アイ!サラマッポ in フィリピン & ジャパン!

‐Ay! Salamat sa Pilipinas at sa Japan!‐
 フィリピン、そして日本にありがとう!

「ピープル・パワー1」(エドサ革命)から24年…。

2010年02月25日 | My life in マニラ

(ニノイ&コリー・アキノご夫妻・Mr. & Mrs. Aquinoの銅像-ロハス大通り沿いリサール公園の近く。)
 今日2月25日は、1986年の「ピープル・パワー1」(People Power 1・エドサ人民革命-Edsa Revolution)の24周年記念日です。旧ブログ(アイ!サラマッポ in バギオ)、去年の記事から。↓

 ピ-プルパワー革命(平和的人民革命)記念日

 コリー・アキノ元大統領…「安らかに。」

 マニラ大聖堂でアキノ元大統領追悼ミサが…。(国葬)

 フィリピンの国の方向性が、それまで我慢に我慢を重ねていた国民の手によって、劇的に転換された瞬間でした。
 先日行われた世論調査では、「愛すべき指導者は?」という問いに、故コラソン・アキノ元大統領(愛称コリーさん)が35.4%で第1位だったそうです。

 コリーさん(故コラソン・アキノ元大統領)のお誕生日に銅像が…。


 

 
(コリーさんご生誕77周年だった1月25日に、夫ベニグノ氏-ニノイ氏の銅像の横に建てられました。)

故ベニグノ・アキノ氏の銅像↓
 

 

 黄色がシンボルカラーのコリーさん、「ピープル・パワー1」の時にはフィリピン国中が黄色で染まりました。
 
(ダバオ市で撮った黄色のランを…。)

 
ネット上で、当時の模様を伝えるこんな映像を見つけました。↓

People Power: The 1986 Philippines EDSA Revolution
 http://video.google.co.jp/videoplay?docid=-3160364396904211298&ei=18GES67xBYfKwgPzyfXqDQ&q=people+power&hl=ja#

 生々しい場面の連続で、悲惨なシーンもありますが、この「ピープル・パワー1」がいかにして成し得たかが分かる、すごくよく編集されたビデオです。マルコス元大統領一族が、アメリカ空軍のヘリコプターで、マラカニアン宮殿から(フィリピンから)逃亡する映像まであります。アメリカが、当時のフィリピンに大きな影響力を持っていたことが伺えます。故レーガン米大統領の姿も…。(日本は、当時中曾根総理。)

 余談ですが、昨日はNHKワールドの「スタジオ・パークからこんにちは」で、ゲストにオノ・ヨーコさん(Yoko Ono)が…!ジョン・レノンとの知られざるエピソードを知って胸があつくなりました。(昨年11月に放映されたもののようです。)
Give Peace A Chance - John Lennon
 
http://www.youtube.com/watch?v=I-NRriHlLUk&feature=related

John Lennon - Power To The People
 http://www.youtube.com/watch?v=Wos-dDxpJlQ&feature=related


フィリピン人はお祭り好き!-バギオ、ダバオ、ラス・ピニャスのフェスティバル

2010年02月23日 | My life in マニラ

(2009年のバギオ市フラワー・フェスティバルのパレードから。)
 今週末は、昨年市制100周年を迎えたバギオ市の「フラワー・フェスティバル-Panagbenga」(15回目)のクライマックスとなる二つのパレードがあります。
27日(土)は「Grand Panagbenga Street Parade」(人々がダンスや音楽などを繰り広げるストリート・パレード)で、28日(日)は「Grand Float Parade」(花で飾られた山車のパレード)。両日とも、朝8時からセッション大通りを通って、アスレティック・ボール(競技場)までの街中を凱旋します。
 以前のブログ(アイ!サラマッポ in バギオ
)の記事から。↓

 フラワー・フェスティバルは最高潮


 バギオは花盛り・人だかり-フラワーフェスティバル

 Youtube
の映像(2009年のフラワー・フェスティバル)から。↓
 http://www.youtube.com/watch?v=4MPyAvEz5F8Panagbenga 2009 -baguio city

 
イゴロット民族・Igorots(コーディリエラン・Cordilleran-山岳民族)の衣装を身につけた、オリエンタルなダンスや音楽…、魅力的ですね。
でも、このコーディリエランのカリンガ・Kalingaという民族には、こんな歴史、事実も…(ちょっとこわい…)。↓
  地元の若い女性が書いた山岳民族、首狩りのこと

(バギオの友人、させたもつさんのブログから。)

 
昨年10月初めに、台風ペペンにより大きなダメージを被ったバギオ市ですが、更なる街の復興と、フラワー・フェスティバルのご成功をお祈りします。

 
また、先週から今週にかけては、マニラ、ラス・ピニャス市のバンブー・オルガン教会では、スイスやチェコのオルガニストを招いて、35回目となる「バンブー・オルガン国際音楽祭」が開催されています。(2月18日~24日。要チケット、有料です。)↓
 
http://bambooorgan.org/index.html(オフィシャル・ウェブサイト)

 以前のブログの記事から。↓
 マニラ湾のサンセットとバンブーオルガン…半年ぶりのマニラで。

 
そして、ミンダナオ島ダバオ市では、行政区域世界一を誇る市のお祭りとして、今年も「アラゥ・ナン・ダバウ-Araw ng Dabaw (The Day of Davao)」が3月中旬に開催されます。こちらは73回目…。
 

 Youtubeの映像(2009年の)から。(日系人会!)↓
 http://www.youtube.com/watch?v=aznXtykbJdU&feature=related(Nikeijin kai Araw Ng Dabaw 2009)

 
今月は、先々週末にバンクーバー・オリンピック開催に、旧正月(春節・Chinese New Year)、そしてバレンタイン・デー(St. Valentine’s Day)も重なり、ここマニラの巷でもにぎわいを見せていました。

 フィリピンのバレンタイン・デー St. Valentine's Day

 昨日22日は、大統領令で、25日のピープル・パワー(1986年の平和人民革命)の記念日を月曜日に移動しての休日(祝日)となりました。マカティ市あたりで大きな打ち上げ花火が上がっていました。花火がよく上がる所ですね、ここは…。
 
なんか締まりのない内容になってしまいましたが、ラス・ピニャス市(3年間)、ダバオ市(4年間)、バギオ市(1年間)は、私が過去にロング・ステイでお世話になった街です。お祭りやお祝い事の好きなフィリピンの国民性を感じていただけたら、と思います。


フィリピン・フィエスタ in 東京ビッグサイト-フィリピンの若き歌姫サラも…!

2010年02月20日 | 音楽

 フィリピンの国民的アイドルで、人気、実力ともに若手トップの女性シンガー、Princess pop star(フィリピン・ポップミュージックのプリンセス)「サラ・へロニモ-Sarah Geronimo」(ほめ過ぎ?^^;)も来日、ゲストで出演する「プレミアム・フィリピン・フィエスタ・2010」"Premium Philippine Fiesta 2010" が、1か月後の3月20日(土)に、東京ビッグサイトで開催されます。
※ このポスターでは3月10日(土)となっていますが、間違いでしょう。

 午前10時開演のこのフィエスタ(祝祭)には、東京外国語大学のフィリピン民族舞踊団も参加するほか、フィリピンのジェド・マデラ-Jed Madelaやビリー・クロゥフォード-Billy Crawfordといった実力男性シンガーも来日します。音楽監督にルーウィ・オカンポ-Louie Ocampo、総監督にはランディ・サンチアゴ-Randy Santiagoという力の入れ込みようです。入場料は2500円で全席スタイディング…、チケットは「JENET TRAVEL ALLIANCE・ジェネット・トラベル・アラィアンス」(Tel:03-5338-8460・日本語と英語で対応)まで、となっています。詳しい内容は以下のHPで…↓

 http://www.philfiesta2010.com/main%20japanese.html
(それにしても、一日限りのイベントにしては、英語のほかに日本語とスペイン語のページもある、よくできたホーム・ページですね。)

 さて、この「サラ・ヘロニモ」というシンガーは、2003年に、フィリピンの名実ともにトップ・シンガーである「レジン・ヴェラスケス(レジーナ)-Regine Velasquez」(Asian song bird-アジアのひばり?と呼ばれている)のオーディション番組で優勝。デビューを果たしたのは15歳の時でした。現在21歳。
 Youtubeから、彼女を一躍スターに伸し上げた名曲3曲を拾い出してみました。↓

 Sarah Geronimo - To Love You More(これは14歳の時の映像のようです。)
 http://www.youtube.com/watch?v=6qDExs-r3Lw&NR=1

 Sarah Geronimo -
Forever's Not Enough
 http://www.youtube.com/watch?v=A4vuHwRrdD4&feature=related

 Sarah Geronimo - How Could You Say You Love Me
(16歳頃の映像)
 http://www.youtube.com/watch?v=yIGeZaDs8KE&feature=related

 この「How Could You Say You Love Me」が入っている2枚目のアルバム『Sweet sixteen』は9万枚以上も売れたそうです。(実は私も買いました…^^。)↓
 

 フィリピンは、自他共に認める歌やエンターテインメントの優れたお国柄。アメリカも活動の場とするレジン・ヴェラスケス
が、マライア・キャリーに「歌の上手いイエロー・モンキー」と呼ばれて、「あなたはブラック・モンキーよね。」と言い返したとか…。凄い話の内容です。

 
それはさておき、「プレミアム・フィリピン・フィエスタ・2010」は、顔ぶれも内容も魅力的で、結構楽しめるイベントだと思います。お時間のある方はぜひ…。(東京ですが…。)


外国人看護師・介護福祉士候補者の資格試験にふりがなが…!?

2010年02月16日 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー

 先日、NHKの「おはよう日本」が報じていた、インドネシア人の介護士に対する介護福祉士国家試験のひらがな付き模擬試験が、さいたま市で実施されたそうです。そこでは、「ふりがなを振った問題」と「ふりがなを振らない(漢字だけの)問題」という二種類の模擬試験が、インドネシア人介護士18人に対して試験的に行われました。経済連携協定(EPA)に基づいて2008年8月に来日し、各地の介護施設で働いているインドネシア人の介護士の人たちです。模擬試験は、介護福祉士の資格試験を受けるにあたり、どのような支援が必要か検討するために厚生労働省が初めて行ったもので、ようやく一歩前進といった印象です。
 
今回模擬試験に挑んだ18人は、一年半前に、外国人として初めて日本に足を踏み入れたインドネシア人介護士約百人から選抜された人たち、半年間の日本語等の研修を終えてから介護現場で働き始めてからちょうど一年間経った人たちです。介護福祉士の資格試験には「三年間の実務経験」が必要ですから、この人たちにはまだ受験までに二年の猶予があります。ただし、その初めて挑む本試験で合格できなければ、在留資格を失い、帰国しなければなりません。介護福祉士候補者については、「チャンスは一度きり」なのです。この件に関しては、頭をかしげたくなるような合意事項、というか、あまりに酷な内容、バリアが高すぎます。国家間の協定の中で、ですよ。当初から、EPAを通じての外国人看護師・介護福祉士の日本での雇用は考えていない、と宣言しているような内容です(不思議???)。それとも、受け入れ後、外国人がどれだけ医療と介護の現場で通用するか、まずはお手並み拝見…といった思惑でもあるのでしょうか?
 EPAを通じての外国人看護師・介護福祉士受け入れに当たっては、当初からその基本的な方針がはっきりしないまま、受け入れの準備体制などにも不安を抱えながらの見切り発車という感じでしたが…。今回の模擬試験は、受け入れ先や、外国人看護師・介護福祉士候補者を支援している関係団体等の要望を受けて、また1月中旬、岡田克也外相が、都内のホテルでインドネシアとフィリピンの両外相と相次いで会談、両国出身の看護師と介護福祉士の日本国内での雇用拡大に努力する、という意向を受けての一つの試みでもあったようですが、お年寄りや病気の人を預かる介護・医療現場では、早くて明確な対応策が望まれていることでしょう。
 外国人の介護者に関心を寄せている施設は少なくないのに、多くの病院や施設が2年目の受け入れには踏み切れなかったそうです。外国人を受け入れ育てるのにはお金がかかり過ぎること、即戦力としては多くは期待できない、などの理由もあるのでしょうが、一番の問題はその在留資格に関する厳しすぎる条件なのではないかと思います。せっかく入居しているお年寄りにも受け入れられ、介護の知識や技術だけでなく、日本の生活習慣にも慣れた頃に、一度きりの試験に落ちたらサヨナラ…というのは、施設側にとっても大きなダメージとなるでしょう。もちろん、2年後の本試験では何人かの合格者は出るかもしれませんが、厳しい状況であることは変わりないでしょう。
 一方、看護師の方は、それぞれの国の看護資格を持ち、3年以上の実務経験者たちですから、3年間の日本滞在中に国家試験には少なくとも2度受験できます。が、日本語(漢字)での、難しい専門用語や病名が並ぶ看護師資格試験にパスするのは至難の業でしょう。現在は、受け入れられている病院で「正看護師」としての仕事はできませんから、補助的なお手伝い…をしています。看護師としてのプライドと現実との間で葛藤し、将来への不安を抱えながら、看護試験勉強を続けているのでしょうね。
 日本の雇用環境が厳しいことも影響し、外国人介護士を受け入れようとする施設がかなり減りつつある中、インドネシアから昨年11月に来日した第2陣は看護師・介護福祉士候補者の計3百数十人、当初の「2年間で、看護師4百名、介護福祉士候補者6百名」という枠を下回り、第1陣と合わせて569人にとどまったそうです。
 
フィリピンにしても、事情は同じです。2010年度のフィリピン人看護師・介護福祉士候補者の、日本の施設・病院からの求人数はわずか「178人」。そして、フィリピン・サイドでも、応募者で条件をクリアした面接受験者は「410人」だけだったそうです。となると、フィリピンからは、昨年5月に来日した第1陣と合わせても、当初の千人受け入れ予定の約半分、5百人前後となりそうです。…(残念。)
 
(昨年5月の母の日、マスクをして来日したフィリピン人看護師・介護福祉士候補者たち)

(参考)以前のブログアイ!サラマッポ in バギオ」より。↓

 http://blog.goo.ne.jp/isshin3_ph/c/1ae6f2406bb8beed3975d057ca1e19c3

 フィリピン人ケアギヴァー(介護士)

 個人的には、日本も、もっと民間レベル、個人レベルでも外国人介護士(ケアギヴァー)に日本国内で働いてもらえるように、就労ビザ取得、在留資格の要件を緩和してほしいなあと「夢」見ています。「Private duty caregiver」(個人の雇用契約での介護士)は、前回の記事のカナダだけではなく、高齢化の進む多くの国がフィリピン人介護士・ケアギヴァーを受け入れています。


二人の元専従介護者 in バンクーバー

2010年02月13日 | フィリピン人看護師・ケアギヴァー

 今日からいよいよバンクーバー・オリンピックですね!日本のアスリートたち、今回はいくつのメダルを持ち帰ってくれるでしょうか?ご健闘を祈ります。

 バンクーバーには、私の介護に専従で関わってくれたフィリピン人が二人います。二人とも新聞広告を通して出会ったのですが、一人はマニラで、もう一人はダバオで関わってもらったので、二人はお互いを全く知らないのです。なのに、二人はバンクーバーで偶然出会って…。この二人のツー・ショットの写真が「これ、見てよ!」と、メールで送られてきた時は「ドキッ!!」としました。約二年半前のことでした。↓
 

 高齢化の進むカナダでは、「Live-in caregiver」(住み込みケアギヴァー・介護士)として2年間従事すると、カナダの市民権(Canadian citizenship・永住権)が与えられます。会話が英語で全く問題(障壁)がない、というメリットもあって、フィリピンでは、就労・移住希望者が多い国(ターゲット)の一つです。「カナダ」行きを専門にしたケアギヴァー養成課程もよく見受けられます。カナダへ移住するために、ケアギヴァー養成課程(6か月間)を再履修し、修了後はいろいろなルートでカナダへケアギヴァーとして渡るべくプロセスを始めます。でも、実際にはその過程はそれほど容易ではなく、一部の人がその夢をつかめるのです。
 私のフィリピンでの生活に関わってくれた上記の二人も、その「カナダへのケアギヴァー養成課程」を終えていました。
 
一人は、バンクーバーにいた叔母さんが雇用主を現地で見つけ、エージェンシー等を介さずに直接渡ったのですが、それでも、そのプロセスには一年半以上かかりました。バンクーバーの生活がもう5年目になる彼女は、当然もう市民権を取得しました。ちなみに、市民権取得後は、職業の選択も自由となりますが、彼女はやはりケアギヴァーを続けています。
 
もう一人は、親せきやつてもなく、まずはエージェンシーを通じて、行きやすいサウジアラビアに渡りました。生活習慣の違いから言葉の壁もあるイスラム圏で苦労をしたことでしょうが、約一年半後にバンクーバーに移りました。サウジアラビアは、当初から一時しのぎで、バンクーバーへの中継地だったのかもしれません。
 
バンクーバーは、イチローのいるシアトル(アメリカ)の少し北…、西海岸なので、割と気候は温暖です。それでも、冬の寒さは、南国育ちのフィリピン人にとっては慣れるまでは大変厳しいはず…。体に気をつけて、今日から始まるオリンピックを精いっぱいエンジョイしてほしいものです。冬季オリンピックは、フィリピンからの出場はありませんから、彼女たちも初めて競技を目にし、街のオリンピックのすばらしい雰囲気を感じることでしょう(いいなあ…^^)。
 
実は、自慢ではありませんが、私が最後にテレビで目にしたオリンピックというのは、1988年夏のソウルと、それに先駆けて行われた同年冬のカリガリー(カナダ)でのオリンピックだったのではないか…、と思うのです。夏季・冬季を含めて、ここ22年間、日本人の活躍はあまり見る機会がありませんでした。あ、長野の冬季オリンピック(1998)は障がい者施設で見ました、確か…。もちろんオリンピックは大好きです。ニュースで誰誰が金メダルを…、という情報はいろいろなメディアを通じて入ってきましたが…(さびしーーっ!^^;)。
 
フィリピンでは、冬季のオリンピックについてはあまり人々の話題に上りません。NHKワールド・プレミアムも、放映権の関係でオリンピックの映像は流せず、いつものニュースですら、編集後(オリンピックの話題をカットした後)に約1時間遅れで流れることになります。オリンピック情報は、ハイライトで一日に3回、5分間だけ流されます。仕方ありませんね(+_+;)。
 
でも(!)、今日は、ケーブルTVの「Solar Sports・ソーラースポーツ」チャンネルで開会式をライブ(生中継)で見られました(\^^/)。冬季オリンピックの開会式を初めて見る二人の介護者もテレビに釘づけでした。
 
オリンピック開催中は各競技もずっと放映されるようですから、日本人の活躍もタイミングが良ければ見られると思います。楽しみぃーっ!


ダバオ市ベースボール・カップ-Davao City Baseball Cup

2010年02月06日 | ダバオ市 DAVAO CITY

(写真:Datu Uchida・内田オトウサンと…。ダバオ市ミンダナオ大学で。-2006年11月)

 
昨日、今日と、ミンダナオ島ダバオ市では「第5回ダバオ市ベースボール・カップ-Davao City Baseball Cup」(野球大会)が開催されました。5年前の2006年、1956年に日比間の国交が回復されてから50年目に当たる節目の年に始まった大会です。今年は、参加チームが去年より3校増え、20チームとなったそうです。年を追うごとに規模が大きくなり、ダバオ市の地域社会にも着実に浸透していっているのが伺えます。
 
このベースボール・カップを始められたのは、生まれ故郷ダバオの日系人やフィリピン人コミュニティをずっと支援されてきた「内田オトウサン」です。5年前、野球の試合を観戦しながら「スポーツ振興や音楽教育を通して人を育てたい。」「ベースボールの練習や試合を通して、チーム・ワークを学んでほしい。そして心身ともに健全な若者を育てたい。」と、遠くに目をやりながら話して下さいました。そして「あんた、本当に野球が好きなんだね…(^^)。」と…。
 
実は、私は大の野球ファンで、小4の時、夏休みに自由研究で長嶋茂雄さんの新聞記事をスクラップ、その打率について考えたことが(?)ありました。大の巨人ファンでしたが、先日他界された小林繁さんが阪神にトレードされてからは阪神ファン(アンチ巨人)になりました。
 私
自身も、就職後、金沢の早朝ソフトボール連盟の一チームに所属し、週に一度早起きしては試合に出ていました。事故の前、私の最後のバッターボックスは、レフトオーバーのホームランでした。ポジションはキャッチャー…。
 だから、特に野球観戦には熱が入ります。この5年前に観戦したダバオの野球大会は、ココヤシの木に囲まれた広大なフィールドが会場でした。子供たちが声をかけ合いながらはつらつとプレーする様子を目にして、とても幸せな気分でした。フィリピン日系人会(PNJK)の学校も参加し、小学校とハイ・スクールの2部門で優勝が競われました。ユニフォームもないチームがほとんどで、コールドゲームもありましたが、みんな真剣そのもの…。スポーツはいいですね。↓
 
(オオ、この立ってる後ろ姿はコーチのユウスケ氏…。PNJK小学校チームですね。)

 
今回も、内田オトウサンやコーチのユウスケ氏のほか、サポーターの皆さんが先日ダバオ入りし、大会を終えて今頃は「乾杯!」(?)内田オトウサンは、ダバオへ来られるとお元気になるそうです。私も、ダバオにいた頃、喜寿のお祝いに出席させていただいた時、日本人、日系人、フィリピン人の方々がたくさん集まっていて、そのご人望の厚さを感じたものです。先日、お誕生日を迎えられ、これからもますますお元気で、人生をエンジョイされますように…。

 
 この5年前の大会で優勝したCBNハイ・スクールのショートを守っていたのが「ダーウィン」という、当時の私の専従介護者セシルさんの弟でした。↓
 
 
そのセシルさんは、結婚して現在はスウェーデンで幸せに暮らしています。4月にはお母さんになるそうで…。寒い国で風邪などひかないように…。Take care!

 二〇〇三年までJPVA副会長を務められ、ここ二十年以上も日系人のサポート等で地域に大きな貢献をされているダバオ市生まれの内田達男氏は、二〇〇二年、ダバオ市の最高栄誉賞と言われる「ダートバーゴ賞」を、日本人として初めて受賞された。そして、二〇〇四年には、独自に「ダート内田・デベロップメント・ファンデーション」(Datu Uchida Development Foundation‐略してDUDF)」という基金を設立された。DUDFは、内田氏が長年活動を共にされてきたJPVAとは別に、フィリピンの子供達を対象とした、スポーツや音楽での交流による教育振興を主な目的に設立された団体である。ここでは内田氏のお孫さんで、野球の本場アメリカのベースボール・アカデミーで勉強してきたユウスケ氏が、年に三、四回ダバオを訪れ、一ヶ月から二ヶ月をかけて子供達に野球を教えている。そして、様々な人たちの協力を得て、野球道具を現地の子供達に供給している。DUDFにも、活動に参加、協力される方々が、安全に心地よく過ごしてもらえるようにという内田氏らしい配慮で、小奇麗で安全な宿泊施設も備えられている。そんな内田氏は、ダバオの日本人、日系人、そしてフィリピン人からも「お父さん、オトウサン・・・。」と慕われている。
 
四月、フィリピン日系人会インターナショナル小学校の卒業式の壇上で、内田オトウサンがはなむけの言葉を送った。「世の中は、いつも平和で安定したものとは限らない。不安の多い中で、人々がみんな臆病になっている時も、勇気を出して自ら一歩を踏み出さなければならないこともある。」
…ダバオ生まれで、戦禍を生き延びられた後、氏が十八歳の時に日本へ送還され、苦労を重ねてこられた内田氏らしい重みのあるスピーチだった。そのスピーチの間、静かに聞き入っている卒業生の表情が印象的だった。そして、日本での生活が落ち着いた時、脳裏に浮かんできたのが故郷ダバオで、当時窮境にあった日系人を何とかして救いたい、という熱い想いだった。その内田氏のご尽力で、日系人会インターナショナルスクールに、小学校低学年と幼稚園児のために新校舎が増設されたのは、それからわずか二ヶ月のことだった。(2006年のことです。)
(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』下巻より)


マニラ動物園(Manila zoo)で…。ジョージ・オーウェルの『動物農場』を…。

2010年02月02日 | My life in マニラ

 一昨日の日曜日、二人の専従介護者マリアさん、ジェンさんと三人で、レクリエーションにマニラ・ズー(動物園)へ行ってきました。入園料(大人40ペソ・約80円、私は無料)を支払って中へ入ると、ゾウさん(ここのアイドル?)が出迎えてくれました。
♪ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね
 そうよ かあさんも ながいのよ (まどみちお詩)
…ぞうの子は、鼻が長いと言われても「そうよ、大好きなかあさんも長いのよ。」と誇らしげに答えた…という深い意味の詩です。ぞうがぞうとして生かされていることがすばらしいからだそうです。

 
実は私自身は三度目で、初めてここへ来たのはちょうど14年前の1月でしたが、その時もこのゾウが…(かなり高齢?)。マリアさんは二度目、ジェンさんは初めてで、そのゾウを見た瞬間から童心に帰ってエキサイト気味…。
 昨年、日本からのビジターたちが「衝撃的!」と表現したこの動物園には、鳥類やハ虫類が多く、ちょっとしたミニ・ジュラシック・パークといった感じで、あちらこちらから歓声が…。大きなニシキヘビ(真っ白のも)と一緒に写真を撮れる(150ペソ)コーナーもあり、かなり強烈…(^^)。次の写真は、国鳥フィリピン・イーグル(鷲)の勇姿です。↓
(訂正:フィリピン・イーグルではありませんでした。これはハラシロウミワシのようです。-2月4日)
 
 そしてサルのコーナーの一画に「ニホンザル」が一匹いました!このニホンザルも、14年前に来た時と同じサルだと思います。↓
 
「翌日は、午前中ホテルでゆっくり過ごし、昼下がり、すぐそばにあるマニラ動物園へ行った。介護者の二人にとっては初めての動物園で、私も本当に久しぶりだった。入り口を通ってすぐに、ゾウを見つけた彼女たちのはしゃぎぶりは、まるで子供のようだった。サルのコーナーには一匹だけニホンザルもいて、二人が『え?日本から来たの?何だか少し寂しそう・・・。』と言う。『イッシンさんと似てる!』と笑い転げる二人に、少しムッとする。動物の種類は多くはないが、フィリピンの色鮮やかな鳥やハ虫類など初めて目にするものもあった。すっかり浮かれて騒ぎまくる二人の若い介護者と一緒に、私も童心に帰って楽しむことができた。乾季でめったに雨が降らない一月、その日もマニラ湾の夕日を拝んでからホテルに戻る。」(19961月)
(拙著『アイ!サラマッポ~フィリピン人介護者と生きて~』上巻より)
 
ニホンつながりでツー・ショット!「See you!
元気でね…。」とそこを離れ、園内の池の近くで用意してきたお弁当を…。
 
大きないなり寿司をパクリ。すっかりピクニック気分…。↓
 

 このマニラ・ズーは、こんな街中にあるのですよ…。写真下の森が動物園です。(開園時間:午前
7時~午後7時)
 

 そして、今日はなぜか、学生時代に読んだジョージ・オーウェルの『動物農場』(19458月)の内容を思い起こしていました。
 
まず、「荘園農場」という農場で、人間たちに利益を搾取されていると気づいた動物たちが、革命によって人間たちを追い出し、動物主義を唱えるブタをリーダーとする「動物農場」(社会)を築くのです。当初は、「四本脚はよい、二本脚は悪い。」というスローガンの下、動物たちだけの平等で安定した社会だったのですが、次第に仲間内での不和や抗争が続くようになり、ナポレオンというブタが独裁者となります。動物たちは、自分たちでも気づかないうちに、一体どういう訳でこうなったのか…と感じるほどの不安や恐怖感を抱くようになり混乱していきます。最後には、四本脚だったナポレオンが二本脚で立ち、服を着、ビールを飲み、トランプを楽しむ…といった具合になり、スローガンもいつの間にか「四本脚はよい、二本脚はもっとよい。」と変えられます。結果的に、人間によって支配されていた時期以上に、過酷で抑圧的な農場となりました。
 オーウェルは、この寓話的小説で、二十世紀前半のソ連、スターリン主義による独裁的な権威・権力による政治を、ユーモラスながらも痛烈に風刺したのでした。しかしまた、この『動物農場』は、全体主義、ファシズム体制への批判、警鐘とも受け取ることができるようです。