神が宿るところ

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石船神社(茨城県小美玉市西郷地)(常陸国式外社・その6)

2019-03-02 23:03:00 | 神社
石船神社(いしふねじんじゃ)。
場所:茨城県小美玉市西郷地1551。国道6号線「小岩戸」から東に約750m。駐車場なし(向かい側に「西郷地公民館」があり、その広い駐車スペースに駐車可能だろうか。)。
創建年代は不明。事情が複雑なのだが、当神社が「日本三代実録」貞観16年(874年)に「常陸国飛護念神に従五位下を授ける」との記事がある、いわゆる式外社「飛護念神社(ひこねじんじゃ)」を合祀した神社であるとされている。式外社「飛護念神社」は、その後の公式記録等に登場せず、水戸藩第2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)が漸く探し当てたが、極めて衰退していた。そこで、元禄9年(1696年)、「刺賀飛護念社(しがひこねしゃ)」に「先後稲荷明神(まつのちいなりみょうじん」」を引き「十日稲荷(とうかいなり)」を合わせて、「日本三社稲荷明神」とした、とされる。大正3年に村内の「石上神社」を合社し、「石船神社」と改称したが、「刺賀飛護念社」の祭神である「大物主命」・「事代主命」・「武雷男命」の3神が神社明細帳より抜けていたとして昭和17年に訂正した。次いで、昭和19年には、全社名を伝えようと、「石」、「飛護念」、「稲荷」を合わせた「石飛護念稲荷神社」と改称願いを出したが、終戦によりそのままになってしまった、という。合併した「石上神社」の社殿(小祠だが)が別にあって境内社のような形だが、「稲荷神社」でなく、何故「石船神社」と改号したのか、よくわからない。そもそも、「飛護念神」って、どうしてそういう名になっているのだろうか? 
さて、上記のような事情で、現在の祭神は「保食命」・「鳥石楠船神」・「大物主命」・「事代主命」・「武雷男命」となっている。ところが、河野辰雄著「常陸国風土記の探求 下」(1981年)では、「社記によると、天津彦根命が祭神になっている…」と書いてある。「社記」と合致しているか不明だが、更に「新編常陸国誌」を引いて、「飛護念は比古弥と読んで、彦根の字を当てているが、これは天津彦根命のことで、茨城国造の祖であったから、その管内に祭ったものであろう。」と記されている旨を紹介している。「天津彦根命」(アマツヒコネ、「古事記」では「天津日子根命」)は、アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラスの玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。そして、「古事記」では「天津日子根命は茨木国造の祖」とあり、「国造本紀」では「天津彦根命の孫・筑紫刀禰(ツクシトネ)を茨城国造に定め賜う」、「新撰姓氏録」では「茨城国造天津彦根命12世の孫、建許呂命(タケコロ)」、「常陸国風土記」では「茨城国造の初祖・建祁許呂命(タケコロ)」となっており、茨城国造の初代が誰か、ということについては一定しないが、「天津彦根命」が茨城国造家の祖先神であることは確かなようである。であれば、「茨城郡」に「天津彦根命」を祀って「ヒコネ神社」とすることは大いにあり得る。長い月日の後に、当神社の所在そのものが不明となるようなことがあったので、祭神がわからなくなったこともあり得るだろう。それでも、どうして「飛護念」という字を当てたかという疑問は不明のままである。
それにしても、式内社に比べて式外社の研究は極めて少ない。どなたか奇特な方の研究を待ちたい。


写真1:「石船神社」境内入口の鳥居と社号標。社号標は2つあって、向かって右が「村社 石舩神社」、左が「正一位 日本三社稲荷大明神」。


写真2:正面の社殿


写真3:写真2の左手にある「石船神社」。祭神の「鳥石楠船神(トリノイワクスフネ)」は別名:天鳥船神とも言い、「古事記」では建御雷神の副使として葦原中国に派遣された神とされる。


写真4:境内の「如意輪観音堂」(?)






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