日本裁判官ネットワークブログ
日本裁判官ネットワークのブログです。
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このブログは、日本裁判官ネットワークという司法改革について発言する現職裁判官メンバーと、元裁判官サポーターによる共同執筆です。投稿は各個人の見解であり、日本裁判官ネットワークという団体の公式見解などではありません。メンバーもサポーターも、種々多忙なため、なかなかうまく更新できませんが、どうか長い目で見てください。今後ともよろしくお願いします。



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gooブログの仕様変更により、広告が表示されるようになりました。ブログ記事の内容との関連性から、弁護士事務所の広告等が表示されるようです。申すまでも無いと思いますが、これは日本裁判官ネットワークとして選定した広告が掲載されているわけではありません。広告に表示された法律事務所を当ネットワークが推奨しているなどと言うことはありません。どうぞご理解ください。



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先日、法廷での弁論を終えて、裁判官室に戻ろうとすると、立ち会っていただいた主任書記官が
「先ほどの裁判官の強制執行についての説明ですが、よいのでしょうか?」と話しかけてきました。
私は、何のことかわからず「えっ、何か間違ったことを言いましたか?」と逆にお聞きしたところ、どうやら、書記官は、私が出頭したきた被告に対して、調書判決の効力について、強制執行されることがあり、その対象が不動産、預貯金や給料などであることを説明した際、不安がる被告に対し「まあ、そうはいっても預金とかがなければどうにもならないし、給料の差し押さえと言っても、最低限度の生活に必要な部分は差し押さえることができないませんけどね。」などという説明をしたことで、被告が支払わなくても良いというふうに受け取っていないか、原告が気を悪くしていないかということを心配してくれているのでした。
「うーん、どうかなぁ・・・。だけど、本当に資産がないのであれば、どうしようもないのは事実だしねぇ。まあ、人によって理解力に差はあるし、誤解する可能性もなくはないけど。裁判所から「支払え」という判決を受けると、死んでも支払わないといけないと思い込む人もいるしねぇ。私もできるだけ、易しく説明しているつもりなんだけど、どう言えばよかったのかなぁ。あとで弁護士にでも相談しなさいと言って帰してしまえばよかった?主任だったら、どう説明します?」
私は、法廷に出頭した被告に対しては、できるだけ易しい言葉で裁判の仕組みを説明し、わからないことや聞きたいことがあれば、できる限りの説明をするようにしています。ただ、そうした説明は一方当事者にとっては不要に感じられることがあったり、被告にとって誤解を招くこともあろうかと思います。しかし、それでも私は、そうしたやり方を改める気にはなれません。簡易裁判所は市民に最も身近な裁判所であり、法律の詳しい人たちだけが来るわけではないのですから。
もちろん、主任は私の立場を気遣って、わざわざ指摘してくれたのですから、その指摘は真摯に受け止め、言葉遣いや表現を工夫していく必要はあると思います。
しかし、誤解や一方当事者からの反発をおそれて、必要最小限度のことしか発言せず、できるだけ波風を立てないように弁論を終わらせるのでは、私は何のために裁判官になったのかわかりません。
もともと、裁判所というところは、非常に保守的な役所(「消極的・受動的な国家機関」なんて言いますけど)であり、当事者間の公平や裁判作用の本質などということを根拠に、必要以上に世話を焼かない、立ち入らないという風潮があります。法律に従って粛々と判断を示せばよく、余計なことをして、世間から非難を受けるようなことを一番恐れているような気がします。そうすると、結局、目立つようなことは極力避け、言い回しや表現は念を入れて慎重に、事務処理は法律に従った必要最小限度のことしかしないという非常に後ろ向きの仕事に終始していくように思います。
しかし、これからの社会においては、多様な価値観が認められ、様々な個性を有する人たちが当事者となり、自らの権利利益を主張して裁判制度を利用するのですから、そうした裁判所の姿勢は今後、少しずつ改めて行く必要があるのではないでしょうか。
先日、足腰と耳の不自由な年配の方が被告となって法廷に来られたので、私は、法壇から降り、原告と書記官にも被告席に来てもらって、被告の隣に座り、テーブルを囲んで、書面を広げて、指で指し示しながら弁論を行いました。被告の方は、障害があっても大きな声でゆっくりと説明すれば、ちゃんと事件のことを理解し、自身の財産状況も把握しておられました。その事件は、司法委員にも特にご配慮いただき、無事に和解成立となりました。裁判官は法壇から下りてはならないというきまりは特になく、とりわけ一般市民に最も身近な簡易裁判所にあっては、当事者の個性や事情を汲み取って、できる限りの配慮をする必要があると考えた結果です。
「言葉を使って説明をする以上、相手に誤解されたり、言い過ぎることがあるのはもとより承知のうえです。それで批判されたり、問題にされたりするのは、ある意味、表現の自由に伴う義務やリスクであり、仕方のないことです。批判や問題をおそれて、何も言わないし、何もしないというのであれば、簡裁判事とはいえ、私が裁判官になった意味はないと思っています。主任の意見は、貴重なものとして、心に留めておき、さらに表現などは工夫したいと思います。せっかく気にかけてもらったのに、気を悪くしないでね。これからも気づいたことがあったら、遠慮なく言ってください。わざわざありがとう。」


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先日、タクシーと単車の間で生じた物損交通事故の損害賠償請求事件において、和解が成立しました。
原告はタクシー会社、被告は単車を運転していた中年女性で、どちらにも弁護士なしの、いわゆる本人訴訟でした。
素人同士の法廷でのやり取りは大変なので、簡単な弁論の後、準備手続室に移動してもらって、双方の言い分を聞き、事故態様から過失割合を検討しました。原告の会社の方は、もともと車両の修理代金に一定の過失割合を乗じた額を請求しているので、この過失割合が妥当かどうかということなのですが、緑の本に照らしてみると、概ねこの過失割合が認められるようでした。
被告になった中年女性は大層、ご立腹で、タクシーだって前をよく見ていなかったのだし、自分だってバイクの修理費がこれだけ掛かると言って、見積書を持ってきています。
そこで、双方の損害額に原告主張の過失割合を乗じてみると、互いに請求できる金額はほとんど同じになりました。
双方の言い分をじっくりと聞いたあと、私は、請求金額も少額であるし、このまま裁判を続けるのも大変でしょうからということで、自分の損害は自分で負担し、相手には請求しないということでどうでしょうかと提案してみました。その後、紆余曲折はあったものの、その線で合意ができ、無事に和解成立となったのでした。
和解条項を説明し、最後に「訴訟費用は各自の負担」という点を説明すると、いきなり、被告の中年女性が「裁判の費用なんか一銭も払いませんよ。だって、向こうが勝手に裁判を起こしたんですから」と言い出しました。
私は、「いやいや、実際には払う必要はありませんよ。」というと女性は腑に落ちない様子で「払わなくてもいいんですか?」と念を押してきます。私が「ええ、そうですよ。」というと、その女性は「だったら、裁判官のお給料は誰が払うんですか!?裁判官はどうやって生活するんですか!」と声をあげます。
「ええっ????」
どうやら、この女性は訴訟費用というのは、弁護士費用、さらには裁判官の報酬のことだと思い込んでいるようなのです。
私はなんだか可笑しくなってしまって、笑いをかみ殺しながら「いやいや、私たちの給料の心配までしていただかなくても結構ですよ。ちゃんと他所からもらっていますから。訴訟費用というのはね、裁判書類の作成とか、それを送るのにかかった送料とか、そういうものであって、弁護士さんの費用とか、私たちの給料とか、そういうものは含まれていないのですよ。裁判官は公務員で、国から応分の給料を頂いて暮らしておりますので、安心してください。今回の裁判での訴訟費用も自分の分は自分で負担するというだけで、相手から請求されるようなことはないということですよ。」と説明してあげました。
年配の女性は、狐につままれたような顔でしたが、最後に「そういうものですか。でも、話のわかる、いい裁判官にあたって良かったわ。じゃあ、これからもしっかり頑張ってください。」と言っていただきました。
一般の市民の方からすれば、弁護士も裁判官も「裁判」が飯のタネであり、弁護士が依頼者から報酬を得ているのと同じように、裁判官も当事者から手数料を得て生活をしているのだと考えるのは無理もないことなのかもしれません。
裁判官が当事者からお金をもらうことは、少なくとも日本では絶対にありませんが、法廷に来られる当事者は、税負担を通じて、司法システムの維持経費を負担しているわけで、ある意味では、私たちにとって「お客さま」であるともいえます。原告被告双方のお客さまに満足していただけることは至難の技なのですが、それでも、私たちは良質な司法サービスの提供を心がけ、毎日頑張っております。
この度は私の給料まで心配してくれて、どうもありがとうございました。今回は、軽微な事故で済んだうえに、トラブルも解決できましたが、これからはくれぐれも運転には注意し、事故のないようにしてくださいね。


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24 断酒は38日間続いた。39日目に妻と,親しい友人の3人で食事したので,その際飲酒した。ビールと日本酒の美味しさが胃に沁みた。多少多めに飲酒したので,翌日も断酒できるか不安であった。それまでの緊張感がプッツンして,断酒以前の状態に戻ってしまうのではないかと心配したのである。しかし大丈夫そうである。私のトレーニングメモに,飲酒しなかった日は○(勝ち),理由のある飲酒は△(引き分け)と記載される。何としても正当な理由なく飲酒して×印(負け)と記載することは避けたいという思いが強い。×印がつくということは,固い筈の決意が崩れたことを意味する。それは怖いということである。しかし飲酒した翌日も案外淡々として断酒できた。一つの山を越えたというのか,健康に関する一つの新たなシステムができたということかも知れない。
25 わが家には,今年私が作った梅酒が3瓶ある。いずれも1800CCである。氷砂糖を少なめにしたのでとても美味しくできた。1瓶の半分くらい飲んだ状態で断酒に入ったので,まだ沢山残っており,危ない。梅も美味しくなっている。断酒後は,梅酒の梅を1日1個だけ食べてよいことにした。また酒粕は健康によいとされている。以前NHKの「ためしてガッテン」で見た記憶である。ビタミンと繊維質が多いという内容であったと思う。以来この数年間,健康のためにと称して1日小さな1切れの酒粕をしぶとく食べてきた。そして最近新種の酒粕を見つけてしまった。「大吟醸」と名付けられている。しかも水分(絞り残りの酒)の量がとても多く,「これは美味い」という話である。食べ過ぎると酔うかも知れない。
26 最近のノンアルコールビールは驚くほど美味しくなっている。これまではとてもまずいと思っていた。今のところ3社のノンアルビールを試飲したが,1社のビールは私には合わない。他の2社のものはとても美味しい。このノンアルビールと梅酒の梅と酒粕「大吟醸」を活用することで,飲酒したいという欲望との格闘に勝利できそうな気がしている。種々策を練っているということである。
27 例年どおり今年もお盆明けに,1泊の人間ドックの検査が予定されている。断酒の効果はどうなのか。高校のクラスメートである担当医師を驚かせてやろうと,今から楽しみである。血糖値については5年位前に,ゴーヤジュースを始めた効果として血糖値が下がり,「君のその体型からみても,この数値はおかしい」と彼を驚かせたことがあった。今年はきっと,γーGTP(飲酒量の数値)でも,中性脂肪の数値でも,彼を驚かせることになるに違いない。できれば「脂肪肝よ,さようなら」となりたいものである。
28 このところむやみに空腹感が強く,まるで中高生に戻ったかのようである。体調がよいということなのかも知れない。体重はゆっくりと減っているが,今年末には70キロを切るつもりでいる。これは私が高校を卒業した頃の数値である。
29 今後,飲酒の結果を○勝○敗○引き分けとして,統計を取り,最近新たに作成した「健康ノート」に記載することにした。毎月の結果と連勝記録を纏めてみようというのである。家には50グラム単位で測定できる「精密体重計」もある。体重についても,結果を纏めることにした。単なる遊びに過ぎないが,甚だ愉快な気分ではある。毎日トレニングメモに結果を記入するのが楽しい。今年の末頃には一体どんなことになっているのか,それを楽しみにして頑張ってみることにしよう。(ムサシ)



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重荷  


 今回の参議院選挙では、選挙権が18歳以上に引き下げられ、高校3年生や大学1回生が初めて投票所に足を運び、1票を投じたようです。
 そうした若者の有権者の声をテレビの報道番組ではよく取り上げていたのですが、ちょっと気になった発言がありました。マイクを向けられた女子高生が、かなり緊張した声で「こんな大切な選挙で、自分で考えて投票しないといけないのは、ちょっと重荷で・・・」と話したのです。インタビューは、そこで終わってしまうのですが、「重荷」という言葉がはっきりと聞き取れ、私はなんだかぎょっとしました。
 そういえば、裁判員制度が始まった時も、街角でインタビューで受けていた主婦が、「そんな人の生き死にを決めるような判断をしなければならないなんて、私のような素人には重荷で・・・」と言っていたような気がします。
 そうなのです。18歳の高校生が有権者になって投票で1票を投じるのも、普通の主婦が裁判員になって有罪・無罪の評決をするのも、その人にとっては、同じように「重荷」なのかもしれません。
 政治にせよ、司法にせよ、専門家に判断を委ね、不満であっても決まったことには粛々と従い、インフォーマルなところで、文句を言うのが私たちのリアルな姿なのかもしれません。そうであれば、「重荷」は背負わず、身は軽く、おまけに口まで軽くなり、政治家や公務員、裁判官と言った縁遠い人達の嘘かまことかわからぬ噂を種に、悪口を言っていればいいのです。
 しかし、そうした一方で、社会はどんどん「自己責任」という便利なキーワードを使って格差や貧困を正当化しています。あの時、決断したり判断しなかったあなたが悪い、というわけです。
 もともと、私たちは、「重荷」を背負うような教育を受けてきたのでしょうか。学校では、予め定められた校則に縛られ、先生の言うことを黙って聞く子が優秀であり、自分達で意見をまとめて何かを成し遂げるというような経験もほとんどなく、政治や社会などというものを真面目に語るような人はどこか胡散臭い、煩わしい人と毛嫌いされてきたように思います。万事は先生たちが決めたことにそのまま従うのが普通であり、表立って反抗するのはヤンキーや不良ぐらい。「暴力」で反抗するのも、「運動」で仕組みを変えるのも嫌で、うまく「空気を読んで」その場をすり抜ける。そして、自分達でルールを作ってそれを守るという自己統治の経験もないまま、社会に出て、さあ、選挙権をあげるから投票しなさい、大切な1票ですよ、自覚しなさい、あるいは、裁判員として裁判官と評議して、評決をし、被告人にとって適切な量刑を考えなさいなどと言われても、どうして良いか分からないというのが本当のところなのではないでしょうか。
 
「このような諸改革は、国民の統治客体意識から統治主体意識への転換を基底的前提とするとともに、そうした転換を促そうとするものである。統治者(お上)としての政府観から脱して、国民自らが統治に重い責任を負い、そうした国民に応える政府への転換である。」(司法制度改革審議会意見書より)
 重荷を降ろして、すべてを所与の前提として受け入れ、身を処すことによって、人は奴隷となるのかもしれません。隷従の道は、案外と、気楽と楽観で舗装され、あっという間に終点に着いてしまうのかもしれません。その終点はどんなところなのかはわかりませんが・・・・。


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16 私とも親しかった50歳を過ぎたばかりの働き盛りの弁護士が,飲酒過多が原因と思われる肝臓ガンで亡くなったという出来事に,飲酒に関して日頃から反省気味の私は衝撃を受けた。丁度その直後に,私が年3回受けている健康診断の時期がやってきたので,私は掛かり付けの医院で血液検査を受けた。厳しい節酒を決意し,断酒状態になってから13日目のことであった。そして医師に,私が「肝臓ガンの心配はないか検査して戴きたいのです。」と告げた。
17 その数日後血液検査の結果を聞きにその医院に出かけた。医師は,従来とは別の検査を行なって下さっており,その腫瘍マーカーの数値を示して,「肝臓ガンの心配はないと思いますよ。」と言われたが,更に私が強く希望したため,すぐにCTスキャン検査もして下さったが,やはり肝臓ガンの心配はないとのことであった。但し脂肪肝であると告げられた。
18 血液検査の結果では,暫く飲酒していないためか,中性脂肪の数値が大幅に低下し,ほぼ正常値になっていた。血糖値を示すHbA1c(ヘモグロビンエイワンシー)は5・9(6・2以下が正常値)であった。飲酒量に関するγーGTP(ガンマジーティーピー)は少しだけ数値が低下していたが,正常値ではなかった。医師は,「この数値の低下にはもう少し時間がかかる。」と言われた。
19 そして医師は笑いながら,「この検査結果では,ほんの少し栄養失調ですね。」と言われた。赤血球数などがほんの少し不足しているというのである。「エッ!本当ですか?嬉しいです!」などという妙な会話が交わされた。
20 家でも外でも正当な理由なく酒を飲まないと決意してから,なぜか外での飲酒の機会もなく,1か月が経過した。多い時は週2~3回飲んだことも少なくないので,また近く飲酒する時が来ることは間違いない。正当な理由があれば飲んでよいことになっている。久しぶりに酒の味を思い出した後も,「家でも外でも正当な理由なく飲酒しない。」という決心が崩壊しないでいられるかについては,依然として宿題のままである。現在31連勝0敗0分けである。「分け」は正当な理由があって飲酒した場合に記載される。
21 この間少し時間をかけて,「トレーニング一覧表」を改訂した。内容もきめ細かく充実し,使い易くなった。朝の起床時から夜の着床時まで,運動でのトレーニング項目や仕事や読書や趣味などの計画も記載される。従って,その一覧表に記載された項目を順番に従って淡々と実行してチェックして行けば,いつの間にか多くのトーニングができてゆくという話である。これは役に立つ「システム」のような気がする。
22 体重を1日30グラム,月1キロのペースで減らそうと思っていたところ,この1か月で2キロ余りも痩せてしまった。飲酒したい思いと断酒が続くことの喜びとの葛藤に,断酒の喜びが勝利しているということのようである。
23 今後どのような展開が待っているのかは不明であるが,何となく面白いことになりそうで,期待できそうな気もする。そういえば以前「いつまでもデブと思うなよ」(岡田斗司夫著)という本を読んだことを思い出した。1年で体重を50キロ減らして67キロになったというのである。私も少なくとも1年で10キロ減らして,70キロを少し下回る体重を目指すことにし,脂肪肝ともサヨナラしたい。(ムサシ)



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「車物損事故、簡裁の審理迅速に 最高裁がモデル作成」(2016年5月26日付け日本経済新聞より)
 簡易裁判所で自動車の物損事故をめぐる訴訟が増えていることを受け、最高裁は訴訟のスピードアップに乗り出す。今秋をめどに審理のモデルをつくり、簡裁に役立ててもらう。弁護士をつける保険が普及したことで長引く訴訟が目立つといい、最高裁は「無用な長期化を避け、当事者の負担を減らしたい」としている。

 私の担当する事件でも、こうした車両物損事故をめぐる訴訟が結構あります。記事にもあるように、弁護士保険特約の普及により、この種の事件では、双方当事者に弁護士代理人が選任され、主張の応酬が続きます。
 私は、こうした事件では、双方の主張や証拠が出揃った段階で、弁論準備手続に切り替えて、ラウンドテーブルで双方代理人と膝詰めで主張や争点を確認し、証拠を整理するようにしています。
 こうした時に、いくつか困惑することがあります。
 まず、ドライブレコーダーの映像の取り調べです。最近のタクシーやトラックなどの営業車は、ドライブレコーダーを装備していることが多く、この録画映像がDVDに複製され、事故態様に関する重要な証拠として提出されます。双方代理人と一緒に、このDVDを視聴して議論するのですが、裁判所のパソコン環境は世間一般からするとかなり遅れているようで、うまく再生できないことが多いのです。その場合、ファイル形式を指定して変換した後に提出し直してもらうことが多く、その都度、当事者にご負担をお掛けしているようで申し訳ない気持ちになります。(結局、当事者の方で、ファイル形式の変換ができず、ドライブレコーダーの映像をさらにビデオカメラで録画したものを提出してもらったところ、画面の映り込みが激しく、とても見にくかったことがありました。)
 また、事故態様に関して、私は自分で買ったミニカーを使って、双方の当事者代理人に主張する事故態様を再現してもらうのですが、スケールが合わず苦労しています。市販のミニカーは、トラックも軽自動車も同じサイズなのです。双方が同じような車種の事件であれば、問題ないのですが、車種が違うと、損傷部位が合わなかったり、動きがうまく再現できずに苦労します。代表的な車種について、同じスケールでの模型があればもっと、内輪差や接触後の離合の際にできる損傷についても、スムーズに議論ができたのになぁと歯がゆい思いをしたことがあります。
 さらに、事故現場の状況については、証拠として図面や写真を提出してもらっているのですが、鮮明でない場合があります。そうした場合、グーグルなどで検索すれば、3D地図が表示され、かなり具体的に状況が把握できます。ところが、これも裁判所のパソコン環境では利用が難しく、私は、弁論準備の席に、私物のタブレット端末を持ち込み、その場で双方代理人に事実上確認してもらって、図面や写真の理解の助けとしています(代理人が、ネット上で公開されている地図を事故現場の地図として提出している場合もありますが、その場合でも、パソコン上で拡大してみたり、3D表示にすると分かりやすいのです。)。
 双方当事者・代理人と裁判所との間での対話と議論が充実した審理の中心であり、その結果としてくだされる判断だからこそ、当事者の納得と理解が得られるのではないかと思います。双方の主張や認識の相違をはっきりさせるためにも、準備書面の応報だけではく、しっかりと対話と議論をすることが大切で、そのためのツールを整備することも重要なことではないかと思うのです。
 審理の長期化を避け、当事者の負担を減らすには、どうしたらよいか。審理モデルという「ソフト」とともに、より充実した審理に役立つ、様々な「ハード」の整備も重要ではないかと感じている今日この頃です。
 


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6 今年5月末ころ,ふと節酒しようと思い立った。文字どおり酒を「百薬の長」にしようと思ったのである。しかし一旦飲酒を開始すると,その日の飲酒量を低量に押さえるのは容易ではない。百薬の長であるためのアルコールの量は純粋アルコールで30CCなので,ビールなら500CC(ロング1本),日本酒なら1合である。
7 結局節酒開始を思い立ってから連敗を続け,6月前半は3勝12敗という結果であった。家では一切飲酒しないという限定的断酒を決意したが,容易ではなかった。そこで6月前半の最後の日である6月15日の夜,自宅での飲み納めのつもりで,多目の飲酒をした。「明日からは絶対家では飲酒しないぞ。」という決意表明であり,自分に言い聞かせ,納得させようとしたのである。
8 その後不思議なことに,1滴も飲酒しない日が継続できるようになった。なぜかたまたまこの間,懇親会などもなく,飲酒しない日が今日で20日目となっている。6月の後半は,全く飲酒しない日が15日間継続したので,事務員には,相撲風に「6月後半『場所』は全勝優勝です!」と伝えた。家の外での飲酒の際に,飲酒量を控え目に押さえることができるかどうか,その日の帰宅後飲酒しないでいられるかどうかは宿題のままである。自信はないが,自らの尊厳を懸けてやるしかないということになる。
9 私は自作のトレーニング一覧表に,トレーニングの成果を記録している。最近,飲酒に関する記入欄を充実させた。全く飲酒しない日は◎,外での許される飲酒は△,外での許されない飲酒と自宅での飲酒は×が記入される。
10 その後体重は期待するほどには減量しないが,少しずつ減少してはいる。体調も何となくよいようで,なぜか以前よりも空腹感が強くなっている。胃腸が健康になっているということなのかも知れない。とにかく10キロ減量することにした。毎日体重も記録されている。
11 私が変則的な断酒を開始して間もないころ,身近な所で,ある衝撃的な出来事が発生した。当地の50歳を過ぎたばかりの弁護士が突然病死したのである。死因は肝臓ガンだそうであるが,彼は酒好きで,かなり肥満体であった。妻とその話をした時,妻は,「次はあなたかもね?」という眼をして私を見た。この出来事も私の断酒の決意を本気にさせる原因となったことは間違いないところである。
12 また久しく飲まないうちにノンアルコールビールが予想以上に美味しくなっていたことにも助けられている。
13 「さびしみて 生ける命の ただひとつの 道連れとこそ 酒を思ふに」(若山牧水)という短歌がある。私は,「さびしみて」生きているわけでも,酒を「ただひとつの道連れ」と思っているわけでもないが,私はこの短歌が好きである。酒を愛する者としての共感ということなのであろう。断酒や節酒をしても,この短歌が好きであることに変化はないだろう。
14 いずれ本当の「酒の達人」となって,外でも家でも適度に酒を楽しむことができる人間を目指して,名実ともに「酒を百薬の長」にしたいと思っているが,それは遙か未来の夢物語なのかも知れない。
15 そして,私が断酒を本気で決意した真の理由は,乳ガンに罹患している妻の病気に対して私の切なる願いが込められているということである。(ムサシ)



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1 突如として「断酒?宣言」をすることになった。正確には「節酒宣言」ということになる。病気だから酒を止めようということではなく,一応健康体なのであり,弁護士としての仕事はまだ暫くは続ける予定であるので,職業上必要な飲酒の機会には,今後も飲酒は続けるつもりである。そこで「断酒」ではなく,「節酒」ということになるが,家でひとりでは絶対に飲酒しないことにしたのである。結構固い決意ではある。「酒は百薬の長」であるので,飲酒量を減らすという選択肢もある。しかしその方法では必ず失敗するに違いないと思うのである。懇親会の場合にも,酒量は大幅に減らし,帰宅後は飲酒しないことになる。「断酒?」は既にある程度実験済みで,成功する自信ができたので,この一文をこのネットのブログに投稿することにしたのである。
2 私は以前ヘビースモーカーで,1日2箱の喫煙をしていたが,忘れもしない昭和53年5月の給料日にピタリと喫煙を止めたのである。「健康のために強い意志でキッパリと煙草を止めた」というような,そんな格好いい話ではなく,意志の弱い男の笑い話に過ぎない。その年の4月私は判事補として和歌山地裁に着任したが,釣好きの先輩裁判官から「和歌山は釣りのメッカで,堤防からの紀州釣り(ぬか団子釣り)でチヌ(黒鯛)がよく釣れる。」と言って釣りを誘われたのである。私も釣りは好きで,キスの投げ釣りは得意であり,投釣用の竿は数本持っていたが,チヌ釣りの経験はなかった。そこでチヌ竿などの釣具を買うために,同期の裁判官であった妻に小遣い値上げ請求をしたところ,「煙草を止めて釣竿を買ったらどう?」と即座に拒否されて,やむなくそうしたのである。その年の5月の給料日にチヌ竿を1本買って,煙草を止めた。煙草とチヌ釣りのどちらかの選択を迫られて,やむなく釣りを選択しただけのことであるが,そのお陰で,結果として現在も肺ガンなどにならず,健康であるということなのである。「母ちゃん,小遣い値上げ請求を拒否してくれて本当にありがとう。君のお陰で今も肺ガンなどにならず元気なんだよ。」という笑い話なのである。もっとも当時はまだ煙草が有害であるという説を聞いた記憶はなかったが。
3 ところで,断酒や禁酒と禁煙はどちらが困難であろうか。実は私はこれまで長期間に亘り繰り返し「節酒」を試みたが,見事に失敗してきたのである。酒が百薬の長であるためのアルコール量は,純粋アルコールの量にして30CCであるとされている。ところが節酒の決意はいつも,飲酒開始後に脆(もろ)くも崩れ,一旦飲酒するとアルコール量を30CCに押さえるのは至難の業である。そして「今日1日だけはオーバーを許すが,必ず明日からは・・」となり,それが実現できる明日は永遠にやって来ない。
4 このたびは変形の「断酒?」が成功しそうな気配であるが,妻は全く信じてくれない。私は断酒の策として,毎日ビール350CCと日本酒ワンカップ1本(1合)を飲んだことにし,その酒代を500円とみて,断酒貯金として毎日500円を貯金することにした。そのために空になったペットポトルをハサミで切断して,マジックで「断酒用貯金箱」と記載した貯金箱を作成した。そして毎日500円硬貨1個をそれに投入している。不思議なことにこの工夫により,私の断酒の決意は強化され,飲酒しようとする衝動との戦いに連日勝利している。いずれ「断酒貯金」により巨万の富を貯めようかと,認知症老人の夢を見ている気分であるが,この貯金は案外楽しみになっている。
5 そして私が断酒を本気で決意した真の理由は別にあるが,今は書かない。(ムサシ)



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ヒューマンドラマの名手・岡田惠和さんがオリジナルで描くプレミアムドラマ「奇跡の人」(NHK/BS、日曜夜10時)が終わってしまった。
毎週楽しみにしていたので、実に残念だ。主人公の亀持一択を演じる峯田和伸の個性も光ったが、なんといっても、全盲・聾唖の少女・鶴里海を演じた住田萌乃(朝ドラ「マッサン」のエリーさんの養女役で出ていた!)の演技が凄かった。毎回、妻と二人で「この子、上手いよなぁ。この子こそ、天才子役。芦田愛菜の何倍もいい」と絶賛しあった。その表情と目線、動き、ためらいのない動きで、時折見せる微妙な笑顔、すべてに魅了された。まさに、美内すずえ原作の「ガラスの仮面」の北島マヤにも勝るとも劣らない。「恐ろしい子」(月影先生)だ。
脇を固める名優・宮本信子、その他の配役も良かった。ストーリー展開もまさに波乱万丈、物語の世界にひきこまれ、毎回、妻と二人で画面に釘付けとなり、エンディング曲の「骨」を聞きながら、感想を語り合った。
これは、間違いなく「名作」である。もっと大勢の人に見てもらうべきだ。
NHKには、地上波での再放送を是非ともお願いしたいと思う。
民放では、今期のドラマは「重版出来」(TBS・火曜夜10時)、「ゆとりですが、何か」(日テレ・日曜夜10時30分)も良かった。
しかし、「奇跡の人」が断トツで良かった。いやー、泣いた、笑った、楽しかった。ますます困難なこの時代、人の世、人生はまだまだ捨てたもんじゃない、と思わせてくれる素晴らしいドラマだった。
あー、もっと見たかったなぁ。


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それは、信用保証協会が、会社とその代表者に対して、求償権に基づいて代位弁済金の返済を求める事件でした。
「そうですか。それでは弁論を終結し、本日、請求の趣旨のとおりの調書判決の言い渡しを行うことにします。」
司法委員から和解不調の報告を受けて、私は当事者双方にそう告げました。
多くの事業者は、金融機関から融資を受けていますが、その際には信用保証協会が委託を受けて保証をしており(保証協会融資)、金融機関への返済が滞ると保証協会が代位弁済をして、求償権を取得し、金融機関に代わって、その返済を求める訴えを提起します。契約書や信用保証委託契約書、印鑑証明書、代位弁済金領収書などの重要な証拠はすべて揃っていますし、ほとんど争われることもないのですが、何しろ、融資額が大きく、事業も破綻しているので、被告が分割弁済の申し出をしても、その額からして和解が成立することはほとんどなく、冒頭のような結果となります。
被告が答弁書を提出せずに期日に出頭しないとか、答弁書は提出しても期日には出頭しない場合には、ごく形式的に弁論を行い終結するのですが、答弁書に、請求原因事実を認め、毎月わずかな額の分割弁済を希望する旨記載し、経営者の被告(連帯保証人になっている)が期日に出頭した場合には、辛い気持ちになります。
「あなたが厳しい生活の中から、少しでも弁済をしようというお気持ちはよくわかりますが、融資額から考えると利息にも満たない額であって、原告が納得しない以上、裁判所は、法律に従って、判決をせざるをえません。」
「判決となれば、強制執行が可能になりますが、あなたに財産がない以上、その強制執行も不可能となります。強制執行は、家財や給料に対しても行うことができますが、その場合であっても、健康で文化的な最低限度の生活に必要な一定の財産については強制執行を行うことが禁じられています。」
「市場経済、資本主義においては、誰しもが事業に成功するわけではありません。どんなに頑張っても、うまくいかない事業が出てきます。あなたがどうして、こういうことになったか、様々な原因があろうかと思いますが、負債を整理し、再出発を図る制度もあります。必要であれば、弁護士さんに相談してみてください。あなたにもご家族や大切な方がいらっしゃるでしょうし、どうか、これからも健康に気をつけて再起を図るようにしてください。今日は、わざわざご足労いただいたのに、残念なことになりました。また、保証協会の方と相談してみてください。」
余計なことだとは思いながらも、法廷で肩を落としている被告にあれこれと声をかけてしまいます。
 
裁判官になる前、インターネットで公開されていた古いアメリカの名作映画を観ました。
それは、「素晴らしき哉、人生」(1946年、製作・監督;フランク、キャプラ、主演;ジェームズ・スチュワート、ドナ・リード)という作品でした。なんとなく、見始めたのですが、そのうち、話にひきこあれ、ついには、エンディングを見ながら、嗚咽してしまいました。そして、資本主義の牙城ともいうべきアメリカで、このような作品が作られ、国民的映画として、今でもクリスマスシーズンに何度も繰り返し放映されていることを知り、感動しました。
この映画では、人生における、金銭の価値・効用が余すところなく描かれ、家族・友人、善とは何か、幸福とは何かが、明確に誰しもがわかるように描かれています。
誠実に、家族とともに苦労しながら、貧しい人たち向けの住宅貸付組合を営んできた主人公は、手違いとライバルである強欲な悪徳事業家の仕業で、横領の疑いをかけられます。そして、クリスマスイブの夜、自分の半生を呪い、鉄橋で自殺をしようとします。その時、翼を持たない2級天使が舞い降りきて・・・(あとは映画をみてください。)映画のエンディングでは、主人公の苦境を知った町の人たちや、友人・知人が次々にお金を持って集まってきます。皆、貧しい暮らしの中から、少しずつ、皺くちゃのお札を、優しい言葉をかけながら帽子に入れていきます。それこそが主人公が歩んできた人生の軌跡だったのです。輝く妻や子供の笑顔、人々の歓声、そして、集まったお金が不足していた金額に達した時、クリスマスの鐘が鳴り響き、大合唱が始まります。彼を横領の罪で逮捕しようとやってきた連邦捜査官も、寄付の列に加わり、肩をすくめて令状を破り捨て、ポケットマネーを差し出して合唱に加わります。
 
どうか、私が日々、言い渡す調書判決のうち一つでも、人々の善意と被告のこれまでの歩み、あるいは今後の歩みによって、映画の中の令状のように、破り捨てられる日が来ますように。


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26 ヒトラーは政治権力を握ると,他政党や党内外の政敵を弾圧し,極端な独裁政権を樹立して,政敵などを殺害粛正し,ひいては第二次世界大戦を引き起こした。そしてユダヤ人などの民族的な虐殺政策と狂気の独裁政治を推進し,結局敗戦して自殺したのである。これはヒトラーの特殊な個性による部分が多く,また時代背景も異なるし,現在の日本がこのようなことになるなどとは思わない。しかし少なくとも,憲法を改正することなく,結果として憲法よりも法律の効力を優先させたという点では,現代のこの日本において,かつてのドイツと同じことが起きており,異常事態だということになる。
27 私は戦前の日本の歴史も,極端な政府の暴走であったと思っているが,ヒトラーと同じように,憲法をないがしろにし,憲法違反をしたのかどうかはよく知らない。
28 ヒトラーを支持したドイツ国民は,余りにも軽率で愚かで無責任であったと私は思う。そしてその結果としての悲惨な「つけ」は国民が支払ったのである。またわが国の戦前についても同様であると思う。軍部が無謀な戦争に突っ走り,戦争に反対すると治安維持法等で逮捕された。しかし私は,そうなった歴史については,やはり日本国民の責任が大きいと思うのである。仕方がなかったでは済まされない。そして歴史の教訓は大切にしなければならず,愚かな歴史は繰り返してはならないのである。政府の暴走を放置してはならない。主権者である国民がしっかりと自覚して政治を監視しなければならないし,国民には大きな責任があるのである。
29 憲法の規定に反する法律は無効である。これは明確なことである。現在の日本においては,現政権が暴走し,憲法違反という事態が生じているということである。歴代の政権も,憲法学者の殆ども,そして国民も,これまで日本国を挙げて違憲だとしてきた内容の法律を,国民が納得できるような説明もなく,国会の多数で強引に押し切って法律を成立させてしまったものであるから,そのような政治を信頼できる筈がない。わが国が良識ある理性的な現代の法治国家であり,立憲主義国家であるためには,まず国会と内閣が憲法を厳守するという強い決意を持つことが必要である。国会と内閣は,主権者は国民であることをよく認識し,謙虚に国民の声に耳を傾けて,国民が納得するような見識ある政治を行なうことが求められている。
30 国民は主権者である。国民一人の力は大きいわけではないが,国民のひとりひとりが,自分は主権者であることを自覚して行動するならば大きな力になるということである。
31 歴史を振り返って見ても権力を握ると人は変化し,堕落することが多い。 違憲であるかどうかの判断は,最終的には裁判所ないし最高裁の判断になるにしても,その前の段階で憲法の専門家である憲法学者の意見は尊重されるべきであると思うのである。憲法学者の圧倒的多数の意見を無視して,それに反する結論の法律を,国会の多数で押し切るような政治は,到底まともな政治ではないし,まともな国家である筈がない。やはり国民は,呑気にボンヤリしていてはならず,戦争に巻き込まれる前に目覚めなければならないと思うのである。(ムサシ)

 



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1 5月の連休中に次女とその子2人が4泊5日でやってきた。上が男の子で来年小学1年生入学,下の女の子は子供の日が誕生日で,4歳になった。孫は全部で4人いるが,長女の2人の子は今回は来ることができなかった。孫が4人揃うと大変なことになる。
2 早速「虫取網はないか」と注文が来た。そういえば,うかつにも以前あった虫取網もいつの間にか処分してしまったようで,見つからなかった。しかし以前私が熱心に釣りをやっていたころの,鮎用の柄の短い網と,チヌ用の玉網が見つかった。庭では丁度アゲハ蝶の幼虫が羽化するシーズンである。2人の孫は,その網でアゲハ蝶を捕らえようとしていたが,うまく行かなかったらしい。「おじいちゃんはアゲハ蝶だ。捕まえろ。」と言って,2人の孫がそれぞれ網を持って追いかけてきた。「ヒエー,助けてくれ。」と言って庭を逃げ回ったが,とうとう私の頭は,同時に2本の網の中にスッポリと捕獲されてしまった。「助けてくれ。」と頼んだが,なかなか許してくれなかった。
3 その後間もなく,下の女の子が,昔母親たちが使った小さな籠を見つけてきて,花を摘んで籠に入れ始めた。あっという間に籠は摘み取られた花で一杯になった。それをどうするかと思って見ていると,台所のガラス容器を取り出して少し水を入れ,その上に花を並べて行ったのである。青とピンクの矢車草,金魚草,紫露草,シラン,ヒナギク,ペチュニア(朝鮮朝顔)などでが40~50個ある。花飾りは案外綺麗にできた。「おじいちゃんも手伝って」と,何度も庭に呼ばれて,花飾りは4個になった。なかなか見事である。庭には矢車草の大きな株が5株あり,1株に100個以上の花が咲いていたので,庭が悲惨な事態にはならなかった。孫は花の部分だけ摘んで,枝を折ることはしなかったのである。そういえば,以前も同じようであったことを思い出した。
4 次の日の昼前に,家から500メートルの所にある岡山後楽園まで5人で歩いて出かけた。車で行くと,孫たちが余り疲れないので,朝5時過ぎに起きるので,親がグロッキーになってしまう。孫たちを疲れさせる作戦であった。公園の入口近くで,美味しい桃の冷凍ジュースを飲んだ。公園の中を半周位したとき,皆で広い芝生に寝転んで大の字になり,青い空を見上げた。久しぶりにジックリと空を見た。夏目漱石が重症の胃潰瘍から生還した伊豆の修善寺の大患の後で詠んだ俳句である「生きて仰ぐ 空の高さよ 赤とんぼ」を思い出した。風が心地よい。孫たちは靴下と靴を脱いで芝生の上を走り回ったり,ごろごろと転げ回って,オオハシャギをしていた。2人の孫の肩車もさせられた。重かった。梅入りで少し酸っぱくて美味しいソフトクリームも食べた。
5 夜は長男とオセロゲームをした。駒の白と黒を使って,挟んだ駒を自分の色にひっくり返して,駒の色の多さで勝負が決まる。案外手強い。「クソ-,負けてたまるか」,「チビのくせになかなかやるな」,「その手は桑名の焼き蛤」,「しまった,その手があったか」などと,ふざけて大騒ぎした。結局夜3敗,次の日の早朝5時半から3敗,通算6連敗である。「ワーイ,勝った,勝った!」と長男が大喜びしたことは言うまでもない。
6 最後の日は空港まで車で送りに行った。空港で昼ご飯を食べて,所定の時刻に孫たちは飛行機の搭乗口に向けて去って行った。夫婦で手を振って見送った。それから約2時間後に,次女から電話があった。無事羽田空港に着いたこと,長男が「帰りたくない。」と言って飛行機の中で大泣きしたという報告であった。また遊びに来るように伝えて貰ったが,わが夫婦の心が温かい思いに溢れたこともまた言うまでもない。(ムサシ)

 



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ゴールデンウィークを利用して、娘が進学を希望している大学のオープンキャンパスに行ってきた。そこで風邪をもらったようで、連休中はずっと喉が痛く、変な咳が出てしまい、体調がすこぶる悪い。
 
それにしても、自分が大学進学のときには、親が大学を見学するというようなことは一切なかった。そもそも、こうしたオープンキャンパスなるイベントもほとんどなかったように思う。親は、高校進学までは面倒をみるが、大学は行きたければ自分で勝手に行け、ただし、金はないから、国公立にしか行かせられないというのが我が家の方針であった。もともと両親ともに高卒で、大学受験とはどういうものかまったくわかっておらず、何の相談もしなかった。
しかし、時代は移り変わり、少子化の進展と反比例するように、大学進学率はどんどん向上し、いまやどこの大学も学生集めに必死なようだ。オープンキャンパスにも、保護者(というか、受験生の両親)が私たちを含め大勢、参加していた。
緑豊かなキャンパスを散策し、大講堂で保護者説明会を聞いていると、最後に「奨学金カウンセラー」なる人物が登場して、奨学金制度の利用についてあれこれと説明してくれた。奨学金というと、昔は苦学生のイメージであったが、いまやほとんどの学生がこれを利用しているらしい。私の頃は、日本育英会であった団体も「日本学生支援機構」と名前を変えて、奨学金事業を行っている。
貸与型の奨学金は立派な借金であって、しかもみなさんの大切なご子息が背負う借金であって、滞納となれば、裁判を起こされ、ブラックリストにも載ると登壇したカウンセラーは力説していたが、こちらは仕事柄、奨学金返還請求事件を毎月のように目にしている。
私の頃の学費は、自分のアルバイトでなんとかなる金額で、確か、前期は自分のバイト代で払い、後期は親が払い、念のため奨学金も受けていたように思う。
ところが、大学のパンフレットを見て驚いた。自分の頃からすると信じられないぐらい入学金、学費が上がっている。「こんなに!」と妻と二人で顔を見合わせ、奨学金の説明に真剣に聞き入ることになった。
一人娘を大学に4年間通わせ、下宿させるとなると、もはや中古マンションを購入するぐらいの費用がかかることに今更ながら気がついた。
大学側は、しきりに就職率のことをあれこれと説明しており、大学は何も就職予備校でもないだろう、どうして、そんなに就職率のことばかり話すのかと不思議に思っていたが、なるほど、こんな多額の費用をかけて、将来、ペイされなかったら、奨学金返済も難しいだろうし、親も学費を出す気にはなれないだろうと合点がいった。
大学が大衆化し、進学率が上がれば、今度は少しでも良い企業へと就職するためにはどうしたらよいかということになるのだろう。そうなると、もはや教育は、立派な投資である。学費は「出資」であり、将来の就職は「リターン」ということだ。そして、自らが日々の生活でゆとりのない家庭であればあるほど、将来の子どものためを思い、少しでも就職に有利な大学へと子どもを駆り立て、借金をしてでも(教育ローン、奨学金)学費を工面する。そうした出資者側の期待に応じるべく、大学も就職率向上に向けて種々の取り組みを行っているのであろう。
しかし、それでは、いったいぜんたい、大学とはどういうところなのか?
 
学生は学生で、親の負担を少しでも減らすために、アルバイトをすることになるが、学業や人格を無視し就労学生を一個の労働力として使い潰す「ブラックバイト」が問題となっている。労働法規を無視し、学業に支障が出るほどの長時間労働を求め、さらに学生の無知や社会経験のないことを逆手にとって、一方的な負担を押し付けるのである(今野晴貴著「ブラックバイト」岩波新書)。親に無理をさせられないという真面目な学生の責任感をうまく利用して、アルバイトとはとても思えない責任の大きな仕事を押し付け、収益を上げているサービス業は、急成長を遂げているようだ。大学生も、来たるべく就活に備えて、あるいは今後、一生続くであろう過酷な労働環境に対する耐性を身につけるべく、バイト生活にいそしむことになる。
そうして、高額の学費を支払い、ブラックバイトをくぐり抜けたとしても、就職活動では散々な人格否定を受け、ようやく卒業・就労できたとしても、非正規労働者として雇用され、さらに過酷な労働環境に身を置くことになるとすれば、ため息がでる。
広大なキャンパスと優れた施設を見て回ると、ここで4年間、しっかりと自分の興味のあることを学び、自分の生き方を決めてほしいと思い、自分が大学生であった頃の、ゆったりとした時間の流れを思い出すのだが、今や、そうしたゆとりは多くの大学生に対して望むべくもないのかもしれない。
しかし、これは、私たちが望んでいた教育のあり方なのだろうか。いったい、そのような高等教育を受ける価値はあるのだろうか。こうした教育システムによって社会の一員となることを私たちは望んできたのであろうか。
教育とはいったい何を目的とすべきか。大学教育は何を目的としているのか。働くということはどういうことを意味しているのか。この社会は、子どもたちをどのように育て、社会の一員として迎えようとしているのか。
 
オープンキャンパスで体調崩し、憲法の日、こどもの日とGWを寝込んで過ごすうち、この社会の現実に暗澹とした気持ちになってしまうのであった。


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