● 2014年4月27日(日)に放映されたNHKスペシャル「女性たちの貧困~“新たな連鎖”の衝撃~」 をみました。社会科学というのは、社会・経済の問題を分析して、なんらかの改善・変革のための方策を検討することに存在意義があります。社会科学を選択したひとたちは、程度の差こそあれ、そのような問題意識から出発しているはずです。
● そんななか今回のような報道に接すると、そもそも実態把握すら十分にできていないのではないかという無力感に陥ります。鬱勃とした思いが晴れません。
● 2014年4月27日(日)に放映されたNHKスペシャル「女性たちの貧困~“新たな連鎖”の衝撃~」 をみました。社会科学というのは、社会・経済の問題を分析して、なんらかの改善・変革のための方策を検討することに存在意義があります。社会科学を選択したひとたちは、程度の差こそあれ、そのような問題意識から出発しているはずです。
● そんななか今回のような報道に接すると、そもそも実態把握すら十分にできていないのではないかという無力感に陥ります。鬱勃とした思いが晴れません。
● 移動中の1冊は、野口悠紀雄『変わった世界 変わらない日本』。先進国から新興国に至るまで、1990年代の世界は大きく転換した。にもかかわらず、ひとり日本だけ、不良債権処理などにとらわれて、新しい時代の到来に気がつかなかった。そのような認識のずれと対応の遅れがいまなお尾を引いている。たとえば「日本再生」というとき、想定されているのは高度経済成長期の産業構造にすぎない。TPP交渉や法人税減税に関する議論では、既存産業のことばかりで、新産業創造に関する視点がない。エネルギー問題については、現在の産業構造を前提にした議論から脱却していない ── といった趣旨の指摘には納得させられます。
● 野口名誉教授によると、とりわけ政治に「現状維持バイアス」が働くのは「やむをえない面」があります。「いまだ存在しない産業は政治的発言力を持たない」からです。むしろ憂うべきは、企業の経営者ですら政治に依存しすぎて、「政府には成長戦略がない」などと公言している状況。では、どうすればよいかというと、「このバイアスを打破するのは、世論でしかありえない」とのこと。つまりは、私たち一人ひとり問題だということになります。
● 2014 年 4 月 19 日の日本経済新聞で、2011 年 3 月時点と 2014 年 5 月時点における 9 電力会社の電気料金を比較していました(標準家庭、月額)。この間の増加率は平均 23%。家計や企業活動に響いてくるはずです。しかも電力会社間の最大・最小格差は 3 年前には 531 円であったのが、1,383 円に拡大したとのこと。たしかに、この数字は大きいようにみえます。
● 電力会社間における相対的なばらつき度を計算してみると 、 2.7%から 5.2%にほぼ倍増しています。にもかかわらず、これはそれほど大きな格差とは必ずしもいえません。たとえば、47都道府県における人口1人あたり県民所得のばらつき度は 13~14%です。むしろ気になるのは、電源構成による料金の変化への影響のことです。単純には、「原子力比率が高かった電力会社ほど、料金の増加率が大きいのではないか」と予想されます。そこで、新聞記事のデータに原子力比率のデータ(自社発電量に占める原子力の構成比、2008~10年度加重平均)を追加して調べてみました。
● すると、原子力比率と 2011 年 3 月時点の料金のあいだには弱い負の相関がみられました。つまり、「原子力比率が高かった電力会社では、料金が相対的に低かった」ということです(原子力比率が高くて料金も高い電力会社がありますが、これを除けば、かなり直線的な関係がみられます)。では、「原子力比率が高ければ、それだけ料金増加率も高いはず」と思って計算してみたのですが、関係ありませんでした。むしろ両者の相関係数はマイナス 0.1であり、「原子力比率が高かった電力会社では、強いていえば料金増加率が相対的に低い」という結果になりました。
● これは意外でした。しかし、上掲の記事がちゃんと解説してくれています。料金格差は、高コストの液化天然ガス(LNG)に依存しているか、比較的低コストの水力や石炭を主に使用しているか、という電源構成の違いによるところが大きいのだそうです。電源構成の決定が人々の生活や企業活動に直接的に影響を及ぼすようになっているということです。
● 経済学のかなりの部分は、もっともらしく体系づけられてはいるものの、なんらかの事象について研究者の見解が一致するとは限りません。たとえば、規制緩和や構造改革を重視する供給論的見方と金融財政政策に依拠する需要論的見方がそうです。そんななか脇田成『賃上げはなぜ必要か』を読むと、こういった対立を見晴らしよく解きほぐしてくれます。
● バブル崩壊後の日本経済は、企業の内部留保の増大と投資の抑制、平均賃金低下による家計所得の減少、さらに需要減退の前で立ちすくんでいる。この閉塞状況を打開するには、まずは企業が賃上げをおこなうとともに、迂遠なようでも少子化対策に重点的に取り組む必要がある。そのような所得分配政策こそが需要と供給の懸隔を埋める ── というのが著者の主張。「マクロ経済的に考えれば、家計にどれだけ還元するのかをめぐって企業が競争するのが新古典派のロジックであり、貯蓄主体に支出を促すことがケインズ経済学の基本ロジック」という整理の仕方は明快です。
● 個人的には、企業の内部留保への課税は考えられるにしても、政府部門が企業に賃上げを呼びかけることには、どこか薄気味悪さを覚えます。しかし、脇田教授は政府介入が正当化できるとみています。その理由は、企業の内部留保の肥大化はマクロ経済に外部不経済を引き起こしていること、株主のものでも社員のものでもない内部留保の増大は企業価値を低下させる点で企業ガバナンスの欠如をもたらしていること、さらに「企業は家計のためにある」というのが市場経済の大原則であること、ヨーロッパ諸国では政府首脳による企業への賃上げ要請が珍しくないこと。
● なるほど、この説明は説得的です。納得させられそうです。このほかにも、行政サービスの地方分権といってもせいぜい自然環境の違いを反映した程度ではないか、壊死に向かいつつある地方が延命するためには少しでも「頭数」を確保すること が必要であり、地方に安易に権限を移譲するのは「病巣」を転移させるようなことにならないか ── といった趣旨の指摘にも大いに考えさせられました。
■ 30年以上も前に読んだ、たしか Jeffrey H. Archer の小説だったと思います。大学の教員が「ぜったいにしてはいけないこと」という話が出てきました。ひとつは、いうまでもなく剽窃・捏造。もうひとつは、教え子と不適切な関係を持つことだったと記憶しています。
■ さて、このたびのSTAP細胞問題。報道やインターネットでの指摘によると、捏造については、どう強弁しようとも逃れることはできないようです(本人の学位論文については剽窃の疑いもあるとのこと)。少なくともSTAP細胞の存在が明らかになれば、それこそ「世紀の発見」によって汚名を挽回しうるかもしれないのでしょうが、本人の記者会見を聞いているかぎり、素人目にみても説得的には思えません。
■ STAP細胞の「発見」が鳴り物入りで発表された直後、インターネット上で「夢見る夢子ちゃんがまたなにかやらかした」という趣旨の書き込みを見かけました。そのときには研究者仲間による揶揄か嫉心ぐらいに思っていたのですが、どうやらそうでもなかったのかもしれません。本人が「あります」と明言した「STAP細胞」というのは、実はまったくの別物である可能性も考えられます。
● 堺屋太一氏の著書で、「日本人の平均寿命は延びているため、たとえば現在の80歳というのは、その“八掛け”、つまり数十年前の65歳くらいと考えればよい」という趣旨の指摘を読んだことがあります。これは直感的に理解しやすいのですが、もちろんもっと厳密な議論が展開されています。
● 2014年4月4日の「日本経済新聞」(経済教室)では、国立社会保障・人口問題研究所の金子隆一副所長が「平均余命等価年齢」という概念を紹介しています。これは、「各時代で平均余命の等しい年齢を同じ年齢とみなす」こと。1960年時点の65歳というのは、平均余命からみると、2010年時点では男性74.8歳、女性76.5歳に相当するのだそうです。これを超えるひとたちを「高齢人口」と定義すれば、総人口に対する比率は10.4%にすぎません(実際の65歳以上人口比率は23.0%)。
● 国際比較の都合などにより、65歳以上が高齢人口とされています。65歳というのは、わが国では老齢基礎年金の受給開始年齢でもあり、ひとつの区切りといえます。とはいえ現在の65歳というのは、半世紀前の55歳前後に相当すると考えればよいのでしょうか、65歳を超えてなお元気なひとは大勢います。65歳以上人口比率が50%を超える中山間地域に行くと、70~80歳代の多くのひとたちが「現役」です。「65歳以上をひとくくりにするのはもう止めてほしい」とみずから訴えています。前掲の金子氏も、長寿化にあわせて「年齢固定的な社会制度や企業経営の改革」を急ぐべきとしています。
● となると、やはり気になるのは老齢基礎年金の受給開始年齢のこと。ちょうど鈴木亘『社会保障亡国論』を読んだばかり。この本は「全体として楽しい内容とは言えないが、一つ一つ解決策が存在していることがせめてもの救い」と述べているとおり、公的年金制度改革に関する提言はきわめて明快です。すなわち、受給開始年齢を引き上げると同時に、賦課方式から積立方式に早期に移行するということ。このような著者の主張は一貫しています。問題なのは、はたしてどう実現するかということ ──。わが国の意思決定システムにおいて大きなウエイトを占める団塊世代が受給年齢に到達しているなかで、とりわけこの世代になんとか納得してもらわなくてはなりません。
● たとえば大阪市職員のなかには豊中市や高槻市に住んで、そこから通勤するといった例は珍しくないと思います。双方向に流動性の高い大都市圏では、地方公務員の居住地と勤務地の不一致は、さほど問題にならないはずです。ところが地方圏では、どこか滑稽で、しかし笑えない、少々深刻な問題が起こる可能性があります。
● 中山間地域の市町村職員には、子どもの教育などの理由で近隣の都市に居住するひとが少なくありません。そのような非居住職員に通勤手当を出すかどうかが議会で取り上げられることもあるとのこと。日本国憲法第22条を持ち出すまでもなく、どこに住もうが本人の自由なのですが、通勤手当の話には理解できなくもない気持ちにさせられるところがあります。ある自治体などでは、非居住職員が率先して勤務地の自治体に「ふるさと納税」をしようと呼びかけているのだとか。
● となると、かえって話がややこしくなりそうです。B市に住んでいる地方公務員のX氏が勤務先のA町に「ふるさと納税」をしたとします。これにより、B市におけるXさんの住民税は税額控除されます(国税である所得税の控除・還付の問題は無視します)。B市からいえば減収になりますが、A町にとっては増収になります。結局のところXさんは、行政サービスを実際に享受しているB市への租税負担の一部を免れると同時に、支払った「ふるさと納税」をみずからの職員給の一部として取り戻していることになります。