ぶんやさんち

ぶんやさんの記録

少数政党を圧殺する小選挙区制

2009-07-28 09:20:05 | ときのまにまに
小選挙区制の最大の欠点は少数政党(第3政党)を潰す点にある。日本の政治にとって少数政党の果たす役割は決して小さくない。この点について、社民党の保坂展人氏は7月27日付けのブログ「保坂展人のどこどこ日記」で、彼自身が初当選した1996年の頃のことを振り返って、以下のように述べている。

<私が初当選した1996年には、当時の自民党・新党さきがけ・社民党の「3党連立合意」を練り上げるまでに数日間を要した。現在、広島市長の秋葉忠利さんが交渉担当となり、粘り強い話し合いを続けた。「NPO法案」「情報公開法」などは、こうした連立協議の確認事項として、その後に実現していったものだ。もちろん、そのときに「憲法9条改正」などを自民党が持ち出してくれば、連立合意はならなかった。秋葉さんが参加した連立政権に向けた政策合意の中には「合意した点」「課題として検討する点」「合意に至らなかった点」が仕分けされてあった。「合意した点」が多かったが、「合意に至らなかった点」もいくらかはあり、それはバランスの問題だ。必ずしも、100%の一致が必要条件ではない。
それでも、憲法や憲法に関わる安全保障上の原則については、きちんと整理することが必要となる。すでに、「自社さ政権」など過去のことになっているが、当時の自民党は「改憲」や「復古主義」を封印して政権奪回をはかるために、宗旨がえをしたように見せかけた。それでも、1994年から1998年までの4年間は、この政権は継続した。私は、96年秋の第2次橋本内閣で衆議院議員となっているから、最初の1年半は与党議員として政策の立案過程に参加している。その経験があるから、一部のメディアが騒ぎ立てるほど「政策の距離」が大きな断層となって、すべてが合意出来ないかのような悲観論には立っていない。
実は、この「自社さ連立政権」の中では、私は「連立政権離脱派」だった。当時の新進党から次々と離党者を抱え込んだ自民党は、ついに衆議院の単独過半数を獲得する。明らかに社民党に対しての姿勢も変化し、高飛車となった。私は、ズルズルと与党をやり続けていたら「社民党は自民党政治によって溶解してしまう」という危機感を持った。1998年に連立与党を離脱した社民党は、2000年の総選挙で19議席という議席増に転じた。この自社さ連立政権の経験から学んで、村山内閣→橋本内閣の総括と検証は不可避だが、世間の人たちがほとんど語っていないことがある。社民党が連立政権から離脱したとたん、自民・自由連立から自民・自由・公明の連立へと発展する1999年以降に、自民党が封印してきた改憲・国家主義志向は大きく強まって、政治は荒っぽくなり暴風雨のように「盗聴法」や「国旗国家法」「住民基本台帳法」などが次々と成立していった。社民党は自民党によって溶解することはなかったが、政権内で歯を食いしばって止めていたストッパーが外れた政治が濁流となって流れだす怖さを感じた。>
民主主義の第1項目は少数意見の尊重である。政治組織であれ、宗教団体であれ、町の小さな趣味のサークルであれ、村の青年団であれ、少数意見を踏みつぶすところには民主主義はない。もっとも、民主主義が絶対的な善であるとは限らないが、少なくとも独裁的な組織よりはマシである。まして、国家というような組織において少数意見が封じ込められるような状況においては「国民主体」は空文化し、ファッシズムとなる。昨日も触れた「雪崩現象」はこういう状況で発生する。日本社会はファッシズムになりやすい性格を持っている。だからこそ、少数政党を圧殺する小選挙区制は日本社会の選挙制度としては相応しくない。社民党(旧社会党)よ、共産党よ、頑張れ。

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