神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

六所神社(山形県酒田市市条)

2016-01-30 23:39:48 | 神社
六所神社(ろくしょじんじゃ)。
場所:山形県酒田市市条字八森13。国道345号線から、酒田市市条鎮座の「八幡神社」(通称:一条八幡宮)(前項)北側の道路に入り、同神社の裏手へ回る(ぐるっと南へ)。約300m進むと参道入口。駐車場なし。
創建年代は不明。一説に天明6年(1786年)の創建ともいう。平安時代の出羽国府(跡)とされる「城輪柵(跡)」に近く、「六所神社」という名から、当時の出羽国総社ではないかという説があるらしい。以前にも書いたが、「六所」というのは、6柱の神々を祀っていることを示すのが一般的だが、、管内の神社を登録・統括する「録所」から転じたものとする説もあり、実際に「六所神社(六所宮)」が総社であることも多い(「六所神社(下総国総社)」:2013年1月19日記事参照)。山形県鶴岡市上藤島に鎮座している「六所神社」は、最初期の出羽国府所在地と推定される場所に近く、当時の出羽国総社ではないかという説もある(「六所神社」:2015年7月25日記事)。
ということで、当神社だが、祭神は伊弉諾神、伊弉册神、素盞嗚神、稲田姫神、大己貴神、丹津姫神の6柱。平安時代の「出羽国府」跡とされる「城輪柵跡」(2015年12月26日記事)の南東、約3.7km(直線距離)の位置にある。また、その「出羽国府」の一時移転先とみられる「八森遺跡」とは同じ八森山にあり、南西約400mの距離である。当神社の正面(東側)から上る石段はかなり急だが(下の道路の標高が約30mで、当神社の標高は約75m。これを直線的に上る。)、「八森遺跡」方面からは遊歩道があり、殆ど同じ高さで当神社のところまで繋がっている。
ただ、山の中腹にあるため境内は狭く、「総社」というのはどうかな、というのが率直な感想。なお、「八森遺跡」の資料を見ていたら、その西(現・八森野球場の西側辺り)に「古四王神社跡」と記された地図があった。この「古四王神社跡」については全く不明なのだが、気になる存在ではある。


玄松子さんのHPから(六所神社(酒田市市条))


写真1:「六所神社」参道入口


写真2:鳥居。急な石段が続く。


写真3:社殿
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八幡神社(山形県酒田市市条)

2016-01-23 23:38:52 | 神社
八幡神社(はちまんじんじゃ)。旧称:一条八幡宮、通称:一条八幡神社。
場所:山形県酒田市市条字水上14-1-1。国道344号線「酒田市観音寺」交差点の南、約700m。駐車場有り。
社伝によれば、元慶元年(877年)、大和朝廷の命により出羽国国司・藤原朝臣興世が山城国「石清水八幡宮」(現・京都府八幡市)の御紳霊を勧請したのが創祀で、翌年の元慶2年(878年)に出羽国で夷俘の大反乱(「元慶の乱」)が起きると、鎮守府将軍・小野朝臣春風が当神社で反乱鎮定を祈願したという。あるいは、「元慶の乱」平定のために出羽郡司・小野良實が「石清水八幡宮」の御神霊を勧請したともいう。祭神は、譽田別尊。
因みに「石清水八幡宮」は、貞観元年(859年)に豊前国一宮「宇佐神宮」(現・大分県宇佐市)から国家鎮護のため京都の南西(裏鬼門)に当たる「男山」山上に勧請されたものといわれている。京都への「石清水八幡宮」の勧請時期と、当神社の勧請時期が近いのが気になるが、逆に、京都での流行(最先端)を辺境にも持ち込んだものかもしれない。
当神社は荒瀬川の左岸にあり、かつては、その水を引き込んで堀を廻らしてあったとされ、更にそれを神領の田畑の感慨にも利用したという。当神社の通称、あるいは鎮座地の地名である「一条」・「市条」というのは、条里制に因むもので、当神社が条里の基準になっていたと伝わるようである。また、平安時代の「出羽国府」跡とされる「城輪柵(跡)」と近く(直線距離で約2.5km)、いわゆる「国府八幡宮」であったと思われ、一説には「出羽国」の「総社」であったともいう。戦国時代には最上氏、江戸時代には庄内藩主・酒井家や酒田の豪商・本間家などから篤く庇護され、明治9年には県社に列せられた。


玄松子さんのHPから(八幡神社(酒田市市条))


写真1:「八幡神社」一の鳥居。扁額は「八幡宮」


写真2:同上、二の鳥居と社号標


写真3:社殿


写真4:社殿の裏は「八森山」の北西端の下に当たる。そこに緩やかな坂道があり、上って行くと「八森遺跡」(前項)のところに出る。
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八森遺跡(山形県酒田市)(出羽国府・その4)

2016-01-16 23:53:57 | 史跡・文化財
八森遺跡(はちもりいせき)。
場所:山形県酒田市市条字八森921(「八森自然公園」の住所)。国道344号線「酒田市観音寺」交差点から東に約1km進み、「八幡保育園」付近から南に進んで荒瀬川を渡り、道なりに八森山の山上を目指す。八森山の北端にある八森野球場の東側。公園の駐車場を利用。
「八森遺跡」は、荒瀬川左岸(南岸)の高台(標高約60m、比高約40m)にある旧石器時代、縄文時代、平安時代の複合遺跡だが、主体は平安時代の遺跡で、「八森自然公園」造成に伴い、昭和52年から発掘調査が行われた。その結果、1辺約90mの方形に板塀で囲まれた中に、6棟の礎石あるいは掘立柱による建物跡が発見された。これら建物は、ほぼ同一方位に建てられ、南中央の広場周辺にコの字形の配置になっていた。また、板塀の、南・東・西辺の中央に門が開いていた。こうした建物配置は古代官衙、特に政庁の建築様式である。なお、現・野球場付近からは倉庫跡等も発見されている。土器、瓦、硯などの出土品の様式観から、9世紀後半~10世紀前半頃のものと推定されている。こうしたことから、当遺跡は、約3km西にある「城輪柵跡」(2015年12月26日記事)が平安時代の出羽国府であったことを前提に、「日本三代実録」仁和3年(887年)記事にある国府移転先と推定されている。国府移転先といっても、「城輪柵跡」の出羽国府は平安時代末まで存続したとみられるため、当遺跡が国府として使われたのは短い期間だったようだ。
因みに、上記「日本三代実録」仁和3年の記事は次のようなものである。即ち、出羽国守・坂上茂樹から「嘉祥3年(850年)の大地震により、地形が変わり、窪地に泥が溜まっている。更に、海水が国府から6里(約3km)まで迫り、大河(最上川?)も崩壊して国府を廻る堤防も1町(約109m)余のところで被害を受け、浸水の危機にある。よって、堅固な地である最上郡大山郷保宝士野(ほぼしの?)に国府を移転して危機を避けたい。」という申請があった。これに対して、朝廷では、小野春風や藤原保則など現地の地勢に詳しい者たちの意見も聞いたところ、「国司の申請には一定の道理がある。」ということだった。しかし、審議の結果、「水難を避けるための国府移転は妥当ではあるが、最上郡は出羽国の南辺にあって、山に囲まれており、水上交通路はあるが、冬には不便である。まして、秋田城・雄勝城から遠く離れ、緊急連絡もできない。国司の業務遂行にも差し支える。したがって、国府の南遷は認めず、現・国府の近くの高台の場所を選んで移転せよ。」というものだった(注:個人的な現代語訳なので誤訳があっても宥恕願います。)。「保宝士野」には結局、移転しなかったこともあり、具体的な場所は不明だが、現・山形市、または、西村山郡河北町付近という説が有力とされているが、ここで重要なのは、災害により居住環境が厳しいような状態となっても、政治的・行政的な立地条件を優先させたということで、これ以上、国府を南に下げることを許さなかったということになる。ただ、何故、嘉祥3年の大地震から37年も経ってからの申請になったのか、いったん高台(「八森遺跡」)に移したのに短期間しか使われずに元の国府(「城輪柵跡」)に戻ったのか等、疑問は残る。なお、嘉祥3年の大地震については、「日本文徳天皇實録」に記事があるが、「出羽国から報告があり、大地震が起きて地割れが発生、山や谷が動き、圧死者が多数出た。」というもので、記事の分量自体が少なく、建物等の被害の描写も無く、詳細不明であった。


写真1:「八森遺跡」。案内板はあるが、遺跡は発掘調査後に埋め戻されており、単なる空き地のように見える。


写真2:同上。東南側から。


写真3:同上。南西側から。


写真4:北西側にある小道の入口。ここから下っていくと、「(一条)八幡神社」(次項記事)の裏に出る。



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堂の前遺跡(出羽国分寺・その2)

2016-01-09 23:25:32 | 史跡・文化財
堂の前遺跡(どうのまえいせき)。
場所:酒田市法連寺字堂ノ前5-2ほか。国道344号線と山形県道59号線(酒田八幡線)の交差点(東北角に産直販売所「産直たわわ」がある。)から南に約300m進んだところの東側(田圃の中)。駐車場なし。
「堂の前遺跡」は、平安時代の出羽国府に比定されている「城輪柵(跡)」(2015年12月26日記事)の東、約1.5kmのところにある遺跡で、(平安時代の)「出羽国分寺」跡とする説が有力になっている。この遺跡は、昭和30年に大量の木材や土器が発見され、昭和48年から行われた発掘調査の結果、この木材は建物基壇の基礎工事としての筏風地業であることが判明したとされる。即ち、材木層の上に積土層とバラス(砕石)層を置き、周辺を13m×13.5mの規模で掘立柱列を廻らせてある。この建物の北から西~南へと流れる溝が掘られ、西側には4間×2間の建物2棟の跡、北側にも柱穴があって、掘立柱建物群があったことが判明した。これらの柱をみると、柱間が15尺(約4.5m)、柱径が1尺8寸(約55cm)という大きなものだった。また、東西240m、南北265m(2×2.2町)の板塀跡、南門跡等も発見され、こうした大型建物群の跡、古建築材の遺存、筏地業や溝などの工法など、珍しい所見が多かったことから、昭和54年に国史跡に指定された。なお、出土品等により、掘立柱建物は10世紀頃のものと推定されているとのこと。
「出羽国分寺」については、弘仁11年(820年)頃に成立した「弘仁式」主税式(断簡)に「国分寺の出挙稲が4万束であること」が記されており、「続日本後紀」の承和4年(837年)の記事に「出羽国司小野宗成の要請により、出羽国最上郡に「済苦院」という寺院の建立を許可した。また、宗成が司る国分二寺に仏菩薩と4千余巻の経巻を書写して奉納した・・・」というものがある。よって、9世紀前半に国分寺・国分尼寺があったことは確実とみられている。なお、この「続日本紀」の記事から、(「済苦院」とともに)「出羽国分寺」が現在の山形県最上地方にあったとする説もある(因みに、古代の最上郡は現在の山形県村山地方を含んでいて、仁和2年(886年)に2郡に分けられ、北側が「村山郡」、南側が「最上郡」となったらしい。)。しかし、「最上郡」の「出羽国分寺」跡が具体的に示されていないこと、「城輪柵跡」が9世紀初め以降の「出羽国府」跡であることがほぼ確実とみられること、「城輪柵跡」至近の位置にあり条里が一致する「堂の前遺跡」で大規模な建物群が出土したことから、「堂の前遺跡」がやはり(平安時代の)「出羽国分寺」跡であることもほぼ確実とされているようである。
ところが、延長5年(927年)に完成したとされる「延喜式」には、「出羽国分寺」は見えない。記事の欠落とする説もあるが、10世紀初め頃に「出羽国分寺」が存在しなかったとする説も有力。というのは、嘉祥3年(850年)の地震によって大きな被害を受けた可能性が高いとされているかららしい。ただし、上記の通り、発掘結果では10世紀に掘立柱建物(堂塔?)が存在したことが確実視されているので、その後、再建されたものだろうか。終末は不明で、「城輪柵」の衰退が10世紀後半頃とされているが、これと同じ経過を辿ったのか、それとも寺院として独立して存続したのか、全くわからない。
ちなみに、「出羽国分尼寺」跡については不明で、「高阿弥田遺跡」(酒田市横代)、「庭田遺跡」(酒田市庭田)等が候補になっている。


「文化遺産オンライン」HPから(堂の前遺跡)

「山形の宝 検索navi」のHPから(堂の前遺跡)


写真1:「堂の前遺跡」。説明板のほかには、何も無い。


写真2:同上
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城輪神社(出羽国式外社・その4)

2016-01-02 23:22:57 | 神社
城輪神社(きのわじんじゃ)。
場所:山形県酒田市城輪字表物忌35。「城輪柵跡」(「城輪史跡公園」)の北、約250m。駐車スペースあり。
創祀年代は不明だが、平安時代の出羽国府とされる「城輪柵」(前項)の鎮守神とみられ、その創建時期(8世紀初め頃)と同じくすると推定されている。「日本三代実録」によれば、貞観7年(865年)に出羽国の「城輪神」と「高泉神」(「古四王神社」:2015年8月15日記事)が従五位下に叙され、元慶4年(880年)には「月山神」(「月山神社」:2015年1月17日記事)と「大物忌神」(「鳥海山大物忌神社」:2014年9月6日記事)が従二位、「袁物忌神」(「小物忌神社」:2014年11月29日記事)と「城柵神」が従五位上に進められた記録があり、この「城輪神」・「城柵神」が当神社に比定されるのが通説である。また、天徳4年(960年)銘の「勅額」とされる木片が伝わっていたが、明治6年の火災により、焼失してしまったという。このように由緒ある古社であるが、「日本三代実録」以降の消息は不明で、戦国時代の兵乱により著しく荒廃したという。江戸時代に入って庄内藩主・酒井氏によって再興され、旧社格は県社(昭和7年指定)であった(因みに、「城輪柵跡」が国指定史跡になったのも昭和7年)。
さて、当神社は「延喜式神名帳」には漏れているが、上記の通り「日本三代実録」に見える「国史現在社」である。また、祭神は稲倉魂神であるが、これは出羽国一宮「鳥海山大物忌神社」と同体とされ、その第2王子として出羽国二宮を称するようになったという。


玄松子さんのHPから(城輪神社)


写真1:山形県道59号線(酒田八幡線)沿いにある「縣社 城輪神社」社号標。神社は、この奥。


写真2:神社正面


写真3:境内にある社号標。正面に「國史現在 村社城輪神社」、側面に「羽州二宮」とある。なお、昭和7年に村社から県社に昇格している。


写真4:社殿
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