フィリピンにも、日本と同じ時期に、同じような事情や背景のもとに、政治の権力によって、莫大なお金が投資されて作られた原子力発電所があります。それは「バタアン原発・The Bataan nuclear power plant」です。↓
戦時中のDeath March(死の行進)で有名なバタアン(Bataan・バターンとも記載)にありますが、1984年に完成されて以降27年間、まだ一度も商業運転はされていません。それなのに、フィリピンは、その建設に関する費用、膨大な借金を返すのに、何と2007年4月まで「23年」かかったそうです。
首都圏マニラの、マニラ湾をはさんだ対岸にあるバタアン半島の西側南シナ海に面しており、すぐ北には、日本人を含めて移住先として人気のある「経済自由特区スービック・Subic」もあります。↓
このバタアン原発から半径80kmの円が示されているこの地図、何とアメリカ発です。3月16日付でアメリカ合衆国原子力規制委員会(The U.S. Nuclear Regulatory Commission・NRC)が発表したことを報じる記事。日本の福島第一原発の事故を受けて、日本にいるアメリカ人に警戒を呼びかけています!↓
An 80-km BNPP evacuation radius will include all of Bataan and ...
バタアン原発の歴史的経緯、現状については、次のページに大変詳しく書かれています。
バタアン原子力発電所は再封印か? - ジェトロ・アジア経済研究所
(2011年4月)
この話が当時のフェルディナンド・マルコス独裁政権(1965~1986)とアメリカとの間で持ち上がったのが1960年代。バタアンの地域住民は、流血の事態に発展するほど、猛烈な原発建設反対を繰り広げてきました。
70年代後半、マルコス政権により住民の意思を無視した建設が始められると、抗議運動はさらに勢いを増しました。76年には、バタアン住民で反対運動を続けていたリーダーが凶弾に倒れましたが、マルコス政権は次々に増強部隊を送り込んで建設を強行しました。工事は実質82年に終わりましたが、この頃から、原発運転阻止の住民の叫びは、多くの人々を巻き込んだ反核への運動「非核バタアン運動」へと発展していきました。それでもマルコス政権は、それを武力で鎮圧してバタアン原発を稼動させようとし、85年末には核燃料が装備される予定でしたが、「反原発・非核」の運動は、その翌1986年2月のピープル・パワー革命(フィリピン人民革命・エドサ革命)へも影響を与えたと言われます。
マルコス退陣後、ピープル・パワー革命によって大統領に押し上げられた故コリー・アキノ氏は、バタアン原発を稼動させないことを決定。バタアン原発建設をめぐるマルコス前大統領とアメリカ企業との不正取引や、アメリカ企業側に有利な一方的な契約内容も打ち切りの理由となったといいます。建設費用は当初5億ドルと見積もられていたものが、最終的には23億ドルにまで膨れあがったとされています。
そして、コリー・アキノ政権下、原発に限らずあらゆる核をフィリピンから撤去させようという運動を受けて、87年に「非核」の条文を含む憲法が採択され、91年にはフィリピンからアメリカの軍事基地と軍隊および核兵器が撤去された、という輝かしい歴史を持っています。
そして、この「バタアン原発の運転をしない。」と苦渋の決断をされたであろう故コリー・アキノ元大統領のご長男で、現フィリピン大統領(2010年5月~・任期6年)のベニグノ・アキノ3世(ノイノイさん)は、母のご遺志を継ぎ、大統領就任後すぐに次のような英断をされました。↓
「バターン原発は再生せず」‐アキノ大統領、最終決定(フィリピン)
(NNAアジア・ニュース 2010年7月29日)
(2011年3月15日・福島第一原発の事故を受けて反原発・非核デモ…)
<参考> 以前のブログ記事より。↓
バタアン・死の行進-Death March (2009-04-09 )
コリー・アキノ元大統領…「安らかに。」 (2009-08-02)
コリーさん(故コラソン・アキノ元大統領)のお誕生日に銅像が ... (2010年01月25日)
ピープル・パワー革命25周年・ People Power Revolution of 1986 (2011年02月26日)
フィリピン「ピープル・パワー革命」25周年 Vol. 2 (2011年02月28日)
1970年代からずっと続けられてきたバタアンの地域住民を中心としたこの「反原発」の闘争は、現在にいたってもフィリピンの「反核」の闘いの最前線でもあるのです。
(当ブログ開設500日目)