FARMERS BLUES

―理想と現実と夢の間に―

おいしくて優しい映画。

2009年09月30日 21時19分08秒 | 映画を見たよ。
体の奥の方。
頭のてっぺんからも、足の指先からも一番遠いような、
体の一番中心のようなところ。
おそらく、おへその少し下あたりかな。
そんなところから自然と湧き上がってきて、
自然と顔の筋肉を緩めてくれて、
いわゆる笑顔のような表情にしてくれて、
「フフフ」と声も漏れてしまう。
なんとなく、暖かな陽だまりの中にいるような、
やわらかな真綿で優しくくるまれているような。

映画「かもめ食堂」を見ている100分間の間と、
見終わった後しばらくの間は、
そんな、幸せな時間と空間に包まれていました。

原作を先に読んで、
映画のために書き下ろされたという
その世界観と雰囲気が素敵だなと思って、
「この雰囲気が映像でも表現できていたら、
 きっといい映画だろうなぁ」と思いながら見たら、
画面いっぱいから溢れんばかりの“あったか感”を感じて、
とても幸せな気分になりました。

小林聡美さん。
素敵でかわいらしい女優さんだなとは思ってましたけど、
今回、彼女はとっても“cute”だった。
“cute”という言葉がぴったりな雰囲気でした。
おそらくそういう雰囲気を表現しようとしたり、
監督なんかも心掛けたのかもしれないけれど、
彼女自身がそういう魅力溢れる人なんでしょうね。
ますます小林さんのことが好きになってしまいました。

片桐はいりさんも、もたいまさこさんも、
地元のフィンランド人を演じた俳優さんたちも、
とっても自然な感じで、
本当にそういう生き方をしている人たちの人生の断片を
見ているような気がして、素敵でした。

終わり方。あの終わり方、とっても好きでした。
脚本も見事だと思ったし、
小林さんの魅力がなければ、
あのラストは成立しなかったでしょうね。
完全に「これは小林聡美ありきの映画だっ」
って魅力いっぱいのラストシーンでした。

原作も映画も、薦められて見たけれど、
見てよかったです。ありがとう。


なんとなく、
明日も手の調子が良くなっているような
気がするよ。



ココロカラダ。

2009年09月28日 14時15分36秒 | つれづれなるままに。
明日、MRIに行ってきます。

MRIをされに?
MRIを撮りに?
MRIを受けに?
MRIになりに?

どれが正しい表現なのかはわかりませんが、
とにかく病院へ。
なにぶんMRI初心者なので。MRI童貞なので。

左手がまだ完治してはいないんです。
激痛という痛みは治まったんですけど、
むかつくあの人を左手で思いっきり殴れるほどではないんです。
失礼。穏やかではない例えでしたね。

原因を突き止めてきます。
8割がた、痛風という線で固まりつつあるんですけど、
こんなに痛みが治まらないのは、他に何か理由があるのかもしれない。
2週間前にレントゲンで診てもらったときは、
「2本の骨のうち、1本が少し短いのかもしれない」
「軟骨が少し削れてしまっているのかもしれない」
「手術が必要かもしれない」
なんて脅しを受けたものですから、
MRIでしっかり調べてきます。

だけど、今日は調子がいい。
その日によって痛みにも波があるんです。
少し痛めの日もあれば、ほとんど痛くない日もある。
定食ではないんですけど、日替わりなんです。
おいしい日、おいしくない日。その日によるんです。
失礼。わかりにくい例えでしたね。

おそらく精神的なものが少し影響しているのではないかと。
記憶をたどってみると、誕生日の日も調子が良かった。
なぜかというと、前日飲みに出かけて素敵な歌を聴いている。
昨日も素敵な人とカラオケへ。

お酒を飲んだり、寝不足になったり、
体に無理は強いているのかもしれないけど、
おそらく心には素敵な影響を与えているのではないかと。
痛風にはストレスも良くないという話ですが、
やっぱり心と体って繋がっているのかもしれないですね。

だとしたら、何が1番の薬なのか、治療なのか。
ここ数年、毎朝、朝食の後に飲み続けているあの1錠よりも、
よく効く“くすり”があるのかもしれないですね。
今まで何人の医者に診てもらったかわかりませんが、
誰より安心できる“お医者さん”が近くにいるのかもしれないですね。


まぁでも、それはそれ、これはこれってことで、
明日は明日の先生を信じて、検査を受けてきます。

なるべく明日も、心穏やかにして。



とがしとちひろへ。

2009年09月24日 21時08分53秒 | つれづれなるままに。
おとといから昨日にかけて、
とっても楽しかったよ。ありがとう。
久しぶりにたくさんしゃべって、
久しぶりにたくさん笑った。
そりゃ和食屋のマスターに
「声でかいよ」って注意されるわな。

とがしが遅れて来るからって、
その間ちひろと温泉入って待ってて、
お湯に浸かりながらいろいろしゃべったけど、
ちひろさん、ちょっと体絞った方がいいっすよ。
30でその体になるのはまだちょっと早いって。
俺もそんなに人のこと言えないけどね。

俺がよく行く和食屋さんの料理もおいしかったでしょ?
話に盛り上がりながらも、「おいしい、おいしい」って
食べてくれてよかったよ。

どうして俺らって会うたび会うたび同じ話で
あれだけ盛り上がって、あれだけ笑えるんだろうね。
だって毎回毎回ほとんどおんなじ話しかしてないじゃん。
演劇部だった高校時代の、
あの芝居のあれがどうだったとか、
あのとき好きだったあの子がどうだったとか、
絶対同じ話になるじゃん。

あの頃と今の自分たちって、
なんにも変ってないよなぁって愚痴りながらも、
きっと心のどこかでは、
30になっても同じように笑い合えることに、
ちょっと幸せ感じてたりするのかもしれないね。
そういう部分では、
きっと成長なんてしなくてもいいんだと思う。

で、そんな流れで俺んちに帰ってきて、
演劇部のときのビデオ見ることになるじゃんか。
たぶんそんな流れになるんじゃないかなぁと思ってたよ。
それ見ながらまた盛り上がってさ、
「いいねぇ、俺のセリフ聞き取りやすいねぇ」とか、
「あ、今の演技で全国逃したわ」とか言ってさ、
もうわかったって。

3人で話してた時間はそんなに長くはなかったと思うけど、
時間の長さにかかわらず、
とっても満ち足りたひと時だったよ。
あの頃、言葉では言えないほど濃すぎる空間と時間を
共有できたことに、心の底から感謝する。
これからもずっと同じような関係でいられますように、
って祈ろうかと思ったけど、きっと祈らなくても、努力しなくても、
俺たちの関係って変わらないんじゃないかなって、思える。
太陽がそこにあるように、水や空気があるように、
自然に続いていくものなんじゃないかなって。
だけど当たり前と思いながらも、
その友情に惜しみない感謝の気持ちを送るよ。

俺と出会ってくれて、どうもありがとう。

そしてあの頃の自分にも、
「いい友達見つけたな」って、肩を叩いてあげたい。




ウタノチカラ。

2009年09月20日 13時37分08秒 | つれづれなるままに。
おそらくは誰でも、
世の中の様々なものに対して、
一度は思ったことがあるのではないだろうか。

「これを初めに発明した人はすごい」
「これを初めに食べようと思った人はすごい」
「この人がこれを作ったから今の自分たちがある」
「古代の人が思ったことが僕たちの遺伝子に刻まれている」

ぼくは昨日、“歌”に対して思った。

何千年、何万年前かわからないけれど、
一番最初に歌というものを作った人に対して、
言葉ではなんとも言い表せないような感謝と、
感慨の気持ちを持った。

同時に、初めて歌というものに心を癒された人に対しても、
「あなたがその歌に癒されたから、
 ぼくらも今、好きな歌を聞いては心安らいでいるのです」と、
自分たちの遺伝子に刻まれた記憶のようなものに、
思いを馳せた。


昨日行った飲み屋の女の子の歌は、
あまりにも素敵すぎた。
「へぇ、うまいじゃん」
そんな次元ではなかった。
「歌のうまい子がいるから」と連れて行ってくれた、
いつもの和食屋さんのマスターも、
「この街で3本の指に入るよ」と、
お店に着く前に言っていた。
その言葉を鵜呑みにし、かなり期待値を上げて行ったのだが、
彼女の歌は、そんなハードルも軽々と越えてしまうほどだった。
彼女が歌っている間は、グラスに口をつけるのももったいない。
ただひたすらに彼女の歌に耳を、
いや、体じゅうの全神経を傾けていたい。
それくらい言っても大げさではないほどだ。
何も考えずに身を委ねていると、
体の疲れも癒えるような気がしたし、
聞き終わった後に口にする焼酎の味も、
心なしか、聞く前よりおいしくなっている気がした。
眠たいけれど、もうすぐ迎えの車が来てしまうけれど、
もう少しだけ聞いていたい。
切実にそう思ってしまう歌声だった。


「歌っていうのは素晴らしいな」
「初めに『歌おう』と思った人に対して、
 ぼくらはあらためて感謝をしなければいけないのかもしれない」



おそらくは誰でも、
世の中の様々なものに対して、
一度は思ったことがあるのではないだろうか。

「これを初めに発明した人はすごい」
「これを初めに食べようと思った人はすごい」
「この人がこれを作ったから今の自分たちがある」
「古代の人が思ったことが僕たちの遺伝子に刻まれている」

ぼくは昨日、“歌”に対して思った。





そんな幸せををかみしめながらぼくは、
誕生日の午前0時を迎えました。




ハサミをギターに持ち替えたら。

2009年09月18日 12時46分17秒 | つれづれなるままに。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」

店を出て、車に乗り込む。
散髪したての頭を手でなでる。
刈りたての襟足が心地よい。
その手でそのまま喉に触れてみる。
たった今高らかに歌い上げたばかりの喉の疲労感も、
また心地よかった。
振り返って、今出たばかりの店をもう一度確認する。
間違いなく、床屋と呼ばれる類の店だった。

「俺はこの店で熱唱してたのか」


      *


地元に帰ってきてから、
髪を切るときはだいたい同じ店に通っている。
たまに予約が取れなかったときなどは別として、
いわゆる常連客と呼ぶには十分なほど利用している。
切ってもらってる最中に交わす会話の中身も、
初めのうちはあたり障りのない髪の毛の話や、
地元ネタの話ばかりだったのが、
最近ではお互いの趣味の領域にまで広がりつつあった。
今日話しているのは、彼がギターを弾くという話だ。
ぼくは楽器はからっきしなので、
「数年前に芝居でちょっとかじった程度だよ」とか、
「弾きながら歌ったら格好いいだろうね」
なんて相槌を入れていた。
そこにその店の店長も加わって話が盛り上がる。
店長もギターを弾くらしいのだが、
閉店後の店内でたまに歌うことがあるらしい。
お酒を持ち寄って、軽く飲みながらギターかき鳴らし
店内で高らかに歌い上げるというのは、
なかなかに気持ちがよく、
ちょっとしたストレス発散になっているという話だった。
切ってくれている彼も、ハサミを休めることなく、
だけど口も休めることなく、やや興奮気味に話し続けている。
「井上さんも歌うの好きなんですよね、
 じゃあ今度やるとき呼びますよ」なんて、
うれしいお誘いも受けてしまった。
「たまにね、営業時間中でも、お客さんいないときなんか
 窓閉め切って店長と歌うときあるんですよ」
「へえ、それはすごいねえ」
「井上さん、今日どうですか?」
「・・・ん?」
「髪切った後、どうですか?」
どうですかとは、どういうことですか?
「え、だって他にお客さんいるじゃないの」
「いや、このあと1時間ほど予約が途切れるんですよ」
当然冗談だろうと思ったが、正面の鏡越しに見える
彼の目は冗談を言っている風でもなかった。
彼の握っているハサミにも、
その興奮がやや乗り移っているように見えた。

他の客がひとり、ふたりと帰っていく。
そしてとうとう、ぼくひとりになってしまった。
会計を済ませる。
店長が、わたわたと店じゅうの窓を閉めて周っている。
ギターが出てきた。きれいにファイルされたコード表も。
どの曲にしましょうか、と大の男3人でコード表を囲む。
言っておくが、ぼくはそこまでノリノリオーラは出していない。
初めての人の前で、ましてやカラオケなどではなく、
床屋の待ち合いソファに腰掛けて歌った経験などゼロである。
たしかに歌うことは好きだけれど、
気後れする部分もたしかにある。
歌い出すまでは。
そう、歌い出すまでは。

ギターが鳴り出してからは、
気持ちよさしか覚えていない。
カラオケのようなスピーカーから流れる音楽を
バックにして歌うのとはまた違って、
ギター1本の、しかも生の音に合わせて
歌うというのも快感だった。

歌ったのは1曲だけだったけれど、
3人で歌ったり、パートを分けて歌ったり、
とても楽しい数分間だった。

「それじゃ、ぼくはそろそろ」

本来歌う場所ではないところで、
しかも客という立場ということもあり、
後ろめたさと高揚感が入り混じった気持ちで、
店のドアを開ける。

「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」

どちらがぼくの発したセリフなのか、
覚えていない。



ツナミボーイ。

2009年09月06日 14時42分24秒 | つれづれなるままに。
例えは悪いかもしれない。

地震が起こり、津波注意報が発令される。
少年は、得体の知れない高揚感が湧き上がってくるのを感じる。
家の中で大人しくしていられない少年は、
海岸、あるいは河口付近まで駆けていく。
危険なものなのだろうということは想像できる。
しかし、「一度見てみたい」という、
抑えきれない衝動はどうすることもできない。
わくわくしながら、そのときを待つ。
低い地響きとともに、遠くの方から押し寄せてくるものがある。
あれか、と思い、よし逃げよう、と思う。
しかし、もう遅い。
一瞬で少年は津波に飲み込まれる。
飲み込まれながら少年は、
やっぱり来なければよかったな、と後悔する。


      *


段ボールの中身を整理していた。
東京にいた頃読んでいた本や、芝居のパンフレット、
聞いていたCDなんかをひっくり返しては、
懐かしさに胸を温めていた。
そして、1枚のCD-Rを見つける。
ケースに油性マジックで「写真」とだけ雑に書かれている。
何の写真だろうか、と頭をよぎるが、
たしか前に使っていたパソコンを処分するときに、
パソコンの中の写真を保存したのだ、ということを思い出す。

どんな写真たちが眠っているのかは、だいたい見当がついた。
今となっては懐かしい想い出だ。
あの頃を思い出して見てみようかな。
そう思って、パソコンに読み込んでみる。
画像が現れるまでのほんの数秒間、
えも言われぬ期待と不安で心臓は高鳴る。
そして唐突に1枚目の写真が、画面いっぱいに出現する。
ぼくの写真ではなかった。ぼくは写っていなかった。
これは、ぼくが写した写真だ。
その写真の女性を目に捉えた瞬間に、それは押し寄せてくる。
それに飲み込まれ、息ができなくなる。
見なければよかったな、と一瞬思う。
しかしぼくの右手と人差し指は勝手に、次の写真へと送る。
そしてまた押し寄せてきて、また飲み込まれる。
その、くりかえし。

イタリアのヴェネチアで一緒に乗った、
ゴンドラの写真から押し寄せてくる。
初めてふたりで旅行に行った、草津から押し寄せてくる。
ぼくが初めてもらったギャラでプレゼントした、
伊香保から押し寄せてくる。
浴衣姿から押し寄せてくる。
繋いだ手から押し寄せてくる。
飲み込まれる。
飲み込まれる。

飲み込まれて息ができなくなって、
苦しい思いはするけれど、後悔はしない。
ぼくの中の少年は、津波に飲み込まれて、
ただなすすべなく水の中を沈んでいくとしても、
これはぼくの意思で選んだことなんだ、と
自分の行動を悔やむことはない。

津波を見に来たことも、
今まで歩んできた人生も。