通、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、仮粧坂、大仏切通、名越切通)の大部分は2輪・4輪の通行ができない状況ですが、前回ご説明させていただいた通り、切通のなかには市街化が進み、亀ヶ谷坂、仮粧坂、巨福呂坂のように一般道(市道)となっているものがあります。周りには住宅地が広がり、生活道となっているものですので、これらの切通全ての2輪・4輪の乗り入れを禁止できる状況ではありません。
 あまでうす様からいただきましたご要望につきましては、今後の市政の参考とさせていただきますので、ご理解のほどよろしくお願い申しあげます。

           平成21年6月18日  鎌倉市長   石渡徳一

○6月28日付要望

拝啓鎌倉市長どの

どうも回答が典型的な役人風でいまいち要領を得ませんね。朝夷奈切通に絞って再度質問いたします。

この切通では特に土日と休日に自転車が我が物顔に走り回るので歩行者が常に傷害の危険にさらされています。そこで私は
1)まずその実態について至急調査を行ったうえで、
2)(4輪とオートバイのみならず)自転車の運転を禁止してほしい

のです。

この措置はこの道が市道であろうが国県道であろうがけもの道であろうが可能なはずです。なぜならここは国が指定する歴史的景観保全地区であり、市が希望しているユネスコの世界遺産登録指定区域であって住民や観光客の歩行の安全を守る義務があるからです。


あまでうす茫洋敬白


♪わが腕を蟻が這う諦観とリリシズム捨てがたし 茫洋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新聞広告の中身

2009-06-27 09:30:10 | Weblog


茫洋広告戯評第8回

 朝日新聞に掲載される週刊誌の広告のなかには、しばしば朝日新聞本紙の記事の内容や会社の姿勢を非難攻撃するのみならず、誹謗中傷する見出しがデカデカと躍っています。けれどもこの新聞社は平然とこれらの広告を掲載してなんの反論や発言もしない。まるで彼らの不当な言い分をなかば肯定したかのような印象を受けることがあります。

寛容と忍耐にも限度があります。記事内容に反対する広告を差し止めれば表現の自由を抑圧することになりますが、その内容が事実無根であったり、いわれなき誹謗中傷のたぐいであれば、ただちに突き返すなり、修正させるべきでしょう。かつてバーンスタインが、グールドの演奏速度に妥協して録音したとレコードジャケットに断り書きを入れたように。

それともこの新聞社は非常にお金に困っていて、どんな陋劣なスポンサーの広告でも喉から手が出るほどほしいのでしょうか。

海を越え海に沈みし若者の瞳彩るジャガランダの花 茫洋


◎おすすめ展覧会→http://www.misakoandrosen.com/exhibitions/09/06/

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サントリーの優れた広告

2009-06-26 11:06:22 | Weblog


茫洋広告戯評第7回

昔からサントリーという会社はCMが上手でしたが、最近は「ボス」の宇宙人ジョーンズ、「ウーロン茶」などをのぞいてかなりクリエイティブのレベルが下がっていたと思います。おそらくは会社か社長の方針が営業至上主義になってクリエーターに対してさまざまな圧力が加えられた結果、遊びの精神が枯渇してしまったのではないでしょうか。

と思っていましたら、久しぶりにこれは傑作という広告が登場しました。「いやなことはお茶に流そう」というお茶の新製品の広告です。これはもちろん「嫌なことは水に流そう」のもじりですが、単にそういう語呂合わせやパロディの領域を超えていまの生きづらい世相をさらりと無化しようと試み、ほんの一時ではあるけれど、それに成功している点が尊い。なまなかにお茶に濁したり茶化せない骨太の主張と堂々たる風格さえ備えた、さすがはサントリー、流の広告であると思います。

こんなコピーは昨日や今日のポット出には絶対に書けません。海千山千のてだれの筆のすさびでありましょう。これと同時期に「同じ水で生きている」という南アルプスの天然水の広告も出ましたが、こちらのほうはいまいち、いま2.しかしライバルのキリン生茶の「買ったら読み取るのちゃ」という広告のレベルの低さに比べれば、両社の志の高低はあきらかでしょう。

もうひとつはサンアドの葛西薫さんのディレクション、安藤隆さんのコピー「君と百まで」によるおなじみのウーロン茶の広告です。母と娘、そして茶を入れた2つのグラスをバックに、この珠玉のような、あるいは血と汗の結晶であるこのコピーが、ただそっと並んでいるだけの地味な広告ですが、眺めているうちにまたしてもかすかに涙腺がゆるむのを覚えるのは、このゴールデンコンビの手練の仕業に違いありません。


♪南洋の桜といわれしジャカランダ桜に勝り毅然と咲きおり 茫洋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」を読んで

2009-06-25 07:52:39 | Weblog

照る日曇る日第266回

昨日正宗について少し触れましたが、おそらく彼も回船鋳物師と呼ばれる中世前期の代表的な職人であり、一流の刀鍛冶として鍋・釜・鍬・鋤などの鋳物師ともども、畿内を起点に瀬戸内海を経て九州、あるいは山陰・北陸に回り、琵琶湖を経て淀川に入る広大な水域を遍歴していたのでしょう。
しかし頼朝による鎌倉幕府の成立がこうした遍歴自由民の活動を制限するようになった結果、中世後期に入ってようやく定住民となって一族が鎌倉に定着したのではないでしょうか。

中世前期までは神や仏や天皇に直属する神人、寄人や道々の職人、楽人、舞人、陰陽師、医師、相撲、呪師、傀儡子、芸能人は特別な技能を持つ「聖なる存在」としてあがめられ、税を免除されて諸国を遍歴しつつ一定の自由を獲得していました。
しかし彼らは幕府や権力者によって威圧され、「悪党」とも呼ばれたある種の呪術性を喪失していくのですが、次第に勢いを失っていくこの「古くて聖なるパワー」を新たな宗教の中に生かそうとして次々に立ちあがったのが鎌倉新宗教の創設者でした。これこそが法然、親鸞、道元、一遍、日蓮たちを突き動かしていたおどろおどろしい情念だったのでしょう。

 当時は貴族と悪党どもにも多くの接点があり、たとえば後伏見天皇の妃であった広義門院が1311年に女児を出産した際には、なぜか巫女や双六打ち(博打)が産室のそば近くに待機し、その「芸能」を通じて悪霊退散の祈願を行っているのです。
いよいよその時が近づくと亀山法皇が院を背後から抱きかかえ、土器を女房たちが割り、博打が双六で戦っている出産現場には大量の「うぶすな」が撒かれたそうです。

また興味深いことに、中世前期には多くの宋人=唐人などの異民族が、さきほど例にあげた「職人」という身分と特権を持ち、国内を自由に移動しながら石工、薬売り、飴売り、櫛売りなどの商業活動に従事していました。
鎖国をしていたはずの江戸時代もそうでしたが、これは権力者の規制がどうであろうとアジアの民衆はいつの時代もたえざる交流を続けていたよい例証ではないでしょうか。
以上網野善彦著作集第8巻「中世の民衆像」より自由に引用しながら書き記しました。

健ちゃんが帰ってきたようれぴいな 茫洋


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

本覚寺を訪ねて

2009-06-24 09:41:18 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第195回

鎌倉駅からほど近いこのお寺は、もとは源頼朝が幕府の守り神として建立し、天台宗系の夷堂があったのですが、永亭8年1436年に日出が日蓮宗のお寺として再建しました。2代目住持の日朝はのちに身延山久遠寺の住持になったとき、そこにあった日蓮の遺骨をこのお寺に分骨したので、本覚寺はそれから「東身延」とも呼ばれるようになった、と「鎌倉の寺小事典」には記してあります。

 またその日朝が魔の病気を患った時、法華経とみずからの治癒力で治ったという言い伝えがあるこのお寺は、「日朝さん」と親しまれ、眼病、縁結び、商売繁盛に霊験あらたかとされて人気があるそうです。
さらには、松平定信の直筆による「東身延」の額も残っているそうですが、いったいどこにあるのやら。今度行った時によく調べてみましょう。

私が個人的にいちばん興味をひかれるのは、このお寺の墓地に刀工正宗が葬られていること。正宗は、鎌倉時代に当地にあって「相州伝」という特徴を備えた数々の芸術的な名刀を鍛えただけではなく、幾多の弟子として育て上げたことであまねく知られていますが、その名人がこんなお寺に眠っているとは。

ちなみに鎌倉には正宗の子孫と称する日本刀の刀匠が現在も小町の街中で活動中(太刀を打つ現場を観察することもできる)ですし、置石や長谷の商店街には数多くの刀商が営業しています。

    ♪ミラノスカラ座より帰国せしや平成正宗後継者 茫洋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アーサー・ペン監督の「アリスのレストラン」を見て

2009-06-23 09:00:35 | Weblog


闇にまぎれて bowyow cine-archives vol. 5 

原作と主演はフォーク歌手のアーロ・ガスリー。彼のヒット曲Alice's Restaurant Massacreを題材にしてアーサー・ペンが二度と帰らぬ青春の想い出を歌いあげました。

ギター、ハモニカ、バンジョー、フォークミュージック、マリファナ、ダンス、セックス、オートバイ、キリスト教会……、ベトナム戦争に行きたくないフォーク音楽好きの長髪のアメリカの青年が振り返る60年代には、やはり現代とは違う風が吹いていました。

それを自由と放浪への誘いの風と呼ぶか、法と秩序を揺さぶる不埒で放恣な逸脱の邪風と舌打ちするかは、人がこの時代をどのように生きたかによって受け止め方が違うでしょう。しかし若者を名状しがたい不安と理由もない希望に駆り立てる荒々しい風が全世界でふきつのっていましたが、この映画の中ではまぎれもなくその風が吹いていることをあれから40年以上経つのにまざまざと感じ取ることができます。

この政治的対決の時代の疾風怒涛の狂乱のさなかにあって、主人公を支えているのは心を許した女性アリスやヒッピー仲間たち、そして折にふれて彼が奏でるギターの音色です。とりわけアーロ・ガスリーとピートシガーがガスリーの父親が入院しているニューヨークの病院でハモる「♪自動車で行こう」の楽しさをなににたとえればいいのでしょうか。

この音楽とこの音楽に聴きほれるガスリーの両親の笑顔の中にこの映画の最上のシーンがあります。たとえラストシーンの編集に奇妙な躊躇と失敗があるとはいえ。



朋輩を皆喰い尽しておたま一匹 茫洋
おたまじゃくし1日1匹ずつ共食いすなり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

茫洋広告戯評第6回

2009-06-22 20:18:18 | Weblog



いよいよ裁判員制度が開始されました。法務省や最高裁の裁判員制度キャンペーンも最近はかなり円熟の度を深め、当初の堅苦しさがいくぶん和らいできたような印象を受けます。

いずれにしても行政、立法のみならず司法制度にも平成平民が直接参加して自由に意見を述べ、その意思を反映できることはまことに慶賀に堪えません。専門バカとはよく言ったもので、一握りのテクノクラートによってその運用が独占された機構は、とかく制度疲労を起こして機能が形骸化し、平民の意志とは遊離していく危険性があります。

この際できることなら裁判員だけでなくて検察員制度を新設し、専門家のみならず平民の声が直接検察活動に反映されるべきではないでしょうか。平民の平民による平民運動とは民衆の直接民主主義の運動で、歴史的には南北朝以降近世近代の天皇制国家の権力の肥大化の流れに呑み込まれてしまった平民共同体自己統治権の奪還を意味しますが、これらを中世末期の始原期に遡って回復しようとする衝動は、平民自身の直接参加による軍隊の創設にまで行き着くべき性格のものではないでしょうか。


コラボとはナチ協力者のことなりコラボといわずコラボレーションと言え 茫洋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アルベルト・モラヴィア著「軽蔑」を読んで

2009-06-21 10:01:42 | Weblog


照る日曇る日第267回

男のさすらいの人生の頼りの綱は女性です。もしも愛する女性に軽蔑されたら、男なんてどうやって生きていったらよいのか途方にくれてしまうでしょう。漂流しながらおんおん泣いて、ついでに海に飛び込んで死んでしまうしかないでしょう。これがこの小説の主題です。おそらくモラヴィアの実際の体験と女性観がこのテーマに色濃く反映されていることは間違いありません。


しかしこの軽蔑はいつ、どこから女の心の中にやってきたのか。それがいまひとつ最後まで読者にはよくわからない。というのは男自身もよくわからないからで、主人公がわからないのは作者がわからないからで、モラヴィアは別れた元女房の謎をわかろうとしてこの心理思弁小説を書いたのですが、苦労して書いてみても結局はよくわからなかったのではないでしょうか。

モラヴィアは仕方なくホメロスの「オデッセイア」におけるオデッセウスとペネロペの関係をフロイト的に論じ、この単純明快な問題をペダンチックに取り扱おうとします。つまりペネロペに言い寄る男たちに寛容な態度を示したオデッセウスをペネロペは軽蔑していて、それが嫌さに7年もの間故郷イタケに寄り付かなかった。夫が妻の愛を取り戻せたのは求婚者どもをオデッセウスが皆殺しにしたからだ、などと唱えるのですが、こういう暴力をこの小説の主人公が振るえるくらいなら、そもそもこんな哀れな境遇に陥っているはずもないのです。

実は主人公があまりにも草食系のインテリゲンちゃんであるために優柔不断過ぎて、妻の危機を体育会系の男からちゃんと守ってやらなかった、というよくあるとってつけたような解説も飛び出てくるのですが、どうもそれだけでは説明できない事情がどこの夫婦にもあるのです。ともかくこの小説の無残な失敗は、最後のおちの付け方を見れば一目瞭然でしょう。

なおこのモラヴィアの原作を、ゴダールがおなじタイトルの映画にしています。悩める脚本家にはミシェル・ピッコリ、辣腕プロデューサーにゴリラ男のジャック・パランス、フロイト流の「オデッセイア」を論じる映画監督には名匠フリッツ・ラング、そして単純な精神と見事な肉体の持ち主であるヒロインにはブリジット・バルドー、という豪華なキャステイング、それにカプリ島の風光明媚をあざやかに駆使して、彼一流のわかったようでわからない演出を繰り広げているのですが、これこそモラヴィアの世界にもっともふさわしい「絵解き紙芝居」だったかもしれません。


親しめば親しむほど洞窟の謎は深まる  茫洋



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ミルチャ・エルアーデ著「マイトレイ」を読んで

2009-06-20 09:20:39 | Weblog


照る日曇る日第265回

これは、ルーマニア生まれの宗教学者ミルチャ・エルアーデが、若き日にインドを訪れたときの体験を赤裸々につづった大恋愛小説です。作者はインド各地を旅行し、タゴールに会い、タントラ・ヨーガにのめりこむのですが、漆黒の肌の魅惑のベンガル女性マイトレイとの運命的な恋に遭遇します。

大きく黒い眼、厚い唇、熟れた乳房……はじめはむしろ醜いとすら思えた異貌の異性にふとしたはずみに惹かれ、思いがけない深みにはまる体験は多くの方々がお持ちでしょうが、エルアーデの場合はそれがいちおう文化的に先進国であると自他ともに考えていた白哲の欧州男と亜細亜的後進周縁国の僻地に住む異文化の女性という異色の組み合わせでした。

衣食住も思想も風土も風習も宗教もすべてが面白いくらいに異なる2人が、おそらくはその違いゆえにどんどん惹かれあっていき、周囲の懸念や反発をものともせずに愛し合うありさまはよくあるタイプの初恋物語ではありますが、その文章がおそろしく事実に忠実に、青春の情熱と愉楽の限りを刻印しているために読者はぐんぐん引き込まれて、あれよあれよという間に、お決まりの悲劇的なラストまで付き合わされてしまいます。

21歳と17歳の若者の激烈な恋愛とその蹉跌が主人公たちのその後の生涯にどのような影響を及ぼしたのでしょうか。燃えるような、狂うような恋をした2人は、それから43年の後に1973年シカゴで再会したそうですが、いったいそこでどのような対話が交わされたのでしょうか。エルアーデが1933年に書いた本書に応えるように、マイトレイは1976年に「愛は死なず」を世に出したと聞くと、こちらもあわせて読み比べてみたくなりますね。

♪ひとたびは燃えつき果てた恋なれど43年目に燃え上がるかな 茫洋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

青木美智男著「日本文化の原型」(小学館日本の歴史別巻)を読んで

2009-06-19 08:05:09 | Weblog


照る日曇る日第264回

日本文化の原型は普通は室町時代にできたと考えられているようですが、著者はそれを江戸時代に求めて、民衆の視座から見た文化、とりわけ衣食住の基礎の確立のありようを事実に即して、生活の現場に即して、実態的に見定めています。高踏的な歴史叙述を避けて下から目線の文化史に挑戦した意欲はおおいに買えます。

たとえば食の革命はまさしく江戸時代になされました。醤油、清酒、出汁が発明され、庶民の食生活は一挙に味わい豊かなものになったのです。味醂は江戸時代は女性の飲み物で、これが調味料になったのは幕末になってからだと著者はいいます。

江戸時代の酢は主に相州中原(平塚市)で生産され、これが中原街道経由で江戸城に運ばれていたそうですが、江戸後期になると料理以外の需要、すなわち友禅染という絢爛豪華な絹の衣服が登場したために大量生産されるようになったそうです。酢には酢酸が3割ほど含まれており、これが友禅染の染色過程の定着剤として流用されたというのは初めて聞く話でした。絹の染色をいっそう効果的にするために出羽村山特産の紅花や阿波藍なども増産されることになりました。

わが国では平安・鎌倉・室町・戦国時代まで庶民の大半の衣服は苧麻(ちょま)でしたが、これは栽培から織り上げまでには大変な時間と手間を要し、そのために鎌倉・室町の女性は農耕に従事する余裕がなかったほどでした。そこへ登場したのが着心地も耐用性も汎用性も抜群の木綿です。戦国時代には兵衣、火縄などの軍事用に使われていたものが江戸時代に入ると急速に普及して大衆衣料の主流になりました。新品が不足したために全国に巨大な中古市場が形成され、幕府は大伝馬町の木綿問屋に独占販売権を与えて統制を図りました。幕府は武士には絹、農工商には木綿という繊維格差を押し付けることによって身分制度を固定化しようと企んだのです。

いっぽう最高級の絹織物、西陣織で身体を華美に彩ることは権力者やセレブ階級の最大の願望であり、ステータス・シンボルでありました。江戸初期の幕府は生野、石見の銀山や佐渡の金山で採掘された金や銀を代償にして中国やベトナム産の膨大な生糸や絹を買い付けた結果、かつての黄金の国ジパングはたちまち瓦礫の列島に変身してしまいました。

仕方なく幕府は銅や伊万里焼を輸出するとともに、正徳3年1713年、国内における絹生産体制の早期確立をめざすことになります。そしてその結果、信濃、上野桐生、下野足利、陸奥信夫・伊達など各地で西陣織のノウハウを移植した絹織物の産地が呱々の声を上げ、私の郷里に近い丹後半島の与謝郡でもあの有名な丹後縮緬が誕生したのです。

以上のように、ちょっとしたさわりだけでも、とても為になる1冊です。

金の部屋大判小判を懐に金襴緞子でくたばりし奴 茫洋

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「岩船地蔵堂」を訪ねて

2009-06-18 08:52:51 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第194回


亀が谷切通を下った扇が谷の辻にぽつんと立っているのがこの地蔵堂です。ここに祀られているのは源頼朝・政子の長女大姫の持仏と伝えられています。

大姫は政略結婚で木曽義仲の息子義高と結ばれ、相思相愛の仲だったのですが、源氏同士の勢力争いがはじまって義高は頼朝の命で暗殺され、(政子はそのことに激しく怒ったと「吾妻鏡」に出ています)、愛する夫を奪われた大姫は、哀れにも強度のノイローゼに罹ってしまいます。

娘の愛を引き裂いた張本人の頼朝・政子夫妻は、大姫の回復を念じて夜な夜な浄妙寺の杉本観音から逗子の岩殿寺までの巡礼古道をたどってお百度を踏んだ、といい伝えられています。その由緒ある歴史街道を山ごとブルドーザーで引き裂いて「鎌倉逗子ハイランド」なる高級住宅街をつくって売り出したのが西武堤資本です。

大姫はその病気を案じた畠山重忠の屋敷(現在の八幡宮の東端)で療養したり、義経の愛妾静御前をいたわったりしていましたが、とうとうわずか20歳で窮死してしまいました。昔の岩船地蔵堂は木造のぼろぼろの状態で、それが薄幸の身の上の女性にふさわしい一種の物凄く、荒涼とした感じを界隈に漂わせていたのですが、いつのまにかモダーンな感じに再建されてしまいました。

余談ながらこの近所には島木健作や小林秀雄、里見などが住んでいて亀が谷切通の坂上にあった鉱泉に浸かっていたようです。鎌倉に温泉は珍しいのですが、私が住んでいる十二所にもぬるい天然の湯が沸いているところがあります。


    凶悪な政治の毒に窮したる二十歳の恋ははかなく散りて 茫洋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海蔵寺の「底脱の井」を覗く

2009-06-17 08:47:14 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第193回

幸いにも観光客があまり訪れない海蔵寺ですが、その閑寂な趣をさらに情趣豊かにしているのが寺院の外の2つの井戸です。

まずお寺の入口の右側に「鎌倉十井」のひとつである「底脱の井」と明治二七年五月に建立された歌碑があります。

千代能がいただく桶の底ぬけて水たまらねば月もやどらず

 この歌の作者は霜月騒動で惨殺された悲劇の武将安達泰盛の娘で無着如大という尼僧ですが、俗名を賢子、幼名を千代能といました。彼女は早くに夫に先立たれたので京の東福寺で修行を積んで「法は如大一人にて足りる」と称されるほどの大知識になりました。
彼女は素晴らしい美貌の持ち主でした。この海蔵寺の仏光国師に師事しようとしたとき、僧の修行の妨げになると断られた彼女は傍らにあった焼き鏝をその美しい顔に押し当ててやけどの傷をつくり、やっと弟子入りを許されたそうです。

そんな彼女がある日夕食のために水を汲んでいたのが、この「底脱の井」でした。突然桶の底が抜けてしまった瞬間長年の心の煩悶が一気に氷解し、そのときに詠んだのがこの歌だといわれています。

もうひとつは薬師堂の裏側の山腹にあるやぐらの中に16の穴が掘られた「十六ノ井」ですが、現在もきれいな水が湧いています。

以上は鎌倉文学館の資料をもとにリライトしました。


谷川さんの下手くそな詩を読んでいると自分も書こうという気持ちが起こってくる 茫洋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

扇ヶ谷に海蔵寺を訪ねて

2009-06-16 08:00:19 | Weblog


鎌倉ちょっと不思議な物語第192回

扇ヶ谷のどんづまりにある瀟洒なお寺が海蔵寺です。このお寺は四季折々にさまざまな山野草が咲く鎌倉随一の花の寺として有名です。

海蔵寺は応栄元年1394年に鎌倉公方足利氏満の命を受けて、元は真言宗の寺があった跡に上杉氏定が再建しました。開山は謡曲「殺生石」で知られる心昭空外(源翁禅師)です。本殿も立派ですが、古雅な趣を湛えているのが薬師堂で、ここには胎内仏をおさめた薬師如来、別名啼薬師、児護薬師が安置されています。

ある日のこと、寺の裏から赤ん坊の泣き声がするので源翁禅師が声の主を探すと金色と甘い香りが漂う古いお墓がありました。そこで禅師が経を唱えながら掘ってみると、現れ出たのがこの薬師像だった、という言い伝えがあります。ただし胎内仏を拝めるのは61年毎とされているそうです。

それから謡曲「殺生石」では白狐のたたりで殺生をひきおこす石を源翁禅師がえいやっと杖で打ち砕きますが、かなづちを別名「げんのう」と呼ぶのはこの故事から来ているそうです。また江戸時代に建てられた茅葺の庫裏は歴史的な価値が高く、本殿の奥にある心字池と庭園の美しさとともに捨てがたいものがあります。

以上は「鎌倉の寺」(かまくら春秋社)から勝手に引用しました。


玄関に片っぽうだけ転がっている妻の黒い靴 茫洋
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする