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断想:復活節第6主日の旧約聖書(2017.5.21)

2017-05-19 08:32:16 | 説教
断想:復活節第6主日の旧約聖書(2017.5.21)

永遠の命に至る水 イザヤ41:17~20

<テキスト>
17 苦しむ人、貧しい人は水を求めても得ず、渇きに舌は干上がる。主であるわたしが彼らに答えよう。イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない。
18 わたしは不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする。
19 荒れ野に杉やアカシヤをミルトスやオリーブの木を植え荒れ地に糸杉、樅、つげの木を共に茂らせる。
20 彼らはこれを見て、悟り、互いに気づかせ、目覚めさせる、主の御手がこれを成し遂げ、イスラエルの聖なる神がこれを創造されたことを。
<以上>

1.復活節第6主日
いったいこの主日のテーマは何だろう。この日の福音書はヨハネ15:1~8で、ここの主題はぶどうの木である。もちろん、趣旨はぶどうの木ではなく、信徒とキリストとの親密な関係にある。これを復活節において読むと特別な響きを持つ。それは一口で言って「命のつながり」というか、命においてつながっているというべきか。キリストと弟子たちとの関係は単なる師弟関係でも無く、イエスの言葉でいると友人でもなく、復活したイエス・キリストと弟子たちとの関係は命のつながりである。それも、永遠の命と呼ばれる命のつながりである。ヨハネ福音書の15章はそれを語っている。

2.水
今日の主日のために選ばれている旧約聖書のテキストはイザヤ41:17~20で、砂漠に水が湧き出し、命が溢れるイメージが語られている。ここでの水とは命の象徴である。砂漠の民にとって、水はまさに命である。
かつて、イザヤ・ベンダサン(山本七平訳)という正体不明の自称ユダヤ人が「日本人とユダヤ人」(山本書店,1971)という本を出し、当時大変な反響をよんだ。この本で論じられていることがどれほど学問的に正確であるか、どうかということは問題にしない。むしろ、当時の日本人の「盲点」ともいうべきものをジャーナリスティックに取り上げたということが受けた理由であろう。いろいろあるが、彼がこの本で取り上げている一つの問題点は、日本人にとって「安全と自由と水はただである」という点である。日本語の言いまわしに「湯水のように使う」という表現があるが、まさに日本人にとって水は「ただ(無料)」というのが当たり前となっている。今日ではもちろんそんな風に思っている人は少なくなってきたと思うが、確かに昔の日本人は水を自然が与えてくれる恵みであると考えていたと思う。
ところが、砂漠の民にとって水は神の恵みとして与えられるものであったようだ。旧約聖書、特に創世記には水にまつわるエピソードがいくつか出てくるが、その中でも「井戸掘りイサク」の物語は面白い(創世記26:15~25)。
井戸を持っているということは「神の祝福の徴」である。水を他の人に分け与えるということが「愛と平和」の具体的な行為でもある。つまり日本人にとって水とは「自然の恵み」、言い換えると「地の恵み」であるが、ユダヤ人にとっては「神の恵み」、言い換えると「天の恵み」である。エデンの園には4つの川が流れていたという。そこでは水のために争うことがない。全ての人と動物に十分な水が与えられている、これが理想郷である。人間はここから追い出されたのである。旧約聖書においては水は永遠の命に通じる。

3. 今日のテキスト(イザヤ41:17~20)
今日の旧約聖書のテキストは、いわゆるバビロン捕囚から解放されて祖国へ旅する者の情景が描かれている。彼らの先祖がエジプトから脱出して、約束の地へ向かう旅では、エジプト軍から追われるような危機感があった。水や食料の不足も問題であった。バビロンからの帰還においては追う軍隊もないし、紅海もない。しかし、彼らの旅は砂漠であった。砂漠を越えなければならない。そこでの深刻な問題は「水」であった。今日のテキストのメッセージは、18節の「わたしは不毛の高原に大河を開き、谷あいの野に泉を湧き出させる。荒れ野を湖とし、乾いた地を水の源とする」。水のない地獄のような砂漠を乗り越えて故郷に帰る。彼らが広い砂漠を乗り越えるエネルギーは、この「約束」であった。その旅はまさにこの「約束」を信じて「死を乗り越えて命へ至る」。その命は、ただの肉体の乾きを癒やす水ではなく霊を生かす天からの水である。

4、「永遠の命に至る水」
イエスはサマリアの女に「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と語られた。これがイエスが私たちにお与えになった「約束」である。イエスはまた、仮庵祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:37~38)と街頭演説をなさった。ヨハネ福音書の著者はそれを受けて「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである」(ヨハネ7:39)と解説をしている。これがキリスト者受けた復活の約束である。


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