6月の長官・所長会同で若手裁判官の育成について話し合われた。その中で,裁判員裁判については,刑事裁判に抜本的変革をもたらすものであるとの前提の下に,「裁判官には,専門的知識や技量とともに国民の信頼に足りる人間的な力量が求められるところ,裁判員裁判に積極的に関与していくことによって,これらの資質・能力が養われることになるので,裁判員裁判は若手裁判官の格好のトレーニングの場となるとの認識が示された」という(平成20年7月15日裁判所時報)。
当ブログでも,瑞祥氏がこの認識について,「もっともなこと」として賛意を表している(8月9日)。
しかしながら,私は,この「認識」に,何か喉に子骨がひっかかるような違和感を覚えるのである。
裁判員裁判は,「裁判官のトレーニングの場か」と批判するつもりはない。それは揚げ足とりというものであろう。
「裁判官には国民の信頼に足りる人間的な力量が求められる」という。これを裁判員裁判の文脈で考えてみると,何か,裁判員より一段上に立ち,教え,説得し,指導する「裁判官像」が前提になっているように思われる。そこには,裁判員裁判に求められる大切な姿勢,すなわち,裁判員の人生経験,社会経験その他様々な人間的な経験に基づくものの見方,考え方,洞察力そういったものをかみしめ・学ぶ姿勢がすぽっと抜け落ちている。
もちろん,裁判官が裁判員を説得する場面もあり得よう。しかし,裁判員裁判は,社会経験に富んだ裁判員の健全で柔軟な意見・感覚が事件判断に加味され,両者が協同することで,これまでの職業裁判官だけによる裁判よりも質の高い裁判をめざすものである。そのためには,裁判官も,謙虚な気持ちで,裁判員の意見・感覚から学ぶ姿勢が不可欠である。これは,従前の裁判官には必ずしも求められなかった。裁判員制度創設によって,はじめて,この点の裁判官の意識改革がクローズアップされてきているのである。若手裁判官の育成を議論するなら,この点こそが肝要ではないだろうか。
裁判員裁判は,裁判員に多大な負担をかける制度である。反対論者は,国民の負担感や不安感を最大限にあおり,この制度を延期ないし廃止に追い込もうと必死である。
また,反対論者の中には,裁判員裁判は,裁判員を隠れ蓑にして,従前通りの官僚的裁判を維持しようとする「陰謀」であるかのようにいうものもいる。
これら反対論者に,足をすくわれてはならない。
国民には,「ご負担をおかけしますが,皆さんのお力を借りて,それを補って余りある『よき裁判』を実現するためののものです。どうかご協力を」とお願いしなければならない。
反対論者の「隠れ蓑論」をうち破るためには,裁判官自身が,本気で,自らの判断力の限界を自覚した上で,裁判員から虚心に学ぶ姿勢をもって,裁判員裁判に臨む必要がある。
今,裁判官には,若手だけでなく,中堅,ベテランにも,裁判に臨む姿勢のコペルニクス的転換が求められているのである。(蕪勢)
当ブログでも,瑞祥氏がこの認識について,「もっともなこと」として賛意を表している(8月9日)。
しかしながら,私は,この「認識」に,何か喉に子骨がひっかかるような違和感を覚えるのである。
裁判員裁判は,「裁判官のトレーニングの場か」と批判するつもりはない。それは揚げ足とりというものであろう。
「裁判官には国民の信頼に足りる人間的な力量が求められる」という。これを裁判員裁判の文脈で考えてみると,何か,裁判員より一段上に立ち,教え,説得し,指導する「裁判官像」が前提になっているように思われる。そこには,裁判員裁判に求められる大切な姿勢,すなわち,裁判員の人生経験,社会経験その他様々な人間的な経験に基づくものの見方,考え方,洞察力そういったものをかみしめ・学ぶ姿勢がすぽっと抜け落ちている。
もちろん,裁判官が裁判員を説得する場面もあり得よう。しかし,裁判員裁判は,社会経験に富んだ裁判員の健全で柔軟な意見・感覚が事件判断に加味され,両者が協同することで,これまでの職業裁判官だけによる裁判よりも質の高い裁判をめざすものである。そのためには,裁判官も,謙虚な気持ちで,裁判員の意見・感覚から学ぶ姿勢が不可欠である。これは,従前の裁判官には必ずしも求められなかった。裁判員制度創設によって,はじめて,この点の裁判官の意識改革がクローズアップされてきているのである。若手裁判官の育成を議論するなら,この点こそが肝要ではないだろうか。
裁判員裁判は,裁判員に多大な負担をかける制度である。反対論者は,国民の負担感や不安感を最大限にあおり,この制度を延期ないし廃止に追い込もうと必死である。
また,反対論者の中には,裁判員裁判は,裁判員を隠れ蓑にして,従前通りの官僚的裁判を維持しようとする「陰謀」であるかのようにいうものもいる。
これら反対論者に,足をすくわれてはならない。
国民には,「ご負担をおかけしますが,皆さんのお力を借りて,それを補って余りある『よき裁判』を実現するためののものです。どうかご協力を」とお願いしなければならない。
反対論者の「隠れ蓑論」をうち破るためには,裁判官自身が,本気で,自らの判断力の限界を自覚した上で,裁判員から虚心に学ぶ姿勢をもって,裁判員裁判に臨む必要がある。
今,裁判官には,若手だけでなく,中堅,ベテランにも,裁判に臨む姿勢のコペルニクス的転換が求められているのである。(蕪勢)
すでに2年前に掲載された「素朴な疑問」と題する
投稿に、「裁判員制度のもとでは,裁判員との評議の結果,死刑相当ということで死刑が宣告された事件で,被告人が量刑不当を理由に控訴した場合,控訴審では破棄・差し戻しあるいは破棄・自判というようなことが結構起こりうるのでしょうか。その場合,一生懸命議論して結論を出した裁判員の方々は自分たちのやったことはなんだったのか,なんて虚しい気持ちにならないものでしょうか。ましてや,高裁の判決が従来どおりの量刑相場を踏襲したものであったとすれば・・・・」との質問があり、その以前にも「裁判員が関与する裁判でも上訴権はあるのでしょうか?たぶんあると思うのですが、「私の視点、私の感覚、私の言葉で参加」しても、その結論が職業裁判官のみで審理される上級審で否定されると、制度そのものの意義に疑問が生じます。三審制とのかねあいがあるとは思いますが、裁判員制度の趣旨が尊重されるような上訴制度の構築はできないのでしょうか?」という投稿がある。せっかく一般国民に、裁判員制度への理解を求める目的で開かれたはずのページが、その後、ほとんど鳴りをひそめてしまい、外からの投稿も絶えてしまったのは、なぜか。現職裁判官である会員の場合、発言に制約がつきまとうのは、やむを得ないが、自由に発言できるはずのサポーターからも、外からの問いかけに答える努力が示されず、質問を黙殺した形になっているのは、やはりおかしいのではないか。国民に対して負担を求めるなら、まじめな問いに答える努力を惜しむべきではない。
蕪勢さんは裁判員法の問題点を指摘する意見を、反対論者とか否定論者とかいう言葉で一くくりにされるようだが、これは認識不足というべきで、大部分の論者は国会が議決した法の不備や欠陥を指摘し、それが裁判員制度の挫折をもたらすと予見しているに過ぎず、何も職業裁判官以外の一般社会人が裁判に関与することの必要性や有益性をカテゴーリッシュに否定している訳ではない(多分「頭から」という日本語をドイツ語ではこういうのだろうと思って、えらそうに使ってみた。間違っていたら、お笑いください)。
蕪勢さんのような言い方をされると、木谷さんも否定論者として分類されそうになるが、それはおそらく
本人の意に反するだろう。
もう一つ、最高裁などの見解として報道されているものに「裁判員制度における障害者施策の検討に際して、最高裁判所では外部の障害当事者等を交えた検討委員会等の設置は考えていない。」および「図面・写真や証拠の録音テープなどを見聞きすることが事実認定に不可欠な場合は、裁判員法の欠格事由に当たるとして視覚・聴覚障害者を選任しないケースもあり得る」というのがありますが、これには当然(?)「答える任にない」という回答でした。それはやむ得ないとしても、前者は当事者の発言を尊重すべきという昨今の流れに反するものですし、後者はほとんどすべての視聴覚障害者を締め出す論拠となりかねないものです。これらの見解が公式のものであれば最高裁は裁判員に関するウェブページなりに掲載すべきですし、そうでなくても早急になんらかの見解を明らかにすべきです。
検察審査会では多くの欠格条項に先んじて絶対的欠格条項を廃止しましたが、それを踏まえている規定の裁判官制度がこの状態では、文字通り「仏作って魂入れず」であると言わねばならないかもしれません。
>反対論者は,国民の負担感や不安感を最大限にあおり,この制度を延期ないし廃止に追い込もうと必死である。
>これら反対論者に,足をすくわれてはならない。
まるで独裁国家ような物言いですね。
何も、あなたがた法曹関係者の間だけで、賛成反対とやっているのではありません。
国民は、その結果をありがたく受け入れるというものではないのはお分かりの筈。
わたしら一般国民にも、この制度のおかしな所への反対意見はあるのです。
自分の意見と異なるものは”悪”と言わんばかりの記事には、残念というほかありません。