ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

今週のローズンゲン 2016/10/23~10/29

2016-10-29 17:54:41 | ローズンゲン
今週のローズンゲン 2016/10/23~10/29

016 日々の聖句 10月23日(日)
どうか、天を裂いて降ってください。(イザヤ63:19)

そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。(マルコ13:26)

私の黙想:
今日の聖句、これは大変なことだ。神が「天を裂いて降ってくる」、それは尋常なことではない。神は天を裂いて降るまでもなく、いつでも、どこでも神は居られるというのがイスラエルの信仰であり、キリスト者の信仰である。
ところで、この句、口語訳にはない。おかしいなと思って、64:1をみるとそこにあった。文章の切り方で、そちらの方に回ったのであろう。口語訳、文語訳、新改訳は64:1、新共同訳、岩波訳は63:19、どちらが正しいのか私には分からない。新共同訳、口語訳、文語訳は祈りの文章になっており、新改訳、岩波訳は、仮定文になっている。フランシスコ会訳は微妙である。
恐らく、文章の内容から考えて祈りの文章にするにはあまりにも破天荒で祈りにならない。それであり得ないことを承知の上で、そうなれば良いのにという仮定文になったのだと思われる。もう誰も神を信じていないし、神のことを口にもしないという、絶体絶命の状態の中での悲痛な叫びであろう。そういうことでもなければ、もう誰も神を信じない。
しかし、この悲痛な叫びが現実の歴史の中で起こった。それは天が裂けて、神が降ってくるというような出来事であったが、実は多くの人びとの目には入らない「密かな出来事」として起こったのだ、というのがキリスト教信仰の原点である。まさに、それは「キリストの再臨」ではなく、イエスの誕生(受肉)がそれである。だから、この句の説明として、マルコ13章を引き合いにするのは、私たちの黙想を混乱させる。

016 日々の聖句 10月24日(月)
平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです。(詩4:9)

実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2:14)

私の黙想:
今日の聖句は決して平安の日々の中での眠りではない。貧しく腹を空かしての眠りか、あるいは冷たい獄中での就寝か。「あなただけが」という言葉が強い。現実は不本意な、強制された場所での睡眠出あろうが、詩人はあえて「あなただけが」、私をここに置いた、という。5節でいう。「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語りそして沈黙に入れ」。この文章、口語訳ではこうだ、「あなたがたは怒っても、罪を犯してはならない。床の上で静かに自分の心に語りなさい」。分かりやすい。彼の心の中では「怒り」が燃えたぎっている。しかし「床の上で静かに自分の心に語りなさい」は、頂けない。むしろ新共同訳のように、「横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ」。この方が実感がこもっている。こういう場合、「考える」と、怒りが倍増して、ますます眠れなくなる。自分自身の心に「沈黙に入れ」と命令する。フランシスコ会訳は面白い。「思い煩うあまり罪を犯すな。わが身を省み、床の上で泣き」と訳している。岩波訳はリアルだ、「怒り震えよ、しかし罪を犯すな、考えよ、心の中で、床の上で、しかし黙せ」、チョット雰囲気が違う。ここでの「罪を犯すな」は自分自身の境遇を恨んで「神を呪うな」という意味であろう。

016 日々の聖句 10月25日(火)
見よ、初めのことは成就した。新しいことをわたしは告げよう。それが芽生えてくる前にわたしはあなたたちにそれを聞かせよう。(イザヤ42:9)

信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。(1テモテ3:16)

私の黙想:
近い将来何が起こるかを知ることは、大変な特権である。競馬、競輪等の賭け事に限らず、商売でも株でも研究でも、それこそ政治でも、あるいは台風・地震・雷等の自然災害でも、「これから起こること」を人より先に知ることは有利である。そのために多くの人たちは大金を支払い「予想屋」の意見を聞く。
今日の聖句は、過去の経験を語り、すべての預言がその通りに成就したことを語った上で、これから起こることを事前に告げようと言う。まるで「予想屋」の誘いの言葉のようである。ここでの予想の内容は、敵を滅ぼし、戦争に勝つという予想である(13節)。しかも、それはただ単なる予想ではなく、私がそうするというヤハウェの強い意志の表明である。いわば、それは株のインナー取引のようなものである。
滅ぼす「敵」とは、偶像礼拝者に対する勝利であると言う。ヤハウェと偶像神との戦いということは現代人にはなかなか理解出来ないが、当時の人びとにとってはそれは死活問題であったであろう。ヤハウェにかけるか、偶像神にかけるか。どちらが勝つかによって、個人を含めた民族の存亡がかかっていたであろう。

016 日々の聖句 10月26日(水)
主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心、花嫁のときの愛、種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす。(エレミヤ2:2)

約束してくださったのは真実な方なのですから、公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう。(ヘブライ10:23)

私の黙想:
今日の聖句は、明らかに、イスラエル史における初期の状況を示している。聖書が語る「事実」は、それほど美しいものではない。「若いときの真心」、事実はわけも分からず、モーセに従って出エジプトをした烏合の衆。「花嫁のときの愛」、事実は神から与えられた契約が到着するのが待ちきれず、偶像に走り、最初の十戒が記された2枚の石は可破壊された。「荒れ野での従順」、事実は繰り返し繰り返し不平不満を言い、モーセを手こずらせ、主から叱られ続けた。にも関わらず、主は、今日の聖句のように言って下さる。「主の防備録」にはそのように記されている。これがヘブライ書に記されている「主の真実」である。

016 日々の聖句 10月27日(木)
互いに災いを心にたくらんではならない。(ゼカリヤ7:10)

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。(1コリント12:21~22)

私の黙想:
逆に新約聖書の聖句から考えて、旧約聖書の聖句(ゼカリヤ7:10)は言葉足らずではないだろうか。この句は後半で前半はこうなっている。「やもめ、みなしご寄留者、貧しい者らを虐げず」。これを続けて読むと、この「互いに」はいわゆる「社会的弱者」とそうでない人たちとの間の「互いに」に限定して考えられる。要するに「社会的弱者」をますます追いつけるような政策をとってはならない、と言うことであろう。
現在の日本社会の目に見える顕著な問題は、政治から一般的な日常生活まで、社会的弱者を圧迫し、時には抹殺しようとしている。オリンピックだ、と言ってはホームレスたちの最後の生きる場である公園から追い出し、高齢者を街から遠く離れた山間部の施設に閉じ込めたり、細々と生きている者たちの年金を減額したりしている。社会的弱者はそれに対する抵抗する力もない。金持ちはますます富を蓄え、貧者はますます絞り上げられる。今日の聖句はそのことを突いている。

016 日々の聖句 10月28日(金)
主の御力を尋ね求め、常に御顔を求めよ。(詩105:4)

主よ、(ヨハネが弟子たちに教えたように、)わたしたちにも祈りを教えてください。(ルカ11:1)

私の黙想:
今日の聖句、「主の御力」はいたる所にあり、「尋ね求める必要はない」し、「主の御顔」は求めたって得られるものではない、と一言皮肉を言いたくなる言葉だ。口語訳では、「主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ」となっており、これなら皮肉な言葉は出てこない。何が違うのか。「尋ね求める」と「求める」とは、似ているが、全然違う言葉である。また「御顔を求める」と「み顔を尋ねる」とも全然違う。後者なら、神のいろいろな顔を尋ねるという研究心である。それほど神の顔を多彩だ。フランシスコ会訳では口語訳と逆の使い方をしている。新改訳は「尋ね求める」と「慕い求める」と使い分けているが、この使い分けは疑問だ。岩波訳は口語訳と同じであるが表現がダイナミックである「求めよ、ヤハウェとその力を、尋ねよ、彼の顔を常に」。その上で「神の顔を尋ねる」とはどういうことか、詩24:6、詩27:8、ホセア5:15を参照せよ、と註がある。ホセア書を開くと「わたしは彼らがその罪を認めて、わが顔をたずね求めるまで、わたしの所に帰っていよう。彼らは悩みによって、わたしを尋ね求めて言う」とあり、その意味が明瞭になる。神は人間の罪に呆れて「隠れて」居られる。だから人間は悔い改めて、神の顔を尋ね(求め)なければならない。そこには一つの「尋ねる」というドラマがある。
この何でもない、一つのみ言葉にも、隠れたドラマがある。それに気付かないと正しく「翻訳」できない。

016 日々の聖句 10月29日(土)
ギデオンの言葉:わたしはあなたたちを治めない。(息子もあなたたちを治めない。)主があなたたちを治められる。(士師記8:23)

イエスの言葉:異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になりなさい。(マルコ10:42~43)

私の黙想:
今日の聖句は士師記の言葉だ。特にギデオンの言葉だ。イスラエル史における王制以前の政治形態が記されている。士師とは一口でいって、民族の存亡的危機において、突如、神によって選ばれた「勇者」が現れて、民族の危機を救う指導者である。選ばれる人物は必ずしも士師になる以前から「勇者」ではない。ごく普通の平凡な生活をしていた人物が選ばれている。特に、今日のギデオンなどは、臆病な農夫であったとされる。その彼が神の導きによって偉大な働きをする。イスラエル民族が王制になるのには、預言者もヤハウェも乗り気ではなかった方で、むしろ反対していたが、かなり民衆の執拗な要求に押されて王制を採用した。従って、ヤハウェが望んだ政治体制は「士師体制」だったと思われる。王制と士師制との根本的な違いが今日の聖句に示されている。「わたしはあなたたちを治めない。(息子もあなたたちを治めない。)」ということで、士師とはあくまでも臨時の軍事的リーダーであって「支配者」ではない。それに対して王とは支配者であり、その特徴は息子が王位を継承するという点にあったらしい。このカギとなる部分をローズンゲンは省略している。その根本的スタンスは「主があなたたちを治められる」という点にある。士師はいわばヤハウェによる臨時のリーダーなのである。政治的指導者が自分の位を息子に継承させようとするときに、政治の腐敗が始まる。ここが民主主義のポイントである。実は、神が選ぶという作業を人間が代行しているのが選挙制度であって、その意味では、民主主義体制とは「士師体制」である。大統領は時間的に制限された独裁制であるとされるのは、そこである。

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