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裁判官の良心とは

2023年12月26日 | 白山次郎

津地裁の竹内裁判官が母校で「裁判官の良心とは」という演題で講演をされており、その様子がYoutubeで公開されています。

https://jishu-dosokai.sakura.ne.jp/j130th/movie

大変、興味深く拝見しました。

裁判官の良心というテーマについては、私は以前から関心がありました。

それは、私が「簡易裁判所判事」という特殊な職種で仕事をしていることに由来するのかもしれません。もちろん、簡易裁判所判事も他の判事、判事補と同様「裁判官」であることに違いがないのですが、やはりその任命資格や選考方式には大きな違いがあり、私は常に「裁判官らしく」あらねばと思いながら、もう随分と長い間この仕事をしてきました。

「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」(憲法76条3項)

ここにいう「良心」とは何かについて、主観説と客観説の対立があると学生時代に憲法の講義で習った記憶は微かにありますが、私は正直なところ、今もよくわかっていません。ただ、この良心が「裁判官としての良心」であって、この職業を離れた個人的なものではないことは、この条文の位置や前後の文脈から何となく理解できます。

そうすると「裁判官」という職業とは何か、その良心とはいかなるものかを考えざるを得ないわけですが、これがなかなか難物です。裁判官の良心をわかりやすく説明してくれる文献がないものか、自分は裁判官自身の書かれたものが一番、参考になるのではないかと思って、いろいろと探して読んでみたり、裁判官倫理に関する本を読んだりしてみたのですが、どうもしっくりきません。この条文は、アメリカ由来のものなので、アメリカでは、どうなっているのかと思って検索してみたところ、「新任裁判官のための十戒」というものがあって、これは意外とわかりやすいので、私は毎年、期日簿の裏表紙に張り付けています。

https://www.law.tohoku.ac.jp/lawschool/lawmm/vol9.html

結局、この「裁判官の良心」という言葉の「良心」はともかく、「裁判官の」という限定語句が「客観的」かどうかという点が問題ではないかと思います。実は「客観的」といいながら、それを可視化したものはなく、なんとなく、それぞれの裁判官自身が勝手に作り上げた「裁判官」像こそが「客観的」であると多くの人が思っていて、しかも、そのことを公に口に出して議論しない風潮が、これまた「裁判官らしい」「裁判官の良心」とされているように思います。

最近、IT化に伴い、私の前職であった裁判所書記官の職務内容が大きく影響を受けるようで、組織として「裁判所書記官とは何か」を議論するよう求められたことがありました。私は、職場でのその議論を聞きながら、じゃあ「裁判官とは何か」をずっと考えておりました。

いつの間にか、そうした青臭い議論は遠ざけられ、日々の事件をどううまく処理するか、難しい案件をどう判断したか、判決書をどう書くか、裁判所組織全体はどうか、未済事件数はどうかなどといったことばかりが議論されるようになっているのではないかと思います。そうした問題も大変重要な問題でしょうが、それと同様に、裁判官とは何かは議論に値する重要な問題ではないでしょうか。

私は、憲法がわざわざ、裁判官の職務執行において「良心」ということを持ち出したのは、その権限の大きさ(法律はもちろん、憲法の解釈権まで付与されている)、そしてその責任の重大さから、常に自分は何ものであるかを、その良心とは何かを日々の仕事をしながら考えなさいと言っているように思います。

警察官には警察官の良心が、検察官には検察官の良心が、弁護士には弁護士の良心があって、当然、日々、その良心に従って職務に励まれていると思います。ですから、憲法がわざわざ裁判官の職務執行に関して、「良心」というものを注記したのは、そうした他の職種とは異なる面(裁判官の独立や身分保障)があるからであり、職務を行うにあたっては、常にそのことを意識せよと言っているのではないかと思うわけです。

自分自身が何者か、そして、他とはどう違うのか、そうしたことは、その職種にある人たちが一番、考えて議論し続けていく必要がある、日々の自分たちの仕事を振り返り、その中で実際の経験から具体的に「裁判官の良心」というのは、こういうものなのだということを明らかにしていく、そして、それを語り継いでいく。また、それを公にすることが大事だと思います。

司法制度改革による法曹人口の増加にもかかわらず、判事補の定員は埋まらず、裁判所は優秀な人材の獲得に苦労しているようですし、せっかく任官しても早々に別の道に進まれる方も大勢おられます。それは、よくよく考えてみると、この「裁判官とは何か」という本質的な議論を避けてきた結果ではないかという気もするのです。給与や待遇、執務環境で四大に張り合ってみても仕方がないし、また、そんなことでこの職を選ぶのもどうなんだろうと私は思います。

価値観が多様化し、人口減少に伴う社会・経済の縮小、様々な問題を抱えた社会において、裁判官が下す一つ一つの判断は、まさに水面に落ちる小石が作り出す波紋のように広がり、社会を変えていくことになる、これは確か、日本裁判官ネットワークの中心メンバーであった浅見元裁判官の言葉だったと思います。そうした職責を担う裁判官とは何者なのか、それはその職責を担ってきた元裁判官や、今現に、その職責を果たしすべく日々努力している現職の裁判官こそが議論し、それを一般市民にも訴え、理解してもらう。そして、理解した市民がそれをサポーターとして支える。それこそが、日本裁判官ネットワークの果たしてきた役割であったと私は思います。

メンバーの高齢化と減少により、現職の方もほとんどおらず、活動が縮小、停滞していくことは残念ではありますが、今はネット環境も整い、裁判事務もIT化される時代です。現実に集まることはできなくても、Zoom会議などで、現職や元職の裁判官が、今まさに問題になっている様々な事象を議論し、その意見を公にしたり、サポーターの市民たちがそれを支えるという活動を続けることには大きな意義があると思います。

私としては、多少なりとも、そうした「青臭い」議論をされるOBのかたのお話を、ごまめのような立場で聞く貴重な機会が持てることは幸せなことであると思っています。