古代日本の歴史を謎解き

日本の古代史の謎に挑戦します。

邪馬台国まで 12000里 と水行10日陸行1月の誤差

2018-01-28 18:59:15 | 歴史
魏志倭人伝に紹介されている邪馬台国までの道程ですが
・(帯方)郡から女王国にいたるのに一万二千余里ある。
・南(行)して、邪馬壹(臺の誤り)国(やまとこく)にいたる。女王の都とするところである。水行十日、陸行一月である。
九州説では、南(行)水行十日、陸行一月の出発点は(帯方)郡だとします。
そして、水行10日は、帯方郡が住行10日でちょうど10000里です。
水行10日が一日1000里で10日です。
そして、末盧国から奴国まで600里で陸行6日、陸行一日100里とすれば
邪馬台国まで、陸行2000里、20日のはず。
陸行1月は、28日(或いは27日)で、7日(或いは700里)の誤差が発生してしまいます。

さて、水行10日で末盧国(或いは宗像市、不弥国)に着いたとして
残り、陸行が2000里で邪馬台国
一日100里で計算したら20日のはずが、28日
1.4倍の誤差が発生します。
誤差で良いのか??
以前から、この誤差が気になっていました。

単純に誤差の可能性もあります。
陸行ですので、昼間の日照時間帯が移動可能な時間です。
実際には
・景初二(三)年の朝献 難升米(なしめ)等が洛陽に向かったのが6月
・「親魏倭王の金印」を卑弥呼へ贈ったのが12月ですので
ですので、行きが夏で20日程だったので12000里
帰りが、冬で陸行28日ほどかかったので陸行1月の表示になった。

もう一つの可能性は
一日100里進むのが難しい地理があった。
邪馬台国(熊本県の大牟田、八女辺りとして)から末盧国(松浦半島)へ博多(奴国、伊都国)を通らずに
佐賀、伊万里経路を陸行で移動した。
距離的にはあまり変わりませんが、玄界灘連合(奴国連合)と有明海側連合があったとすれば
博多(奴国、伊都国)を避けた可能性はあるはずです。
では、有明海側(佐賀市経由)のどこに難路があるのでしょうか。
問題は、筑後川です。
河口では幅100mほどあります。
当時の橋は、大きな木を渡すぐらいですので数m位が限界です。
船を使わずに筑後川を渡るためにかなり上流へ移動したはずです。
直線距離では大牟田<=>佐賀は近くても
陸路では大牟田、鳥栖辺りまで川を登り宿泊して、川を下ります。
3~4日は多くかかってしまったでしょう。
12番目 華奴蘇奴国(かなさきなこく) 神崎であれば
華奴蘇奴国から末盧国までは15~20日はかかったでしょう。

もう一つの誤差が
邪馬台国の大きさです。
奴国(博多湾)が5万戸で、邪馬台国が7万戸ですので
国の大きさもかなり広かったでしょう。
邪馬台国の端から、卑弥呼の建物までも1日以上かかった。
これらを加えると、2000里が陸行28日かかる可能性は十分あります。
陸行1月=2000里の計算が十分誤差の範囲に入ると思うのですが、如何でしょうか。

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