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70年を生きて 第8回

2017年08月22日 | ブログ
柔道部

 高校入学の年は、先の東京オリンピックを翌年に控えた年でもあった。柔道が正式種目に決定し、柔道ブームが起こっていた。高校の新入生向けクラブ説明会の柔道会場は入部希望者で溢れた。

 50畳程度の古い教室を転用した道場も一杯で、打ち込み練習や乱捕り練習は順番待ちであった。しばらくして少し広い道場となったが、横長で練習しやすい環境ではなかった。ここで卒業まで練習した。

 1年生の時の主将は、小柄で立ち技では背負い投げを得意としていたが、寝技の絞め技が非常に巧みだった。絞めて落として活を入れる、実に器用な先輩だった。その後大阪で、柔道整復院をやられていたようだが、まさに天職ではないかと思える。

 松山沖の忽那諸島「中島」のご出身で、松山市内に下宿して学校に通っておられた。この島には県立普通校の分校はあったが工業高校はなく、同様の同級生も居た。

 その主将の島での夏休み合宿が始まった。1年生の時は、公民館を寝床に、食事は主将の実家でお世話になった。2年生の時は普通高校の分校の教室に寝て、炊事場を借りて自炊した。3年生では家政科の女子生徒が賄いをしてくれた。普通校の分校にも柔道部はあり、まともな道場もあったので、合宿期間は朝夕一緒に練習した。

 50年の歳月を経て、今も月に20日くらいは団地内の公園で、1時間程度実戦柔道の一人稽古をやっている。この季節はいつも中島でのハードな合宿を思い出す。先輩はじめ仲間の顔を思い出す。若い時の基礎・基本があるから古希にして自分流のトレニーングが出来る。

 われわれの学年までは県大会の一回戦敗退が普通であったが、私を含む同期の部員、主将だったM、副主将のK、そしてW、N、D等が県の総合体育大会が終わって後も2年生の稽古に付き合った。県警機動隊の先輩の指導にも熱が入り、帰宅が夜の9時頃になることもあった。その甲斐あって、後輩は翌年の春、愛媛スポーツ祭で準優勝を果たしたと聞いた。

 1年後輩のH君は、中学時代にすでに有段者となっていた。彼がチームをリードしたものであろう。今、思い出してみれば、ロンドン五輪金メダリストの村田諒太さん似の好漢であった。同じく後輩のF君は、彼の伯母さんが経営する料亭でわれわれ同期の仲間の送別会をやってくれた。

 その後の後輩連は県内の大会ではほとんどベスト4まで進出していた時期があり、四国大会の常連となっていたようだ。そうして、母校には武道場も出来たそうだ。

 60歳も超えて数年前、母校柔道部のOB会に初めて参加した。主に強かった時代のOBが参加していたようで、知った顔はなかった。今は部員が集まらず、選手5名にも事欠くとの話だった。


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