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①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩の内 ④
四天王は、古代インドの護世神が仏教に取り入れられ、四方を守る護法神となったものとされている。仏教の世界観の中に存在する須弥山中腹の四方に配されることから、仏寺の須弥壇の四方に安置される。
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①一条戻橋
②1+1
③三輪山
四天王は、古代インドの護世神が仏教に取り入れられ、四方を守る護法神となったものとされている。仏教の世界観の中に存在する須弥山中腹の四方に配されることから、仏寺の須弥壇の四方に安置される。
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![]() | 四天王寺は、推古天皇元年 (593)に聖徳太子が建立した日本仏法最初の大寺である。 新しく渡来した仏教を支持する蘇我氏と日本古来の宗教を推す物部氏の二大豪族の狭間で 、蘇我派の聖徳太子(16歳)は仏教の守護神、四天王に祈願して戦いに勝利した。 その報恩謝徳のために建てたのが四天王寺で、四箇院 (敬田・悲田・施薬・療病) を構え、広く一般民衆に手をさしのべ、太子信仰の拠点となると同時に、庶民救済の中心地となった。また、海外諸国からの使節や渡来者はまずこの地から上陸し、軍事上、外交上の要衝として、また国威を示し迎賓館としての役割も備えていた。 |
![]() | 大聖勝軍寺は、物部守屋の本拠地『渋河の館』があった所で、そこに建てられた寺。物部討伐軍に参戦した聖徳太子が物部軍に追われたとき、椋の木が二つに割れ空洞に身を隠し九死に一生を得たといわれ、その椋の木が境内に祀られている。推古天皇は椋樹と大聖聖徳法王の勝ち軍を讃え、神妙椋樹山大聖勝軍寺という山号と寺名を賜ったという。![]() |
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①一条戻橋
②1+1
③三輪山
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毘沙門天だけは馴染みがあるので分かりますが、他はすぐに忘れます。
今日の説明でよく分かりました。
覚えておきます。
「酒が飲めるぞ」の歌はありましたね。
昔、宴会の席で歌ったように思います。
当時は無理して飲んでいましたが、今は気が向いた時だけにしています。
いまでは、DVDを持つほどです。
四天王を知っていても、それぞれの役割りと個性までは覚えきれません。
きょうは、①②③④⑤⑥⑦⑧⑨⑩の内 ④に至りましたが、さて次の⑤は何になるでしょう ?
はじめは、五条橋を置いていましたが、それより古い古代に差し替えました。
むかし、松原通りが五条大橋であったらしく、いま四条と六条の中間に松原通りになっています。それと義経と弁慶
が闘ったことに結びつけました。
『義経記』には、2人の出会いの場所は五条天神の境内だと記され、五条通りと呼ばれた松原通りと西洞院通り
に面した神社だそうです。もっともこの話は映画「タイタニック」のようにフィクションであろうと思われます。
豊臣秀吉が五条の橋を現在の地に架けたことから二筋南に五条通の名前が移ったとあります。
特に人より優れた(抜きんでた)いわゆるエリート中のエリートと言う意味かと思ってました。
>四方を守る護法神となったものとされている・・・
伺って意外でした。
もちろん、それぞれの神様の役割も初めて知ることです。
歴史街道によってまた一つ知識を得ることが出来ました。
宮崎県の比叡山
ありがとうございました。
仰せのとおり、比叡山は「国の名勝」に指定されているだけあってその景色は
期待を裏切りませんです。
やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。
それを地で行くようなあけぼのツツジが、清楚に咲いています。
水墨画のような景観に、一輪でも花が添えられると、一味ちがった趣があらわれるようです。
「四天王」を「知ってんのう?」と聞かれると、なかなか自信をもって答えられないものです。
なお、見舞いには行かなくて済みましたので、毎日のご挨拶ができるようになりました。m(_ _)m