もの忘れのためのちょっとしたメモ

要は備忘録のようなもの。

読書の秋に

2016-10-25 12:31:40 | 読書

読書の秋だから、というわけではないのだが、読書欲が高まっている。
というわけで、読書欲の高まりに合わせて、あれこれと読み散らしている今日このごろ。
せっせと積読本の解消に励んでいるが、浮気性のせいかあれこれと目移りしてしまう次第。
あっちを読み、こっちを読みしていたら、あっという間に読みかけが何冊もできてしまった。
枕元には10冊近く読みかけが積んであり、そこからの早く読めとのプレッシャーを感じている。
とはいうものの、以前よりよく眠れている感じもあるし、大したプレッシャーでもないのかな?

ところで、その読みかけ本の中に仏教についての本がある。
なにを読むかと積読本をあさっていて眼につき読み始めたのだが、これがなんとも……。
なぜにこの本を持っているのか? いつ購入したものか? まったく記憶がないのが悲しい。
たぶん仏像の展覧会とかテレビ番組とかを観て、衝動的に勉強しようと思ったに違いない。
そういえば最近は、神社仏閣に対してみょうに魅力や引かれるものを感じるようになっている。
それに一般教養としても少し勉強してみるのも良いか、と思い読み始めたのは今月の始め。

10月ももう下旬だというのに、200ページほどの本がなぜか読み終わらない。
本は新書なのでとても分厚い本でもなく、内容にしても基本的に一般読者向けのはず。
決して読んでいないというのでもなく、ほぼ毎日手に取り、ページをめくっている。
それなのに、どんなに読んでもまったく進まないのはどういうわけなのか。
じっくりと熟読しているからじゃないの、と思われるかもしれないがそんなこともない。
ほかの本を読むのと同じに、ふつうに読み進めているつもりなのだがさっぱり進まないのだ。

そのため、じっくりとっくり、進まない原因を考えてみた。
まず第一に、仏教の思想や哲学についての解説が難しいということは否定できない。
しっかりと勉強するつもりならばまだしも、なんとなく読んでいのでは、やはり理解は難しい。
また、インドの言葉や人名がたくさん登場するのだが、これが頭に入ってこない。
おまけに仏教といえば中国伝来なわけで、漢字だらけなのがまたまた問題である。
恥ずかしながら私は漢字が苦手で、ひらがなやカタカナのほうにより愛着を感じている。

そんなわけで、一生懸命読んではいても内容の理解となるとまったく心もとない限りである。
それでも必死に理解しようと努力を続けていると、しだいしだいに意識が遠のいて……。
数学の本を読むと、知らず知らず意識が宇宙の彼方に飛んでしまうことは自覚していた。
しかし仏教の本では心も頭も完全な“無”の状態になるとは、さすがに想像もしなかった。
これってもしかして瞑想状態? まさかこの先には解脱とか悟りとかあったりして?
とりあえず、仏教の本が良質な睡眠薬になることを悟った私なのだった。


読書の冒険に誘われた話し

2015-05-12 15:35:58 | 読書

私は全集が好きである。
個人全集も、文学全集も、ついでに言えば百科事典も好きである。
日本文学全集とか、世界文学全集とか、古典文学全集とか、夏目漱石全集とか、芥川龍之介全集などなどなど。
ジャンルとか、作家とかにはあまりこだわりはなく、とりあえず“全集”という言葉が一様に私の物欲を刺激するのだ。
でも、決して買わない、絶対に買わない……お金と置き場がないから。

一昔前よりはもっと前かな? 文学全集とか百科事典を応接間や書斎に飾るというのがちょっとした定番だった。
親戚が家を新築した時も、応接間には決して読んだ様子のない文学全集が並んでいたことを覚えている。
たとえば、世界文学全集(全50巻)が書棚に並んでいたとしよう。
それだけでその家の文化的水準は、1~2段階くらいは高く感じられるようになるものである。
多くの場合、文学全集とか百科事典というのは、存在こそが重要であり、中身を読むかどうかはあまり問題ではない。

閑話休題。
全集は好きなのだが、その分量と値段を考えると、ほんとうにほしいと思っても買うことができないのが悲しい。
うさぎ小屋というよりも、ハムスター小屋に近い我が家には、全集を納められるほどの本棚をおく場所がない。
また、全集となると力の入った造本がふつうなので、当然のごとく価格も一般的な単行本よりは高くなる。
最近は比較的安価な、文庫による文学全集というのもあるが、それでも巻数が多くなればけっこうな出費となる。
ほかにもいろいろと欲しい本があることも考えると、やはりおいそれとは手が出ないことが多いのが現実である。

また、全集のすべての巻を読むのが難しいという問題もある。
なぜなら、全集の中には必ず、自分の好みではない内容の巻が出てくるからだ(書簡とか習作とか)。
基本的に私は、読まない本は買わないという主義を掲げている。
そのような主義を掲げる私が、たぶん読まない、きっと読まないとわかっている本を買うのにはやはり抵抗もある。
ならば、読まない巻だけ買わないという考えもあるだろうが、揃ってない全集になんの意味があるというのか?

逆に内容重視で、読みたい巻だけを選んで購入する手もあるが、全集のたのしみの一部は揃えることにあるはずだ。
読むか読まないかはおくとして、収納の問題について考えてみる。
たとえば電子書籍版の文学全集はどうか、これなら収納に頭を悩ますことはないし、現在はそのようなものもあるらしい。
値段の問題はわからないが、少なくとも収納の問題はすっきりするではないか。
しかしこの解決法にも、満足とりうよりはなんとなくの物足りなさを感じずいはいられない。
読むためならばこれほど便利な方法はないとはいうものの、やはり所有欲が満たされないというのが問題なのだろう。
電子書籍は便利に利用しているが、好きな作家や作品についてはやはり紙の本で読みたいと思うのと同じ心理か。

ここで話は唐突に今日の午前中に飛ぶ。
用事を済ましに出たついでに、近所の本屋さんによってみた。
気になる新刊がいくつか出ていて、どうしよう、なんて思っていたところ「集英社創業90周年企画」の文字が目に入った。
“もしかして……”と視線を下に向けると『冒険の森へ 傑作小説大全』の第1回配本が平積みになっていた。
「第11巻 復活する男」と「第16巻 過去の囁き」が行儀よく並んでこちらを見上げている。
(持ってけ~っ、買ってけ~っ)

じつはこのアンソロジーの企画は、以前から集英社のサイトで目にして気になっていた。
編集員が逢坂剛、大沢在昌、北方謙三、夢枕獏、そして先日亡くなった船戸与一というだけでも、ちょっと目を引く。
しかしこのアンソロジー、全20巻ということで、じつはちょっとどうしようと迷っていたところのものでもある。
どうしよう買っちゃおうかなぁ、でも20巻は長いなぁ……でも欲しいかなぁ……置き場がないなぁ……。
(持ってけ~っ、買ってけ~っ)
昔読んだ作品もあるけど読み直さなくてもなぁ……でも懐かしいかなぁ……でも読みたい本はほかにもあるし……。
(持ってけ~っ、買ってけ~っ、持ってけ~っ、買ってけ~っ)
平台の前に立ちながらしばし沈思黙考……頭の中をめまぐるしく流れる思考のなかから、遠く聞こえる不思議な声。
持ってけ~っ、買ってけ~っ、持ってけ~っ、買ってけ~っ、持ってけ~っ、買ってけ~っ……。

全集が好きであるが、でも全集は買わない、買えない。
“「小説大全」だから全集とは違うんじゃないか?”という悪魔の囁きに“なるほど”と思った私。
ついつい、衝動的に買ってしまったのは、きっと心の隙間を突かれたのかもしれない。
あの遠くで聞こえた声は、きっと、本屋さんにいる妖怪の声だったに違いないと思っている。
最初の2巻を買ってしまった今、これからのことに頭を悩ませている……全巻買うの? だってどこに置く、どこにしまう?
2巻だけならここでやめても……でも、11と16で前も間も抜けてててみっともないよなぁ。
(全巻買えばいいじゃん、揃えちゃえ、揃ってないと気持ち悪いぞ~)
ああっ、また頭の中に……どこか遠くから不思議な声が聞こえてくる……。



宮部みゆき『ソロモンの偽証』読了

2014-12-22 16:42:11 | 読書

宮部みゆき『ソロモンの偽証』(新潮文庫。全6冊)をやっと読み終えた。

クリスマスの夜、一人の中学2年の生徒が学校の屋上から転落死を遂げる。
一旦は、自殺として事態は収束するかに見えたが、そこに同級生による殺人を告発する文書が関係者の間に届く。
そしてその告発状がマスコミに知れることで、事態はどんどん混迷を深めていく。
そんな中、捜査一課の刑事を父にもつ藤野涼子は、級友の死の真相を自分たちの手で究明するため「学校内裁判」の開催を決意する。
というのが、「第Ⅰ部 事件」の大まかなあらすじ。
「第Ⅱ部 決意」では、事件についての調査の様子が、「第Ⅲ部 法廷」ではいよいよ“学校内裁判”が描かれる。

個人的には「第Ⅰ部 事件」は、少々読むのが辛かった。
しかし「第Ⅱ部 決意」以降は、どんどん物語りに引き込まれていき、「第Ⅲ部 法廷」は一気読みに近かった。
まさに、作者にとっての(現段階の)集大成と言って良い作品といえるだろう。
作者にとっては初の法廷ミステリ(かなり変化球ではあるが)にチャレンジしているという点でも興味深い。
また、本書の主要な登場人物のほとんどは中学生で、事件の舞台も法廷も中学校であることも本作品の特徴の一つである。
そのせいか私は読み進めながら自分の中学時代を思い出しながら読んだが、同じような人は意外に多かったのではないだろうか。
では、かつての中学生である私のような読者に対して、現役の中学生が読んだときには、彼らはどんな感想を抱いたのだろうか?

また事件の結末や、この「学校裁判」にどんな意味があったのか、いろいろなことを考えてしまった。
極端なことを言うならば、本書はミステリ作品とはなっているが、ほんとうにミステリなのか?
読了直後は、長い物語を読み終えた達成感もあり、十分な満足感に満たされていた。
しかし、時間が経つほどにさまざまな疑問が湧き上がり、いろいろな点で考えさせられる作品でもあった。
そして、いろいろなことを考えていると、他人の感想がとても気になってくる。
ほかの人はいったいこの物語をどのように読んだのか、どんな感想を抱いたのか。
私は、宮部みゆきの作品を読むとほかの人と話をしてみたくなることがよくある。
しかし、これほど他人の感想や、他人の読みが気になった作品はこれまでにはなかった。

率直な感想としては、面白かったの一言に尽きる。
しかし、好きか嫌いかと問われるとじつは返事に迷ってしまう自分がいる。
じつは、本作を読み終えたのは先々週のことなのだが、いまだに好きなのか嫌いなのかに迷ってしまう。
ただ、私にとっては今年一番、刺激的な小説であったことは間違いがない。
できれば細かな内容をあまり忘れてしまわないうちに、もう一度読み返してみたいと思っている。
ミステリ、学校もの、群像劇、さまざまな視点で読むことが可能な物語であることも本作の魅力の一つだと思う。
視点を変えて読むときには。まったく違った印象の作品として立ち上がってくることだろう。
何度も読み直してみたい気持ちになる、それだけでも本書が傑作であることの証拠といえるのではないだろうか。

かなり長い作品なので、ふだん本を読まないような人にはけっこう読み通すのはきついかもしれない。
しかし文章はとても読みやすく、物語にはとても力があるので、きっと飽きることなく読み通せることと思う。
ちょっと長いかなぁ、という理由で二の足を踏んでいる人がいたならば、ぜひ年末年始休みのこの機会にぜひチャレンジしてほしい。
もっとも各言う私自身、実は単行本が出たときには“長い”という理由で読むのをやめたので、あまり偉いことは言えないのだが。


読みかけがいっぱい!

2014-11-26 15:28:36 | 読書

毎晩1時間半から2時間程度、布団の中で本を読むのが日課である。
ほんとうは1冊ずつ大事に読みたいのだが、積読本が溜まった状態ではそうもいかない。
またあれもこれも読みたいという気持ちもあり、数冊の本を並行して読んでいる。
昔は数冊の本を並行して読んでいると、頭の中で話がこんがらがることがよくあった。
慣れてみれば混乱はしなくなったが、読みかけの本がどんどん増えていくのが現在の悩み。

1.宮部みゆき『ソロモンの偽証 第Ⅱ部 決意(上巻)』新潮文庫
2.カミラ・レックバリ『説教師 エリカ&パトリック事件簿』集英社文庫
3.トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』新潮社
4.飯島虚心『葛飾北斎伝』岩波文庫
5.加藤郁乎『俳諧志(上巻)』岩波現代文庫
6.司馬遷『史記 2 書・表』ちくま学芸文庫
7.『バートン版千夜一夜物語 1』ちくま文庫

以上7冊が現在、読みかけになっている本なのだが、どこに共通点があるのか?
だいたいはここ1ヶ月ほどに読み始めたものだが、なかには長いお付き合いの本もある。
3については読み始めて数カ月経つが、短篇集なので1編ずつ、急がずに読み進めている。
少しずつ読んでいると言えば、6と7にいたっては読み始めたのは数年前である。
6も7については、面白くないわけではないのだがなぜか遅々として進まない理由は謎。

ちなみに、『史記』は全5巻で『千夜一夜物語』は全11巻である。
死ぬまでに読み終えられればと思っていたが、いまのペースだとちと難しい気がしてきている。
とりあえず、筑摩書房さんには決して文庫を切らさないようにお願いしておきたい。
ついでに、かつて18巻で挫折した『大菩薩峠』(ちくま文庫、全20巻)もお願いしておきたい。
いつかリベンジしたいと思っているので、ぜひともこちらも文庫を切らさないでほしい。

1冊も読み終えてないのに、読みかけ本だけが次々と増えていく恐怖……。
2~3日前から気になっている本があり、そろそろ我慢が切れそうな感じがしている。
ジェイミー・ドーラン/ピアーズ/ビゾニー
『ガガーリン 世界初の宇宙飛行士、伝説の裏側で』(河出書房新社)
1冊くらい増えたって、いまさらどうってことないんじゃねぇ……なんて。
我ながら読み終える気があるのかないのか、読みかけ本と疑問でいっぱい。

 

 


ただ今開店休業中

2014-11-14 12:19:27 | 読書

窓から外を見ると、なんとも見事な青空。
こんな空を日本晴れっていうんだろうなぁ。
自転車に乗って、どっか遠くに行きたいなぁ。
仕事したくねぇなぁ……、なんだかやる気でねぇなぁ。
やる気ないのは、今日に限ったことじゃないけどなぁ。
それにしても見事な秋晴れだよなぁ、一句詠んじゃおうかなぁ……う~ん、思いつかねぇ。

自転車でどっかに出かけるのはさすがに無理だが、仕事をする気にもさらさらなれない。
そんなわけで先程より、仕事をしているふりをしつつ、今流行りの北欧ミステリーを読書中。
そこそこ一所懸命読んでいたのだが、どうしたことかさっぱり話が進まねぇ……。
自転車で言うなら、圧倒的な向かい風のなかでどんなにペダルを漕いでも進んでいる気がしないあの感じ。
なんとか流れに乗って読み進めようとするのだが、内容がさっぱり頭に入ってこねぇ。
気づいてみれば、行きつ戻りつ、同んなじ部分を何度も読んでいる始末。
恐るべし、北欧ミステリー!

私は翻訳ミステリー育ちなので、翻訳文体になじまないなんてことはない。
問題はもっと根本的なところにあるわけで、じつは登場人物の名前&地名がさっぱり覚えられない。
日本語には絶対無いようなタイミングで小さな「ツ」や「ヨ」が入ってくるのに慣れない。
そしてそこに、ちっちゃな「ア」とか「ウ」とか「エ」なんかが混じると一瞬目がと待ってしまうのだ。
音読しているわけではないが、頭の中ですんなり音にならないと、そのつどどんな発音になるか考えてしまうのだ。
これは思うに、ドストイエフスキーなどのロシア文学に感じたのと同じ読みづらさだ。
どうやら、日本語の発音と北欧の言葉の発音は、馴染みがあまり良くないらしい。
恐るべし、北欧ミステリー!

文章というか、地名や人名などは読みづらいというものの、幸いにして内容のほうはなかなか面白い。
北欧ミステリーはいま読んでいるものがはじめてでもないのだが、今回がいちばん読むのに苦労している気がする。
北欧と一言に言っても5カ国あるわけで、当たり前だが国が違えば言葉も変わるというもの。
言葉とはその国の文化の基本なわけで、他所の国の文化を知るのは翻訳小説を読むたのしみの一つである。
考えようで、翻訳小説を読む醍醐味を存分に堪能しているのだと考えれば、読みづらさにも腹は立たない。
ただ、仕事をサボって気楽に読書をたのしむつもりだったのだが、どうやらあまり気楽にならなかったことだけは確か。
“あ~あっ、‘仕事サボって’が悪かったのかなぁ、バチってあたるんだなぁ……”
なんて今度は窓の外、雲ひとつない秋晴れの空をぼーっと眺めつつ、やっぱり仕事をサボる私なのである。



魔界への招待? ~魅惑の古書収集~

2014-11-11 16:52:29 | 読書

今朝、近所にある例の池を眺めていたら、なんと亀(ニカメのほう)の姿を発見!
てっきり、もう冬眠したものとばかり思っていたのが、まだまだ元気に活動しているらしい。
いったいいつから冬眠に入るのか? とりあえず、もう少し観察が必要なそうだ。
以上、亀の観察日記(つづく)。

先日、神保町の三省堂本店で購入した、喜国雅彦『本棚探偵の冒険』(双葉文庫)を読み終えた。
基本的に、読書とか本をテーマにした本は大好きであり、古本や古本マニアの本も嫌いではない。
しかしふだんは意識してこの手の本は避けてきたのだが、つい手に取って、つい買っちゃって、つい読んでしまった。
率直な感想としては“とてもおもしろかった”。
じつは、いろいろ読みかけの本があるにもかかわらず、一気読みしてしまったほどである。

本のたのしみ方はいろいろあるだろうが、たしかに集めるというのもその一つである。
実際、私もそんな本の収集の道に踏み迷いそうになった時期があった。
そのころは、週末と言わず毎日のように古本屋を巡り、お目当ての作家の本を探し回っていたものである。
いまでは古本巡りもやめ、ふつうの読書家生活に戻ったが、そんなわけで古本マニアの気持ちもある程度はわかる。
しかしそれだけに、古本マニアの話を読むと、昔の気持ちがよみがえり、妙に心の平安を掻き乱されて困ってしまうのだ。

そんなわけで、本書を読んでいる間には身につまされるような気持ちを味わうこともしばしば。
とくに「ポケミス」についてのエピソードは、ポケミス全巻制覇を目指したことのある身としては涙をこらえきれなかった。
また本棚を自作したり、お気に入りの本に合わせて函を自作する著者の姿には正直、本好きとして感動を覚えた。
本棚の自作となると、作業場所の問題や日曜大工の技術の点でもハードルが高すぎて、とても実現しそうもない。
それでもハンドメイドというのはとっても羨ましいので、函づくりは真似して挑戦してみたいものだと考えている。

本書を読み終えたとき、“つくづく収集の世界に入らなくてよかったぁ”という気持ちになった。
そんなホッとした気持ちの裏で、どこか“あちらの世界”へのほのかな憧れを覚えた、そんな自分がとても嫌。
とはいえ、とても面白く読んだので、もう少し続きが読みたい気分……。
さっそく近所の本屋でシリーズ第3作『本棚探偵の生還』を購入、第2作『本棚探偵の生還』もネットで注文してしまった。
私ったら、古書収集の魅力に抵抗し続けることができるのかしら? なんだかとっても不安……。


冬来たりなば……

2014-11-07 14:42:51 | 読書

11月7日は立冬だそうで、暦の上では今日から冬なのだそうだ。
外を見ると抜けるような青空で、天気予報によれば東京の最高気温は21度なのだとか。
気温や天気を見る限りは、さっぱり冬のような感じがしない。
近所にある銀杏の木も色づき始めたばかりで、見ごろを迎えるにはもう少し時間がかかりそう。
本格的な冬を実感するのはもう少し先になりそうだ。

近所のお菓子屋さんでは、クリスマスケーキの予約を始めていたし、スーパーではお節の予約が始まっていた。
世の中のすべてが歩みを急いでいるような気がして、冬が始まっているのは暦の上だけのことではないらしい。
私も“まだ11月にじゃないか……”という気持ちがする反面、年末に向けてのなんとなく気ぜわしさを感じている。
ところで、先日のこのブログでも書いたが11月に入って現在まで、今ひとつ体の調子が良くない。
ネットで調べたところ「秋バテ」のようなのだが、立冬を迎えたいま「冬バテ」と呼び方を変えるべきなのだろうか?

考えてみれば今年もあと2カ月を切ってしまったわけで、そろそろ今年やり残したことが気になって来るのも仕方がない。
とくに気になるのは、積読状態でワインのようにじっくりと熟成状態になっている本たちのことである。
なんと言っても長年の積読本が溜まりに溜まっており、2カ月足らずで読み切れるわけがない。
それでもこの時期になると“少しでも早くこの積読本を読みきらねば!!”という強い焦燥感に襲われるのである。
そしてダメだとわかっていても、年末に向けてジタバタしてしまうということを、毎年のように繰り返してきた。

今年もご多分にもれず、2~3日前あたりからおしりの穴がムズムズしてきたような気がしている。
これは積読本を消化したいという焦りの予兆であり、症状が進むと直に手当たりしだいに本を読み始めることになる。
とはいえ1度に読める本は1冊なわけで、結局は何冊もの読みかけと忸怩たる思いを抱え正月を迎えることとなる。
もっとも十数年も繰り返た今となっては、考えようによって年末から正月にかけての年中行事のようなものでもある。
他人から見れば“なんて学習しない愚かな人なんだろう”と見えることだろうが、大きなお世話だ。

年末と言えば、もうすぐ各社からミステリなど、さまざまなジャンルの年間ベストテンが発表になる。
それらのランキングをチェックしては、“あれも読んでない、これも読んでない”と慌てふためくのも恒例のこと。
ここで面倒なのは、しばしば“読んでない=買ってない→すぐに買わないと!”となることで、また積読本が増えてしまう。
というわけで私の読書カレンダーでは、「読書の秋」につづいては「積読の冬」がやってくる。
「積雪」は春には溶けるだろう、しかし我が「積読」は春も夏も秋が過ぎても失くならず、冬にまた積もるのである。


あの伝説の文庫レーベル(についての本)を読む!

2014-10-23 11:31:01 | 読書

今日10月23日は「二十四節気」の「霜降(そうこう)」と言って、霜が降り始めるころの意味とのこと。
そのせいかどうかは知らないが、今日は随分と冷え込んだ気がする。
実際、天気予報によれば東京の気温は11月下旬から12月初めごろの気温なんだとか。
季節は着実に冬に向かっているのだなぁ、としみじみ梅昆布茶を味わった朝なのであった。

としみじみした話は、それはそれとして、本題はSF小説についてと、季節の話とはまるで関係がない。
季節の話は「霜降」という、耳慣れない言葉を知ったので、ちょっと使ってみたかっただけである。
というわけで本題なのだが、急にSFが読みたくなり今週は毎晩、布団に入るとジョン・スコルジー『戦いの虚空』(内田昌之訳、ハヤカワ文庫SF)を読んでいる。
独立した13のエピソードで構成され、連作短編の形式で、まだ読み終えてはいないのだがこれがすごく面白い。
単独で読んでもそれなりに大丈夫とは思うが、「老人と宇宙(そら)」というシリーズの5作目なので、前の作品を知っていたほうがたのしめるのは確か。
“読んでみようかしら”と思ったら、ぜひ、シリーズ第1作の『老人と宇宙(そら)』から読んでほしい。

と、これも本題じゃなくって、“なぜ私は急にSFが読みたくなったのか?”というのが本題。
というわけで、答えは、
牧眞司・大森望編『サンリオSF総解説』(本の雑誌社)
を読んだから。
SF小説もたまに読んではいるものの、私はそれほど念の入ったSFファンというわけではない。
そのためサンリオSF文庫の名前は知っていてるものの、正直、それほどのこだわりや興味があるわけではない。
古本屋で目にする機会は多くあったので、古書価が高いということと、さまざまなブックガイドなどで、悪評も含めいろいろな評判やうわさ話を読んでいた。
とにかく、個性的なラインナップをはじめいろいろな意味でユニークな文庫レーベルでしかも絶版。
今やSF界では伝説の存在であることくらいは知っていた。

その伝説の文庫レーベルの全巻解説という本書は、ほかではあまり見たことのない珍しい企画である。
サンリオSF文庫で刊行されていた作品は、その後にほかの出版社から復刊され現在入手可能な作品も多くあり、これから刊行される作品も出てくることだろう。
その点に置いては、現在SFを読むためのブックガイドとしての役割も十分にはたしてくれる。
サンリオSF文庫愛が伝わってくるような各作品の解説も、もちろん読みどころではあるが、サンリオSF文庫の関係者へのインタビュー記事などもあり、文庫発刊の経緯や編集の様子など、絶版までの歩みが知れるのが興味深い。
コアなファンにとっては、書誌に関するデータもさることながら、文庫の歴史を知るための貴重な資料としても読むことができるだろう。
“ノンフィクション的なブックガイド”とでも言えそうな、これはこれでユニークな作品である。

SFに詳しいわけではないが、ラインナップが個性的すぎて、SF小説入門としてはハードルの高い作品ばかりのような気がする。
それなりにSF小説を読んでいて、もう少し変わった作品を読んでみたいとか、読む作品の幅を広げたいなんて人に向いているのではないかと思う。
読み物として読んでもたのしめるので、あるいは、ちょっと変わった本が読みたいなぁなんて人にもお勧めかもしれない。
秋の夜長にいかがですか。

 

 


『トム・ソーヤーの冒険』

2014-10-10 09:21:47 | 読書

マーク・トウェインの短編小説、エッセイ、コラム記事など、商品を集めた作品集、『シム・スマイリーの跳び蛙 マーク・トウェイン傑作選』(柴田元幸訳、新潮文庫)がとても良かった。
シリアスなものもあるが、ほとんどの作品は、ユーモアと風刺にあふれた、抱腹絶倒の“与太話”の数々である。
肩の力を抜いて、空いた時間にのんびりと読むのがたのしいような作品集だった。
この傑作選を読んで、昔読んだ、『ちょっと面白い話』『また・ちょっと面白い話』(どちらも旺文社文庫。絶版)という本を思い出した。
こちらは短編小説でも、エッセイでもない、ほんの一言二言といった短い文章や小話といった感じの文章を集めた短文集。
一つ一つの内容は、1ページにも満たないものが多いためすぐに読めてしまうので、“長い文章を読むのは苦手”なんて人にも心配なし。
あるいは、こちらを読んでから『シム・スマイリーの跳び蛙』を読むのも良いかもしれない。
とてもおすすめなのだが、現在流通はしていないため古本屋か図書館などで探さないと読めないのが難点である。

久しぶりにマーク・トウェインの作品を読んで、続けて彼の作品を読んでみたい気持ちになってきた。
そんな訳で、ちょうど手元にあった『トム・ソーヤの冒険』(土屋京子訳、光文社古典新訳文庫)を読んでみた。
児童文学の名作として名高い本作のこと、私も小学校か中学校のころに読んだ記憶はあるのだが、内容はさっぱり覚えていない。
テレビのアニメも観ていたが、主題歌は思い出せてもやはり内容についてはうろ覚えよりも記憶が薄い。
今回は何十年ぶりの再読となるわけだが、ほとんどはじめて読むような気持ちで読むこととなったのだが……。
読み始める前、本を手に取った印象は、“あっ、分厚い!”であった。
児童文学とのことで、あまり長い物語の印象はなかったのだが、じつは文庫で500ページを超える大作である。
もちろんページ数は、文字の大きさなどに影響されるわけだが、目次を見れば全35章に「序」と「跋」がある。
かなり長い物語だということは、この目次の構成を見ればはわかるだろう。

読み始めての印象はびっくりするほど読みやすいということ。
これはこの光文社古典新訳文庫のキャッチフレーズに「いま、息をしている言葉で。」とあるとおり、翻訳の力に負うところは確かにあるのだろうと思う。
それに加えて内容が古びていない、ということが大きな役割を果たしていることも間違いのないところだろう。
主人公トムをはじめ、ハック、ベティ(トムの彼女?)など、すべての登場人物が魅力に溢れ、子どもたちの世界が生き生きと描かれている。
作者の半自伝的作品と言われる本書を読むと、当時(19世紀前期)のアメリカ社会の様子がうかがわれるのも興味深いところ。
学校の様子一つとっても、子どもを罰するために鞭打ちをする教師などは、現代ではとうてい考えられない存在である。
また、子どもたちが(実際は子どもたちだけではないのだろうが)とても迷信深いところなども、興味惹かれるところがある。
幽霊を怖がるのはいまも変わらないにしても、ものを隠したりするときなども必ず呪文を唱えてから行うなど、さまざまな場面でおまじないや小さな儀式が登場する。
いまの子どもは知らないが、自分の子ども時代でもここまでおまじないなどが盛んだったという記憶はない。
それにしても、新しいエピソードのたびに自分の子ども時代が思い出されてくるのには、ちょっと嬉しいような困ったような感情になってしまった。
なぜなら、ここまで波瀾万丈な子ども時代ではなかったことに、感謝すべきなのかそれとも残念に思うべきなのか、ちょっと迷う気持ちがあったからだ。

殺人事件が起こったり洞窟での冒険があったりと、エピソードごとにサスペンスや法定もの(?)、冒険小説、恋愛小説(?)など、多彩な様相の物語がたのしめる。
そして、そのエピソードの数々にどんどん引きこまれていく自分を感じたことには、正直、少し驚いた。
作者は、子ども向けの作品だからと言って少しの手抜きもない、真剣勝負でこの物語に取り組んでいることがよくわかる。
子ども向けの作品と思って読み始めると、たいんな驚きを覚えることになるだろう。
大人が読んでも十分にたのしめると言う消極的な評価ではなく、大人だからこそがたのしめる作品であると思うのである。
「まだ読んだことないなぁ」という人にはもちろん、「子どものころに読んだよなぁ。懐かしいなあ」と思う人もぜひもう一度読んで見てはいかがだろうか。


魚はやっぱり天然ものがいいよね。いや、養殖ものもうまいんだぞ!

2014-10-03 18:19:02 | 読書

10月になり、すっかい秋の装い……とか思っていたら、今日はなんだか暑くて暑くて。
まさかこのまま、暑い日が続くなんてことはないだろうとは思うが、暑くても寒くても、とにかく突然というのは調子が狂ってしょうがない。
天気予報では、来週あたり台風がくるとか言っていたが、この突然の暑さはその影響でもあるのだろうか?

近所にあるスーパーの前に、たい焼きの屋台が出ていることがある。
“出ていることがある”というのは、ときどき団子屋に変わることがあるせいだ。
たいやき屋と団子屋がどういうタイミングで変わるのかは知らない。
“今日はたい焼きが食べたいなぁ”と思って行くと、たいがい団子屋が出ており、“今日は団子が……”と思ったときには、何故かたいやき屋が出ているから不思議。
そんな訳で、たい焼きが食べたいと思ってから、しばらく機会がないままに過ぎたのだが、運良く、先日やっとたい焼きを食べることができた。

ところで以前、『たい焼きの魚拓』という本を読んだことがある。
タイトルはうろ覚えなのだが、そう大きくは間違っていないと思う。
そのなかに、「天然もの」と「養殖もの」というたい焼きの区分が出てくる。
1度に1つ(1匹?)ずつ焼きあげたものを「天然もの」、複数を一気に焼くタイプを「養殖もの」と区別するというのだ。
要は焼き型の違いということなのだが、たい焼きの世界も「天然もの」は絶滅危惧種ということだった(と思う。これまたうろ覚え)。
この本では、その貴重な「天然もの」の魚拓を、お店の情報なども織り交ぜて解説していた。
家のどこかに本があるはずなのだが、読んだのはけっこう前のことなので、どこにあるかはわからない。
久しぶりに読んでみたい気もするが、薄い本だったし、本棚の隅っこに隠れているかも……。

ところで、私が食べたものはやっぱり「養殖もの」だった。
しかも焼き立てではなく、保温器に保管された一品。
こういう場合は“冷凍もの”(十分温かかったけど)とでも呼ぶのだろうか?
それにしても、頭の先から尻尾の先(文字どおり尻尾の端っこのあたり)まで、しっかりとあんこの詰まった美味しいたい焼きだった。
“いまの養殖技術はすごいもんだ! 天然ものに負けず劣らずの美味しさじゃないか!!”
とか言いながら堪能したわけだが、じつは「天然もの」のたい焼きは食べたことがないので、天然と養殖でほんとうに味が違うのかは知らないんだけどね。