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五重塔が再建された文政・天保・弘化は、一体どんな時代だったんだろう?


現在岡山倉敷総社の市街地となっている広い平野は、古代条里制の時代から近年に至る怒濤のような干拓によって形成されたものです。
高梁川分流の川底だった現在の総社市街地は平安時代に作られた十二ヶ郷用水によって、また海の浅瀬だった倉敷周辺は戦国時代からの干拓と酒津村から開削された八ヶ郷用水によって、整然と区画された農耕地へと姿を変えて行きました。

江戸初期の「倉敷村」(現在の美観地区あたり)には水夫屋敷が並んでいたといいますから、その頃倉敷はすでに米など様々な産物の集散地だったようです。
そこらあたりの事情に目をつけられたのか、1642年に倉敷は幕府直轄の天領となり代官所が置かれました。

幾人もの代官が倉敷へ赴任しては、また帰って行きました。
中には

「下津井屋、そちもなかなかの悪よのう」
「いやいや、桜井様ほどではござりませぬ」

時代劇も真っ青の悪代官も……



そんな歴代代官のエピソードから、「文政」当時の倉敷代官「大草太郎右馬 政郷」のお話を拾い読みしてみました。
(以下は「倉敷市史」からの抜粋です)

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文政年間は倉敷史上、最も多事の時代にして、外に児嶋海開拓の大問題あり、内に新六古六の大紛争あり、而して当時の代官大草太郎右馬は、傑出せる手腕家にして、且つ最も薄倖多難の人なりき。

備中の倉敷の御代官、大草太郎右馬君と云へるは、孝子の聞へありて、然かも豪傑なる由。先頃大阪の同心組入り込み、賄賂を貪り不法の振舞いなりしを直ちにを掛け、からめ捕りして、備中一円に聞き伝え、知るも知らざるも畏服し、詩人は詩を詠じ、歌人は歌に連ね、賞誉することなりき。

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へぇ~~
「詩人は詩を詠じ、歌人は歌に連ね」かぁ………



つづく

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備中国分寺五重塔の二重鬼瓦の作者「梶谷 定次郎」はどんな人物だったのだろう?
阿吽の鬼瓦と額の紋章は、当時はどんな意味を持っていたのだろう?

本を読んでも核心に迫る部分には至らず、手がかりも掴めないまま日々が過ぎてゆきます。


しか~~し、鬼瓦に刻まれた銘が
初重「備中宿、高谷七三郎」
二重「同国(備中国)窪屋郡酒津村住人梶谷定次郎」
三重は

「下道郡服部村住瓦師瀬崎文吉・国広 当村高谷七三郎」

である事が分かりました。



「備中国分寺五重塔保存修理報告書」には、三重鬼瓦の作者は

「服部村 瓦師高谷七三郎」

とだけ記載されています。

kamokamoはその「報告書」を読んで、高谷七三郎は「初重」と「三重」のたった3年のあいだに「宿」から「服部」に工房を移したのかと思っていましたが、七三郎は「当村」ですから工房は「宿」のままだったことが分かりました。

納得しました。



でも………

公文書に近い「保存修理報告書」がそんないい加減なことでいいの?
やっぱり納得出来ないわよ~~~~!!


それにしても、三重鬼瓦が三人がかりとは驚いたわね……
しかも、新たに加わった「瀬崎文吉」は当時近隣では有名な瓦師だったそうです。
銘の無い四重五重は、一重三重と似ているから、三重の作者と同じ「瀬崎 高谷」のグループでしょう。


鬼瓦の作風から見ると、恐らく紋章のある二重鬼瓦だけが「梶谷定次郎」ね……
どうしてだろう?

「瓦師」ではなく「住人」というところも気になります。

こうなると
ますます二重鬼瓦に銘を刻んだ「梶谷定次郎」の素性を知りたくなっちゃうわ。



それにしても、五重塔が再建された文政、天保、弘化にわたる20年間はどんな時代だったのだろう?
平穏な時代だったのか、それとも動乱の時期だったのか?



つづく

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名月「玉兎」つながりで恐縮です

鬼瓦の額の紋章に使われた「金烏」「玉兎」
この言葉を適当に受け流そうとしましたが、やっぱり避けて通れなくなったのが「陰陽道」です。
映画で一躍ブームとなり脚光を浴びた陰陽師・安倍晴明(kamokamoは見ていません)に、門外不出の秘術として受け継がれた奥義が「金烏玉兎集」と名付けられているそうです。 そこでAmazonで陰陽道に関する本を数冊取り寄せて読んでみました。

陰陽道は、もともと天文や暦・気象や地理学を「秘伝」として伝えたものだったようです。「月食の予言に失敗したことでその信頼を失った」という話もあるそうですから、かなり正確に日食月食を予測していたのでしょうか?? これには驚いてしまいます また、星の間を動き回る惑星の位置を観測して吉兆を判断し、いち早く帝に伝えるのも陰陽師の役割だったそうです。なんだか現代の国立天文台の役割に似ていますね。

kamokamoは占いなどは半信半疑だけど、古代に天体を観測して日食や月食を予測した「秘伝」には敬服せざるを得ません。(古代の満天の星は素晴らしかっただろうなぁ


都の造営にも影響を及ぼした陰陽道の一要素「風水」も、今では「風水占い」「西に黄色」などと何やら胡散臭く迷信にすぎないと思われがちですが………  
たとえば沖縄地方では、どの家も「琉球風水」に基づいてフール(豚便所)を必ず母屋の北西に配置しました。 また家畜小屋も西に置き、台所のカマドも母屋の北西隅に据えていました。(沖縄県中城村の中村家住宅を実際に見てきました。)
これにはきっと理由があるに違いないと宮古島気象台の風向度数を見たところ、地上付近でほぼ常時東風が吹く貿易風帯にある宮古島では、年間を通じて西~北西の風が極端に少ないことことが分かりました。 沖縄本島も貿易風帯ですから、西~北西にそれらを配置しておけば、フール(豚便所)の臭いやカマドの煙が母屋に入って来ることは、ほとんど無いわけです。

このように、帰納法的・経験的な地理・気象データに基づいた暮らしの知恵を(呪術的な脚色を加えて)世に知らしめたものが、「風水」本来の姿だったのかもしれません。

ところで
この「風向度数表」を見て気が付いたのですが
もし北東に豚便所やカマドがあったら………最も頻度が高い北東方向からの風に乗って、強烈な悪臭や煙が家の中に四六時中充満し、大変なことになりますよね……… 
偏西風帯(上空で西風が吹く)にある日本列島では理由も分からず不合理にも思える北東の「鬼門」も、貿易風帯の琉球諸島ではまさに「トイレはタブー」の「鬼門」となるんだけれど……
もしや、ひょっとして「北東の鬼門」って………??



道教や密教の思想と深い関係を持ち、惑星の位置による占いで朝廷貴族に重用されていた陰陽道はその後、時の政権(秀吉)によって断絶の憂き目に遭いました。 貴重な書物や機材も破棄され、学術的な技も途絶えました。 江戸期には再興を果たしますが、技は野に放たれ劣化し百家争鳴状態になり「当たるも八卦、当たらぬも八卦」のまじないとなったそうです。しかし何故か「庚申」(書籍「ミサキと荒神」によると「庚申=荒神=金神」)や「怨霊」「鬼門」などなど、下々にもてはやされ爆発的に流行したそうです。
今でも名残があるかも。

自然科学が学問として導入されると陰陽道の「天文、暦、地理、気象学」はその役割を終え、明治政府から禁止令も出されて「祈祷」や「お払い」など呪術の要素を「神社」に譲り表舞台からその姿を消したそうです。


しか~~し
五重塔鬼瓦が作られた「文政」といえば、まだまだ陰陽道が現役で日常に生きていた時代。
阿吽の鬼瓦に描かれた「金烏」「玉兎」は、一体どういう呪術的な意味をもっているのだろう?


つづく

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鬼瓦の作者を、一度「報告書」で確認することにしました。

報告書とは、正確には
「重要文化財 備中国分寺五重塔保存修理工事報告書 1994」
平成二年から六年にかけて行われた解体修理工事の報告書です。
この解体修理工事、途中で台風19号に襲われて大きな被害を受け、修理を始めからやり直したことを、kamokamoはよく覚えています。

報告書によると、鬼瓦の作者は以下のようになっています。

初重鬼瓦:文政10年 備中宿 高谷七三郎作
二重鬼瓦:文政12年 酒津村住人 梶谷定次郎
三重鬼瓦:文政13年 服部村 瓦師高谷七三郎作
四重鬼瓦:記載なし
五重鬼瓦:記載なし

これを見ると、二重鬼瓦の作者は「酒津村住人 梶谷定次郎」ひとりですから、紋章のある四つの鬼瓦はおそらくすべてがこの方の作品でしょう。 ということは、紋章や細部の違いは作者の遊び心でしょうか?


初重と三重は同じ作者の作品のようです(住所が違うけれど)。両者は作風もよく似ています。
しかし、初重より三重の方が、別人のように丁寧な仕事をしているような印象を受けます。(刻まれた銘も詳しくて丁寧??)
初重鬼瓦を作った作者が、二重鬼瓦の丁寧さに触発されて三重で良い仕事をしたということしょうか?

四重、五重ともに作者の記載はありませんが、四重は三重によく似ています。やや獅子頭のようにデフォルメされかかっていますが…
五重も三重と作風が似ていますが、かなり雑な仕上がりになっています。

以下、それぞれの特徴をまとめてみました。

初重鬼瓦:よくある鬼瓦かな~
二重鬼瓦:鼻筋が通ったエキゾティックな顔立ち。額に紋章。丁寧に作られている。
三重鬼瓦:雰囲気は初重に似ているが、二重鬼瓦のように鼻筋が通り、仕事が丁寧になっている。初重と同じ作者
四重鬼瓦:三重鬼瓦に似ているが表情が獅子頭のようにデフォルメ
五重鬼瓦:三重鬼瓦に似ているが、かなり雑

以上です。
写真を掲載したいけれど冊子のコピーを掲載する訳にはいかないし……
超望遠レンズがあったら、遠くからひとつひとつの鬼瓦の表情を写せるのだけど……テレコンでも使ってみようかな。
また撮影に出かけた時に挑戦したいと思っています。


文政から弘化にかけて行われた五重塔再建の経緯を見て行くと、鬼瓦の移り変わりの理由が分かります。

三重と四重の間で、数年観建設がストップしてしまいます。
天保の飢饉などもあって、建設が中断したようです。
塔の建設が途中で中断して放置されている姿を想像すると、何だかおぞましい光景ですね。

数年後、何としてでも塔の完成をという願いから、素材の質を落としてようやく完成に至りました。




ところで
二重鬼瓦に銘を刻んだ「酒津村住人 梶谷定次郎」とは、一体どのような人物なのだろう?


つづく

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これら鬼瓦の「阿吽」と、額の「月と太陽」の組み合わせについて、少し気になることがあります。
(「阿吽」に関してはこちらこちらでどうぞ。)

もし阿吽が「始まり」と「終わり」ならば

「阿」が「うさぎ」、つまり「始まり」が「月」
「吽」が「ヤタガラス」、すなわち「終わり」が「太陽」となります。

どうして月で始まり、太陽で終わるのだろう??
反対に、始まりが太陽で終わりが月なら、すんなり受け入れられるのだけれど……


この点を調べるため、まずパンフレットの鬼瓦の紋章を撮影したアマチュア写真家「Y氏」を訪ねました。
初対面のうえ電話一本でご都合を伺ったにもかかわらず、Y氏は快く応じてくださいました。

Y氏は生まれたときから近所にそびえる五重塔に魅せられ、大好きな塔を何十年も撮影しつづけて来られた方です。
岡山空港開港時には、燃えるような夕焼けに浮かぶ五重塔のシルエットが大パネルとなってロビーに掲げられ、岡山を訪れる多くの客を出迎えました。 ポスターやカレンダー、パンフレットに採用された四季折々の名作は、吉備路を多くの皆様に知ってもらうきっかけになったと思います。

現在は五重塔周辺にあまりにもカメラマンが多くなり過ぎたため、残念ながら全く撮影はされていないそうです。
まぁ、カメラの砲列の火付け役ともなったカリスマY氏がカメラを持って現地に行くと、皆がゾロゾロついて歩くため撮影どころではないとは思いますが………

お宅に伺ったとき、kamokamoは氏の更なる多才ぶりに仰天することになるのですが、それはいずれまたお話する機会もあるでしょう。


Y氏は五重塔の解体修理のときにも、報告書の写真を撮影されました。 鬼瓦の紋章は、屋根瓦を下ろしたときに写されたそうです。

しかし驚いた事に、kamokamoが訪ねるまで、「阿」がヤタガラス(太陽)だと思われていたようです。

「阿」が兎(月)、「吽」が八咫烏(太陽)であることを示し、その意味を伺うと
「えっ……
と絶句したまま、その解釈については一切ご自分では言明されませんでした。



どういうことだろう……

ますます謎は深まります。


つづく

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紋章の続きです

ウサギは「月」を、八咫烏(ヤタガラス:三本足の烏)は「太陽」をあらわすそうです。
う~~ん、たしかにウサギの方は月の模様だと言われても納得できるような……
八咫烏は天皇家ともゆかりのある鳥だけど、昔の人が磨りガラスのようなもので太陽をみたときに黒点を発見し、太陽には黒いカラスが住んでいると感じたのかしら?

ちなみに「金烏(太陽)玉兎(月)」は古代中国の思想で、吉備真備が日本に持ち帰ったとされる、いわば天文学の草分けのような学問です。 占い(陰陽道?)に使われていたようですが……この部分に関しては勉強不足で何ともいえません。
この五重塔には「薬師瑠璃光如来」が中央に安置され、左右に「日光菩薩」「月光菩薩」が控えているけれど、なにか関係あるのかしら……
どちらにしても、潮の干満に関係する月と四季に関係した太陽の運行は、古代の人にとって神仏がつかさどる宇宙であると同時に生活そのものだったのかもしれません。 いわば、日々の暮らしの中にいつも神仏が同居しているということでしょうか。(新暦になって、その実感が薄れてきたかも)




ところで
写真をよ~~く見ると、この四つの紋章は、左(つまり北西と南西)、右(北東と南東)の二つがそれぞれ阿吽の鬼瓦のペアになっていることが分かります。

また、左右を比較すると、右より左の方が細工が丁寧なことも分かります。
(特に先端の龍の口の周りから首下にかけて。↓の写真が分かりやすいかも)




国分寺のパンフレットにも画像が掲載されていた左の鬼瓦一対は、境内のお茶屋さんに置いてあった資料によると「文政12年 酒津村 梶谷定次郎作」となっています。

文政12年は西暦1829年。
五重塔再建は西暦1821年から始まり1844年に完成ですから、この鬼瓦は再建当時のものですね。

しかし右の一対は、左と同人の作かどうか今のところ不明です。
雰囲気はよく似ているのですけれど、紋章が少し……

どちらにしても、これらの鬼瓦はそれほどデフォルメもされておらず、鼻筋の通った高い鼻、彫りの深い顔、縮れ毛と、結構リアルです。くりぬかれた瞳を通して見える光が、生き生きとした表情を際立たせています。
…………これはひょっとすると吉備の鬼かも……




さらに、阿吽の鬼瓦と紋章の組み合わせに関しても、新たな疑問が湧いてきます。


つづく

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この異常な蒸し暑さは何だろう? 
昔はこんな「生暖かい風」は、妖怪変化の出現の前触れじゃなかったかしら。
ン……「妖怪変化」?  これから自民党総裁選があるけれど………

ま、いいや



さて
備中国分寺のボランティアガイドさんに聞いた、五重塔・二層目鬼瓦の額の紋章。
一体どんな模様なんだろう??
気になるなぁ……


そこで三脚と望遠レンズをかついで、国分寺に行ってみました。

備中国分寺周辺は、夕方ともなると夕焼けを背景に五重塔のシルエットを狙うカメラが砲列をつくるそうです。
しかしこんな暑い中、真上からの光で作品作りするカメラマンはまさかいないだろうと思っていたのですが………何と5人くらいが三脚を立て、ファインダーを覗いています。
kamokamoが通路を歩いてゆくと、憮然とした表情で「早く通れ」とは言わないけれど、顔に書いてあります。


境内では庭木の剪定が行われているようですが、ちょうどお昼休みの時間に行き合わせたようです。
木陰でお昼寝中の大勢の庭師さんたちを「チョット失礼しますよ」とまたぎながら、五重塔にたどり着きました。
(本気にする人もいるから、もう冗談はよしなさい

9月になっても異常な暑さが続いているから、炎天下で作業する庭師さんも大変だなあと思います。



さて、以下がこのとき撮影した四つの鬼瓦です。
五重塔は正確に東西南北を向いていますから、一応方角も入れておきました。



これらの額に見える日輪にズームしてゆきます。



ふ~~む、なにやらユーモアたっぷりの「ウサギ」と「八咫烏」ですね。
これについてはまた後日。


つづく

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吉備人のkamokamoですが、なんとなんと関西の友人と一緒に吉備路を旅しました。

タイムリーにも、この旅の直前に「学習の館」の先生に「古代への誘い:吉備のくに総社」という、航空写真に史跡を重ねたガイドブックをいただき、目を通していました。
「古代への誘い…」をみていると、何気なく通過している場所や、いつも眺めている山が「あらまぁ~~、そこが新聞報道で話題になった○○だったのね!」などと、改めて驚いてしまいます。
吉備に住みながら、なんと地元を知らないことか……


吉備路の史跡には、最小限の標識程度しか案内はありません。
大きな看板や広~い専用駐車場や土産物屋、はたまたそこへ至る広い道路など、望むべくもありません。


ツアー客の中には「何がどこにあるのかサッパリ分からん。吉備路など面白くも何ともないところだ」と感想を述べていた方もいたくらいです。

仕方ありません。
吉備人のkamokamoにも、実はどこに何があるのかサッパリ分からないのですから

しか~し、そこが吉備路の良いところだとkamokamoは思います。
『しにせが古すぎるほど古い(司馬遼太郎)』吉備には、弥生から古代に至る史跡が、さりげなく道ばたに転がっているのです。

もし、わかり易いように遺跡を柵で囲んだり駐車場等の整備などを始めると、吉備路中が看板や柵や駐車場だらけになってしまって、景観が台無しになってしまいます。
また、吉備の民は頻繁に柵をまたいで通行しなければならないため、生活に支障をきたしてしまいます。
(ホンマかいな


吉備路は、一見すると丘陵地と田園が広がっているだけにしか見えません。
巨大前方後円墳「造山古墳」「作山古墳」でさえ、数ある丘陵のひとつとして風景にとけ込んでいます。

そこで「宝探し」はいかがでしょうか。

「冒険の書(吉備路散策のリーフレット)」片手に、吉備路唯一のランドマーク「備中国分寺:五重塔(写真)」を目印に、吉備路を探索してみてください。
目の前にある丘が古墳であることに気付いたり、木々に埋もれた石棺を見つけることができるかもです。
所々にある資料館では、より詳しい情報を得ることができるでしょう。
農家のおじいさんに道を尋ねると、地元に伝わる遺跡にまつわる裏話を教えてくれるかもしれません。

まるで、あなたが「勇者」のロールプレイング・ゲームですね 


で、最後は歴史の謎と闇に包まれた「鬼」に辿り着くかも???です。

古代史の奥深くに幽閉され「鬼」に姿を変えられた「吉備の魂」は、千数百年もの間「勇者」の登場を待ち続けているのです。







ところで
にぎやかに楽しく回ったこの旅の正直な感想は……

「体重計に乗るのが怖い」…………デス

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(さらに惣五郎は、翌、安政二年の様子や出来事についても触れています。)


一  備中の内にては、翌卯(安政二年)二月ころまで、二三日ぶり、又また小さき分は日々震り申候、三月に成候而も折々震申候

一  卯二月朔日に加州(加賀)大地震と申噂、くわしき事は相知不候へども、御矢倉弐三ヶ所も損候と申噂に候

一  同三月、土州侯(土佐の殿様)、浜ノ茶屋御通行の節、御家来の内腰掛け休み話すに、銘々は江戸に居候ゆえ、国元の様子見申不候へども、国元より注進(事件等の報告)度々申し越し候趣、土州も大地震に而、其後津波、御城下半潰に而、久しく水引かずと申来り、其の外国中大痛と申事にこれ有り候との咄



  安政二年卯十月二日江戸大地震

十月二日夜四つ時、凡三尺より五尺くらい上り下り、やれ地震と申す間に家崩れ候由、それ故、所々出火多く、死人夥数、前代未聞の事也、家に敷れ、火に焼、死人弐十七八万人と申候へば、実は数知れず町人並御旗本様は、おのおの御注進これ有り、相知候へども、御大名様方は内分(表沙汰にしない)になされ候分数多く、しかと相知り申さず候由

一  十二月に江戸より帰候周作咄に、町家の死人は旦那寺にかぎらず、他旦にても、銘々近場の寺へ訳なしに持込候、櫃儀或は樽等に入、又はむしろに包み、寺々へ持行捨置候のみ、いづれの死人共一向相分からず、寺々も夥しき死人持込れ、大いに当惑し候趣、寺々より死人数何程、何宗何寺、何宗何寺と、寺より注進の分、弐十三万七千余人と相聞申候、其外、何国之者共なく、川に流、焼死にて、一向形地なき者夥しく

(以上、川入、秋岡素平氏編、先考遺筆)

出典   倉敷市史:第九巻

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うわぁ、安政地震の次の年に江戸に大震災だなんて……
余りにも天変地異が多過ぎます。
一旦地震が起き始めると、まるで、たがが緩んだように相次ぐものなのでしょうか?


ふぅ~~~……、内容を書き写していて我ながらイヤになってきました。


しかし定期的にこのような大災害を被っても、その都度、ハード面ばかりでなく、日本の精神性や伝統文化を立て直してきた先人達には、只ただ頭が下がるばかりです。

長文を最後までお読み頂き、ありがとうございました。

おしまい

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(惣五郎は、東海道方面やその他の地域の被害に関する書付も、写し書き留めています。)


一  上方の様子およそ承り候、尤上方より書付参り候写し
   但、大地震後荒荒書付なり

嘉永七年六月(十四日夜)上方の地震書付写し(省略)

同年十一月の大地震、東海道書付写し

 十一月四日五日六日大地震、それより後少しずつ二十五六日までの様子


 【吉田】:半潰   【二夕川】:半潰   【白須加】:半潰
 【荒井川】:船壱艘もなし   【無坂】:津波   【浜松】:大地震
 【見付】:半潰   【袋井】:丸焼   【掛川】:丸焼
 【日阪】:無事   【金谷】:丸焼   【鳴田】:少し潰
 【藤枝】:半潰   【岡部】:半潰   【まりこ】:半潰
 【江尻】:丸焼   【府中】:江戸川より出火、大火となる   【沖津】:津波
 【由井】:無事   【蒲原】:出火半潰   【岩渕】:半潰  
 【富士川】:水なし歩行渡   【吉原】:丸焼

   右あらましにて、委細相分り申さず候


原宿より沼津、三嶋、箱根、小田原辺より東の様子、未だ相分かり申さず候
尾張、濃州、勢州、大地震。勢州亀山、庄野、石薬師辺、往来破れ、泥吹出し、一円野原となり候咄(はなし)

  右者、大地震後由来候写し



追々承り候処、讃州丸亀弐歩通り位、家潰候由、此辺より参込居申者も、数日舟留故、よう帰り申さず候、阿州も大地震、土州予州の様子相知申さず候

下筋は、備後、安岐、此辺右同様、九州も大損と申候へども、委敷(くわしき)事相知らず
北国筋沙汰なく、然る処、十二月末、伯州の者、年越に四国へ参候由に而話に、雲州伯州も、先この辺と同様くらひと申候

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う~~~ん、ゾッとするような広範囲の被害です。
同じ事が今の日本に起こったらどうなるのだろう?
この地震は定期的にやってくるので、起こることは確実なのだけれど……

しかも、前回の昭和南海地震が小規模だったため(蓄積されたエネルギーの1/10程度しか放出していない)、次に起こる地震は、この文書にある「安政」、もしくはもっと大きかった「宝永(安政地震のひとつ前でM8.6)と同規模になることが予想されているそうです。



惣五郎は、次の年、安政2年の出来事にも触れています。
次回が最終回となります。

つづく

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