神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

唐櫃塚古墳

2019-04-27 23:12:24 | 古墳
唐櫃塚古墳(かろうどづかこふん)。牛伏(うしぶし)古墳群第4号墳。
場所:茨城県水戸市牛伏町201-2(「くれふしの里古墳公園」)。国道50号線と茨城県道52号線(石岡城里線)の「内原跨線橋北」交差点から県道を北へ約1.9km進み、「くれふしの里古墳公園」の案内標識のところで左折(西へ)、約200mで公園駐車場。「唐櫃塚古墳」は駐車場の真ん前にある。
「唐櫃塚古墳」は、前方後円墳6基、帆立貝形前方後円墳1基、円墳9基で構成される「牛伏古墳群」の第4号墳で、全長52m、後円部径30.5m、前方部幅35.4mという規模の前方後円墳である。「牛伏古墳群」の中では唯一、発掘調査が行われ、主体部は花崗岩を用いた横穴式石室であったことが判明したものの、石室の石材も抜き取られるなど盗掘が酷く、現在の姿は復元されたものである。なお、盾形周濠があったとされ、それを含めると全長は約72mに及ぶという。築造時期は、古墳時代後期後半(6世紀後半頃)と推定されている。被葬者は不明であるが、多氏一族に関連するものとする説が有力。なお、この古墳群は、ごく狭い範囲内に前方後円墳が集中して築造されているというユニークさが注目され、「くれふしの里古墳公園」として整備された。「くれふしの里」というのは、当地の北にある「朝房山」(前々項)が「常陸国風土記」の「晡時臥山(くれふしやま)」に比定されることに因む。


水戸観光コンベンション協会のHPから(くれふしの里古墳公園)


写真1:「唐櫃塚古墳」後円部。駐車場に車を止めると、いきなり目の前に見える。墳丘は二段式。


写真2:同上、前方部から後円部をみる。


写真3:同上、後円部から前方部を見る。主軸は南西向き。


写真4:牛伏古墳群第5号墳。円墳で、径28m。


写真5:「お富士様古墳」(牛伏古墳群第17号墳)。前方後円墳で、全長60m、後円部径35~38m、前方部幅24m。なので、「唐櫃塚古墳」よりも大きい。牛伏古墳群の西端にあり、どうやら最初に造られたらしい。通称は、後円部に「富士権現社」があったためらしい(今も石祠がある。)。


写真5:公園内の「はに丸タワー」。高さ17.3m。


写真6:「はに丸タワー」の真下に「お富士様古墳」が見える。
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三瓶神社(茨城県笠間市)

2019-04-20 23:19:39 | 神社
三瓶神社(みかめじんじゃ)。
場所:茨城県笠間市飯田775。国道50号線と茨城県道39号線(笠間緒川線)の「金井」交差点から県道を北東に約2.4km、「高田球場入口 高田公民館入口」という案内看板が出ているところで右折(東南へ)、約220m。駐車場なし(隣接する「飯田集落センター」に駐車できると思われる。)。
「笠間市史」などによれば、当神社は笠間氏の家臣で飯田城主・大嶺広康が永禄12年(1569年)に常陸一宮「鹿島神宮」から勧請して創建されたとされるが、現在の祭神は市杵島姫命、奥津島比売命、多岐津比売命の、いわゆる宗像三女神となっている。
ということで、古代とは直接関係がないのだが、当神社の社殿の横に3つの瓶が埋められており、これが「常陸国風土記」の「朝房山」(前項)の記事において努賀毘咩が蛇(神の子)に向かって投げつけた瓫甕(瓶)である、という伝説がある。また、別の伝説によれば、当神社の北に「八瓶山(やつがめさん)」(茨城県城里町塩子、標高344m)があり、昔、鹿島明神が八瓶の水をもらいたいと申し出た。明神はどうにか五つの瓶は運ぶことができたが、三つの瓶はどうしても動かすことができなかった。やむなく、三つの瓶は飯田の地に置いたまま帰っていった。この三つの瓶を祀ったのが、当神社であるという。因みに、「八瓶山」には8つの峰があり、ここに8つの頭を持つ大蛇が棲んでいて、時折里に下りてきて美女を呑み込んだ。困った村人が8つの瓶に酒を造り、酒を飲んで酔っ払って寝込んだ大蛇を退治した、という「八岐大蛇」伝説みたいなものもある。この大蛇が笠間の村にまで現れて、稲田姫を襲ったともいう話もあるらしい(なお、「稲田神社」(2018年7月21日記事)参照)。更に、弘法大師・空海が絡む伝説もある。旱が続いたとき、8つの峰を持つ山に8つの瓶を供えて、空海が雨乞いをしたところ、山から布を引いたような大雨が降ったという。これに因んで「八瓶山」あるいは「引布山」と呼ばれるようになった山の南麓に、弘仁年間(810~824年)、「引布山 金剛光院 徳蔵寺(いんぷさん こんごうこういん とくぞうじ)」(通称:「徳蔵大師」)が創建されたという(現・茨城県城里町徳蔵)。真言宗「徳蔵寺」については、よほど有力な寺院であったようで、現・笠間市の真言宗「正福寺」との間で激しい宗門争いがあったことは既に書いた(「佐志能神社(笠間市)」(2018年9月15日記事)及び「大黒石」(2018年9月22日記事))。
さて、当神社の3つの瓶であるが、この瓶の中の水は、どんなに年月が経って量が変わらないが、何か変事がある前には必ず色が変わるという。また、この中の水を人の頭に注ぐと、悪い病気に罹らないとも伝えられている。
蛇足:当神社は、常陸国式内社(論社)「大井神社」(笠間市)(2018年4月13日記事)の北、約1km(直線距離)のところにある。同神社の記事に書いた昔ばなし(鳥居が何故無いのか)と当神社の上記伝説からすると、昔から(昔ばなしや伝説がどのくらい古いか、ということには問題があるものの)当地辺りは常陸一宮「鹿島神宮」の勢力下にあったらしいこと、ただし、必ずしも従順でもなかったらしいこと(どちらも「嫌々ながら止むを得ない」感がある。)が窺われるように思うが、どうなのだろうか。


写真1:「三瓶神社」入口


写真2:鳥居の横に社号標があるが、草で隠れてしまっている。


写真3:鳥居。正月準備のためか(参拝したのは11月下旬)、新しい注連縄。飾りが変わっているが、これも3つの瓶だろうか?


写真4:拝殿


写真5:本殿。小祠ながら、立派な覆屋に囲われている。


写真6:本殿の向かって左側にある「三瓶」


写真7:大きな瓶が3つ並んで埋められている。屋根の下にあるのだが、ちゃんと水が入っていた。

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朝房山(常陸国式外社・その7?)

2019-04-13 23:32:22 | 伝説の地
朝房山(あさぼうやま)。浅房山とも書く。
場所:茨城県笠間市池野辺。登山ルートは複数あるが、もっとも簡単なのは、茨城県道61号線(日立笠間線)と同113号線(真端水戸線)の交差点から113号線を約150m進んで左手の側道に入り、道なりに直進(概ね東の方向)、約2kmで登山口。ここまで自動車で行けるが、駐車スペースが殆どないので、手前に止めてきた方がよい。登山口からは徒歩5~10分。
「朝房山」は茨城県笠間市、水戸市、城里町に跨る山(標高201m)で、「常陸国風土記」那賀郡の条にみえる「晡時臥山(くれふしやま)」のことであるというのが通説となっている。そして、「常陸国風土記」には「(かつて、この地に)努賀毘古(ヌカビコ)、努賀毘咩(ヌカビメ)という兄妹がいた。妹には通ってくる正体不明の男があり、一夜にして身ごもり、小さな蛇を生んだ。この蛇は夜になると話をするので、神の子であろうと思い、清らかな杯(つき)に入れて祭壇に置いたところ、どんどん大きくなって盆(ひらか)に取り換えたが、それも一杯になり、入れる器がなくなった。そこで、母親が、もうこれ以上養育できないので、父親(神)のところへ行きなさい、と告げた。蛇は承知したが、1人の童を従者として付けてくれるよう頼んだ。しかし、家には伯父と母親しか居ないので、断った。蛇はこれを恨んで、昇天しようとするとき、伯父を怒り殺してしまったので、母親が瓫(ひらか、又は、みか)を投げつけたところ、蛇は昇天できなくなって、この山に留まった。その蛇を入れた瓫甕(みか)は今も片岡村に残っており、ヌカビメらの子孫が社を建てて(蛇神を)代々祀っている。」という古老の話が記されている。
この話は、夜ごと、正体不明の男が通ってきて契り、神の子を産む、というところが、所謂「三輪山伝説」に似ている。「三輪山伝説」では、正体不明の男は大物主神であり、雷神・蛇神でもある。ただし、「常陸国風土記」の話では、結局、神の子は昇天できず、その後の消息が不明で、やや尻すぼみ感がある。ここで重要なのは、瓫(素焼きの平たい盆のような容器)などが神聖な力を持っていると考えられたこと、(昇天する力を失ったとはいえ)蛇を神の子として祀り、その祭祀が代々続いているというところだろう。この社が今もあるのか、どの神社に当たるのか、ということには諸説あるが、朝房山山頂に「朝房権現」と呼ばれる石祠が今もある。そして、「片岡の村」というのは、「朝房山」の西麓の現・笠間市大橋に「岡の宿」という地名があり、これが遺称地であるという説がある。あるいは、南方の現・水戸市谷津町付近とする説もある。
ところで、「晡時臥山」というのはどういう意味だろうか。「晡時」は申(さる)の刻で、日暮れ時(午後4時頃)のことだといい、その時に伏せている(寝ている?)山...と言われても、よくわからない。いろいろと解釈されているが、ここは昔話を紹介する。「昔、大足の村(現・水戸市大足町)にダイダラボウ(ダイダラボッチ)という大男が住んでいた。その村の南に大きな山があって、日が出るのが遅かった。村人はなかなか農作業が始められず、困っていた。これを聞いたダイダラボウは、その大きな山を持ち上げ、北の方へ担いでいった。これによって、大足の村は日当たりが良くなり、村人は大いに喜んだ。この山が朝房山で、この山が元の場所にあった頃は、村人が日暮れまで寝ているということで「朝寝坊山」と呼ばれていた、という。」(なお、ダイダラボウについては「大串貝塚」(2018年7月14日記事)、「だいだら坊の背負い石」(2018年9月8日記事)参照)。


茨城県のHPから(くれふし山”朝房山”)


写真1:「朝房山」登山道入口の鳥居。ここで標高約160m。


写真2:山上の「常陸名山 浅房山」石碑。裏面に「常陸国風土記」の話が刻されている。


写真3:木に囲まれた石祠


写真4:同上、「朝房権現」祠と思われる。扉が開いたままで、中にはなにもない。


写真5:三角点
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大井神社(茨城県笠間市)(常陸国式内社・その15の2)

2019-04-06 23:19:34 | 神社
大井神社(おおいじんじゃ)。通称:太郎明神、一の宮明神。
場所:茨城県笠間市大渕1652。国道50号線から茨城県道61号線(日立笠間線)に入り、北~北西へ約1.2km進み、左折(北へ)して涸沼川を渡る(山下橋)。田畑の先、正面の森が「大井神社」で、川を渡ったところから約300mで参道入口。その付近には駐車スペースはない。西へ約300m進むと、「大井神社入口」という案内板があり、そこから道なりに北へ進むと境内まで行けるが、境内への進入路が狭いので注意。
社伝によれば、初代・神武天皇の皇子・神八井耳命(カムヤイミミ)が皇弟(第2代・綏請天皇)に皇位を譲って東国に下り、当地に来たとき、「常陸那留大井乃水乃清介礼婆世母太平尓渡留浮橋」(常陸なる大井の水の清ければ世も太平に渡る浮橋)と詠じた。大同元年(806年)、平城天皇の勅宣により常陸国那珂郡大井村和体ヶ峯に社殿を造営し、「大井大明神」と称えた。「延喜式神名帳」登載の式内社と定められ、官幣使が派遣されたため、今も「宣命使台」という地名がある。中世には、大井の地を割いて金井、大淵の2村を置き福田、飯田、石寺、寺崎、日沢の5村を合わせた地域の総鎮守として「太郎明神」、また大井、箱田、石井、来栖の4村4社の一宮として「一の宮明神」(四所一宮)と称し、崇敬されたという。 現在の祭神は、神八井耳命。
ということで、当神社は常陸国式内社「大井神社」の論社であるが、現・笠間市は、古代には新治郡に属したとみられるところから、常陸国那賀郡鎮座というのに合致しないのが難点である。古代の郡境の問題は非常に難しいが、笠間市大渕というのは笠間市笠間の北隣(当神社は新治郡鎮座の式内社に比定される「佐志能神社」(笠間市)(2018年9月15日記事)のほぼ真北、約2km(直線距離)のところ)になることから、結構厳しい感じである。
因みに、当神社には鳥居がない。そこで、こんな昔ばなしがあるという。「大昔、常陸一宮「鹿島神宮」には鳥居がなかった。そこで、鹿島の神様は「大井神社」の大きな鳥居を貸してほしいと頼み、大井の神様も渋々これに応じた。鹿島の神様が鳥居を中々返してくれなかったので、大井の神様が度々催促したが、なしのつぶてで返してもらえず、今に至るまでそのままになっている。」(笠間市文化財愛護協会編「笠間市の昔ばなし」より)


茨城県神社庁のHPから(大井神社)


写真1:「大井神社」入口。鳥居はない。


写真2:社号標「延喜式内 大井神社」


写真3:御神木「親子杉」


写真4:杉木立の長い参道。いかにも神社の参道、という感じ。


写真5:「宣命殿」


写真6:拝殿。「延喜式内社 四所一宮 太郎明神」という額がかかっている。


写真7:本殿
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