神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

荒久古墳(千葉市中央区)

2012-04-28 23:14:11 | 古墳
荒久古墳(あらくこふん)。
場所:千葉市中央区青葉町959(「青葉の森公園」内)。県道20号線(千葉大網線、通称:大網街道)「ハーモニープラザ」交差点から北に約300mのところに駐車場(有料)の入口がある。古墳は広い公園内の南西部にあり、「青葉の森公園センター」の建物の前(東側)にある。
「荒久古墳」は、「海上山 千葉寺」の東、約600mのところにある古墳で、古墳時代最終末期の8世紀頃に築造されたものとされる。墳丘はかなり削り取られており、現在は1辺が約9mしかないが、本来は1辺約20mの方墳であったという(円墳説もある。)。埋葬施設として凝灰質性砂岩を使用した横穴式石室があり、玄室は奥行約2m、奥壁の幅は約1.4m。古くから石室が開口しており、「石の唐戸」と呼ばれていたという(現在は保存のため埋め戻され、見ることはできない。)。床には粘土が敷かれた上、両隅に排水溝が設けられていたらしい。いったん明治24年に発掘調査が行なわれたが、そのとき出土した遺物の多くは散逸してしまい、詳細不明となっていた。昭和34年に改めて発掘調査が行なわれた結果、1体分の人骨、琥珀製なつめ玉3個、鉄製の馬具の一部などが出土したという。昭和35年に千葉市の史跡に指定された。
この付近は千葉寺谷と呼ばれ、かつては都川河口の台地であったところで、旧石器時代から集落が形成されていたようだ。因みに、「海上山 千葉寺」と「荒久古墳」はともに標高約20mの台地上の最も高い場所にある(ただし、両者の間は谷になっている。)。古代には旧・下総国千葉郡(現在の千葉市、習志野市、船橋市東部、八千代市西部)を支配した千葉国造一族の墳墓であると考えられている。


「青葉の森公園ビジュアルマップ」さんのHPから(荒久古墳)


写真1:「青葉の森公園センター」前の階段を上っていく。単なる雑木林のようだが…


写真2:「荒久古墳」。塚の高さは低く、樹木が生い茂っているため、傍を通っても、これが古墳とは気付かないだろう。


写真3:「史跡 荒久古墳」の石碑も建てられている。
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海上山 千葉寺

2012-04-21 23:26:08 | 寺院
海上山 千葉寺(かいじょうさん せんようじ)。
場所:千葉市中央区千葉寺町161。県道20号線(千葉大網線、通称:大網街道)「千葉寺三叉路」の東、約100m。駐車場有り(進入路が狭いので注意。)。
寺伝によれば、創建は和銅2年(709年)、行基菩薩を開基とする。行基がこの地に来たとき、池のなかに、1本の茎に千葉(花弁が多く重なっている)の青蓮華が2輪咲き、その花の中に観音が現れるという祥瑞があった。そこで、行基自ら丈六の観音像を刻んで祀り、後に聖武天皇の勅により「海照山 歓喜院 青蓮千葉寺」と称した、という。行基創建説は古寺によくある伝説だが、現在地から奈良時代後期の様式の布目瓦が出土したことから、その頃から現在地に古代寺院として存在していたことは確からしい。
なお、永暦元年(1160年)に落雷のため堂宇が全て焼失してしまったが、本尊の観音像は自ら近くの老桜の木の枝に逃れて無事であったという伝説も伝えられている。また、当寺の梵鐘は弘長元年(1262年)銘がある名鐘だったが、あるとき改鋳のため江戸に送られたが、夜中に鐘が悲しげに「千葉寺、千葉寺・・・」という声を発するという怪異があり、そのまま寺に戻されたという話もある。そのため、この鐘は「戻り鐘」という名がついたが、戦時中に供出され、現在のものは戦後に作られたものである。
さて、当寺は、中世には千葉氏の祈願所となり、手厚い庇護を受けたが、豊臣秀吉の小田原征伐により北條氏とともに千葉氏が滅亡したため、一時衰退した。その後、徳川氏の保護により再興されたが、明治初年には無住寺となるなど廃寺の危機もあった。現在は、真言宗豊山派の寺院で、戦災で焼失した本堂も鉄筋コンクリート造で再建された。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場の第29番札所となっている。


「坂東三十三観音霊場」のHPから(千葉寺へ御来山歓迎)

「千葉一族」のHPから(海上山 千葉寺)


写真1:「千葉寺」山門(文政11年(1828年)再建)


写真2:境内の大銀杏(イチョウ)。樹高30m、目通り8mという巨木で、樹齢は推定1300年という。県指定天然記念物


写真3:本堂


写真4:本堂裏の「瀧蔵神社」(瀧蔵権現)。祭神は海津見尊? 千葉氏の居城「亥鼻城」の南の守護神であるという。
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大覚寺山古墳

2012-04-14 23:40:18 | 古墳
大覚寺山古墳(だいかくじやまこふん)。
場所:千葉市中央区生実1861-1。生浜東小学校の東、約100m。駐車場なし。周囲は住宅地化していて場所がわかりにくいが、自動車でナビがある方は、行き先を「千葉市埋蔵文化財調査センター」にセットして行くとよい。同センターからはすぐ西側に見え、駐車場もある。
「大覚寺山古墳」は、現・千葉市中央区生実の台地上に散在する生実古墳群のうち代表的な古墳で、築造時期は5世紀前半と推定されている。この古墳は、舌状に伸びた台地の先端部を利用して造られた前方後円墳で、全長約62m(資料によっては66m)、前方部の幅約25m、後円部の径約35mとされ、千葉市内では最古・最大のものという。自然の地形を利用して作られたせいか、あるいは風雨で削られた可能性もあるが、後円部に比べると前方部がやや小さく、古い形態を残しているともされる。元々「ぼんぼん山」と呼ばれていた小丘で、昭和45年、宅地造成の際に発見され、現在では史跡公園として整備・保存されている(未発掘)。昭和46年、千葉県指定史跡となった。
「大覚寺山古墳」の西には、「七廻塚古墳」という円墳があった(築造時期:5世紀中頃?)。経54m、高さ8.8mという巨大な円墳だったが、生浜中学校(現・生浜東小学校)のグラウンドを拡張する工事により、昭和33年に消滅した。出土物は、鉄剣、青銅鏡、滑石製の石剣・石釧など。このうちの釧(くしろ)というのは、模様が刻まれた腕輪で、祭祀用の宝器と考えられている。直径約16cmの優品で、現在は他の出土品とともに「千葉市埋蔵文化財調査センター」に展示されている。工事で崩される前、「七廻塚古墳」の上には「八剣神社」(千葉市中央区南生実)の境外社「鷲宮社」が鎮座していたとされる(東京都台東区の「鷲神社」と同神(天日鷲命)なら、日本武尊とも縁が深い。)。
なお、周囲はかなり住宅地化が進んでおり、知られずに消滅した古墳も多いようだ。「瓢箪塚」という小字があり、そこに前方後円墳があったのではないかとも言われている。
さて、「大覚寺山古墳」は、式内社「蘇我比神社」の南東約2.4km、旧・下総国千葉郷の内にある。現・千葉市中央区内だが、この辺りは市原市との市境に近い。市境に沿うように流れる村田川の左岸(南岸)に今も地名(千葉県市原市菊間)に残っているが、現・市原市北部は、古代には菊間(くくま)国造の支配地であった。「大覚寺山古墳」・「七廻塚古墳」を見ると、ヤマト政権と近い地方豪族の墳墓と思われるが、位置的なことから菊間国造一族のものとみる説のほうが有力のようである。


「古墳マップ」さんのHPから(大覚寺山古墳)

千葉市埋蔵文化財調査センターのHP


写真1:「大覚寺山古墳」公園入口


写真2:自然の台地の端を整形して前方後円墳が作られたらしい。手前が前方部。


写真3:大きくて全体をカメラに収められないが、手前(南側)が前方部、奥が後円部(北側)。


写真4:北側の後円部


写真5:近くにある「千葉市埋蔵文化財調査センター」(場所:千葉市中央区南生実町1210)


写真6:「八剣神社」参道の鳥居(場所:千葉市中央区南生実町880)
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蘇我比咩神社(下総国式内社・その3)

2012-04-07 23:23:23 | 神社
蘇我比咩神社(そがひめじんじゃ)。
場所:千葉市中央区蘇我2-2-7。国道357号線「蘇我1丁目」交差点から1本東の旧道を約80m南下し、写真1の案内看板のところの狭い道を入る。駐車場なし。
創建時期は不明。伝承は次のようにいう。即ち、日本武尊東征の途上、相模国から上総国に渡るため走水(はしりみず)の海(現・浦賀水道)に船出したが、海神の怒りにより海が荒れ、難破の危機に陥った。この窮地を救うため、日本武尊の妻、弟橘媛が海に入水し、海神の怒りを鎮めた。このとき、弟橘媛とともに、蘇我大臣の姫も身を投げた。弟橘媛は行方不明となったが、蘇我姫は当地の浜に流れ着き、里人の介抱によって蘇生した。蘇我姫は「我れ蘇れり」と言ったので、当地を「蘇我」と称した。蘇我姫は都に帰ったが、後に日本武尊が亡くなったことを聞いた里人が当神社を建立したという。また一説によれば、壬申の乱(672年)に敗れた蘇我赤兄が当地に配流されたとき、その祖神を祀ったともいう。
当神社の主祭神は蘇我比咩大神で、上記の伝承からすれば、蘇我氏の姫を祀ったとしか思えないが、謎も多い。「延喜式神名帳」には「蘇賀比咩神社」という記載になっており、元々「ソカ」あるいは「ソガ」という地名の場所に鎮座する神であって、蘇我氏とは無関係とする説も有力だが、「ソカ(ソガ)」にどういう意味があるのか殆ど説明されていない。
大化改新以前、現・千葉市を中心に、習志野市、船橋市東部、八千代市西部を含む、かなり広い範囲を千葉国造が支配していたとされる。「日本後紀」の延暦24年(805年)の条に、千葉国造である大私部直善人(おおきさいべのあたえ よしひと)が外従五位下に授位された記事がみえる。この時代には、国造は政治を離れ、祭祀を中心とする名誉職になっていたが、元の国造家の世襲であったらしい。で、大化改新以前から千葉国造は大私部直であったということだが、蘇我氏との関係が不明。開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔に日下部氏があり、その分流として私市氏という氏族があって、大私部氏は、その私市氏と関係があるのではないかともいわれるが、「(大)私部」というのは皇后のための私有民たる部曲(かきべ)を言い、「大私部直」はそれを支配する役職だったという考え方もある。それによれば、元々蘇我氏の出身であったが、「大私部直」に任命されて、その氏を名乗ったとも考えられる。ということで、いろいろ考え方はあるが、確実なことは言えないようである(だから、古代史は面白いともいえるのだが。)。
因みに、境内の説明板には、「下総国二宮 蘇我比咩神社」とある。その根拠は不明だが、平安時代から戦国時代まで一大勢力を張った地方豪族・千葉氏の本拠地に近い古社として信仰を集め、現在の静かな佇まいからは想像できないくらい栄えた時期があったのだろうと思われる(千葉氏は妙見信仰を基にした「千葉神社」(千葉市中央区院内)を重視し、次第に当神社は衰退していったという。)。


千葉県神社庁のHPから(蘇我比咩神社)


写真1:旧道沿いにある案内看板。「千葉南部総守護 延喜式内社 蘇我比咩神社」となっている。


写真2:境内入口の鳥居


写真3:社殿
コメント (5)
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