中小企業診断士 泉台経営コンサルタント事務所 ブログ

経営のこと、政治のこと、社会のこと、趣味のこと、人生のこと

リーダー第10回

2010年04月28日 | Weblog
凡を極めて、非凡に至る

 企業では、次世代の自社を担う若者をいかに育てるか。リーダーをいかに育てるかの処方箋を求めている。そうかと思えば、海外からでも出来あがったリーダーを招聘して、業績の向上を図ろうと考える企業もある。

 世界の企業の中でも米国のGE社は特にトップリーダー養成にかけて有名である。私は、ジャック・ウェルチ氏から現在のインメルト氏への交代時を挟んでの約9年間、GEの末端ではあるが関係会社に居た関係で、少しはそのカルチャーに触れた気がしている。彼らは日本人のような農耕民族ではなく、明らかに狩猟民族であり、よりよい猟場を求めて世界に挑戦する。厳しい競い合いの中で自分を高めてゆくためか、私が勤務した合弁会社のトップや、時に来訪する本社部門のトップリーダーは、対峙して間違いなく素晴らしいという印象を与える人々であった。

 私は勿論、GEのリーダー養成の対象などでは全くなかったから、その実態に触れることもなかったけれど、そのプログラムの中には厳しい仕事での責任を通じて、人間性の陶冶が必須であることを仕組んでいたことが推察できる。

 日本企業では、4月の新入社員の時期、彼らに垂れる社長からの訓示が新聞の話題になる。また時に、著名な経営者に若者たちへのメッセージ広告が新聞に載ったりする。言葉はまさにその人の器量を現すことが多い。実績を残した経営者は間違いなく名言を発する。

 そんな中、花王の前会長であられた後藤卓也氏の「企業力の源泉は基礎学力」と題する講話の中の、『学校で学ぶ「基礎学力」は、実社会で役立つものばかりです。詰め込み教育や受験勉強を批判する人もいますが、私は「基礎学力」の徹底訓練になるという観点からも、決して無意味ではないと考えます』には共感した。

 その後藤氏の言葉が、2008年9月日経ビジネス「マネジメント」リーダー創造の誌面にもあった。『好きな言葉に「凡を極めて、非凡に至る」というのがありますが、それが理想です。・・・私はよく、あなたはイチローですか、と問いかけてきました。イチローのような天賦の才能があり、かつ才能に甘んじないで必死に努力し、世界で活躍したいのだったら辞めていただいて結構です。だけど私も含め、失礼だけど皆普通の人ですね。普通の人にできることは日々の努力しかない。「目の前の峠を登る」こと、日々の仕事に一生懸命取り組しかない。・・・実際は、天才ほど努力するものです。どこにあるのか分からない自分探しや夢に踊らされず、自分の夢や望みを目の前の仕事に生かす努力をしてほしい。・・・

 リーダー研修はやりますが、研修したら全員が育つと期待するのは甘い。判断に必要な情報の密度は、経験を積むごとに高くなります。日々の仕事で経験する失敗や成功の積み重ねは非常に大きいわけです。

 そして最終的にリーダーに必要な資質は、何といっても健全な精神でしょう。・・・それから考える力です。自分の頭で考えて理解し、相手を納得させる力がなければいけない。経営を語る時、最近の激しい競争社会の中でと常に枕詞がつきます。でもリーダーの資質は時代で変わるものではないでしょう。』

 「リーダーの資質は時代で変わるものではない」。とは、先の会田雄次先生のアウトサイダー指導者論に反するようにも読めるけれど、根っこを辿れば共通するものであろう。強力なリーダーを輩出させるシステムも一理あるけれど、皆で考えようとする姿勢を育むリーダーは日本的であり、これだけグローバル化した時代こそ必要なリーダー像に思える。
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リーダー第9回

2010年04月25日 | Weblog
リーダーシップとマネジメント

 リーダーシップ論の第1人者といわれるハーバード大学名誉教授ジョン・コッター博士は「マネジメントの仕事は複雑性への対応、リーダーシップの役割は変化に立ち向かうこと」と言い。一方「組織文化とリーダーシップ」の著者として知られる、米国の心理学者でマサチューセッツ工科大学教授のエドガーシャイン博士は「リーダーは文化を創造し、また変革をもたらす。マネージャーや管理職はその範疇で行動するのみ」。と述べているとある*10)。 

 両博士の表現は異なるけれど、いずれもリーダーシップとマネジメントの間に明確な線引きをしていることが注目される。そして、リーダーシップこそが変革を実現するものとの捉え方である。

 一方、P.F.ドラッカー博士は、著書「マネジメント」*11)の中で、『マネジメントには、自らの組織をして社会に貢献させるうえで3つの役割がある。それらの3つの役割は、異質ではあるが、同じように重要である。

 ①自らの組織に特有の使命を果たす。マネジメントは、組織に特有の使命、すなわちそれぞれの目的を果たすために存在する。
 ②仕事を通じて働く人たちを生かす。現代社会においては、組織こそ、一人ひとりの人間にとって、生計の資(かて)、社会的な地位、コミュニティとの絆を手にし、自己実現を図る手段である。当然、働く人を生かすことが重要な意味を持つ。
 ③自らが社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題について貢献する。マネジメントには、自らの組織が社会に与える影響を処理するとともに、社会の問題の解決に貢献する役割がある』。と述べている。

 また、『階層の終わりという言葉を耳にする。ナンセンスである。あらゆる組織が、最高権威としてのボスを必要とする。最終決定を行い、その決定に従う者を持つボスを必要とする。

 危機に瀕したとき命運を決するのは、明快な命令の有無である。沈没しかけているときに会議を開く船長はいない。命令する。船を救うために全員がその命令に従う。意見も参画もない。危機にあっては、階層と服従が命綱である。しかも同じ組織が、あるときは議論を必要とし、あるときはチームを必要とする』。とある。

 ドラッカー博士の論理からすれば、リーダーシップはマネジメントの一環とも読める。すなわち、状況に応じてマネージャーは強権なボスに変身しなくてはならないこと、常にリーダーシップが必要であることを述べているように思う。

 マネジメントにトップ、ミドル、ロワーがあるように、リーダーにも当然階層による役割の相違が生じる。マネジメントの一形態または重要な要素としてリーダーシップがあると考えた方が、分かりやすい気がする。


*10)2008年9月日経ビジネス「マネジメント」リーダー創造より
*11)エッセンシャル版「マネジメント」2001年12月初版、ダイヤモンド社、上田惇生訳
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リーダー第8回

2010年04月22日 | Weblog
アウトサイダー指導者論(下)

 『新しい時代がはじまりつつある。近代と異なり、レールのない列車を走らせねばならない世界が。ここでは真の創造力、真のアイディアを持つ人間がリーダーになるべき世界である。その人は近代減点主義、バランス主義、ことなかれ主義、序列主義の社会では規格に合わず、中枢部には入りこめないアウトサイダーたちの中にいるはずである』。

 第二次世界大戦のまさに砲弾が飛び交う最前線、毎日が死と隣り合わせにあった緊迫した状況の中でのリーダー。戦争の末期の戦線を後退させてゆく過程、つまり逃走にともなう不安と恐怖が霧のようにたちこめる戦いの時期のリーダー。そして、捕虜生活にも慣れてかなりの自由をうまく使うようになった後期の収容所の生活の中に生まれたリーダー。それぞれ、全く異なる人物がリーダーとなった。

 激烈きわまる戦闘の中では勇士がリーダーとなり、退却時には、強力なリーダーシップに欠け、戦場の勇士にはなれないが、何事も非常にきちんと着実に行うまじめ人間がリーダーになった。捕虜となった収容所ではどうか。弁が立ち、押しが利いてはったりがきく、さぼることもうまくかっぱらいもやる。状況の変化を洞察し、それを先取りできる能力を持った男がリーダーとなった。

 『要するに、・・・時代と民族とによってリーダーとして要求される資質が違うということである。その配慮なしにただ過去の誰かを理想像としてその生き方を真似て見るのは無理な話だ。ただ全般的にいえることは、リーダーとなるべき人間はこの3タイプをふくめ、みんな平凡な正常社会の秩序の中で、そのどこかに位置しておれさえすれば、それに甘んじて生きがいを感じてゆけるという資質では駄目だということだ』。

 リーダーとしての、大きな可能性を秘めたアウトサイダーを会田先生はどう捉えたか。『日本の歴史上、戦国時代は古い価値体系と秩序が崩壊した創造性に富んだ乱世であり、未来社会に似ていると考える。その時代に安住すら許されなかった移動労働者や遊芸人の中から旅役者、庭師、城の石垣などをつくる土木業者、忍者まで生まれた。彼らは定住も許されぬ文字通りのアウトサイダーであったけれど、当時の破天荒に新しい技術者集団であった。・・・

 日本の文化は思想といわず芸術と云わず、すべて古くは中国や朝鮮、新しくは欧米からの直輸入品であり模倣である。・・・しかし、例えば城、日本庭園、着物などはまったく独特の日本製だが、これことごとく彼らの創造によるものなのだ。・・・私は彼らを未来社会の担い手たるべき大器の人々だったと思う。そして、その闊達な創造性を育んだものは、傭われず臣下にならず土着せず、したがって何ものにもとらわれぬアウトサイダーとしての立場でなかったかと想像するのである』。

 それではこれからの社会でリーダーとなるべきアウトサイダーとは。『非常に味わい人物なのだが、どこかワンポイントずれていて、近代社会のリズムと調子が合わない。現代のふつうの組織にはどうも簡単にコトンとは納まらないという感じを与える人間。しかし自分の長所を見極め、それを鍛える努力を怠らず、自分の個性が社会に適応するかしないかなど、こせこせした一喜一憂をやらず、大きな志をもって悠々と生きている人。また客観的に自分を突き放せる人間でもある。ただアウトサイダーといって、努力もせず、耐えることを知らず、不平不満を社会の所為にしているようなドロップ・アウトした人間は論外である』。



本稿は、会田雄次著「日本人材論」昭和51年11月初版、(株)講談社刊を全面的に参考にし、特に(『 』)部分は、直接に引用し、編集して構成しています。
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リーダー第7回

2010年04月19日 | Weblog
アウトサイダー指導者論(上)

 少し古い本であるが、会田雄次*9)先生の「日本人材論」昭和51年11月初版、(株)講談社刊による指導者論をみる。30数年前の時代背景から考察されたリーダーシップ論が、21世紀の現代に通じるかの懸念もあろうかと思う。しかし、会田先生は経済発展を続ける当時の日本の中に、すでに現在の混沌を予期されていた。そしてご自身の第二次大戦の戦場での戦闘と退却、その後の捕虜としての収容所生活の体験を通じて視て来たいくつかの現場のリーダーの考察に加え日本の歴史を紐解くことによって、混沌の時代に相応しいリーダー像を求め、ひとつの結論を得る。それが、アウトサイダー指導者論である。

 『日露戦争後の日本の不幸は、学校制度がリーダー養成向きにならず、学歴主義が幅をきかせすぎ、サーバント適合型の人々がリーダーを占めたところにある。その器ではない人間が、青年将校などの甘えとつけ上がりを導きも抑えも出来ず、日本は崩壊に導かれていったのである。今日も姿は変われ本質的に同じことが行われている。・・・

 ではなぜ、そうした器量のない人間がトップの座を占めるようになったかということだが、典型は陸軍士官学校にある。そこにあるのは、戦争という軍人の器量の実証の場がなくなったことから起こった学校成績決定主義と減点主義である。・・・

 近代人は、個人は亡びても人類は栄えてゆくだろうということを半ば信仰に近いほど確信を以て考えていた。しかし、現在、そのような楽観主義はどこにもない。・・・いまや、近代的な生き方をしていては早晩どうにもならなくなるというのが、すべての人の認識になりつつある。だからこそ、近代的な生き方でリーダーシップをとり、その線上で指導を続けている人々の存在がたいへん小さくなってきた。・・・

 近代は権威を喪失し、リーダーはおしなべて矮小化した。結果として世界の実体は、かなりアナーキー(無政府・無秩序の状態)になっているにもかかわらず、私たちは少なくともしばらくは、若者たちでもその一生涯はこうした現実の上に生きなければならない。現代の不幸は何よりそこにある。しかし、近代的理念が崩壊することだけは絶対確実である。・・・未来社会におけるリーダーというのは、近代社会には容れられない、つまり今日における一種のアウトサイダー的な人間から出てくるだろうということを私は確信している』。・・・

 上述の「サーバント適合型の人々」を会田先生は、厳しい入試制度を潜り抜けた東大出型秀才にみる。あらゆる学科が平均してできること、すなわち、暗記力があって要領よくそれをまとめる能力を磨くことは、自分の頭脳をコンピューター化する訓練である。東大型秀才は確かに高度な工業社会には必要であるけれど、それは必ずしもリーダーの資質とはならない。コンピューター的頭脳は往々にして、状況の激変に対応力を欠くからと述べている。

 高度成長期のわが国に活躍した国家官僚が、時代の変化に十分対応できず、昨今多くの批判に晒されていることに符合する。



*9)会田雄次 1916-1997 歴史学者、1940年京都帝国大学文学部史学科(西洋史専攻)卒業、文学博士。1943年に応召しビルマ戦線に歩兵一等兵として従軍。イギリス軍の捕虜となり、1947年に復員するまでラングーンに拘留された。この時の捕虜体験を基に著した「アーロン収容所」は有名。他、「日本人の意識構造」など。

 本稿は、会田雄次著「日本人材論」昭和51年11月初版、(株)講談社刊を参考にし、引用、編集(『 』)して構成しています。
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リーダー第6回

2010年04月16日 | Weblog
リーダーシップ論

 幕末から明治維新にかけて、わが国を引っ張った国家レベルのしかも大変革の時代のリーダー像をみてきた。しかし、一般に企業組織等のリーダーシップを論じる場合には、組織論、人的資源活用の観点から研究者の各種有力な理論がある。それらは、レビン*7)の「リーダーシップ類型論」であり、リッカートの「システム4理論」であり、ブレーク&ムートンの「マネジリアルグリッド論」であり、三隅*8)の「PM理論」そしてフィドラーの「リーダーシップの状況適応論」およびハーシー&ブランチャートの「SL理論(状況適応論)」である。

 レビンとリッカートの理論は、リーダーシップ行動理論と呼ばれ、リーダーシップがとるべき行動を類型化し、それぞれに推奨するリーダーシップをあげている。これに対して三隅やブレーク&ムートンの理論は、リーダーシップ2次元論と呼ばれ、リーダーシップを2次元マトリックスで表わし、いずれも右上が理想のリーダーシップ像であると捉えている。しかしその後、状況によっては優れるリーダーシップは異なるとして、フィドラーやハーシー&ブランチャートのリーダーシップ状況適応論が生まれた。また、リーダーの個人的資質に注目した、ハウスらによるカリスマ的リーダーシップ論やバーンズらの変革的リーダーシップ論がある。

 これらの理論はそれぞれに一理あり、ゆえに理論として語られるわけでもあろうけれど、リーダーシップが一口に語りきれない複雑なものであることを示してもいる。

 リーダーシップの定義は、バーナードによるものが有力であるらしい。それは「信念を創り出すことによって協働する個人的意思決定を鼓舞するような個人の力」とものの本にある。すなわち、企業にあっては経営目標の達成のために、人々に影響力を及ぼすことである。言い換えれば、リーダーシップとは組織目標達成のために人材資源を最も効率的に活用する術であり、それは外部環境など、状況によって変化することは当たり前であろう。

 変化の激しい時代には、より機能的なリーダーが求められる。機能的であれるということは、先覚性があり、決断力があって、行動力がなくてはならない。高度な専門性を要する組織にあっては、当然に専門知識も要求されるけれど、理屈通りいく現実はないため、何より胆力が必要である。残念ながら、胆力を育む教育体系は未だ無いために、平和の長く続いたこの国に、優れたリーダーが育っていないのではなかろうか。




*7)クルト・レヴィン(Kurt Lewin, 1890 - 1947)(独)は、ユダヤ系心理学者で社会心理学の父と呼ばれる。リーダーシップスタイル(専制型、民主型、放任型)とその影響の研究が有名。
*8)三隅 二不二(みすみ じゅうじ/じふじ、1924- 2002)は、日本の心理学者。専攻は社会心理学。文学博士。元九州大学教授、大阪大学名誉教授、筑紫女学園大学・短期大学元学長。財団法人集団力学研究所初代所長。リーダーシップをパフォーマンスとメンテナンスの2つの機能の複合として捉えるPM理論で世界的に知られる。
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リーダー第5回

2010年04月13日 | Weblog
維新の三傑(下)

 『半藤:桂小五郎、後の木戸孝允はいかがでしょうか。幕末には長州藩の志士の最高責任者として倒幕に藩論を統一、薩長同盟を実現させました。維新後は新政府の中枢に入り、五箇条の誓文起草、廃藩置県の提唱など多方面に活躍しました、開明派の代表格です。

 磯田:桂が「公儀公論」というものの大切さを明治国家のなかで説いた。一介の民も国にきちんと意見できる国家をつくる。こういう恐るべき書生論をもっていた。吉田松陰、藤田東湖の時代からの思想ですが、官の暴走で誤りがちな日本という国家には必要な理想論です。僕はその青臭さを含めて高く評価したい。

 田中:明治8年に大久保と、下野していた木戸、板垣が集まり、今後の政府方針を決める大阪会議が開かれました。ここで立憲政治の導入に消極的だった大久保に対して、木戸は公儀公論を改めて持ち出して妥協させます。木戸の働きで議院のモデルである地方官会議が開設され、自由民権運動が地方に広がる契機となったわけです。・・・

 磯田:当時、議会を持つ国家を東アジアに樹(た)てることがいかに困難な作業だったかを考えると、桂の存在はとても重要です。そもそも、政策を立案する者と施行するものが同じであってよいのか。その議論になった時、官僚に立案も施行もさせていい、というのが大久保の考えです。一方、桂は、政策はあくまで公儀公論、つまり国民が決めるもので、役所はそれを執行する機関に過ぎないと主張した。こうした考えを明治初期の段階で持っており、ホラでもいいから吹いて歩いた。これは大切なことです。

 半藤:桂は藩を越えていろいろな人と会い、親交を深めながら、これからの国家像についても説いてまわった。一種の外交官としてこれほど働いた人はいないでしょう。司馬さんは・・・桂時代は、大村益次郎を発掘して育てたとか、「天秤の支点のような男」とそのバランス感覚を評価していますが、木戸になってから辛くなる。志士時代になるべく争いを避け、「逃げの小五郎」と呼ばれていたのは確かですが、生き延びたがゆえに元勲になれたという評価は酷でしょうね。

 磯田:・・・長州藩では清らかな人ほど維新を迎えられずに亡くなっています。・・・山縣も伊藤も、生きのびた人たちは危険から逃げた。自己愛と金銭欲が強い、一面、ずるい男たちです。しかし、その「ずるさのリアリズム」のおかげで、日露戦争でロシアと対峙した時、この国は間違わなかった。昭和の政治家や軍人は、純真な功名心だけで、そうしたずるさのリアリズムを失っていました』。

 リーダーとは、己の理想と現実の見極めをしっかりとわきまえることが必要であろう。その時代に必要なリーダーが、人間として立派であったかどうかなどということより、リーダーはやはり、結果として何を成したが問われるものであろう。謂わばリーダーは機能的でなければならぬものであろう。



本稿は、文藝春秋2008年7月号の「司馬遼太郎/日本のリーダーの条件」半藤一利氏、吉田直哉氏、田中直毅氏、関川夏央氏、磯田道史氏の対談記事から引用、編集(『 』)して構成しています。
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リーダー第4回

2010年04月10日 | Weblog
維新の三傑(上)

 西郷隆盛、大久保利通そして桂小五郎のちの木戸孝允を維新の三傑と呼ぶ。明治維新の原動力となった、薩摩と長州を率いて維新を成し遂げた。しかし、西郷は西南戦争に倒れ(満49歳)、大久保は戦争終結の翌年暗殺された(満47歳)。まさに相撃ちという形でこの世を去ったけれど、桂は二人に先んじて西南戦争中に満43歳で病没している。

 引き続き、文藝春秋2008年7月号の「司馬遼太郎/日本のリーダーの条件」半藤一利氏、吉田直哉氏、田中直毅氏、関川夏央氏、磯田道史氏の対談記事から引用によって、三傑のリーダー像を追ってみたい。

 『田中*6):司馬さんはこんなことを言っておられます。明治の人たちは“配電盤”をつくる以外になかった、と。幕府が倒れ明治になって、太政官政治が始まった。彼らは遅れてきた資本主義国として、帝国主義の犠牲者にならないために、まず中央に配電盤を作ることから始めました。それまでの三百藩をいったんご破算にして、中央の配電盤から日本列島全域に電気を流す仕組みを行き渡らせる以外にないという状況の中で明治維新政府ができるわけです。

 配電盤システムをつくり、いわば上からおさえつけるような形で近代化を目指したわけですが、独立国家として生き残っていくためにはこれしか選択肢はありませんでした。

 半藤:その配電盤作りという困難な事業を担った人たち、維新の三傑とも称される、西郷隆盛、大久保利通、そして桂小五郎について論じましょう。

 関川:「翔ぶが如く」を読むと、むしろ大久保は偉かったんだなという思いをあらたにします。西郷が主人公なんですけど、その人となりの雰囲気はわかるものの、どういう人物だったのか必ずしも見えてこない。また、西郷が考えていた政策というか、日本の将来像のイメージがわからない。これは小説の欠点ということではありません。事実、西郷とはそういう人だったんでしょうね。

 磯田:西郷は確かに難しい人です。「大西郷全集」を丹念に読むなどして彼の行動の原理を探ってみても、捉えきれない部分がある。西郷は安政の大獄の流れで、幕府の捕吏に追われ、僧侶の月照とともに錦江湾で入水自殺をはかりますが蘇生します。しばらく奄美大島に身を潜めた後に鹿児島に戻ってくるのですが、それまでとは容貌も違えば、性格も別人になっている。西郷は二人いると思ったほうがいいのかもしれません。

 司馬さんは「翔ぶが如く」のあとがきで倒幕段階の西郷は「陽画的」で、維新後は「陰画的」だと評している。

 半藤:一方の大久保は、明治政府の中央集権体制の確立に大きな働きをしました。維新改革の初期には版籍奉還、廃藩置県などを断行。内務省を設置し、自ら初代内務卿として実験を握ると、地租改正や徴兵令などを実施した。

 関川:大久保こそが明治政府の配電盤をつくって、日本を一つにまとめていった人物ですね。三十年ほどかけて日本を一歩一歩近代国家にするという具体的なイメージを持っていた。また、西郷と違って、日本中を1回焼け野原にしてつくり直そうという考えを比較的早い段階で捨てましたね。

 半藤:岩倉使節団として二年(明治4年-6年)ほど外遊していますね。

 田中:政府のトップリーダーが長期間、国を留守にして外遊してくるようなことをした開発途上国というのは他に類を見ないでしょう。二年もかけて欧米を回りながら近代国家とは何かを学んできたから、多少のことでは揺るがない。地に足がついています。
 
 要するに、産業革命から百年を経過したヨーロッパを見てきた人たちにとって、日本が目指すべき近代化像というのは明白でした。しかし、大久保はそれを西郷には伝え切らなかったし、西郷も理解しようとしなかった。・・・それが西南戦争(明治10年)で敵と味方に分かれるという悲劇につながったのでしょう』。

 穿った見方をすれば、岩倉使節団は西郷を仲間外れにすることで、西郷の将来の政権離脱(明治6年下野)を意図したように思えてしまう。西郷の理想論的政権は俗人政治家には面白くなかったかもしれない。しかし、明治2年に果てた大村益次郎は、すでに西郷の挙兵を予言していたといわれ、仲間に入らなかったのは西郷の意思かもしれない。いずれにしても、同じ高邁な人間といえど、時代の移ろいの中で、生涯良きリーダーで在り続けることなど出来はしないことを示すことだけは確かであろう。


*6)田中直毅氏(国際公共政策研究センター理事長、昭和20年生)
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リーダー第3回

2010年04月07日 | Weblog
坂本竜馬と勝海舟(下)

 『半藤:では、竜馬が感服した勝海舟はどうだったのでしょうか。実は私は勝海舟が日本のリーダーの中で一番すきなんです。

 勝は蘭学、海洋学を学び、咸臨丸を指揮して太平洋を横断渡米しました。幕府方軍事総裁として西郷隆盛と談判し、江戸の無血開城に成功した功績はあまりに有名ですね。海国日本の基礎を築き、多くの人材を育成した英雄です。

 司馬さんは勝が登場する作品をあまり書いていませんが。「竜馬がゆく」の中で、みんな藩意識しか持っていない時代に、日本というものをきちんと意識して、日本人としての自覚に立った、たった一人の人だというふうに書いている。・・・

 面白いのは、はじめ尊王攘夷派だった竜馬が、開国派の理論的指導者だった勝を斬りにいくも、逆に諭されて弟子入りしてしまった場面で、司馬さんは「余談であるが」と太平洋戦争論を始めるんですよ。つまり、いかにこの時代(幕末)の人が世界というものを素早く理解したか。それに比べて昭和の軍人たちは全く世界というものを理解していなかったと嘆くんです。・・・藩意識を超越して国家というもの、日本という国を本気で考えていた人物として、勝海舟を捉えています。

 関川*5):少し違う視点から論じますと、「坂の上の雲」のあとがきで、この小説の主人公であり、日露戦争を勝利に導いた秋山好古・真之兄弟に触れて、こう述べています。「この兄弟がいなければあるいは日本列島は朝鮮半島をも含めてロシア領になっていたかもしれないという大袈裟な想像はできぬことはないが、かれらがいなければいないで、この時代の他の平均的時代人がその席をうずめたにちがいない」。これは我々にとって、非常に頼り甲斐のある考え方です。要するに司馬遼太郎が言いたいのは、ある時代精神が人を呼び出すということなんですね。

 幕末の時代精神が呼び出した竜馬という人は非常に重要だけれども、もし彼がいなければ、また別に代わりとなる人物が現れただろうということを、司馬遼太郎は度々述べています。・・・その時代が持つ多様性によって、いろんなタイプのリーダーが必ず現れるだろうといっているわけです。・・・

 吉田:司馬さんの言葉で印象的なのが、「人材の生まれる環境には、圧縮空気がある」というものです。圧縮空気が充填したところでは、火も点きやすい。

 二度のペリー来航以来、日本は開国して近代国家を五十年にわたって営々と築き上げてきた。そしてその努力が日本海海戦の最初の三十分に凝縮された。

 ペリー来航から五十年後に明治のリーダーたちは大仕事をやってのけた。しかし、その四十年かそこらで大失敗したことを司馬さんは嘆いていました。』

 結論として、国がリーダーを生むのか、リーダーが国を方向づけるのか。鶏と卵のような論法になりそうであるが、よくいわれることは、国民は政府を批判するけれど、為政者のレベルはその国のレベルを端的に表すものだ。ということ。わけの分からぬ総理を擁して、混迷の度を深めるわが国の在り様は、まさに現代日本国民のレベルそのままなのであろう。


*5)関川夏央氏(作家、昭和24年生)
本稿は、文藝春秋2008年7月号の「司馬遼太郎/日本のリーダーの条件」半藤一利氏、吉田直哉氏、田中直毅氏、関川夏央氏、磯田道史氏の対談記事から引用、編集して構成しています。
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リーダー第2回

2010年04月04日 | Weblog
坂本竜馬と勝海舟(上)

 坂本竜馬(司馬遼太郎の「竜馬がゆく」では“龍”でなく、“竜”をあてているので、こう書く)が満31歳の若さで散ったのに対して、勝海舟は満75歳まで生きた。明治維新に貢献した英雄の多くが刑死、暗殺されまたは病気で短命だったのに対して、明治32年まで生きた。その役割として、旧幕臣の世話を通じて幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力をされたとある。また、私が学んだ柔道の形の本*1)に、『明治27年5月、講道館は下富坂に道場を新築し、その落成式の際、嘉納先生は、小田勝太郎氏を相手として「古式の形」を演ぜられたが、当日の来賓の一人勝海舟翁は、嘉納先生の演技の妙に感銘して次の名句を残しています。

 無心而入自然之妙 
 無為而窮変化之神

 この扁額は、今日なお講道館大道場の正面に掲げられています、・・・』とある。その慧眼は衰えていなかった。

 文藝春秋2008年7月号の「司馬遼太郎/日本のリーダーの条件」を引用しながらリーダーとは、を考える。

 『半藤*2):まずは、幕末維新を牽引したリーダーとしての坂本竜馬を論じてみましょう。司馬さんは「竜馬がゆく」のあとがきで「日本史が坂本竜馬を持ったことは、それ自体が奇蹟であった」とまで書いています。薩長連合の成立に奔走し、幕府の大政奉還を実現させるなど、明治維新の原動力になりました。また海援隊を率い、海運事業にも乗り出すなど、たぐい稀な発想力、行動力を持った人物です。なぜ、彼はこれほどまで大きな仕事ができたのでしょうか。

 吉田*3):なにより、「人たらし」の名人だったことでしょう。これはリーダーに必要な条件の一つだと思う。「竜馬がゆく」のあとがきには、「竜馬は、不思議な青年である。これほどあかるく、これほど陽気で、これほどひとに好かれた人物もすくなかった」とも書いています。

 半藤:桂小五郎にも「事をなすのは、その人間の弁舌や才智ではない。人間の魅力なのだ」「人どころか、山でさえ、あなたの一声で動きそうな思いがする」と評させています。・・・また、竜馬は人たらしではありますが、その分、自分でも相手にとことん惚れ込むところがありますね。

 磯田*4):ええ、竜馬は勝海舟に惚れ込み、勝先生に可愛がられ客分のようなものになった、と誇らしげに郷里に書状を送っている。

 半藤:司馬さんは、最後に竜馬が死ぬ場面で、「天の意思」という言葉を使っています。竜馬を書いているうちに、歴史とは天の意思が働いて動いていくんだということを、非常に強く感じたのではないでしょうか。・・・

 吉田:そうそう、いきなり明治維新のリーダーたちが生まれるんじゃないんです。江戸という多様性が、魅力に富んだ明治のリーダーたちを生み出した・・・「江戸にはバラエティがありました。幕藩体制があり、その中に薩長土肥というまったくちがう四つの国があった。このバラエティは世界史にはない。その中から明治のリーダーが生まれた。・・・」と司馬さんはおっしゃっていました。』

 薩長同盟の立役者でありながら、自分は何のポストも求めない。権力欲もない、誰からも愛された竜馬が、なぜ暗殺されなくてはならなかったのか。


*1)小谷澄之、大滝忠夫共著「新版柔道の形全」不昧堂出版
昭和52年6月3版
 *2)半藤一利氏(昭和史研究家・作家、昭和5年生)
 *3)吉田直哉氏(演出家・文筆家、昭和6年生)
 *4)磯田道史氏(茨城大学准教授、昭和45年生)
     *2)、*3)、*4)経歴等の出典は文藝春秋
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リーダー第1回

2010年04月01日 | Weblog
龍馬伝

 NHK大河ドラマ「龍馬伝」が大好評で、坂本竜馬ブームが再燃している。龍馬を演じる福山雅治さんは、女性にもてて誰からも好かれた龍馬をみごとに演じられている。福山さんは長崎工業高校のご出身とのこと。そもそも工業高校というのは大学を出た技術者を企業等で補佐する人材を養成する学校である。国や組織を背負う人材を期待してはいない。そんなことで、土佐の高知という田舎のしかも郷士に生まれた竜馬と何となく通じるような気がする。

 10年近く前、東京龍馬会が、龍馬会開催案内を新聞広告し、一般にも参加を呼び掛けたことがあった。会費1万円なら私も行って見ようという気になった。一つには、当時私が勤務した会社の副会長が土佐のご出身で、しかも龍馬大好きということで、龍馬を語るパネルディスカッションのパネリストに名をつらねていたし、ソウトバンクの孫会長もパネリストだった。生の孫さんのご尊顔を拝したのは今のところ、その時だけである。

 孫正義氏は、“「事業家」竜馬こそ私の手本”と題して、今年の文藝春秋4月号に寄稿されているけれど、『いまNHKの大河ドラマで『龍馬伝』が放映されていますが、おかげで、日曜日の朝、いやすでに土曜日あたりから胸がドキドキしてきます。思わずツイッターに「朝じゃ-!日曜の朝じゃ-!!」放映時間が近づくと、「もうすぐぜよ!皆、準備はよいか-っ」と書き込むほどです。・・・』と書かれているくらいの龍馬ファンである。

 その時の東京龍馬会の分科会でたまたま隣の席に、山内家18代当主の方が座られた。ご高齢とはお見受けしたが、立派な体格をされており、お元気そうであった。分厚い名刺の束をめくって1枚1枚確認されていたが、「高知にお住まいですか」という私の不躾な問いに、「いやあ東京と高知と半々くらいです」のように、気易く応えていただいた。続けて2,3お話したように思うけれどすっかり忘れている。私は貴族という人種にそれまで会ったことがなかった。ああ、貴人というのはこのような人をいうのだ。と神々しく感じて舞い上がっていたのだと思う。龍馬で思い出すなつかしい挿話である。

 文藝春秋2008年7月号の特集に「司馬遼太郎/日本のリーダーの条件」という記事がある。司馬先生といえば、当然最初に出てくるのは龍馬なのだ。この特集は、半藤一利氏、吉田直哉氏、田中直毅氏、関川夏央氏そして磯田道史氏の対談記事なのだが、開口一番半藤氏は、「いまの日本は混迷の時代に入っています。国会は空転が続いて何も決められず、経済も国際的な競争力をなくし、決して活況とはいえません。官僚たちの不手際も目立ち。不祥事は止むことがない。おそらく、各界においてしっかりしたリーダーシップを発揮できる人物が少なくなっているのも一つの要因ではないでしょうか。・・・」とある。

 そして政権交代がされたけれど、混迷はさらに深まっていることは論をまたない。
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