恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

色と空

2017年03月20日 | 日記
 日本でお経と言えば、突出して有名なのが般若心経でしょう。その心経の中で最も人口に膾炙しているフレーズが、「色即是空 空即是色」だと思います。

 常識的な解釈だと、「色」とは物体とか現象など、人間が経験として認識できる事象の意味であり、「空」とは、そのような事象がそれ自体として実体的に存在していないこと、換言すれば、それ自体に存在根拠を持たないまま現前していることを意味しています。大乗仏教は、そのような存在の仕方をさらに「縁起」というアイデアで説明するわけです。

 このとき、「色即是空」は、「色は即ち空である」と読み下して、およそこの世のすべての事象は、実体としてではなく、そのように存在する根拠を欠いたまま現前している、という具合に解釈できるでしょう。

 問題は、「空即是色」です。まず「空は即ち色である」と読み下すと、当然ながら「空」が主語となります。そうなると、読み手は「空」なる何ものかがある、と考えたくなります。その「空」がそのまま「色」だということになると、「空」からすべての事象が現れ出てくるように思われがちです。これをさらに、「空」は有でも無でもない、有無を超えた真理なのだなどと言い出せば、ほとんどブラフマ二ズムの語り口と変わりません。

 ここは、「空即是色」の読み方を変えるべきです。ナーガールジュナ的な「空」のアイデアにより忠実に解釈すれば、「空」は「色」に即して、あるいは「色」においてのみ考えることができる、程度に解すべきでしょう。

「空」そのものなど、あるはずがない。「空」は、仏教が事象の「在り方」を説明するアイデアなのです。事象が実体をもたないまま現前している、その現前の仕方に「即して」「おいて」「ついて」語るときにのみ有効なのであって、「空」それ自体が何なのか意味づけたとたん、実体化して形而上学的理念に転化してしまうでしょう。これは、「無常」「無我」の教えからして、厳に斥けるべき考えです。