一会一題

地域経済・地方分権の動向を中心に ── 伊藤敏安

政府の親心

2012-03-31 11:10:10 | 媒体

■ 消費者や企業の選択・意思決定とその帰結について分析する通常の経済学は、「人々はいつも合理的に行動する」というきわめて危うい前提のもとで組み立てられています。現実にはそうでないことは、自分自身に照らし合わせてみるまでもありません。人々の選択・意思決定をより深く分析しようとすれば、心理学や行動科学の領域に近づいていきます。

■ ニック・ポータヴィー『幸福の計算式』(阪急コミュニケーションズ)を読みました。収入の変化、失業、出産、家族との別れなどによる幸福度への影響について、分析手法を平易に解説しながら、最近の研究成果を紹介しています。こういった研究は、たとえばマーケティングに応用できそうです。その半面、地域内総生産、就業構造、地方債現在高といった「集計された結果」をふだん扱っている立場からすると、ほかにどのような政策的含意があるのだろうかと訝りながら読んでいたところ、ようやく最後に言及されていました。

■ 行動経済学から生まれたキーワードが“libertarian paternalism”と“nudge”。人々は望ましくない選択をしてしまうかもしれないからといって、政府部門が介入しすぎるのは望ましいことではありません。そこで、政府部門が人々の選択にあからさまに介入するのではなく、適切な選択肢を提示するなどして、背中を軽くつつく程度なら構わないという考えです。よく引かれる例は、確定拠出型年金 401(k) や臓器移植ドナーの登録。「意思があれば○をつけてください」という表現ではなく、「意思がなければ○をつけてください」とすれば加入率が高くなるということです。池田新介「“自滅選択”回避へ政策余地」(2012年3月26日付け日本経済新聞)でも、いくつかの応用事例が紹介されています。

 最も肝心なのは、人々の主体的かつ自由な選択が確保されているかどうか。ポータヴィーによれば、「自身の不幸は自制心の欠如や先送りによるものだと国民が自覚し、リバタリアン・パターナリズムを進める人たちからの提案を必要としたとき──そのときだけ──人々の幸福度を高めることを目指した行政介入が道徳的に見て正当化される」とのこと。そもそも幸福に関する研究は、人々の幸福度そのものの向上を図るためではなく、「政治の本質を改善するためだけに利用されるべき」と節度を保持しています。

● だとしても難儀なのは、そのような選択肢をだれがどのように決定するかということ。『実践 行動経済学』(日経BP社)の著者である Thaler & Sunstein によれば、費用・便益分析を援用できるし、少なくとも多数派の人々の行動を観察して決めることができるなどとしています。その決定がたとえ間違いではないとしても、さらに錯綜させるのは集合的な意思決定の問題。政治・行政プロセスを経るなかで、有権者の判断とは異なる政策に決着することは珍しくありません。


復興予算の規模

2012-03-23 20:38:13 | 媒体

● 東日本大震災からしばらくして、私が所属している学会の1つが復旧・復興にかかわる研究会を設置しました。その研究会において、原田泰「復興予算“20兆円”で東北がゴーストタウンになる」(『週刊新潮』2011年7月28日号)という論文が話題になったことがあります。この論文は、震災の被害額に関する推計と復興予算について、きわめて素朴な疑問を投げかけたものです。巨額の復興費が投入された神戸市、特に長田地区の現在の姿を直視すべきともしています。ところが、同氏の指摘について、それ以上に深く議論することはありませんでした。復旧・復興に向けて早急の対応が求められるなかで、公表された被害額が既成事実化していたからだと思います。

● 同氏の最新刊『震災復興 欺瞞の構図』(新潮社)を読みました。上掲論文の趣旨を詳述したうえで、具体的な復興方策に踏み込んでいます。今回の大震災は数百年、千年に一度の規模とされ、甚大な被害をもたらしました。一刻も早い復旧・復興が求められていることは否定すべくもありません。とはいいながらです。公共選択論が教えるとおり、集合的な意思決定にはさまざまな歪みが生まれます。直截にいえば、被害額が大きければ予算規模も大きくなるということです。同書は、今回の震災の復旧・復興計画にかかわる政治経済学といえます。

● 著者が憂えているのは、復興予算が適正かどうかということだけではありません。それをまかなうための増税と復興債発行は、日本経済ならびに国・地方の財政に影響を及ぼすことが懸念されます。さらに首都圏や太平洋沿岸において大規模地震の発生が予想されているなかで、今回の震災への対応が前例となりかねないことも危惧されます。

■ 被災地を目の前にすると、復興費用が巨額すぎるのではないかと口にするのは、はばかられると思います。それを著者は敢えて問い、すこぶる真っ当な──だから受け取り方によっては苛酷ともみられる──表現で淡々と述べています。著者は「書いている途中で、何度も無力感に襲われた」(あとがき)と思わず真情を吐露しています。これは、著者の温厚さと真摯さのあらわれだと思います。


遅々とした変化

2012-03-17 12:28:28 | 媒体

● 東日本大震災から 1 年が経過しました。新聞・雑誌でさまざまな特集が組まれています。共通して指摘されているのが政治の混乱。北岡伸一「“受動的な無責任”改めよ」(2012年3月13日付け日本経済新聞「経済教室」)によれば、「戦後政治についていわれてきた危機意識の欠如と公的精神の衰退は、震災でより顕著に浮かび上がった」と辛辣です。

● さらに手厳しいのは 2012年3月10日付けの the Economist。日本と原発に関する特集の 1 つは“The death of trust”という無署名記事。「3.11」以降の日本では、民間部門と政府部門、中央政府と地方政府、政治家と官僚のあいだに不信、幻滅、疑念が広がっていると指摘しています。国際世論調査によると、政府に対する日本人の信頼は急落、いまやプーチン政権下のロシアと変わらない程度だとか。政府不信が高じると、だれも国債を買わなくなるとも述べています(電子版の読者の 1 人は、この見方について「消費税率アップにより貯蓄が減退すれば政府債務は減少せざるをえない」とコメントしていますが)。

■ 同記事が日本にとって救いとしているのは、県・市町村の取り組みやNGO・ボランティアの活動に自助・自立の精神がみられること、新たな起業の動きがあること、企業は自己防衛に乗り出していること。閉塞状況を打破するには、まずは声を上げることだと提言しています。

● が、もどかしいのはその速度。同記事の表現によると、「日本の変化はあとになってみないと分からない」としています。これに類した指摘を見かけたことがあります。2000年代前半に西欧を移動中の機内で手にしたやはり the Economist だったと思います。「日本の変化は緩慢だから気がつかないが、何年か経てば必ず変化している」という主旨です(なるほどと思ったので何かに控えたのですが、悔しいことにすぐに出てきません)。たとえ体感できなくてもどこかが変化しているとすれば期待が持てると思います。


Social inclusion

2012-03-10 10:46:07 | 媒体

■ 社会民主主義の伝統のせいでしょうか、ヨーロッパ大陸では「経済か社会か」という議論が活発です。英国でも、EU統合への動きとも相まって、この議論に参加してきました。1997年に誕生したトニー・ブレア内閣の基本理念の 1 つは「Social exclusion から Social inclusion へ」。貧困、障害、少数民族、失業などの理由で社会的に排除された人々に機会を与え、仕組みを変えることで、社会に包摂・包含していこうとする考えです(それでも Armstrong & Taylor によると、EUは社会的目標を指向していたのに対し、英国政府は依然として経済的目標に重きを置いていたとされます)。

● 阿部彩『弱者の居場所がない社会』 (講談社)を読みました。副題は「貧困と格差と社会的包摂」。なにか不具合のある人は、さまざまな社会的・物理的な障碍があるがゆえに“障害者”にされるという考え方と Social inclusion との類比はおもしろいと思いました。その半面、Social inclusion の基本は雇用政策であるとしながら、それ以上に踏み込んでいないのが少し心残りでした。

● 同じころ出版された中島隆信『刑務所の経済学』 (PHP研究所)が扱っているのも、やはり Social inclusion の問題といえます。微罪の犯罪者でも刑務所に収容することは、塀の外の人々の負担を必要とするだけでなく、個々の犯罪者が持っている比較優位を生かせるにもかかわらず経済社会から隔離することだと指摘しています。私がいるキャンパスの 1km ほど先の刑務所では脱走騒ぎがあったばかり。塀の中の話を興味深く読みました。

● 同著では、さらに更生保護や企業による受刑者の雇用の問題に言及しています。人々の比較優位や Social inclusion の観点から刑務所の問題をとらえようとするのは、同じ著者による『障害者の経済学』 (東洋経済新報社)などで紹介されているとおり、排除された人々に対する“父親”としての温かいまなざしが投影されているのだと思います。


あれから1年

2012-03-03 12:09:40 | 媒体

● まもなく「3.11」から1年を迎えます。とりわけ原発の是非をめぐって、さまざまな本が出版されてきました。それぞれの立場から多様な議論が展開されているのですが、読んでみてもなかなか釈然としません。そのなかで印象に残ったのは、齊藤誠『原発危機の経済学』(日本評論社)、池田信夫『原発「危険神話」の崩壊』(PHP研究所)、橘川武郎『電力改革』(講談社)3冊。2人は経済学、1人は経営史の研究者です。

● 経済学というのは、消費者・企業・政府部門がどのような意思決定をおこない、その結果どのような状態が生まれ、それによって社会全体の望ましさがどのように変化するかを分析する手法です。もちろん限界はあるのですが、経済社会の問題を解きほぐすツールといえます。これら3冊は、安易な推進論に与せず、素朴な反対論に偏ることなく、経済学的思考のもとで、エネルギーと経済社会の関係を見通しよく整理し、今後の方向について冷静に検討していると思います。

● そもそも私たちの経済社会は、地球や自然界に働きかけて有用なものを取り出し、それらを加工・交換・消費・廃棄することで成り立っています。エネルギーと経済社会の関係は、プランAかプランBかという二者択一の綺麗事だけでは片付けられません。情緒的雰囲気に流された選択は、危険をかえって増大させてしまうおそれがあることに留意しなくてはなりません──これら3冊を読んでの感想です。


新年度当初予算案

2012-03-01 18:23:33 | トピック

● 都道府県・市町村の2012年度当初予算案が出そろってきました。当初予算案をみるとき、納税者として、特に2つの点に気をつけておく必要があると思います。

 

● 1つは、基礎的財政収支(PB:プライマリーバランス)です。これは「(歳入-地方債)-(歳出-公債費)」のことです。PBがゼロということは、その年度の地方税収入などで政策的経費がまかなえることを意味します。経済成長率に比較して金利が安定している限り、地方債残高は増えません。PBが赤字になれば、新規に地方債を発行して収入を確保しなくてはならないため地方債残高は累増していきます(これはDomarの条件」に対応しています)。

 

● 2000年代以降、都道府県・市町村はPBの黒字を維持してきました。しかし、世界的な景気後退や円高の影響で税収は伸び悩む一方、歳出はそうそう減らすことができません。ここ1~2年は多くの地方自治体でPBの黒字幅が縮小しているか赤字になっているとみられます。PBは、大まかには「公債費-地方債」とみなせます。これでしたら、都道府県・市町村の当初予算案で容易に確認することができると思います。

 

■ もう1つは、抑制すべきところを抑制するという、まあ当然といえば当然のことです。PBを「公債費-地方債」でみるということは「歳入=歳出」とみなしていることにほかなりません。PBが赤字、つまり「公債費<地方債」であっても、「歳入>歳出」であれば、PBの赤字幅は縮小するかゼロに近づけることができます。そもそも「歳入>歳出」であるなら新規に地方債を発行する必要はありません。が、「公債費<地方債」の予算編成をしたときには、PBの改善を意識した財政運営を図っていくことが求められるということです(これはBohnの条件」に対応しています)。

 

● 財政学では、財政需要を見極めたうえで必要な負担を求めるという「量出制入」の考えが重要とされることがあります。けれども、「量入制出」が要請されるのは家計と同様です。都道府県・市町村の当初予算案には主要事業の予算が提示されています。納税者としては、「出」について、「租税や地方債を投入してまで実施する必要があるか」「民間で代替できないか」「緊急性は高いか」「類似の事業が重複していないか」「支出に見合った効果が発揮されるか」といったことを評価・点検し、問題があれば積極的に声を上げていくことが必要と思います。