(川入村の東方、岡山方面の村々の様子)
一 定杭大痛、潰家十三四軒、半潰多く、無事成家はなし、撫川庭瀬之内にても七八軒潰、撫川大橋、柱ゆり込橋落る。目もあてられぬ事に候
一 びくに橋、三四軒潰、地面ひくく成田地もこれ有り、又青土吹出候家もこれ有り
一 一ノ宮も大痛に候へども、撫川程にはこれ無し
一 浜村之内、中樋の東、田の中に青土吹出し居候に付、見物に参候所、所々に穴明き吹出候と見、吹出す時分はおよそ弐三尺(60-90cm)も吹上げ由候、其穴へ三間(5.4m)くらいの棒は少しも障りなしに、這入申候
一 岡山にても弐軒三軒ヅゝ所々に潰家これ有り
一 御野郡大痛之由、上道新田は別而大痛、家たおれ、又ずり込、数多き由
一 山寄村々は痛無レ数、子位庄、浅原、西坂、生坂辺<地図>は家壁等に痛なし
一 びくに橋は大痛に候へども、弐丁か三丁行、野殿村は痛数無し、往来より北手、山へ付候家は痛なし、往来より南手に有レ之家は壁損じ居申候
一 庭瀬、撫川、定杭は格別大痛に候へども、花尻にては一向損じこれ無し
----------------------------------------------------------------------
以上が惣五郎が見て歩き、書き留めた近隣の村々の様子です。
「液状化で青土が噴出した跡の穴の中に長さ5m以上の棒がスッと入った」など、生々しいですね。
長時間にわたる大きな揺れにもかかわらず、山寄りの固い地盤に立つ家は損傷がほとんど無かったと記録されています。
しかし
裏を返せば、埋め立て地は液状化が激しく被害も大きいということです。
岡山の主たる市街地のある岡山平野は、ほとんどが埋め立て地なんだけど……
(ブログトップの、鬼ノ城から撮影したパノラマ写真に写っている平地のほとんどが、干拓によるものです)
安政地震後も干拓は積極的に行われ、埋め立て地はさらに広がっています。
(都道府県の中で最もゼロメートル地帯が広いのは、岡山県だそうです)
惣五郎はこのあと、地震当時の身の周りの様子や、その後見聞したことを書き留めています。
つづく
Trackback ( 0 )
|
|
今日の月食で、月の写真を思い出していましたら、鬼の城で月食写真を撮った、という人がいて、頭が下がりました。
「せっかくなので、鬼ノ城の西門を近景に入れて撮影してみました。
日本で見られた月食としては、『日本書紀』にみえる680年12月12日のものが最古の記録です。
天文の本によれば、この時は食分0.85のかなり深い部分月食だったそうです。
7世紀後半といえば、ちょうど鬼ノ城が築かれ機能していた時期。
城に駐留した兵士たちの目にはどう映ったのでしょうか。
」
ですって。kamokamo様を思い出しました。
私は家の窓越しに、雲の合間からのぞく月をチラチラッと見ました
古文書に残る天文現象は、日時まで特定できるので面白いですよね。