神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

下総国の古代東海道(その8・延喜式以前のルート)

2013-12-28 23:55:09 | 古道
古代東海道の駅路のルートは、「延喜式」(康保4年(967年)施行)に記載された駅名を辿って考証が行われることが普通だが、「延喜式」以前にルート変更されたケースも多いようだ。下総国のルートもその例で、当初は相模国(現・神奈川県)から東京湾を船で渡って一旦上総国に上陸してから、下総国を縦断(北上)して常陸国に向ったらしい。
当初のルートは、本路として上総国(大倉駅)~鳥取駅~山方駅~荒海駅~(香取海を渡り)常陸国(榎浦駅)があり、上総国(大倉駅)~河曲駅~浮嶋駅~井上駅という下総国府に向う支路Aと、山方駅~真敷駅~香取神宮~常陸国(板来駅)という支路Bがあったと考えられている。ただし、現在も、この本路の具体的なルート、駅の所在地は確定できていない。通説では、鳥取駅が佐倉市内、山方駅が印旛郡栄町内、荒海駅が成田市内(「荒海」という遺称地がある。)とされ、また、支路Bの真敷駅は成田市(旧・香取郡大栄町)南敷付近とされている。なお、支路Bは香取神宮及び鹿嶋神宮への参拝路だったと思われる。全体としては、現・千葉市中心部から成田市方面に向うので、現・国道51号線か、これに沿うようなルートだったのだろう。
それが、宝亀2年(771年)には武蔵国が東山道から東海道へ編入されたことにより、支路Aが本路となる。つまり、井上駅から河曲駅まで下ってきてから、鳥取駅以降のルートを進むことになる。ただし、これでは遠回りになるので、下総国府から北へ向う既存の伝路が本路になり、延暦24年(805年)には鳥取、山方、荒海、真敷の各駅は廃止された(以後は、「延喜式」記載のルート)。
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山崎ひょうたん塚古墳

2013-12-21 23:44:29 | 古墳
山崎ひょうたん塚古墳(やまのさきひょうたんづかこふん)。
場所:千葉県佐倉市下根字上代343-1。国道296号線「歴史博物館」交差点から県道65号線(佐倉印西線)に入り道なりに北上、約700mのところで狭い道路に右折(東へ)。突き当りが「(岩名)麻賀多神社」と「岩名天神前遺跡」のある公園で、そこから北西へ約100m(公園前に案内標識あり)。駐車場なし(古墳前の道路は狭いので注意)。
「山崎ひょうたん塚古墳」は、その他のとおり「瓢箪」形が残っている前方後円墳で、現存の大きさは全長約37m、後円部径約25m、前方部幅約14m。前方部の一部が削られているので、当初は全長40mを超える古墳だったらしい。標高約29mの台地縁辺にあり、西側には鹿島川が流れるが、古代には印旛沼が眼下にあったものと思われる。発掘調査は行われておらず、墳墓の内部構造や副葬品等は不明だが、古墳の形状等から古墳時代前期(現地の説明板では4世紀)のものとされる。なお、かつては、この古墳の南にもう1つの古墳(消滅)があり、夫婦塚と呼ばれていたという。
因みに、近くにある「岩名天神前遺跡」は、関東地方最古とされる弥生時代の墓の遺跡で、一度死者を土葬・風葬等で白骨化させ、それを細片にして再び土器の壺に納める葬法を行っていたことがわかった。7基の墓壙と23個体の土器が発見され、その内の9個から人骨片が検出されたという。この遺跡の調査結果から、このような墓を「再葬墓」というようになったとのこと。弥生時代から、この台地は聖なる場所だったのかもしれない。


写真1:「山崎ひょうたん塚古墳」。東側から見る。向って左が前方部、右が後円部。古墳の向こう側は崖になっている。


写真2:同上、北側から見る。


写真3:「(岩名)麻賀多神社」(住所:佐倉市岩名250)。創建時期不明。祭神:稚産霊命


写真4:「(岩名)麻賀多神社」横の公園内に「岩名天神前遺跡」がある。
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飯郷作遺跡

2013-12-14 23:32:33 | 古墳
飯郷作遺跡(いごさくいせき)。
場所:千葉県佐倉市下志津263(佐倉西高等学校の住所)。京成電鉄本線「ユーカリが丘」駅の東、約1.3km。佐倉西高等学校の中庭に保存されている。駐車場なし。
「飯郷作遺跡」は印旛沼の南岸の台地上にある遺跡で、佐倉西高校建設に伴う発掘調査により、前方後方墳2基、方墳4基、方形周溝墓23基、竪穴式住居跡109軒、掘立柱建物6棟が発見されたもの。このうち、前方後方墳1基、方墳2基、方形周溝墓5基が県の史跡に指定され、墳丘が復元・保存されている。特徴的なのは、弥生時代の流れを引く方形周溝墓と、古墳時代初期の方墳、前方後方墳(4世紀前半?)が同居していることで、墓制の変遷を知るうえで重要な意義を持つとされる。因みに、前項の「根上神社古墳」の東、約5kmの距離にある。


(公財)千葉県教育振興財団文化財センターのHPから(佐倉飯郷作遺跡)


写真1:佐倉西高校校内に入ったところにある案内板。遺跡保存のため、遺跡を取り巻くように校舎が建てられている。なお、見学の際は、高校の受付にどうぞ。


写真2:「飯郷作遺跡」。遺跡の東側(この写真の奥)は台地の端(標高20~21m)で、その下の谷部分(標高8~9m)に高校のグラウンドがある。高校の前の道路を東側(谷側)から走ってくると、古墳が浮かび上がって見える。


写真3:前方後方墳(2号墳)。全長約30m、前方部幅約9.2m、後方部辺約18.5m 


写真4:方墳2基。写真では少しわかり難いが、手前が4号墳、奥が3号墳
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根上神社古墳

2013-12-07 23:54:07 | 古墳
根上神社古墳(ねのかみじんじゃこふん)。
場所:千葉県八千代市村上南1-15-1(「根上神社」の住所)。東葉高速鉄道東葉高速線「村上」駅の北、約170m。国道16号線沿いにあるホームセンター「ジョイフル本田 八千代店」の南東側。駐車場有り。
「根上神社古墳」は、八千代市では最大の前方後円墳で、全長約50m、前方部幅約32m、後円部径約35mの大きさ。発掘調査は行われていないが、6世紀頃のものと推定されている。南東向きの古墳で、北西側の括れ部分に「根上神社」が鎮座しているため、その名がある。「根上神社」の由緒は不明であるが、祭神は大己貴命で、国土開発の神である。あるいは、「子の神(ねのかみ)」から鼠~大黒天(大黒様)~大国主神と連想して、祭神を定めたのかもしれない。
八千代市村上地区は、千葉市花見川区幕張・検見川地区から「花見川」を遡ると、大和田排水機場から上流を「新川」というが、その左岸(東岸)に当たる。「新川」は西印旛沼と同水位で、川というより西印旛沼の一部とも考えられ、古代には湖沼地帯であったものと思われる。また、「村上」というのも、平安時代の「印旛郡村神郷」に由来する由緒ある地名で、本来は多くの神を祀った「群神」から発祥しているらしい。元々は150基にも上る古墳があったが、宅地化により多くの古墳が消失したという。「根上神社古墳」もかなり削られてしまっているようだが、それでも、神社があったおかげで残されたことは幸いだったといえるのだろう。


写真1:「根上神社」参道。向って右側が古墳前方部のはずだが、かなり削り取られているようだ。


写真2:鳥居。扁額には「根上大神」とある。


写真3:社殿。古墳の説明板もある。


写真4:後円部の高まりだが、円形は明瞭でない。
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