あまでうす日記

あなたのために毎日お届けする映画、本、音楽、短歌、俳句、狂歌、美術、ふぁっちょん、詩とエッセイの花束です。

鎌倉・坂の下の「御霊神社」を訪ねて

2017-05-31 13:13:13 | Weblog


蝶人物見遊山記第247回&鎌倉ちょっと不思議な物語第387回



通称「権五郎神社」。権五郎は平安時代後期の武将、鎌倉権五郎景政ですが、彼は源義家に従って「後3年の役」で奥州に出陣、その武勇をとどろかせた猛将です。

どれくらいの猛将かというと、秋田県金沢の柵で敵に右目を射抜かれたがひるむことなく射殺して自陣に戻り、味方の三浦平太郎為次に弓を抜けと頼んだところ、為次が顔に足を掛けて抜こうとしたので、「弓矢で死ぬのは武士の本望だが、土足で武士の顔を踏むとは何事か」と刀を抜いて斬りかかったので、為次は驚いて謝ったというのです。

まあそんないわれから林羅山はその著「本朝神社考」に御霊神社は眼病に効ありと記しているそうです。(「鎌倉の神社小事典)

鎌倉権五郎の話は「歌舞伎18番暫」や泉鏡花の小説「冠弥左衛門」や国木田独歩の「鎌倉日記」、久保田万太郎の戯曲「波しぶき」にも出てくるようですが、その豪傑ぶりにふさわしい深い森に覆われた風格ある社殿です。


  「ティーチャー」と呼ばれし人は逝きました障がいを持つ子らを慈しみつつ 蝶人



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鎌倉・長谷の「長谷寺」を訪ねて

2017-05-30 13:19:10 | Weblog


蝶人物見遊山記第246 回&鎌倉ちょっと不思議な物語第386回


久しぶりに長谷寺を訪ねました。鎌倉には大仏や円覚寺、建長寺の梵鐘以外の大半の同時代の遺物は残っていませんが、ここ長谷寺は奈良時代の創建と伝えられ、辛うじて京の都の古さに対抗しているのです。

長谷寺の名物は、木造では日本最大級といわれる11面観世音菩薩像ですが、仰ぎ見て今更ながらその崇高の念に打たれました。境内にある銅造の11面観音懸仏とは大違いの有難さです。

ここはアジサイ寺としても知られ、多くの観光客が押し寄せますが、私が訪れた時はまだその時期ではなく、代わりにイワタバコが可憐な花を咲かせていました。


  勝負に勝ち試合に負けた村田選手手数が多ければ右手が上がる 蝶人
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鎌倉・長谷の「光則寺」を訪ねて

2017-05-29 16:13:59 | Weblog


蝶人物見遊山記第245回&鎌倉ちょっと不思議な物語第385回


長い坂の上の突き当たりに立っているこのお寺の開基は、5代執権北条時頼の家臣、宿谷光則、開山は日蓮の弟子日朗上人です。
ものの本によれば日蓮が「立正安国論」事件で佐渡流罪になったとき、光則は師と同時に捕えられた高弟の日朗を自邸の裏山の土牢に幽閉したのですが、その立派な人柄にうたれて日蓮宗に帰依し、自邸をこの「光則寺」にしたのだそうで、なんとなく同じ日蓮宗の「収玄寺」の由来に似ています。

裏山の土牢は思ったより広かったのですが、夏はともかく、寒い冬などをどのようにして凌いだのかと、暗澹たる気持ちになります。

このお寺の名物は、樹齢200年と称されるカイドウですが、先日紹介した「収玄寺」に似て様々な野草が境内所狭しと植えられているので、植物好きのマニアがよく足を運んでいるようです。

光則寺を出た左側には長谷幼稚園がありますが、材木座の海を遠望するここらへんがかつての満鉄総裁中村是公の別荘があったところで、明治44年に夏目漱石が訪ねています。


  珍しき八重のドクダミ見つけたり亡き母上の庭の片隅 蝶人


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鎌倉文学館の「漱石からの手紙 漱石への手紙」展を訪ねて

2017-05-28 14:46:45 | Weblog


蝶人物見遊山記第244回&鎌倉ちょっと不思議な物語第384回



漱石が生涯に出した手紙は全集に収録されているだけで2500通を超えるそうだが、文学者でこれくらいたくさん手紙を書いて、これくらいたくさん保存されている人は、そうはいないのではないだろうか。

彼は自分あての手紙は、引っ越すするたびに処分していたそうだが、なにせ有名人だしその内容が面白いから、出した手紙の多くが、保存されたのではないだろうか。
会場のパネルによると最近400通もの新しい手紙が出てきたというが、ぜひ岩波から発行中の新全集に収録して欲しいものである。

されど会場に並んでいるのは、そのほんの一部に過ぎず、漱石特有の細文字で綴られている。倫敦から妻や子規に宛てた葉書等は、ポンド高を節約するために、なおさら超細で書かれているので、いくら眼を近づけても殆ど判読できないのは残念だった。

興味深いのは、「「明暗」は清子の生態をうわっつらしか表現していない。もっと女性心理を深く抉れ」と書き寄越した読書家に対する漱石の返事で、「女性心理の深奥を知らないわけではないが、そういう女性にしても、そうでない普通の女性と同様の、浅薄な生き方を選んでしまうことが多々あり、「明暗」ではあえてそれを書いている」と答えている。

もう1枚は漱石の娘の栄子に宛てためんどりの絵ハガキで、うろおぼえであるが、「栄子さんにわとりのたまごをとってにてたべてください」と書いてありました。

なお本展は来る7月9日まで同館にて開催中。6月4日までは庭園にて「バラまつり」も。


   珍しき金魚葉椿を見つけたり五月の長谷の収玄寺にて 蝶人


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鎌倉長谷の「収玄寺」を訪ねて

2017-05-27 11:29:22 | Weblog


蝶人物見遊山記第243回&鎌倉ちょっと不思議な物語第383回


江ノ電長谷駅のすぐ近所にある「収玄寺」は私の嫌いな日蓮宗のお寺ですが、ここはこれまた私の嫌いな北条氏の二代執権義時の孫、江間光時の家臣であった四条金吾の屋敷跡であります。

四条金吾は日蓮宗創建当時の熱心な門徒で、日蓮が幕府に捕縛された時には切腹覚悟で瀧ノ口の刑場に向かったそうです。

寺の中には日蓮宗の信者であった東郷平八郎揮毫の巨大な石碑があって眼ざわりですが、庭のあちこちに数多くの野草が花開き、住職の優しい心映えを偲ばせてくれます。

この小さなお寺を妻と散策しているうちに、むかしここにジェーン・バーキンを案内したことがあったことを思い出しました。

彼女はお寺の本堂のかたわらに置いてあった鳥かごの鳥に、自分もチュチュっと言いながら戯れていましたが、突然私に「日本では死者を土葬にするのか、火葬にするのか?」と尋ねますので、その場しのぎのいい加減なことを答えながら冷汗を流したときのことが思い出され、また冷汗を流したことでした。

あのとき彼女は、一緒に来日した新婚の夫ジャック・ドワイヨンとお熱いところを見せつけてくれましたが、およそ一〇年で別れてしまいました。
私はバーキンが好きですが、同い年生まれのドワイヨンはもっと好きでした。されど彼は、最近どんな作品を撮っているんだろう。


 そういえば黒田清子さんのときにもマスコミはここを先途と大いに騒いだ 蝶人


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明治座の5月花形歌舞伎で「南総里見八犬伝」をみて

2017-05-26 14:26:23 | Weblog


蝶人物見遊山記第242回


頂戴した上等席で、夜の部の通し狂言「南総里見八犬伝」を見物しましたが、お目当ての片岡愛之助以下松嶋屋、成駒屋、大和屋、萬屋の若手中堅どころが昼夜にわたって獅子奮迅の大活躍でした。

初めて耳にした愛之助の身のこなしに風情と艶はありませんが、藤十郎、幸四郎、吉右衛門と違って中音の発声に芯があって、声量も豊かなので安心しました。狂言も文楽も声が一番大事です。

曲亭馬琴原作の「南総里見八犬伝」は、見どころ満載のスペクタキュラーな快作で、役者連は疲れも見せずに奮闘し、見ごたえがありました。

けれどもお芝居は、演者と見者双方が協同作業で作り上げるものなので、どちらかが弱いと残念な結果に終わってしまいます。生憎この日は頼みの大向こうが一人か二人しかおらず、ここぞというところで盛り上がりに欠ける。サクラでもいいから、あちこちから声が掛からないと、役者も気持ちが燃え上がらないものです。

今回の脚本&演出は今井豊茂、制作は松竹でしたが、総合的な完成度と迫力は、1昨年の1月に渥美清太郎の脚色、尾上菊五郎の監修で半蔵門で興行された公演に一籌を輸すものでした。

それにしてもこの節の歌舞伎は、やたら見得を切りすぎる。あんなにしつこくやると却って芝居の興を削ぐように思うのは私だけでしょうか。

蛇足ながら、いかに人気商売とは云え、昼の部の「月形半平太」と「三人連獅子」を終えてからの4時間興行は、ちと過酷に過ぎるスケジュールではないでしょうか。

なお本公演は、東京浜町明治座にて明日27日まで上演中。
   


  化け猫に秘剣に光る八つの玉「南総里見八犬伝」こそ究極の活劇 蝶人

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由良川狂詩曲~連載第12回

2017-05-25 13:36:26 | Weblog


第4章 ケンちゃん丹波へ行く~「春の女神」
                     

翌朝早く、ケンちゃんはホーホケキョの声で眼が覚めました。
ウグイスです。ウグイスは鎌倉でも来る朝ごとに鳴いていますが、ちょっとアクセントもイントネーションも違うようです。綾部のは、

――ホー、ホケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョウ

ほらね、最後のところがちょっと違っているでしょ。
ケンちゃんは顔を洗ってから、窓をからりとあけると、眼の前に寺山という小高い丘のような山が見えました。
町の人々に愛されている高さ200メートルくらいのこの山は、朝晩の散歩やマラソンコースとしても利用されていますが、ケンちゃんにとっては、天然記念物のギフチョウとはじめて出あった山として、生涯忘れることはないでしょう。

それは今から3年前の春、ケンちゃんがはじめて綾部へ行った時のことでした。
その朝、ケンちゃんは、お父さんと一緒に、まだ少し冬の気配もする寺山に登りました。
いちめんの枯れ草の下から、カンサイタンポポ、フキノトウ、キランソウ、シュンラン、ムラサキサギゴケ、イニフグリ、ナズナたちが可憐な花をつけ、新しい季節の到来を心の底から歌っています。
鎌倉のタンポポはセイヨウタンポポに攻め込まれて、日本古来のカントウタンポポが少数派に転落してしまいましたが、綾部では、まだ在来日本種のカンサイタンポポが、優勢を保っているようです。
お昼前のかなり強い日差しが、マツやクリ、ヤマザクラの樹影を透かしてかっと照りつけ、急斜面をあえぎながら登ってゆくふたりの背中に、大粒の汗をしみださせています。
もう一息で頂上、というところで、見晴らしのよい峠のようなところに出ました。
ここから左に行くと寺山、右に曲がれば4つの小さな尾根で構成されている四尾山です。
早春の青空は少し霞がかかり、冷たい風が麓から吹き上げてきて、ケンちゃんのほてった全身を気持ちよく冷ましてくれます。
枝ぶりのよいヤマザクラの木の下に二人は腰をおろし、空を仰ぎました。

風がそよそよと吹く度に、白と桃色の中間の色をしたヤマザクラの花弁が、ときおりケンちゃんの顔や胸にはらはらと降り注ぎます。
ケンちゃんの目の前を、派手な黄と黒のキアゲハが勢いよくやって来て、アザミの花冠にとまりました。
キアゲハは長い口吻をぐんと伸ばして、おしいい蜜を深々と吸い込んでから、急になにかを思い出したように、寺山の山道の方へ飛んで行っていましました。
しばらくすると、越冬して翅がボロボロになった雌のアカタテハが、赤土の少し湿ったところにとまっては飛び立ち、また戻っては飛び立ってひとりでソロを踊っていましたが、ちょうどそこへ1羽のジャコウアゲハの雄がふらりと舞い込んできたので、アカタテハは彼の尻尾のじゃこうの香りに誘われたようにまとわりつき、2羽でグラン・パ・ド・ドウを踊りながら空高く消えていってしまいました。
チョウたちが通行するある定まったコースを蝶道といいますが、ケンちゃんとお父さんのマコトさんはその「蝶道」のど真ん中で休憩していたのですね。

峠のサクラの木の下には、その後もいろんなチョウがやって来ました。
アカタテハと同じタテハ科の仲間で、やはり成虫のままで越冬した、歴戦の「もののふ」のような風格のルリタテハやヒオドシチョウ、モンシロチョウによく似たスジグロシロチョウ、翅の先端に橙色の縁取りレースを施したツマキチョウ、「残された3日のうちに恋人と巡り合わなければ、あたしの人生意味ないわ」と呟きながら大慌てで山道を行きつ戻りつしているナミアゲハ、などなど、みんなケンちゃんが鎌倉でもよくみかけるチョウたちでした。

と、その時、ヤマザクラの花びらが、またしてもケンちゃんの顔めがけて、ふわりと舞い降りてきました。
ところがその花びらは、ケンちゃんの顔すれすれのところでスイッとかすめて、そよ風に吹かれるがままに、ふわふわとあっちの方へ飛んで行ってしまったのです。
――あれは何だ。サクラじゃないぞ。チョウだ、チョウだ。
と気付いたケンちゃんは、ガバと跳ね起きました。
――あれは何チョウだろう。もしやまだ図鑑でしか見たことのないギフチョウかヒメギフチョウでは?
ケンちゃんは目が点になったままで、花弁のようなものの後を追いました。
そのチョウは、うすい黄色の地に黒のダンダラ模様が入り、後ろの翅の下の突端に黒地に赤の斑点があざやかな、これまでに見たこともない小型のアゲハチョウでした。
でもアゲハの仲間の癖に、その飛び方ときたら、とてもゆっくりしていて、ふわりふわりと春風に乗っています。
――まるで「春の妖精」みたいだ。
それが、ケンちゃんの頭に最初に浮かんだ言葉でした。
――学校の教科書に出てきたポッティチェリの「春の女神」みたいだ。
それが、2番目の印象でした。
そのチョウを見ていると、この世の現実のことがすべて忘れ去られ、なぜかケンちゃんは古代ギリシアの、アテナイじゃなくてスパルタの郊外の田園で遊んでいるような錯覚におちいるのでした。
きっと歴史の古い、もしかすると氷河期にまでさかのぼる立派な種属なのでしょう。

「おや、ギフチョウじゃないか。珍しいな」
いつの間にかぐっすり眠りこけていたはずのマコトさんが、ケンちゃんの傍に来て、カタクリの花にぶらさがって無心に蜜をむさぼっているギフチョウを指差していいました。
「学名Luehdorfia Japonica、日本特産の超貴重種だ。ヒメギフチョウと似ているけど、大きさとか色とか、細かい点でずいぶん違う。ヒメギフチョウの原産地は朝鮮、ウスリー地方だしね。それとヒメギフは、北海道と本州の東北と中部地方にしか棲息していない。綾部にいるのはいまのところギフチョウだけなんだ」
春の舞姫のように、鉢かつぎ姫のように優美なギフチョウは、ヤマザクラの木の下から10メートルばかり寺山の方角に登ったところに群生しているカンアオイの方へ、ゆらゆらと風に身をまかせながら、近寄ってゆきました。
あのギフチョウはおそらく雌で、カンアオイの葉の裏側に産卵しに行ったのでしょう。
「よおし、ギフチョウの産卵現場を観察するぞ!」
と叫びながら、ケンちゃんは急いで雌の後をおっかけました。
ところがどうしたことか彼女の姿がどこにも見当たりません。
「おかしいな、ついさっきまでここらでフワリフワリ浮かんでいたのに……」
ケンちゃんは、カンアオイの茂っている付近を、しらみつぶしに探しましたが、やっぱり見当たりません。
そのとき、寺山の頂上の上空をゆっくり漂っている黄色と黒のだんだら模様が、一瞬ケンちゃんの視野に入りました。
「あ、あそこだ!」
ケンちゃんは全速力で、寺山のてっぺんまで、息を切らして駆け上がりました。
しかしギフチョウは、どこへ消えてしまったのやら、右を見ても、左を見ても、影ひとつ見当たりません。
ケンちゃんの目の前に広がっているのは、白い千切れ雲を浮かべた口丹波の青空と、その下を悠々と流れる由良川の白い水の流れだけ。
静かに晴れた空と、音もなく流れる川のあいだに、ギフチョウは、幻のように忽然と姿を消してしまったのでした。
                                つづく

  小泉淳作の日本画は素晴らしい安田靫彦なんかてんでめじゃない 蝶人


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夢は第2の人生である 第42回

2017-05-24 09:50:06 | Weblog

 
西暦2016年皐月蝶人酔生夢死幾百夜


私が海に身を躍らせると、目の前に広がっているのは夥しい数の墓標だった。それは私が潜っても潜っても眼下にいつまでも広がっていて、墓標のピラミッドの周りには名も知らぬ青い魚が泳いでいるのだった。5/2

私は、港の沖合の小島の木陰の小舟に乗って、様々な秘密情報や音楽を、敵に占領された本土の人々に向かって、FMで流していた。5/3

戦後復員兵士たちでぎゅうぎゅう詰めだった大阪支店だが、半数は別の建物に移動したのでだいぶ楽になったが、5階の窓から眺める風景は、荒涼たる焼け野原だった。5/4

朝も10時を過ぎたのに、会社があるその駅では、電車に乗り切れない乗客が途中下車したり、線路に降りて長蛇の列を作って歩いているので、私はいまごろ息子たちはどうしているんだろうと心配になった。5/5

大船行きの電車がもしかしたら乗せてくれるのでは、という期待に胸を膨らませた人々が一斉に駆け寄ったが、電車は速度を落とさず走り去り、線路の上には、切断された両足を呆然と見詰める小太りの婦人だけが取り残された。5/6

知らない人から、どんどんケータイが掛かって来るので、よく見たら、機種は同じだが、別のものだった。しかし、いつどこで私のものとすり変ったのか、いくら考えても思い当たらないのだ。5/7

外出から帰って来て、外の様子を孝壽君に報告すると、彼はそれを几帳面に記録していた。彼はその後病気で、どこかの病院に入院しているというのだが、大丈夫なのだろうか。5/7

私はあらかじめ彼に、「過去の死刑に関する判例集を渡して研究しておくように」と命じておいたので、最難関の司法試験を最高の成績で突破したときいて、とてもうれしかった。無脳人間にもそこまでは出来るのである。5/8

関東大震災で倒壊した高層マンションの西棟を、東棟の最上階から見下ろしながら、私は殺到する負傷者の治療に忙殺されていた。あの西棟の10階の部屋にいた、私の愛する妻子はどうなってしまったのか、と案じながら。5/9

「私は原子炉の前で素っ裸になって全身を晒した結果、不死身になったんだ!」と宣言すると、六つ子は蒼ざめて胸に手を当て、「イヤミはシェー!」と叫びながら逃げ出した。5/10

余りにも荷物が多すぎて鎌倉駅で降りられなかったので、次の逗子で降りようと懸命に準備していたのだが、そばにいた小僧が邪魔立てするので、バッグを振り回してぶっ飛ばすと、車体の障壁ごと線路の向こうにすっ飛んでいった。5/10

美しきエトワール、オーレリー・デュポンをガルニエ座から拉致した私は、彼女を後ろ手に縛り上げ、ナイフで脅かしながらフェラチオを強いたのだが、そのめくるめく快楽にたちまち気をやってしまった。5/11

3万円払ったが、おつりは、30円しか返ってこなかった。5/12

いきなり声がした。「ここにA、B、Cという3つの世界がある。お前らは普段Bに住んでいるのだが、時にはAやCに行く時もある。しかしその場合、お前たちは姿形がすっかり変っていることにまったく気づいていないのだ」5/13

お城で失われた珍品の数々を、元の持主に返す催しが開かれ、我われ業者は3日間待機していたが、誰も現われなかったので、それらを全部引き取って故買に付そうと楽しみにしていたのだが、ふと眼を離した隙に、誰かが全部引っさらっていった。5/14

誰かが私のことを社会人と紹介したので、「そうではありません、私は大学5年生です」と訂正した。5/15

わが社の新製品であるコーヒーメーカーの色を、なに色にするかを巡って、何週間も大論争が続いていたが、結局これまでと同様の、無難な白にすることに決まった。5/16

わが社の全社員が大講堂に集まって社長の訓示を聞いている最中に、どういうわけか見知らぬ人々が通りかかって、興味津津の面持ちで耳を傾けているので、社長も我われも驚いた。5/16

皇室から作曲を依頼されたので、できるだけ馬鹿馬鹿しい漫画的な曲をつくったら、意外なことにおおうけして、「次もぜひお願いしたい」ということになった。5/18

功なり名遂げた私は、母校に招かれたので、「何でも疑ってかかれ」とか「モザールを聞けばモー君が美味しいミルクを出すという与太話は迷信だ」とか「世界一丈夫で美しいパンティはまだ誕生していない」というような話で、お茶を濁した。5/20

写真一筋の余は、「自然や人世の化生を写し取る」をモットオに、今日もシャッターを切り続けていた。5/21

親戚大集合の催しに遅刻した私は、焦っていたのか前に座っているフジイ氏に熱い味噌汁をぶっかけてしまい、謝りながら慌ててハンケチで拭いたり、大童だったが、このフジイ氏とは何者なのか、いくら考えても思い出せなかった。5/22

政府がこれまでの規程を全部反故にしたので、我われの会社でも全員が居残って、この国に残留するか否かを熱烈に討論していたのだが、山口君だけは「今日はひどく疲れたので帰ります」というて、闇の中に消えた。5/23

腹立ち紛れに、つい暴言を吐いてしまったことを、いたく後悔したが、後の祭りだった。5/24

私は長年にわたって脳裏に浮かんだ思いつきを、そのつど手元のテープに録音していたのだが、何百何千もあったカセットテープは、いつの間にかすべて姿を消してしまった。5/25

正月早々出勤した私だったが、上司から幹部会に出席するよう命じられていたことをすっかり忘れていた。会議は本社ビルの2階の大会議室で行われているので、急いで駆けつけたが、あいにくそのフロアだけエレベーターが止まらないようにしてあったので、大いに焦った。5/26

誰かが「裏口から入れるよ」というので、急いでいったんビルを出て、裏側に回ろうとしたが、生憎の大雪で、行けども行けども、なかなか辿りつかない。額に汗して歩き続けているうちに、かえってビルからどんどん離れていくので、私はますます焦った。5/26

背後から私を追って来る人のように、私の家を追ってくる家があった。私が人から逃げ惑うように、私の家も逃げ惑うのだった。5/27

TYOの木村君と話していた男が、突然高価なオーディオ製品をいじりはじめたので、木村君が「駄目駄目、それを勝手にいじると、スギヤマ・コウタロウが怒りますよ」と注意したので、「そうか、あの大人しいスギヤマ・コウタロウも怒ったのか」と思って、私もその男を注意した。5/27

この街で行きかう人々の顔は、みなぽっかりと穴が開いた□の形をしていた。5/28

ウッチャンは、「ファックス機の新品をあげる。タダだよ」と来る人ごとに言うたが、誰一人「下さい」とはいわなかった。5/29

大阪支店の遠藤君が、私を見知らぬ飲み屋に連れて行った。そこには同じ支店の営業部の連中が、三々五々呑んだり食ったりしていたが、いつのまにかいなくなったので、真っ暗な道をよろめきながら歩いていたが、肝心の遠藤君も行方知れずになってしまった。5/30

さっき通りかかったガソリン・スタンドでは、赤いミニドレスのおねえちゃんが強烈に誘ったので、なにしたんだが、今度のガソリンスタンドでは、白いミニドレスのおねえちゃんが、またまた強烈に誘ったので、またなにしてしまった。5/31


   本日も短歌戦線異状なし口語派軍の攻勢続くも 蝶人


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テイ・ガーネット監督の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」をみて

2017-05-23 09:55:19 | Weblog


闇にまぎれて tyojin cine-archives vol.1182


風来坊(ジョン・ガーフィールド)が妖艶な若妻(ラナ・ターナー)の魅力の虜になり、年長のその夫を自動車事故を偽装して共謀して殺すが、どういう風の吹きまわしか無罪になる。→「郵便配達は一度ベルを鳴らす」。

その後二人は本当に交通事故に遭い、女だけが死ぬ。男は冤罪だったが女の金目当ての偽装事故だとして起訴される。→「郵便配達は二度ベルを鳴らす」。

天網恢恢疎にして漏らさず、という教訓を地でいく1946年製作の映画ずら。


  やよ人よ総理官邸の意向を聞き流し日本国憲法条文を忖度せよ 蝶人

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オットー・クレンペラーの「20世紀音楽」を聴いて

2017-05-22 10:10:19 | Weblog


音楽千夜一夜第389回



偉大なる指揮者がストラビンスキーやクルトワイルやヒンデミットを新旧2つのフィルハーモニア管弦楽団を振って今は亡きEMIに収録した4枚組のクラシックな現代音楽物CDである。

クレンペラーもフルトヴェングラーと同様彼と同時代の音楽を演奏したけれど、現代の若手指揮者は一部を除いて消極的。そういう意味では昔よりよほど保守的になっているようだ。

このセットでは、自作の交響曲や弦楽四重奏曲も聴くことができるが、フルヴェンと同様誰かの作品の剽窃のようで、意外にも強烈な個性が感じられず、やっぱり天性の指揮者だったんだなあと思わせられてしまう。

4枚目は、彼の生涯と作品を振りかえるインタビューを交えたドキュメンタリーで、クレンペラーファンなら泣いて喜ぶだろう。


   御威光を損得で忖度する平目ども現われいでて首領に媚びる 蝶人

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新装オープンした扇ケ谷無量寺谷の「鎌倉歴史文化交流館」を訪ねて

2017-05-21 10:35:30 | Weblog


蝶人物見遊山記第241回&鎌倉ちょっと不思議な物語第382回&勝手に建築観光第56回



ところで昨日紹介した鎌倉扇ケ谷無量寺谷の「無量寺(無量寿寺)」跡には、げんざい鉄筋コンクリートとガラス製の現代建築が建っていて、その設計が香港上海銀行や米国のアップル本社を手掛けたイギリスの建築家ノーマン・フォスターだというから驚く。

フォスター+パートナーズが設計し、2004年に竣工した奇妙な仏教的な臭いのする個人住宅「Kamakura House」は、その後センチュリー文化財団等が所有するところとなっていたが、2013年にこの建物を寄贈された鎌倉市が公共施設として改修し、今年の5月15日に「鎌倉歴史文化交流館」がオープンしたのである。

以前と比べてどこがどう変わったのかはよく分からないが、広大な敷地の中に本館と別観の2か所に分かれて妙に細長いコンクリートの壁が窮屈そうに立っている佇まいは、ロンドン市丁舎の魁偉、千代田区のセンチュリータワーのエグさとはうらはらの状態にあるもので、この中途半端さは建物の内部の迷路のような通路を歩いていても変わらない。

そもそもが基本的かどうかはいざ知らず、そもそもノーマン・フォスターなんて名のみ有名でもろくな建築家ではないことはこの「鎌倉歴史文化交流館」を訪ねてみれば一目瞭然だろう。

せっかく鎌倉幕府ゆかりの良地に所を得たというのに、それと融和するどころか妙に張り合って「個性」を主張するコンクリーの塊などぜんぶ壊して昔ながらの平屋の日本建築を移設すればよかったのになあとため息がでる。

しかしながら、有史以来の鎌倉の歴史文化を映像、史料やこの地で発掘された考古遺物などを展示しながら視聴覚を通じて総合的体系的に理解してもらおうとする試みはきわめて有意義であり、鎌倉来訪、特に銭洗い弁天散策の折は、ついでに訪ねて頂きたいものである。



    壊憲の先棒担ぐ安倍蚤糞議会にて右翼紙をPRする 蝶人


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鎌倉扇ケ谷無量寺谷の「無量寺(無量寿寺)」跡を訪ねて

2017-05-20 11:36:13 | Weblog


蝶人物見遊山記第240回&鎌倉ちょっと不思議な物語第381回


わが偏愛の書貫達人・川副武胤著「鎌倉廃寺事典」によれば、無量寺谷は佐助に抜けるトンネルのある谷ですが、文政から天保頃は綱広谷と呼ばれ、その当時は鎌倉駅西口の水道局の西方の平地を無量寺と呼んでいたそうです。

でも私が訪ねたのは扇ケ谷の無量寺谷のほう。文永2(1206)年6月3日に、ここで秋田城介安達義景13年忌仏事を執り行い、若宮別当僧正隆弁が説法をおこなっている最中に激しい夕立が降り、山の上に構えた聴聞の仮屋が倒れて大騒ぎとなりました。「吾妻鏡」によれば男女2人が山頂から道の北に落下して半死半生になったというのですが、いま見てもいかにもさもありげな急峻な頂きです。

安達義景は鎌倉時代中期の武将で、父は景盛、子は泰盛。北条氏と連合して幕府最強の御家人三浦氏を宝治合戦(1247年)で滅亡させた張本人ですが、この法事が行われたころには当主となっていた泰盛の時代に霜月騒動(1285年)で一族もろとも壊滅させられ、その泰盛以下数百名を殺戮した平綱頼も、8年後の平禅門の乱で一族93名もろとも滅亡していますから、歴史とは皮肉なものです。

   
   2人とも代打に出ててイチローは右飛青木は投ゴロ 蝶人


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石月正広著「神が自殺をえらぶとき」を読んで

2017-05-19 13:53:00 | Weblog


照る日曇る日第968回

神社の近くの森の地下に広大な鍾乳洞があって、何世紀にも亘っておよそ50万人の小人たちが3つの国に分かれ、彼らなりの文化と文明を育みながら天上界の人間族を岩の隙間から仰ぎ見つつ暮らしている。

そして彼らに命の糧を与え続け、生殺与奪の神のような、リリパット国の小人たちに対するガリバーのような役割を果たしてきたのは、この神社の先祖代々の宮司であった。

かくして物語は、天と地、人間(神)と小人、マクロとミクロの決死圏を舞台に、大勢の個性的な人物(小人)が陸続と登場し、時空を隅々まで駆け巡るような気宇壮大なロマンが繰り広げられ、なにゆえに神が自殺を選んだのか、その曰く因縁が最後の最後についに解き明かされるのであるが、そのプロットの雄大、全体構成の強靭、デテールの緻密、その登場人物の造型の鋭い切れ込みには感嘆の他ない。

「わたしも民主主義を超える思想が探し出せなかったことが、心残りです」p326
「下手な民主主義よりも、正義の独裁者のもとの君主制の方がましなのだと考えてしまいます」同
「どうだっていいんだ。もう、どうだっていいんだ。わたしも、死にます。わたしにはもう帰るべき場所がありません。わたしは、日本では生きていけません。(中略)それにわたしが本気になって話ををすると、日本人にはその意味が解せない」p333

スイフトが「ガリバー旅行記」を通じて18世紀の英国社会を俎上に載せたように、著者もまた野心的な実験小説という道具をもちいて、この国の来し方行く末を、その原点にまで遡って考察し、骰子一擲、新しき時代への跳躍を試みたともいえよう。

が、そういう教条的な視点からはどうしようもなくはみ出してしまう憤出のエラン・ヴィタール、物語が物語を自動的に生み出してしまうカタリの快楽、世界大乱のカオスをほんの一瞬にせよ金魚鉢の中に閉じ込め、呵々大笑してしてやろうとする石田選手の悲愴な文筆家根性に、読者は大いに動かされるのである。



     鎌倉の風来坊として卒りたり太田先生さようなら 蝶人


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木村迪夫著「村への道」を読んで

2017-05-18 10:47:09 | Weblog


照る日曇る日第967回



世間では「農民詩人」と称されている方の詩集を、はじめて眼に入れました。するてえとこの老眼に浮かんできたのは、なんとロシアの作家トルストイ翁が、とぼとぼとヤースナヤ・ポリャーナへの道をたどる姿でした。

翁がロシアの寒村にわけいって背に薪を負い、「イワンの馬鹿」になりきって彼の「新しき村」運動を始めたように、82歳の木村迪夫さんは

おれは 現役の百姓なんだ
おれは まだまだ若いんだ
勇気は十分に残されている  (「吹く、春の風が」より引用)

とつぶやきながら、トラクターにまたがって故郷山形上山市牧野村の田圃を耕しておられます。

そこに浮かび上がってくるのは、わが国の少子老齢化、産業構造の激変と農業の国際化によって打倒されてゆく孤立無援の百姓の姿、それでも執拗に思索し、粘り強く権力にあらがう百姓の姿です。

性懲りもなく
わたしは
屹立つ (「夏の彼方へ」より引用)

この詩集は、この国の最後の百姓が働きながら歌う雑草の歌、背筋をピンと伸ばして歌う永遠の戦いの歌なのです。

わが死地は
この村落以外に無いと
心に決めて
久しい

すると
何故か、急に
わが村落が
美しく見えてくる (「我が死地」より引用)





「凶暴罪」などはこの世に無きがごとく「眞子眞子眞子」と大騒ぎする人 蝶人

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中公版「谷崎潤一郎全集第23巻」を読んで

2017-05-17 11:33:50 | Weblog


照る日曇る日第966回



1961年に出された「三つの場合」「当世鹿もどき」の2冊を軸に、同時期の単行本未収録作品の「老後の春」「残虐記」などを収録した作家晩年の集成であるが、この後に「瘋癲老人日記」と「台所太平記」がどどっ、と来るのである。

「三つの場合」は寄せ集めの雑文集であるが、「細雪」のモデルと(作家を含めた)彼らの後日談がかなり詳しく語られている(1959年以降の彼の作品はすべて口述筆記である)ので面白い。

けれどももっと面白いのは、谷崎が落語家の口調で喋り下ろした「当世鹿もどき」で、女優、高峰秀子や淡路恵子の手紙が飛び出してきて、読者の意表をつく。
「広辞苑」の新村出博士とデコちゃんへの熱愛ぶりも微笑ましい。

「がめつい」などという菊田一夫がはやらせた大阪弁は、大阪では使われていないとか、「がしんたれ」は大阪では使われているが、京都では聞かれない、などいう興味深い実例が飛び出す「関西語」の蘊蓄、上京、下京、芝白金、鳥越、本銀町、井ノ頭、もちぐされ、初恋、高利貸、こりごりなどの用例における濁音ばやりを戒める1文などは、谷崎の真骨頂だろう。

雑文の「あの頃のこと」は、国語学者の山田孝雄の追悼文である。

山田は前後2回に亘って谷崎源氏の翻訳を手伝ったが、旧訳のときの条件は、「臣下たる源氏の皇后との密通、その子が天皇となり、源氏が太政天皇に準ずる地位に登ったこと、に関わる個所を完全に削除する」ということだったそうだ。

ところが戦後になると、そんな条件などおくびにも出さずに、2回目の新訳にも参加して、平然と原文通りに復元している。三百代言、曲学阿世とはこういう手合いのことを指すのだろう。(それに加担した谷崎も同罪だが。)

雑文の「細雪を書いたこと」は、もっともっと興味深い。

「細雪」は、最初の計画では「三寒四温」という題名で、昭和17年、大東亜戦争勃発当時の「蘆屋夙川付近の上流階級の腐敗し廃頽した方面を描くはずだったが、軍部やその筋の眼が光り出し、さう云ふ題材を選ぶことが危険になってきたので、已むを得ず、彼等に睨まれないやうな方面だけを描くことになってなってしまった。「細雪」と云ふ題は、さうなってから雪子を女主人公にするつもりで思ひついた」のである。

もしも谷崎の当初の構想が実現していたら、彼の最高傑作と称される「細雪」は、果たしていかなる相貌で我々の前にその威容を現したことだろうか? 思うだに夢躍る話ではないか。


    韓ドラを愛する人はおそらくは嫌韓派ではないのだろうが 蝶人

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