所用でせたな町へ車を走らせる。国道5号から長万部町国縫経由で片道約150km、始めの頃はこの長時間の運転は苦痛だったが、慣れというのは恐ろしいもので最近は「今日はちょっとせたな町へ行ってくるわ...。」といった感じでそれほど苦にもならずに出掛けることが出来る。しかし、慣れすぎは禁物...、常に安全運転に気を遣っているつもりでいる...。
せたな町瀬棚総合支所(旧瀬棚町役場)前に女性の銅像がある。これまでは気にかけずにいたのだが、近寄ってみると日本最初の女医といわれる「荻野吟子(おぎのぎんこ)女史」の像...。なんで日本最初の女医が瀬棚町に...、ということを役場で訪ねると、リーフレットを見せて貰いながら説明を聞いた。
埼玉県生まれの女史は、最初の結婚で夫から移された性病治療の際、男性の医師より診療を受けた羞恥で強く心が傷つき、女医を目指す決心をした。しかし、先例がないということで苦難の道を歩みながらも1885年(明治18)医術開業試験に合格し、東京本郷で開業、ここに日本で初めての女性医師となった。
その後、現在の今金町神丘に理想郷の建設を計画して入植した再婚した夫の後を追って東京から移住、1897年(明治30年)には瀬棚で「産科・小児科荻野病院」を開業。以来、11年間にわたって瀬棚で医療はもとより婦人会活動などで地域に貢献した。(瀬棚町教育委員会作成のリーフレットから)
当時の瀬棚町では、その功績をたたえ1967年(昭和42年)に顕彰碑を建立、現在は荻野吟子公園として町民の憩いの場となっている。また、顕彰碑のそばにある医療センターは「荻野吟子記念医療センター」と名付けたとのこと。
女史は、夫の死亡により1908年(明治41)に東京に戻り医業に従事したそうだが、その傍ら婦人運動やキリスト教の布教などに活躍された、1913年(大正2年)62才で永眠。
最初は何故せたな町に女史の銅像がと良く理解できなかったが、話を聞いて立派なリーフレットを作り、郷土資料館には女史の貴重な遺品や資料が常設展示されているという意義が理解できた。町民は、女史の功績を誇りとし、讃えているのだ...。それにしても意外なことを知ることが出来た。是非機会を見つけて郷土資料館も訪ねてみたい...。
せたな町瀬棚総合支所(旧瀬棚町役場)前に女性の銅像がある。これまでは気にかけずにいたのだが、近寄ってみると日本最初の女医といわれる「荻野吟子(おぎのぎんこ)女史」の像...。なんで日本最初の女医が瀬棚町に...、ということを役場で訪ねると、リーフレットを見せて貰いながら説明を聞いた。
埼玉県生まれの女史は、最初の結婚で夫から移された性病治療の際、男性の医師より診療を受けた羞恥で強く心が傷つき、女医を目指す決心をした。しかし、先例がないということで苦難の道を歩みながらも1885年(明治18)医術開業試験に合格し、東京本郷で開業、ここに日本で初めての女性医師となった。
その後、現在の今金町神丘に理想郷の建設を計画して入植した再婚した夫の後を追って東京から移住、1897年(明治30年)には瀬棚で「産科・小児科荻野病院」を開業。以来、11年間にわたって瀬棚で医療はもとより婦人会活動などで地域に貢献した。(瀬棚町教育委員会作成のリーフレットから)
当時の瀬棚町では、その功績をたたえ1967年(昭和42年)に顕彰碑を建立、現在は荻野吟子公園として町民の憩いの場となっている。また、顕彰碑のそばにある医療センターは「荻野吟子記念医療センター」と名付けたとのこと。
女史は、夫の死亡により1908年(明治41)に東京に戻り医業に従事したそうだが、その傍ら婦人運動やキリスト教の布教などに活躍された、1913年(大正2年)62才で永眠。
最初は何故せたな町に女史の銅像がと良く理解できなかったが、話を聞いて立派なリーフレットを作り、郷土資料館には女史の貴重な遺品や資料が常設展示されているという意義が理解できた。町民は、女史の功績を誇りとし、讃えているのだ...。それにしても意外なことを知ることが出来た。是非機会を見つけて郷土資料館も訪ねてみたい...。