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大聖勝軍寺

2012年10月08日 | 歴史街道
叡福寺えいふくじを上の太子と呼ぶのに対して、大聖勝軍寺を下の太子あるいは太子堂と呼ばれる。

587年、崇仏派の蘇我馬子そがのうまこ軍と廃仏派の物部守屋もののべの もりや軍が戦い、戦況が一時不利になったが、馬子軍に属した聖徳太子はこの地のムクの木陰に隠れて難を逃れ、後に信貴山毘沙門天に祈願し四天王を祀り、戦勝祈念に難波の四天王寺とともに大聖勝軍寺だいせいしょうぐんじを創建した。国道25号線に面していて. かりやすい。



物部守屋の墓



門前の池は、秦河勝が物部守屋の首を洗ったとの言い伝えがあり、守屋池あるいは守屋首洗池という。また、当寺から国道沿いの直ぐ近くに守屋の墓がある。
軍事を司った物部氏については、此方をどうぞ。
           [  七支刀 ななつさやのたち  ]

  

 <注>
 写真は、15年ほど前に撮影。


  

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3 コメント

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目からウロコ (ムツゴロウ)
2012-10-08 08:09:22
叡福寺も大聖勝軍寺も知らなかったです。
観光ルートには、入ってなさそうですから、紹介に興味深々です。
聖徳太子が四天王に戦勝祈願したことは知ってますが、四天王寺を建てたと思ってましたが大聖勝軍寺も建てたのですね。
物部守屋も道端に墓があるのも、蘇我入鹿の首塚のようで敗者の哀しさです。
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勝者の論理 (らいちゃん)
2012-10-08 09:02:45
蘇我氏・物部氏の対立は、仏教受容の可否をめぐる争いと歴史で学びましたが、史実ではないのですね。
この頃から既に“勝者の論理”があった訳ですね。
勉強になります。
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commentに おれい (iina)
2012-10-09 08:43:55
(ムツゴロウ) さん へ
大聖勝軍寺は、仕事上 車で通った国道沿いにあったので、気になって寄って いきさつを知りました。
聖徳太子といえば奈良の印象が強いですが、叡福寺と大聖勝軍寺さらに四天王寺も、大阪にあります。
この流れから四天王を、次にアップいたします。ちょっと、変わった切り口からご紹介します。




(らいちゃん)へ
世界最初の切手と日本初の切手は、珍しいというより貴重な話題でした。
日本初切手は、代金をそのまま表示していて、明治になっているのに江戸時代の通貨の文なのも、明治維新の
混乱期で円と銭になってないことが分かります。
昭和にはいると、日本らしい美しい切手が出ています。

蘇我氏・物部氏の対立は、仏教受容の可否が主だと思います。天皇が神教の総元締めであるなら、仏教は異端
宗教なので、一神教の国々にはあり得ない採用です。日本は、宗教というより最先端の利器を手に入れる文化
として許した気がします。真に、このころから良くも悪くも「あいまいな日本」です。
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