独り合点(ひとりがてん)

きもの業界をステージとした、ビジネスと生活スタイル、および近況。

大晦日

2006-12-31 | きもの

今年はいつもと違うよ、と晦日まで連日振袖客が殺到している余波で、BIG WAVE新年号の直次の原稿ができない。ようやく昨晩出来上がりました。といっても翻訳が必要なので、朝から予定を2つ、3つ飛ばして会社へ。何とかまとめ、ギリギリ宅急便へ。大晦日出社したのは、初めて。それにしても愛染蔵、たけうちの倒産があったが、最後にどうやら良い風が吹き始めたようで、振袖、七五三以外の普通の?訪問着、小紋、付け下げ、紬などを求める新規のお客様がよく来るようになったという。 来年は、もっと着物を着る人が増えると思う。しかしこのお客様に支持されるには、並大抵の努力では足りないと思う。よくきく《聞く、聴く、訊く》が必要で、よく《見る、観る、診る、視る、看る》も必要。そして何よりお客様に学び、モノからさらにコトへと、お客様と一緒にスタイル(商品+着る知恵)を作ってゆく職商人(しょくあきんど)になってゆかなかればならない時代なのだと思う。

お陰さまで、仕事も厳しいながら何とか新たな可能性を見出せたし、家族全員健康で過ごすことができました。皆さん、ありがとうございました。

どうぞ良いお年をお迎え下さい。


有精卵と無精卵

2006-12-28 | きもの

人材教育をお願いしている鈴野先生と暮れも押し迫って、来期打ち合わせ。もう6年も同じ鈴野先生にむらさきのグループの社員研修をお願いしているが、今年ほど、継続して同じ先生、同じ生徒で続けるすごさを実感したことはない。竹の子が伸びるように、本当に湯気を出さんばかりに伸びているのが、研修の最中にもヒシヒシと伝わり、ゾクゾクしてしまう。大概の人は、同じ先生じゃなく、変えようよ!という。いま流行の、いまを学びたい、というのもわかるのですが、14geはじめ数人の支持を得て、鈴野先生でやり続けてきて、我慢のしがいがあった、そう実感した1年でした。

呉服店経営に限らないだろうが、社員の質は問題。よい人材を採用し、専門知識などを教育して、適材適所に配置して、とは思うのですが、採用することも、教育することもなかなか難しい。そんな話の折に「有精卵、無精卵って知っている。無精卵は幾ら温めても雛にはならないのよね。人にも有精卵と無精卵とタイプがあって、無精卵を幾ら教育しても、無駄!」と取り付く島もないクールな言葉。確かに取引先でも、有精卵と無精卵に人材を選り分け、新陳代謝を活発に行っている会社は伸びている。人は変る。いつか気付いて、と思うし、そう信じて人と対してきたが、「そうか!やっぱり」と一瞬、学ばせることの、教えることの無力さを感じてしまった。でもやはり期待しよう、いつか、気付いてくれる。気付かないはずがないさ、と。


ふかひれ!

2006-12-27 | 広告

何年かぶりに福臨門にいった。香港の超有名高級店で、F社長に1度香港のお店に招待いただいたが、当時はすごさが分からなかった。その後日本に初めての支店ができ、何回か行ったがご招待なので、おいしかった!程度だった。あるとき、京都祇園の名物女将?のTさんと食事することになり、中華ということで福臨門に。「わては軽く…」と注文したのが鮑と青菜。えっ!そんなのでいいのと思い、同じものを頼んで美味しいな、とは思ったものの、いまいち物足りなかったのですが、会計したときに、ギョッ!エッ!2品しか頼んでないのに何でこの金額と、なんとかギリギリセーフで焦ったことがあった。

それ以来。場所も銀座のはずれから、ど真ん中に。福臨門はふかひれ、鮑、ツバメの巣の中華料理の三大珍味がハイレベルで味わえるというお店。どのようにメニューを組み立てようか、普通にコースで頼んでしまえば、3種類を味わえるのだが、なにか醍醐味がない。で、今晩は予算の半分を思い切ってふかひれに使い、メニューを組み立ててみました。前菜は、くらげの冷菜とチャーシュ。巻きえびのボイル。香港では紹興酒でボイルしてあって美味しかったが、福臨門はあっさりした塩気がえびの味を引き立てっていい。北京ダッグ半身。メインのふかひれ。青菜。ここまではよかったが、若手に押され、マーボ豆腐、チヤーハン、となると少し計算外。年齢が違うから…・それにしても美味だった。美味を食しながら会話していたら、絶対戦争なんて起こらない。だから、食べることにもっと懸命になって欲しいもの。今度、こんな美味しいものを紹介するよ、絶対食べてみて!そういうエネルギーが欲しい。


寺尾 聰

2006-12-26 | きもの

好きな俳優の1人が寺尾 聰。というよりグループサウンズ「ザ・サベージ」の時代からで、名曲「いつまでもいつまでも」は数少ない私のカラオケで歌える歌。その寺尾 聰が、大ヒットした「ルビーの指輪」が収録されているファーストアルバム「リフレクションズ」を25年ぶりに全曲再レコーディングしてリメイクして発売するというニュースを聞き、懐かしく当時を思い出した。

25年前、1981年、十日町のF商事のA専務と一緒に、何とか裕次郎のディナーショーを実現したくて、石原プロに通っていた時期でした。というのは、呉服業界は大掛かりなイベントがブームで、F商事でも森進一、五木ひろし、八代亜季など大物歌手を次々と企画してきたので、次は美空ひばりか、裕次郎しかいなくなり、裕次郎に絞って交渉していたのですが、何度目かのとき、「白紙小切手を切って、いつでも…」といわれても「ウン!」といわないのだから、もう諦めなさいと引導をわたされ、すっかりしょげてしまった。かわいそうに思ったのか、話の流れだったのか石原プロのK専務が、舘ひろしか、寺尾 聰はどうだ、と提案され、宇野重吉ファンのA専務は寺尾 聰に即決。A専務は、きっと寺尾 聰の歌なんか聴いていなかったと思うのですが、2人とも当時TV番組「西部警察」で人気でしたが、私は呉服店の50,60歳というご婦人方に合うんだろうかとの危惧もあったのですが、ニューオータニの宴会場を幾つも借りての大イベントの中の1つなので、新機軸でも大丈夫だろうと、A専務は判断したようです。当時、寺尾 聰はハードボイルドな役柄のイメージが強く、こんなアルバムを出すなんて思いもよらなかった。裕次郎はこのアルバムを聞いたとき「お経みたいな曲だな」と言ったとか言わないとか噂があったが、石原プロの中でも曲の評価は余り高くなかったようです。こちらも余り期待はしなかったのですが、出演を決めた以上面白いものにしようと、先ずアルバムをいつも持ち歩いて何百回と聞いたかな、その上で数度寺尾 聰と会ったのですが、A専務共々惚れ惚れするようなカッコよさに舞い上がってしまった。話の中味は覚えていないのですが、お母さんや宇野重吉にまつわるきものの話も面白かった記憶がある。そんな話を交えながら、ショーを進めたいと話したのですが、柔らかに、しかし断固として自分の音楽スタイルで進めたいと断られてしまった。

A専務の勘はすごく、出演を決めてからアレヨアレヨと言う間に「ルビーの指輪」が大ヒットし、連日ラジオで聞かない日はなかったくらいで、その年のレコード大賞をはじめ、各賞をそうなめ。秋口に開催したニューオータニ・鶴の間でのデイナーショーは大変話題になり、人気もすごかったのですが、なにせ着物を着た50代、60代のご婦人方には、ルビーの指輪以外アルバムのそのほかの曲にはなじみがなく、全体に盛り上がらなかった記憶があります。しかしニューオータニに、昼夜合わせて5000人も集めたビッグイベントは、私も最初で最後。スタッフ共々徹夜しても準備が間に合わず、ギリギリでオープンした記憶があります。この準備のとき、真夜中に「一竹辻が花事件」という、これも私にエポックとなった大事件があり、一層の混乱をしたのも徹夜の原因だったのですが、その話はいつか。でも今から考えても、たかだか10人にも満たない我が社にこのような仕事を任せてくれたA専務には大感謝ですが、よくできたものだと自分でも感心します。今ならできないだろうな。当時の一流を集めた多彩なイベントは、F商事のF社長から後日、主なスタッフを海外にご招待いただくほどの大成功でしたが、この年を最後に大掛かりなイベントはF商事もそうでしたが、業界からも徐々になくなっていったようです。

リメイクされた「リフレクションズ」聴いたらどんな思いがわきあがるのか、いまから楽しみです。ちなみにアルバムの中で一番好きな曲は「出航」です。


思い出の街

2006-12-25 | きもの
我が家の娘も成人式ですが、契約している女優の美波も成人式。この半年間、美波が自分でデザインした振袖を成人式に着たい、ということで京都むらさきののプロデューサー永山氏に応援してもらいながら、ああだ!こうだ!と言いながら最終決定した振袖が、年末ギリギリに出来上がってきた。で今日、舞台公演で大阪に来ている美波に出来上がりのご披露。永山氏の電話で「出来上がりは素晴らしいよ!」とは聞いていたものの、美波が実際にOK出すまで、時間がないだけにハラハラ、ドキドキ。美波、見た瞬間「わー、すごい!」と感嘆しきり。振袖をまとい、帯や小物を合わせてゆくに従い、顔がどんどん輝いてくる。振袖以上に帯はギリギリで、京都からSさんが織り上がりを手持ちしてきてもらったほど。すごい!すごい!の感激の声にようやく、永山氏、sさんと顔を見合わせ、ホッ!Sさん、美波の注文、業界常識外だったので、イメージするのが大変だったとのこと。1月4日には、この振袖を着て、二十歳のプレス発表をすることになっていただけに、こんなにも喜んでもらい、こちらも嬉しい。ぜひ1月5日のスポーツ紙見てください。

衣装合わせのあと、余韻を楽しみながらロビーでコーヒーを飲んでいたのですが、時間も中途半端だし、今日は飲みに行こうと3人で連れ立って外へ。大阪に詳しい永山氏が、心斎橋から御堂筋を歩こうと梅田方向へ。御堂筋はすっかり銀杏の葉も落ち、冬景色ですが、冬至を過ぎたからなのか、夕景色もどこか春めいて見える。永山氏は、新入社員の頃志願して、大阪の小売店回りをしたので、心斎橋や船場、淀屋橋は懐かしい場所で、当時の思いにふけっていて、やたら快調。30分も歩き、淀屋橋に近づいた頃、私もSさんもいい加減にお店に入ろうよ、と思いSさんが「私京都に帰るので、京阪淀屋橋がいいのですが…」「大阪名物、串かつ食べたい…」とフェイントをかけたが、永山氏の足は止まらない。さらに中ノ島、堂島、日銀前、北の新地と過ぎ、結局梅田までたっぷり1時間、3人とも汗ばむほどに歩きヘタヘタ。とにかく座りたい。ようやく阪急3番街のぶらり横丁で、馬刺しに誘惑されて飲み屋に飛び込んでビールをグッと飲んでようやく落ちついた。何で、大阪で馬刺しなの。Sさんと飲むのは初めてで、「仕事と私とどっちが大事」と迫られて、困った挙句に離婚して、再婚した経緯があるのも初めて聞いた。また永山氏とも15年にもなり、天才永山のイメージを実際に帯にするのは難しく、随分と苦労したが、楽しかったともSさん。そんな話をしながら、今度こんなの作ろうね、と話は際限なく広がってゆく。来年はもっともっと面白い仕事が出来そうで、大いに盛り上り、最終近くまで気持ちよく飲んで、東京へ。久し振りに歩きに歩いた1日でした。そういえばと、帰りの新幹線の車中で、私も梅田から御堂筋を学生時代に付き合っていた女の子と歩いたのを、ほろ苦さと共に思い出した。今頃、どうしているだろう。

ジャズときもの

2006-12-24 | きもの

エッ~?!クリスマスイブに横浜でライブ?っと一瞬渋ってはみたものの、野球小僧もアラレも例によって練習でいないし、まぁ予定があるわけではないし、とはいえ…。でも1年生社員のKさんの「とってもとっても素敵な人。ぜひ聴いて欲しい。それに私がコーデイネイトした着物を着てジャズを歌うの。ぜひ見て欲しい!」という熱意に負け、横浜に。ライブが好きなデザイナーのOさんと一緒。誘われたら、行ってみよう、覗いてみようと好奇心旺盛なOさんとは、腰が軽いところは私と似ている。いつもなら赤レンガ倉庫へは横浜駅から5分で行けるところなので、まあ混んでも30分と思ったらこれが大間違え。歩くより遅いタクシーに途中から降りて、駆け足で会場に。何とか5分前に滑り込み、汗だく!デートスポットとはいえ、こんなに混んでいるなんて思わなかった。

「クリスマスに着物でジャズって素敵じゃない」とMAYAさん。1部は、白の大島紬を着て登場。初めてのライブなので、いつもがわかりませんが、着物を意識した動きが案外いい。確かに着物姿でジャズ、まったく違和感なく、かえって新鮮。ホワイトクリスマスをアラビア語で歌ったり、男と女をポルトガル語で歌ったりと最新CD「kiss of Fire」では6ヶ国語で歌っているというが、どこからこんな発想が生まれたのだろうか。どの言葉で歌っても語感が心地よく聴ける。最前列に席を取ったら、丁度お母さんや叔母さん、おばあちゃんという身内の隣り。「今日のために踊りの先生に所作や動きを習ったのよ」とは叔母さん。「案外着物が好きになっちゃってね。似合うでしょ」とは着物姿のお母さん。(つづく)


今日は、祝日!

2006-12-23 | きもの

昨日は冬至。まったく意識もなく、やっとこさ親子3人時間を合わせ、野球小僧の遠征の靴やらなにやら買いに子供者が揃っているので、ららぽーと豊洲に行ったのですが、着いたのがもう8時前。9時の閉店は厳しいかなと思いながら買い物に。しかしちょっと前までは何でもハイハイだっのが、いろいろ注文をつけるようになり、遅々として進まない。第二の新宿といいながら9時閉店はないんじゃないの、、せめて10時までは営業して欲しい、なんて勝手なことをいいながらバタバタしたが、幾点か買い物がこぼれてしまった。そんな訳で、かぼちゃも柚子もなく、冬至どころではなかった。しかし、今日から日1日と陽が長くなるかと思うと、何かほっとする。

今日は10時から誰もいないS社で1人仕事をしているA社長を尋ねて打合せ。1人、,2人くらい社員がいると思ったが全くの社長1人で、お互いに今日が祝日というのを全く意識していないんじゃない、と苦笑い。しかもA社長はこれから銚子の14geまで出張とのコト。打合せを終え、私も会社に戻り、年末恒例の雑誌整理。スペースがないもので、バックナンバーをもう1回読み直し、必要そうな記事を切り抜き、後は捨てる。今日は家庭画報の1999年、2004年の2年分に目を通したが、1999年はキモノの記事がすごく少なく、檀ふみの「この作家、このきもの」という3ページの連載だけで、1年間きものの記事は合わせても50ページにも満たない。総ページ数5000ページもあるのに。この年きもの業界にどんなことがあったのか、記憶にないが、そこまできものが注目されない年があったのには、改めて驚いてしまった。わずか24冊ですが、懐かしい記事や面白い記事を読みながらなので、思いがけずに3時間もかかってしまった。本当に今年も押し迫ってきたな、と実感。


千枚漬

2006-12-22 | 月刊アレコレ

14geが京都へ出張するということで、さりげなく好物…とメールした千枚漬が今日届いた。「うれしい!ごちそうさま」。送って頂いたのは、料亭仕様の高級千枚漬で、おめでたい紅白のセット。赤カブの千枚漬は初めて。やはり最初はオーソドックスに白い千枚漬を肴にビールを飲み始めたが、味のニュアンスが違うので日本酒に変えて、ほのかな甘みと塩気加減の微妙な味わいを楽し見ながら、このブログを書いています。

漬物は何でも大好き。しかし、アラレは食べるのは好きだが、作るのは下手。何度もチャレンジして、といっても数回糠床を作ったが見事に失敗。本人はマンションだからといっているが、どうも本気に欠ける。新婚の頃お新香に飢え、あちらこちらで訴えたら、ど~んとお新香を送られ、さすがに食べきれずに往生したことがあった。そういえば当社創業以来20年間、美しいキモノの広告担当で親しかったMさんの道楽は、お新香作り。お新香の話で盛り上がって、下の喫茶店でコーヒー飲みながらお新香を試食したり、親しい飲み屋に持参で飲みにいったりした懐かしい記憶がある。Mさんは早期退職して、お新香道に勤しむ、と言っていたが、今頃どうしているんだろう。ホロホロと良い酔い加減。明日の朝食はご飯に千枚漬でとは思うものの、さてさて6時起き大丈夫だろうか。


そういう時代か!

2006-12-20 | 月刊アレコレ
青島幸男、岸田今日子、僕らの時代をリードして濃厚に生きてきた人たちが今日死んだ。ある年代までは訃報なんて全く気にもならず、縁遠い世界だったはず。でも最近訃報を見る度に、何かとっても大切な自分の1部が消えてゆくような寂しさを感じる。世代交代というけれど、確実に時代が変ってゆく。悲しさより寂しさを感じる、宵です。

暮らしの文化

2006-12-18 | きもの

わが地元の人形町や月島、先週行った浅草などの下町は、表参道、青山、銀座のイルミネーションのクリスマス景色と違い、歳末セール。飾りも紅白の雪洞提灯に謹賀新年。抽選会は現金のつかみ取り。昔懐かしい歳末、歳の市の風景。普段のお店もおせち料理の材料やご馳走など、店頭には正月支度の品々が並んでいる。月島には、いまや探してもなかなか見つからない乾物屋が結構アル。来週にはお正月の注連飾りを売る屋台が軒を連ね、町は最後の正月支度に。

お正月の準備は本当に多岐にわたる。子供の頃はみんなお手伝いをしたもので、大掃除のガラス磨きや障子張り、買出しの荷物もち。結構細々したものを忘れ、何回も買いに行かされ、普段ならブウブウ言うところなのだが、お年玉の額が少しは上がるかもと健気にその度お使いに行ったもんです。夜は夜で、数の子の薄い膜を楊枝でカタチを壊さないように丁寧に取ったり、ごまめのはらわたを取ることや鰹節を大量に削ったりと、子供も結構沢山手伝ったように思うが、思い返してみれば、みんな親と一緒にやっているので最後までやった記憶がない。しかし鰹節削りだけはイヤになるくらいやらされて、爪も一緒に削ったり、指を削ったこともあった。様々な手伝いをしながら、両親との何気ない会話やひと段落したときのお茶など、いま思えば家族との濃密な時間だった。紅白を家族揃って見ながら、好きな歌手のことやアレコレ1人前に話しながら、紅白の終盤頃には年越しの蕎麦を妹や弟は、ウツラウツラしながら食べ、やがては除夜の鐘。実家の横須賀は港が多いので、船の汽笛が一斉に鳴り響く。そんな積み重ねが我が家の正月のスタイルで、どの家当時はみんな似たようなもので、それが普通の町家のお正月の文化だったように思う。

いまや手間がかかるが人気のおせちは、デパートやスーパー、コンビニで買うものになってしまった。準備の手間隙や手数を考えれば、仕方ないかも。だからかいつしか、お正月支度も段々と簡略、合理化され、スーパーが元旦の営業をするようになった頃から、急速にお正月支度の品々が1つ1つ店頭から消えはじめ、さらには売る店さえなくなりつつある。年の瀬の賑わいもだいぶ様相が変ってきた。大げさに言えば「準備してお正月を迎える、お正月の文化」がなくなりつつある。お正月支度に手間隙をかけるより、お正月支度も出来ないくらい忙しい毎日に区切りがつかず、カンタンにか、買い揃えなければ間に合わない時代なのか。親子で、家族でお正月支度をしながら過ごす「濃厚な時間」は失われ、カタチだけのお正月になり、やがてはカタチさえも消えていってしまうのではないかと危惧する。それを選んできたのは私達1人1人なのだが、ここらで真剣に暮らしを考えないと、子供達の時代にはお正月文化は消え、普通の休暇になってしまうかも。