
◆帝国とナショナリズム
帝国たる冷戦構造の終焉から始まった<皇帝なき帝国>の時代。この時代はどこへ向かおうとしているのでしょうか。ナショナリズムは、それが<社会的文脈の中で人を動かす論理>として機能する場面では社会規範の体系であり、また、それは<国家を正当化する論理>でもある。要は、ナショナリズムは公共性を帯びている。ならば、ナショナリズムに対して授権規範の位置にある帝国は公的な存在であるだけでなく公共性をも帯びており、畢竟、ナショナリズムに関心のある論者にとって<皇帝なき帝国>の動向は無関心ではいられない類の事柄であろうと思います。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(1921年)が喝破した如く、しかし、「人間は語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(What we cannot speak about we must pass over in silence.)。ならば、(欧米の社会思想・国家論の伝統においては寧ろ普通名詞に近かった用語、例えば「帝国」、例えば「マルチチュード」を、一種、「時代の様相を切り取る固有名詞/歴史発展の普遍的な理が投影されている鍵概念」の触込みで<思想のマーケット>に持ち込んだ)ネグリ&ハート『帝国』(Empire, 2000年)がそうであるように、ほとんど想像力だけを頼りに近未来の<帝国>のイメージを描くことに私はそう意味があるとは思わないのです。
実際、『帝国』は、(要は、「資本主義の貫徹たるグローバル化の昂進が、やがて資本主義そのものを止揚するだろう」という)単なるマルクス主義者の願望の吐露ではないのか。蓋し、それは、資本主義社会から社会主義社会へ移行する有望な筋道としての、(甲)「グローバルネットワーク型の自生的移行モデル:マルチチュードモデル」への期待を謳い上げた黙示録に他ならないの、鴨。而して、『帝国』が、より広範な読者層に理解可能な、つまり、斬新さには欠けるものの安心感漂う定番のモデル、すなわち、(乙)「変革伝播の「中心-周縁」構図を背景としたトップダウン型の人為的移行モデル:革命震源地想定型モデル」を採用しなかったのは、「冷戦構造の終焉=社会主義に対する資本主義の最終的勝利」(1989年-1991年)が確定した後では、そもそも(乙)の選択肢はリアリティーを喪失していたからかもしれません(★:哲学愛好家限定的補註)。
尚、ここで俎上に載せた(甲)(乙)二つの近未来類型が、<皇帝なき帝国>の意味について前項の最後に記した(甲)(乙)と対応していることは慧眼の読者には先刻お気づきのことであろうと思います。閑話休題。
ことほど左様に、<皇帝なき帝国>の行く先は不明である。まして、それが社会主義社会に至る<回廊>なのかどうかは「we must pass over it in silence」すべき類の「what we cannot speak about」でしょう。けれども、それが、「歴史的に特殊で文化的に多様な諸々の民族の生態学的社会構造と諸々の民族の<憲法>が共存可能な実定的な国際法秩序の枠組み」という帝国の機能を今後もしばらくは果たすとするならば、要は、「二度目の喜劇に向けられる嘲笑」を少なくともしばらくは回避するとするならば、帝国とナショナリズムの<愛憎物語>のメインキャストとしての<皇帝なき帝国>に与えられた行動の選択肢は、おそらく、前任者の冷戦構造が採用したのと同じ道、すなわち、「主権国家=国家社会」との共存しかないのではないでしょうか。
確認になりますが、規範としての帝国の本質は主権国家の授権規範であることに収斂する。各主権国家の対外主権の及ぶ範囲を割り振ることができる権威と実力と意志の結合が帝国に他ならない、と。ならば、単なる「社会主義陣営の世界」と「資本主義陣営の世界」の足し算の結果ではなくて、東西両陣営の勢力均衡状態自体が「帝国=冷戦構造」であった。と、そう私は考えています。
而して、蛇足ながら付け加えれば、冷戦期間中の「社会主義陣営の世界」はその内部では一個の「帝国」であったけれども、結局、社会主義の帝国は地球全体を覆うほどのパワーを獲得できなかった。他方、「資本主義陣営の世界」は「帝国」たるに十分なるパワーを秘めていたことは、現下の<皇帝なき帝国>の止まる所を知らない快進撃振りを見れば誰の目にも明らかでしょうが、それは<帝国の皇帝>として、帝国の傘下に集う「歴史的に特殊で文化的に多様な諸々の民族の共存」に責任を負う意志を欠いていたと言うべきなのだと思います。
尚、①帝国の時代における主権国家の社会思想上の位相、そして、②その吟味検討のケーススタディとしての支那問題(すなわち、帝国正当化のロジックであった中華主義の脱構築として成立した「中華主義」。そのような漢民族ウルトラナショナリズムとしての「中華主義」と中庸を得た「主権国家イデオロギー」との鬩ぎ合い、畢竟、「偏狭なるナショナリズム」と「偏狭ではないナショナリズム」の支那内部における葛藤の社会思想的な風情)については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
・戦後民主主義的国家論の打破
☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(上)~(下)
http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-5.html
・<中国>という現象☆中華主義とナショナリズム
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/07b20ae2f601ed268b9de4b561ddc123
★哲学愛好家限定的補註:マルクスに起因するマルクス主義の失速と破綻
ネグリ&ハート『帝国』に漂う、<皇帝なき帝国>が社会主義に接近する<回廊>であって欲しいと願うマルクス主義者の願望の強さ。逆に言えば、それは、マルクス主義が「社会理論的-経済理論的」な根拠をほとんど完全に喪失しており、後は、「神頼み」、すなわち、<皇帝なき帝国>内部でのマルチチュードの自生的な運動発展に期待する他、社会主義社会への活路が見出せないでいる彼等マルクス主義者の鬱積の裏面なの、鴨。
而して、そのような「神頼み」は、実は、歴史的にはマルクス主義のデビュー作と言ってよい、『共産党宣言』(1848年)自体に既に組み込まれていたもの、鴨。同書の有名な次の記述を読み返して私はそう感じました。
以下、KABU訳『共産党宣言』(第2章末尾:岩波文庫版,p.69)。
これらの(資本主義体制から社会主義体制に移行するための10個程の施策、すなわち、「土地所有制度の廃止」「強度の累進課税」「相続制度の廃止」「通信輸送手段の国家への集中」「すべての人に対する労働の平等な義務化」「教育セクターの活動と産業セクターの活動との結合」等々の、代表的な施策の)発展の進行にともない、階級の区分は消滅し、すべての生産活動が全国レベルで結合された広範な協同体の手の中に集中されてくると、公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失うだろう。・・・而して、諸階級の存在と階級間の対立を内包した古いブルジョワ社会に代わって、我々は協同体、すなわち、各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体を持つことになるに違いない。(以上、引用終了)
マルクスの経済理論は、それが、「労働価値説」という<釣り針>と一緒に英国の古典派経済学を飲み込んだ段階で、要は、その初手の段階から<北斗の拳>だった。畢竟、論理的には、「限界効用」のアイデアを契機に再構築された新古典派(総合の)経済学にマルクス経済理論は粉砕され、他方、歴史的には、上に引用した「社会主義への工程表」をほぼ忠実に実行したソ連と東欧諸国が破綻したことで「資本主義 vs 社会主義」の勝負は資本主義の勝利で終わった。
社会主義の不可能さは、しかし、上に引用した『共産党宣言』のテクストで既に明らかだったの、鴨。蓋し、マルクス経済理論のみならずマルクス主義もその初手から<北斗の拳>だったの、鴨。すなわち、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体が、しかも、全国レベルで結合された広範な協同体がすべての生産活動をその手の中に集中する」ことと「公的権力はその「政治的-権力的」な性格を失う」ことは矛盾するだろうということです。
簡単な話です。例えば、「私はそのような協同体には加わりたくない/協同体の意向に従いたくない」という、ヤクザや起業家、出家志望者や分離独立運動家、あるいは、過度な怠け者や過度な働き者はこの協同体の中でどう扱われるのか。而して、「権力=他者の行動を、実力と公の権威の結合によって左右できる地位や勢力」と定義すれば、左翼の論者が語るように、「権力=支配階級が被支配階級を抑圧する社会的仕組み」であり、よって、「階級がなくなれば階級間対立もなくなり権力も国家も死滅する」という自己論理内完結型の目論見とは異なり、「各人の自由な発展がすべての人の自由な発展の条件となっているような協同体」においても、それら異分子を協同体の意志に従わしめる<権力>は残らざるを得ないだろうということ。蓋し、ソヴィエト・ロシアとは、正に、そのような<権力>が猛威を振るった社会ではなかったのでしょうか。
けれども、ここで、「社会主義の高次の段階たる共産主義社会では、各人の意向と協同体の意向が異なることはあり得ない」という左翼の論者からの、前提と結論が同語反復的な言い訳が来る、鴨。実際、概略「共産主義社会ではヤクザはどういう存在なんでしょうか」という質問に対して、有名なマルクス主義の哲学者・廣松渉氏は、「共産主義社会にヤクザはいるのですかね」と答えられたそうですから(笑)
(*・・)_☆⌒○ ←「言い訳サーブリターン♪」
蓋し、世界同時革命や革命の輸出は考えないとしても、また、天変地異や戦争により協同体が機能不全に陥る事態は無視するとしても、一国規模の人間集団でどのようにしてすべてのメンバーが満足する生産と消費の内容をタイムリーに確定できると言うのか。各人が「自分の希望や状態=自由な発展の目標や成果」と判断するための情報に不足も非対称性も生じないとなぜ言い切れるのか、あるいは、情報を理解する各人の能力差をどう止揚するというのか。
而して、これらテクニカルな問題に加えて、「その希望や状態が自分も含めすべての協同体メンバーの自由な発展であるか否かを、誰がどのような根拠で測定し確定できるというのか」という本質的な問題をこの言い訳は孕んでおり、よって、言い訳は成立しないのです。本稿に関連して重要なことは、これらのマルクスの社会思想がその初手から抱えていた難点は、そのままネグリ&ハート『帝国』に対しても当てはまるだろうことです。
<続く>
【Admiral Nelson: "Thanks God. I've done my duty."】